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【歴史解説】賊徒か英雄か 大順皇帝 李自成【順】ゆっくり魔理沙と霊夢

皆さん、わたしのnoteにご興味をいただき、ありがとうございます💁

中国の歴史に興味のある方なら、ご存じの動画内容でしょうか。

その前に、わたしのニックネームについて触れておきましょう。

何度か変更した名前ですが、これは中華王朝の国号なのです。

すなわち、「明」→「順」→「清」 です。

名前の読み方は、あきら、じゅん、しん(きよし) 

王朝の名称、日本語読みは、もちろん、ミン、ジュン、シンです。

ここで、あれぇ? 順なんて王朝あったかな、と思われる人も多いでしょう。

歴史が覆されることは多々ありますが、近年では、明と清の間に、

「順」という国家を正史に取り込もうとしているのが、現在の多数派です。

明を倒したのは、「清」ではなく、「順」であることは、明白な事実なのです。詳しくは、この後で記載します。

そこで、多くの歴史学者らが、「順」を正式な国家として認める形になりました。

昨年から、Wikipediaなどでもそれを明らかにしています。下図ご参照。


明と清の間に、「順」が盛り込まれています。
Wikipedia、王朝の交代図より。

明の最後は?

崇禎帝が即位したときには既に明は末期的症状をきたしていました。

さらに即位後まもなく飢饉が起こり、反乱が相次ぎ、さらに清軍の侵攻も激しさを増しました。

名将袁崇煥が清軍を防いでいたものの、ホンタイジの策略に嵌った崇禎帝が

袁崇煥を疑い惨殺してからは清軍を抑えられなくなり、

更に流賊から台頭した李自成西安に拠って大順を称し、北京に迫ります。

1644年、李自成軍の包囲の前に崇禎帝は自殺し、明が滅亡しました。

順の位置付け

順は長期安定した政権としての基礎を築く以前に崩壊、滅亡してしまいました。

日本で例えるならば、明智光秀のいわゆる、3日天下でしょうか。

光秀は、ときの最高権力者である、織田信長を本能寺で暗殺し、その時点では、頂点にのぼったのですが、中国大返しから帰還した豊臣秀吉(羽柴秀吉)に、急襲され、天王山の戦いで敗れ、死亡したことは、ご存じですよね?

李自成も、明智光秀同様に、正式な国家を築く前に殺害されてしまったのです。

そのため、清および中華民国中華人民共和国のいずれでも順については正史が編纂されていません。

歴代王朝のように「順」と省略して呼ばず、正式名称の「大順国」で通して表記される場合があります。

しかし明は清により滅亡したのではなく、順の建国を宣言した李自成の勢力により滅亡したことは歴史的事実です。

その後、清は簒奪者(さんだつしゃ)李自成の打倒を大義名分としてその勢力を滅ぼした後に中国支配に着手していました。

そのため李自成の順を地方政権としてでなく、明清交代期に存在した短命王朝として扱うべきであると言う意見も存在しています。

また中国では共産党による階級闘争史観の影響により農民反乱により政権を打倒した李自成を高く評価する傾向もあります。

以上が現在の中国の、李自成に対する評価です。

小説の内容(「BOOK」データベースより)

十七世紀、明朝末の中国。すでに朝は政事に節なく、異民族・満撻子の侵入はほしいまま。野には土匪あふれて、うちつづく凶作に貧窮した民心は、朱家明朝を離れた。反官蜂起した義軍十三家。なかに軍律厳しく、民衆救済を至高の軍紀とした魁雄一人、名を李自成・闖王。だが朝廷軍の各個撃破策に、闖王、孤塁を守るも、ついに潼関南原に壊滅的敗北を喫した。三国志に並ぶ壮大なスケールで描く中国歴史巨篇完訳。

明の存続年数 皇帝20代 294年

清の存続年数 皇帝12代 297年


順の存続期間  皇帝1代 約1か月


王朝、または、国家としての順は、余りにも短命で、はかないものでした。




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