見出し画像

【試し読み】野良犬イギー

5月19日に『野良犬イギー』が発売となります。
「ジョジョの奇妙な冒険」ノベライズの名作として知られる「The Book」を手掛けた、乙一先生による新たなジョジョノベライズ!
こちらの本編冒頭の試し読みを公開させていただきます。

野良犬イギー 表紙

野良犬イギー



ジョン・F・ケネディ国際空港行きの飛行機が着陸態勢に入る。大気中に淡い黄色の煙でも立ち込めているかのようにかすみがかかっており、遠くの方は何も見えない。

 空港でパスポートを見せて入国審査を受ける。預けていた荷物を回収し、黄色のタクシーに乗り込んだ。目的地はマンハッタン島のミッドタウンにあるスピードワゴン財団所有のビルだ。空港から車で三十分ほどかかるという。

 走行中、運転手がワイパーを使ってフロントガラスに付着している砂を拭った。砂? あらためてよく見ると、後部座席の窓ガラスにも薄く黄砂らしきものが覆っている。飛行機からの眺めが黄色に霞んでいたのは、大気中に舞っている砂のせいだったようだ。

「この時期のニューヨークは黄砂が降るのか?」

 運転手に話しかける。砂漠から風で巻き上げられた細かい砂が、何万キロも離れた国々に降り注ぐことはめずらしくない。バックミラー越しに運転手はちらりと私を見る。

「半年くらい前からですね。時々、こうなるんです。一体どこから飛んでくるんでしょうね。お客さん、生まれはどちらです?」

「エジプトだ」

「やっぱり。その服装、いかにもエジプトって感じですからね。最近、この国では『Walk Like an Egyptianエジプト人のように歩きなよ』って曲が流行ってるんですよ。知ってます?」

「いや、初耳だ」

「とにかくいろんな場所で流れてるんです。今もどっかのラジオ局でかかってるんじゃないかな」

 運転手はそう言いながらラジオをつける。音楽が流れ始めた。先ほど、話題にした曲ではないが、景気が良く、エネルギーに満ちた、いかにもこの国らしい音楽だった。

「お客さん、アメリカへようこそ。観光ですか?」

「いや、知り合いのアメリカ人の依頼でね、ちょっとした仕事をしなくてはならない」

「へえ、がんばってくださいね」

 タクシーは高速道路を進み、やがて前方に橋が見えてくる。イースト川を越え、ワーズ島からロバート・F・ケネディ橋を渡り、ついにマンハッタン島へ入る。運転手は想像もしていないだろう。私が、野良犬の捕獲のため、この国を訪れたなどと。


 スピードワゴン財団の作成した報告書によると、そいつが最初に目撃されたのは、ニューヨークの街角にある商店だったという。ある朝、店主がやってきて店のシャッターを開けたところ、何者かによって棚が荒らされていた。店主が被害の状況を確認していた時、店の奥に何者かのいる気配がしたそうだ。

 暗い影の中で「クッチャ、クッチャ」と何かをしゃくする音……。

 店主は手近にあったモップをつかむと、柄えで攻撃するために近づいた。影の中にいたものの正体がわかった。三十センチ程度の小型の犬だ。犬種はボストンテリア。頭部中央と鼻と口、そして首まわりが白色で、目や耳や胴が黒色。口元の両端の皮膚がたれており、そこからよだれが滴したたっていたという。

 そいつは咀嚼をやめて、じっと店主を見上げた。ボストンテリアが食っていたのは、珈琲コーヒー味のチューインガムだった。

 店主はそいつを追い出すため、モップで突こうとした。するとそいつは、驚異的なジャンプ力で店主の頭にしがみつくと、頭髪を嚙んでむしるように暴れ、最後には顔の前で屁をして逃げていったという。卵が腐ったようなひどい臭いだった、と店主は証言している。

 ちなみに、ボストンテリアなどの短頭種の犬は、口呼吸の頻度が多くなり、屁をする回数も多いらしい。また、顔に屁をされた時、目の前に局部が来たおかげで、そいつが雄だと判明したという。

 この事件には奇妙な謎が残されていた。店主が朝にシャッターを開けるまで、この店舗にはだれも入ることができないはずだったのだ。他に出入り口はなく、窓も閉ざされている。ボストンテリアは、どこから店舗に侵入したのだろう?

