試し読み【アフターコロナの恋愛事情】『グッド・ローカス』 半田畔

 職場で使うパソコンのモニターには、常に都内の地図が映し出されている。地図上には無数の黒いピンが置かれていて、道路や路地に沿ってピンがせわしなく移動している。このピンを眺めるのが私の仕事だ。
 配慮にかけた表現をするならアリを観察する作業に近い。アリの巣を断面から見て、彼らの行動を把握するのに似ている。何時にどこに集まり、どのくらい滞在し、移動する時間帯はいつが一番多いのか、それをチェックする。
「由佳、ボーっとしないの」
 首筋に冷たいものを当てられて、背筋が伸びる。振り返ると上司の前島さんだった。呆れながら、握っている缶コーヒーを私に差し入れてくれた。缶を開けながら、デスクの下で脱ぎ棄てていた靴を履きなおす。
「一応公務員の仕事だからね、これ」
「わかってますよ。でも一日中眺めてると、人を示すこのピンがアリに見えてきますよね。理科の実験する先生にでもなった気分です」
「失礼よ。あたしたちのような勤労者だって、そのピンのなかにはいるんだし」
「なら前島さんはこの仕事をどう表現しますか」
「侵略する前に上空から偵察する宇宙人の気分」
「同じようなもんじゃないですか」
 私が都庁採用試験に受かり、社会人としての一歩を踏み出したその年、新しい都条例が施行された。「位置情報統括保護条例」と呼ばれる条例によって、衛生上の観点から、都内を移動しているすべての人物を対象に、その位置情報を都庁が把握できるようになった。
 環境局に所属する、都内に移動する人々の位置情報を統括・管理するこの部署は「都市デザイン課」と呼ばれている。私が都庁に就職すると同時、ここに配属された。
都市デザイン課などと、安易な横文字に踊らされ、どのように画期的に都市のデザインを企画できるのだろうと期待していたら、アリの巣の観察だった。もしくは侵略前に偵察する宇宙人になることだった。
「退屈なのはわかるけどね、給料もでる安定した仕事よ」前島さんが言った。
「そのうち機械に取って代わられますよ、これ。というかボーっとしていたのは、それが理由じゃないんです」
「じゃあ何が理由?」
 仕事が手につかないのは、家庭に関する悩みが原因だった。前島さんに明かそうか一瞬悩む。だけどこの部署で唯一、気兼ねなくプライベートな問題を話せるのは、私にはこの人しかいなかった。
「旦那の吉人と結婚式の日取りについて、ちょっと揉めてて」
「何、まだ決めてなかったの」
「一応本当は、今年中にって予定だったんです」
「今年中って、あと二か月で終わるじゃん。それは無理だ」
「入籍は去年のうちに済ませたし、そのまま進むと思ったんですけど」
「ああ、旦那さんが考え込み始めたんだ」
 察したように前島さんがうなずいた。予想が見事に当たっている。前島さんも所帯ある身だ。過去にこういう経験があったのかもしれない。
「古い言葉を使うならマリッジブルーってやつね。男性がなることもめずらしくない。親戚が全員集まれないとか、仕事が忙しいとか、いろいろな理由をつけて、式の日取りが決まらないんでしょ」
「はい、そのとおりです」
 最近は、家に帰るたびにその話を持ち出す。結局日取りはおろか、式場すら決まらない日々だ。私と旦那、どちらかの焦りや不安が、互いに伝染し、小さな喧嘩が絶えない。ヒビが入り続け、やがて崩壊するような未来さえ想像してしまう。
「正月の実家への挨拶にも行かないとか言い出しそうで、怖いですよ」
「まあ旦那さんの気持ちも少しはわかる。結婚式は祝福とか、華やかなイメージがつきまとうけど、ある意味では、逃げ道をなくす行為でもあるからな」
「逃げ道をなくす」
「名実ともに、大勢の前で夫婦になった自分たちの姿をさらすんだし。万が一生活が破たんしたときには、そこにいるほとんどの人に知られることになる。そういう不安は理解できるよ」
「前島さんの旦那がそう言ってたんですか?」
「いいや、うちの場合マリッジブルーになったのは、あたしだった」
 うはははは、と当時を思い出したように、豪快に笑い出す。深夜のオフィス内に声が響き渡る。遠くのデスクで同じ業務を担当している職員のひとりが、居眠りから飛びあがって目覚めた。いまの前島さんの様子を見る限り、結婚時に不安になっただなんて、とても想像できなかった。
「旦那さん含めて、本当はあんたのほうも自信がないんでしょ。自分の歩いてきた道が正しかったのかどうか。この決断が正解なのかどうか」
「前島さんはセラピストのほうが向いてそうです」
「そうしたいところだけど、公務員は副業禁止だ」
 公務員を辞めるという発想をしないあたり、前島さんはやはりちゃんと、人間の生活をしている。そこには理性と覚悟がある。安定した日々を、旦那さんや子供たちとともにつくりあげる決意をしている。
 いまの私にそれはあるだろうか。アリの巣の観察に、誇りを持てるだろうか。プロとして毅然とした態度で、宇宙人になれるだろうか。


