耳と共に歩む

怒涛の2021秋のライブラッシュも少し落ち着き始め、ここ数ヶ月の濃密な思い出に浸りながら軽々しくも3年ブランクの空いたnoteの更新をしようと思う。

気がつけば音楽生活、20年が経っていた。
スティックを持ち、ひたすら練習に励み、好きな音楽をひたすら聴き漁り、黙々と音楽と共に歩んで来たと言う印象より、音楽に自分がただただ没頭していたら気づけば20年経っていたという感覚の方が遥かに大きい。
最近になり20年間、自分は何を1番大切にしてきただろうか、そして変わらないものって何だろうかとふと考える時間があった。

短い前置きと共に単刀直入にその答えを言ってしまえば、そう、耳だ。

自分の耳はずっと変わらずこちらにくっついている。
その耳の奥に何があるか、記憶だ。
頭の奥に数十年もの匂いの記憶や音、場所がふわりと漂っている。
ただ、沢山の音楽を聴き、汗をかいてバイトをし、落第し、叱られ、スティックを握りしめながら眠ったような辛い日々の記憶は鮮明にあるようで、実際はほとんどない。

僕は耳と共にずっと生きている。
目より鼻よりも耳を使って生きている。
演奏をする時だけではなく、運転をする時、買い物をする時、風呂に入る時、歯を磨く時でさたえも、常に耳から入る音を大切に生きている自負がある。
雨の音、ランダムなノイズ、人の歩く音、部屋で聴く音楽を邪魔する車のクラクションやクーラーの雑音まで、全てを音として捉え、言うならば偶然のアンサンブルとさえ認識しながら楽しみ、時にはその在り方に嫉妬する。
そこにはテンポもなければ、一定のリズムもない超自然。それは憧れに近い。

話が変わるが、約10年ほど前YMO主催のフェスに出た際にライブ後、楽屋にいた坂本龍一さんに初めてご挨拶する機会があった。
その時に僕のライブ演奏を見てくだった直後にこんな言葉を頂いた
「君は良い耳してる。周りの音を凄く良く聴いてる。」
今思えばこんなにも光栄な事があるだろうか。
ドラムプレイではなく、耳の感想を頂いたのだ。
その時は演奏をする際に耳を使う事なんて、ごく当たり前の事だと思っていた。
そこに敢えて触れてくださった。

しかしながら、その言葉の意味や重要性を知ったのはそれから数年後だ。

自分の技量に不満を感じ、とにかく色々と試した時期。
何か面白い事したい、実験したい、あのドラムを使いたい、自分と敢えてぶつかりたい、そんな時期にとにかく思うような演奏が出来なくなっていた。
好奇心と喜びだけではなく、その上で自分とは何なのかを、遺伝子や潜在意識を捨てたく、
それを必死で探していた。

そんな時、何故自分は理想の演奏が出来ないのか、ひたすら悩んでいた。
疑っていた。
酷い時は演奏中、毎1秒後に己を疑っていた。

そんな窮地に立たされた自分が、
苦し紛れに思いついた事は至ってシンプル。
諦めて、全て逆の事をしてみようと。
そう、自分を全力で信じる事だ。
もちろん自分を全力で信じる事なんて簡単そうで難しい。
それは、果たして、自分のドラムを全力で信じる事なのか?
はたまた、自分の経験を全力で信じる事なのか?
俺の楽器に全信頼を置く事なのか?
と思考に傾きそうにもなるが、それは全て違う。耳だ。
耳を全力で信じる、頼りにする。
それは自分を信じる事に直接繋がる。
何故ならば、周りの音を知る事になるからだ。

世界を知れば知るほど、自分をどんどん知れる事と同じような原理だと思っている。

それに必要な事は、勇気だ。
耳を信じる(耳を120%使う) には勇気が必要だ。
僕の場合、ステージに立ち、耳を使う自分のモードに入る際に、ステージ脇で半身海の中にいるような状態になるようにして、
ステージに行き、座り、音が鳴り始めたら、
もうそこから水の中にいるような感覚になる。
入水(リラックスして入水しないと普通に溺れる)。
万が一溺れた時は、自分に無責任になる。
しかし、経験上、手足や体は勝手に演奏を続けるから任せてみる。
気づけば耳をすぐに使えるようになる。

耳を使うという事。
それは勇気がいる事。
耳を信じる、自分を信じる。
すると予期せぬ事や、知らない自分が沢山現れる。
それは、沢山の音楽を聴き、汗をかいてバイトをし、落第し、叱られ、スティックを握りしめながら眠ったような辛い日々の記憶、そう実際はほとんどないものとしている時間さえも、
何か光や影として走馬灯のように己の腕に宿るような出来事なのかもしれない。

さて、今日もマイペースに耳と共に歩もうか。

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