 スピードワゴン財団が調査したところ、天井のパネルの一枚が外れるようになっており、そこから侵入したのではないかと推測されている。しかし、普通の小型犬にそのようなことが可能だろうか? 普通の犬は天井裏に上がることさえできないだろう。

 以降、マンハッタン島の様々な地域で、野良犬にチューインガムを狙われるという事件が多発した。ある時はオフィス街のニューススタンドで、またある時は自由の女神の見える海辺の売店で、菓子の棚が襲撃され、珈琲味のチューインガムが根こそぎ奪われたという。観光客がチューインガムを食べようとすれば、視界の外から野良犬が矢のように飛んできて、板状のガムをくわえて走り去った。犯人はいずれもボストンテリア。人間たちが追いかけても、決して捕まることはなかった。

 ニューヨーク市役所に多数の苦情が寄せられ、結果、害獣駆除の業者が動き出すことになった。マンハッタン島には害獣駆除を専門とする民間の小さな会社がいくつも存在し、市民の依頼を受けて鼠や蝙蝠などを駆除していた。野良猫や野良犬も例外ではない。彼らに捕まった犬猫は動物保護施設に送られ、処分される。

 市はいくつかの業者に捕獲を依頼した。【野良犬狩り】の男たちは、ボストンテリアの目撃情報を受け取ると、大型の網を携えて『ゴーストバスターズ』のように車で乗り込んでくる。しかし、それでもボストンテリアは捕まらなかった。

 彼らが追いかけ、挟み撃ちをしようとすると、どこからともなく砂の粒が飛んできた。彼らの顔にまとわりつき、目に入り、視界を奪う。その間にボストンテリアは、どこかへ逃げ去ってしまうのだという。砂に関する不可解な現象は他にも報告されている。

 マンハッタン島の北部、観光客が決して近づいてはならない地区の街角で、対立するマフィアたちによるいさかいが生じた。最初は口汚い言葉の応酬だったが、やがて拳銃を向け合う事態になった。最初の発砲音で近所のレストランのガラス窓が粉々になる。しかし、それに続く発砲音は響かなかった。

 マフィアたちは拳銃の引き金を引こうとするのだが、どういうわけか引き金が動かなかった。よく見ると彼らの持っている拳銃の内部に、いつのまにか砂がみっしりと詰まっていた。内部機構に入り込んだ砂のせいで、正常に動かず、弾丸が発射されなかったのである。

 何らかの自然現象の結果だろうか? いや、そうではない。その近くで、ひなたぼっこをしながら昼寝をしているボストンテリアが目撃されている。拳銃に詰められた砂は、ボストンテリアの仕業だ。そいつは、拳銃の発砲音が昼寝の邪魔だと思った。そこで、どうやったのかはわからないが、マフィアたちの所持している拳銃を砂で動作不良の状態にしたのだろう。

 そいつには、砂を操作する何らかの能力がある。

 私とスピードワゴン財団のスタッフたちは、同じ見解を抱いていた。

 スピードワゴン財団のビルの一室で、私はボストンテリアに関する報告書を読んでいた。外観は古風な石造りの建物だが、中は近代的なオフィスビルだ。私の顔と名前は周知されていたらしく、入り口で警備員に止められることはなかった。

 窓の外にはミッドタウンのビル群が広がっている。黄砂にけぶる風景の中、ビルのシルエットが砂漠の遺跡のように連なっていた。

「この犬に仲間はいるのか? 犬というものは群れを作りたがるらしいが」

 私の質問に、スピードワゴン財団のスタッフが回答する。

「彼はいつも単独で行動しているようです。しかし、雌の野良犬をはべらせていたという目撃情報もいくつか。他の犬たちも、彼の異常さには気づいているようです。例えば、下町のとある店先に、よく吠える大型犬が飼われているのですが、例のボストンテリアが通りかかると尻尾を丸めて隠れるそうです。自分の体の三分の一くらいしかない小さなボストンテリアのことを、その大型犬はひどく怖がっているんですよ。一部では彼のことを野良犬の帝王などと呼んでいるそうです」



*この続きは製品版でお楽しみください。

読んでいただきありがとうございました。

以下のリンクより購入が可能です。

これまでのジョジョシリーズノベライズ一覧はこちら。