 モニター内の地図で五条宮昌を見つけたのは、十月も終わりに近づいたある日のことだった。
その日は二か月に一回提出する、データレポートの作成期日がだった。担当する区内の人々の移動履歴を基に、データを整理し、所感とともに事実を記述していく。私の今回の担当は渋谷区だった。
 ある通りの人々の移動履歴をチェックするため、私は地図を拡大していた。拡大が一定以上になると、ピンの上には人物の氏名が自動的に表示される。そこに彼の名前があった。

『五条宮 昌 akira gojoumiya  IP:155.833.2.300』

 心臓が跳ねる。口や鼻が呼吸することをやめる。カーソルを動かす手が止まる。
 同姓同名ではないかと疑い、もっと手がかりが欲しいと思った。履歴を調べると、問題の彼は、表示している通りの近くの、ある位置に定期的に滞在していることがわかった。場所を拡大し、そこに何があるかを調べる。オフィスのパソコンに履歴が残らないよう、個人のスマートフォンで地図アプリを開き、目的の位置情報を入力する。画像とともに、あらわれた建物は――
「あ、」
 五階建てのビル。その一階にある施設。
 広々としたフロアに所せましとならんだ洗濯機と乾燥機。
 コインランドリー。
 あの場所だ、とすぐにわかった。ここの通りを彼とよく歩いていた。
あれからどれくらい経っただろうか。八年? そうだ、八年だ。
私は八年前、五条宮昌という男性と付き合っていた。そしていま、地図に表示されている人物もまた、あの彼に間違いなかった。黒く無機質に見えるピンであっても、そこにいるのは五条宮昌だ。 
 表示されているピンに意識が吸い込まれる。『五条宮 昌 akira gojoumiya  IP:155.833.2.300』。巨大で強引な手が、脳の奥底にしまっておいた箱をこじあける、そんな心地がした。
 箱から記憶があふれてくる。
 それは、ここに就職する前の記憶。いまの旦那と出会う前の、はるか遠い出来事。
 まだ私が学生だった時代。芸大に通い、自分が将来、稀代のデザイナーとして才能を発揮するという夢に、しがみついていた頃。
 昨日のことのように、光景が鮮明に映し出されていく。まわり始めたフィルムは、自分の力ではもう止められなかった。私の意識はもうこのオフィスにはなかった。眺めているのはモニターの地図ではなく、かつて彼と暮らしていたアパートの部屋だった。
 あのコインランドリーに私と昌が入り浸るようになったきっかけは、彼が洗濯機を壊したことが始まりだった。

