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大企業ほどメンバー個人を信頼できなくなる病

どうも、エンジニアのgamiです。

最近、デジタル庁内の働き方に関する日経の記事を読みました。

読んでいて割と胃が痛くなる、そして非常に「ありそう」な内容でした。特に感じたのは、メンバー個人を信じて任せる文化の欠如です。

「会議が多すぎる。もう出たくない」「同じような書類を何度も作っている」。責任曖昧な組織なのに、官僚流の厳格な根回しや報告は求められた。兼務者が多いため根回し先が増え、不毛な業務の水位は「ほかの役所と比べても異常な水準」(官僚出身の若手職員)に達した。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA119T20R10C22A4000000/

もちろん国民の税金を使っている以上、最低限の監査は必要です。しかし、どんなに優秀なメンバーを集めても、個人を信頼して裁量を与えることができなければ、価値を十分に発揮させることも退職を引き止めることもできません

中央省庁に限らず、昨今叫ばれている大企業のDXでも同じことです。「優秀なIT人材を採用してソフトウェアを内製しよう」というキラキラしたスローガンが流通しがちですが、その「優秀なIT人材」を信頼してそれなりに自由に仕事をしてもらわなければ、窮屈ですぐに辞めてしまいます。

なぜ中央省庁や大企業は、メンバー個人を信じて仕事を任せることができなくなるのでしょうか?


大企業の中で感じた「信頼されていない」感

かく言う僕も、新卒のときは富士通という大手IT企業で働いていました。その頃を思い返すと、「自分は信頼されていないんだな」と感じる制度やルールがたくさんありました。いくつか具体例を紹介します。

富士通に入社してすぐに感じたのは、画一的な研修が多いということです。数百人いる新入社員はスキルや知識もバラバラでしたが、「マナー研修」や「グローバルマインド研修」など今考えると受ける必要があったのかよくわからない研修がたくさんありました。

また、「遅刻は1秒でもアウト」という文化もあまり好きではありませんでした。仕事自体に支障が無くて成果も出せるなら、「何時に出社するか」は別に本質じゃないだろうとずーっと思っていました。特にミーティングの予定なども入っていない朝に、数分の遅刻を巻き返すために走らされているとき、「なぜ僕はこんなに信頼されていないんだろう」と悔しい気持ちになりました。

配属されて一番驚いたのは、社内ネットワークからインターネットに接続するときに一部ドメインのWebサイトへのアクセスが禁止されていたということです。たとえばブラウザで2chを開こうとすると「このWebサイトへのアクセスは禁止されています」という旨のメッセージが表示され開けないようになっていました。これも、もしかしたらセキュリティ対策の意味もあったのかもしれませんが、どうしても「仕事をサボるなよ」という意図を感じ取ってしまいました。

中にいて感じたのは、こうした制度やルールは問題が起きたときの言い訳づくりのために作られているということでした。たとえば業務に支障のある遅刻やサボりを繰り返す問題のある社員がいた場合に、会社に対して「このような社員にどう対処しているのか!?」という質問が社内外から飛んでくることが容易に想像できます。それに対して、「こういう評価制度になってまして」とか「こういうWebサイトはアクセス禁止にしてまして」などの返答ができると「対策をしている」という体裁を保つことができます。

一方で、問題を抱える社員に合わせたルールは、当然ながらそれ以外の大多数の社員からすれば窮屈で仕方がないものになります。当時の自分を「優秀なIT人材」と言うつもりは毛頭ないですが、僕は2年目で富士通を辞めてスタートアップに転職しました。

看板が大きくなるほど個人を信頼するリスクが上がる

どうも愚痴っぽくなってよくないですが、ここで僕は「大企業は終わっている」みたいな話をしたいわけではありません。考えたいのは、なぜ多くの大企業は個人を信頼して任せるということが不得手になるのかということです。

もちろんその理由は1つではありません。たとえば、大企業の多くは「属人性に頼らずにお金を儲け続ける仕組み」を構築することに成功しています。それを回し続けるだけであれば、無理にリスクを取って個人に裁量を与えなくても売上は維持できる。そんな事情もあるでしょう。

しかし大企業が個人を信頼できない最大の理由は、「看板が大きすぎる」からだと考えています。どういうことでしょうか。

企業には、その社名に紐付くブランドがあります。企業のブランドとは、生活者がその企業に対して抱いているイメージの総体です。ブランドの価値自体を定量的に測ることは難しいですが、良いイメージが広がれば売上が上がるし、悪いイメージが広がれば商品は買われにくくなります。

企業の規模が大きくなり従業員数が増え続けても、企業ブランドというのは1つしかありません。言い換えれば、1つのブランドに乗っかるステークホルダーや事業やお金がどんどん多くなっていきます。そうなると、1人の個人によるブランド毀損のインパクトが加速度的に肥大化していきます。

たとえばベネッセは2014年に大規模な個人情報流出事件を起こしました。この事件はベネッセのグループ企業に勤務していた派遣社員によって故意に起こされたもので、取締役2人の辞任や136億円もの赤字決算につながりました。

個人情報の持ち出しなどの明確な犯罪行為以外にも、個人が大きなブランドの価値を毀損する例はあります。卑近なところでは、バイトテロと呼ばれるようなアルバイト個人の問題行為が企業全体のイメージダウンにつながる事例が2000年代に入ってから散見されるようになりました。

個人が引き起こした問題がブランド価値を毀損する場合、泥が塗られた看板が大きいほど、より多くのステークホルダーから説明が求められるようになります。それに対して企業や団体は「再発防止策」を明確に説明しなければいけません。その「再発防止策」の積み重ねが、メンバー個人を縛る制度やルールになってしまうわけです。

大企業はハンディキャップを抱えてスタートアップと戦う

ここまで述べてきたように、大企業や中央省庁など名前が世の中によく知られている団体ほど、その中にいる構成員の自由を縛って問題を未然に防ぐことのメリットが大きくなります。大企業も、別に嫌がらせでメンバーの自由を奪っているわけではありません。

他方、どんな事情があろうとも、十分な余白のない環境では優秀な人材の多くはすぐ辞めてしまいます。その意味では、大企業とスタートアップの優秀なIT人材を巡る人材獲得競争において、大企業側は大きなハンディキャップを背負って戦っていると言えます。

優秀なメンバーを信じて自由にさせることは、DXと呼ばれる企業変革にとってほとんど必須条件と言えます。他方、その余白を維持し続けることは、看板の大きい大企業になるほど圧倒的に大変になります。こうした状況の中ではスタートアップよりもむしろ大企業の方が、意識的に余白を作り出すための打ち手を実行し続けることを強いられています

たとえばGoogleが社内で推奨しているとされる「20%ルール」も、創業当初はあえて明言せずに勝手にやっていたはずです。これを「20%ルール」と名付けてルール化したとすれば、それはある種の大企業病に抗うための施策かもしれません。

多くのイノベーションは、ビジネス書やコンサルティング会社のパワーポイントではなく、個人の自由な活動や発想の中から生まれました。かつて無いほどにレガシーな企業や団体に「変革」が求められている昨今、働く個人の自由を確保するための制度や文化がこれまで以上に重要になっていくと思います。優秀な人が裁量を持って楽しく働ける大企業や中央省庁が増えていくことを期待します。

これまたおこがましい話ですが、僕自身が「デジタル庁で働きたい」と心から思えるような、そんな日が来ることを本気で願っています。

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