 ◆ ◆ ◆

 洗濯機の異様な音に気づいて、玄関を飛び出す。停止して蓋を開けると、洗剤の泡があふれ出してきた。閉めようとするがもう遅く、アパートの廊下を見る見る浸食していく。今日ほど洗濯機が外置きであったことを喜んだ日はない。
 立ちつくしている私の頭上から、周囲の木々に止まるセミの声が降ってくる。みんな、私を嘲笑っているように思えてきた。
 大股で部屋に引き返す。彼はベッドのへりを背もたれにして、コントローラーを握り、テレビを睨んでいた。ゲームに熱中している。一度集中し始めたときの彼はすごい。油絵科で発揮しているその才能を、こんなところでも目にする。しかし洗濯機を回す才能はない。
「昌、洗濯機から泡があふれてる」
「本当か。大変じゃないか」
「今日の洗濯担当はきみだったでしょ。どうしてあんなことになるの」
「んー、適当に洗剤あったから、ぜんぶ入れたんだけど」
「ぜ、ぜんぶ? まさか一箱分?」
「普段しないから、分量なんてわからないよ。元々おれは食事担当だろ? 同棲するとき決めたじゃんか」
 昨日は制作課題の追い込みで家事をする余裕がなかった。それで彼に洗濯を任せていた。自信満々に答えていたのをまだ覚えている。「余裕余裕! 洗濯くらいおれにだってできるよ、任せとけ」。そして大惨事が起こった。
彼は依然、ゲームに集中している。うなじには汗が流れていた。ぬぐう様子はなく、暑さも意識の外にあるようだ。部屋のエアコンは住み始めた頃から壊れている。直すお金はなく、扇風機だけが頼りだが、それも壊れて「弱」の強さしか作動しない。
着ている灰色の半そでには絵の具がこびりついている。いつも体のどこかに絵の具が付着しているので、もう気にしない。
「今日はコインランドリーで洗濯しましょう。近くにあったはずだから」
「いってらっしゃい」
「きみも来るんだよ、元凶で張本人だろ」
 脇の下に手を入れて体を起こそうとするが、「うぎーっ!」とうめき声をあげて抵抗してくる。まったく、大きな子供である。やっているのはRPGのようだった。プレイヤーが広大な草原を移動している。
「ほら行くよ。陽が暮れる」
「わ、わかった! せめてセーブさせて」
 ベッドのへりに座り、彼の背中にまわりこむ。そのまま腕をまわし、抱き締める。暑さで音を上げさせる作戦だった。
「おーい行くぞー」
「わかったから。あとそういうことすると、もっと密着したくなるからやめて」
 振り返り、彼がキスをしてくる。コントローラーからようやく手が離れる。ゲームのなかの主人公が敵にやられ、『DEAD』の文字が浮かび上がる。
そのまま彼は私を抱え、一緒にベッドに倒れこむ。先に進もうとしたところで、体を押し返してやる。
「人の彼女がコインランドリーでうろうろして、男に声かけられても知らないからね」
 一足先に廊下を進み、外にでる。彼が急いで外出の準備を始める音が聞こえた。思わず噴き出す。二分もしないうちに外にでて、手をつなぎ、歩き出した。
 スマートフォンで最寄りのコインランドリーを検索する。大通りからそれて、十字路を二回ほど折れた小さな通りに、目的のビルを発見する。一階部分がコインランドリーになっていた。黄色の枠で装飾された窓とドアが印象的だ。窓ガラスには定期利用がお得だと促すキャンペーン広告が貼られている。
「おお、涼しい」
 室内の冷気を浴びるように、彼が両手を広げる。仕草がおおげさで、やっぱり子供っぽい。中途半端な時間帯だから、人はいない。
 所せましとならぶ洗濯機と乾燥機。窓際には椅子とテーブルが二セットずつ。近くの本棚やラックからは、好きな雑誌や漫画を取って読むことができた。どれもページの端がボロボロに擦り切れている。
「気に入った。ここは部屋より快適だな」
 私が洗濯物を投げ込んでいる間、早くも彼はくつろぎ始める。もっとも、ラックのなかの雑誌や漫画に興味を示すことはなく、取り出していたのはポケットサイズのスケッチブックと鉛筆だ。外出するときはいつも持ち歩いている。
 洗濯機をセットし終え、彼のそばに座る。スケッチをそっとのぞく。細い線で、風景が刻み込まれていく。豪快で、大ざっぱで、普段は不器用な彼が、筆を握るときだけは人が変わる。同じ人物が描いたとは思えないほど、繊細なタッチ。ただのスケッチなのに、これほどまでに、心を動かされる。
 会話はなく、そのまま洗濯機が回る音と、鉛筆が紙の上を走る音が、ランドリー内を満たしていく。そこに鼻歌が加わり始めた。
「そんなにここが気に入った?」
「好きな場所ではあるけど、ずっと居る場所ではないかな。ここに来る必要がなくなるくらい、おれは成功する予定だから」
「成功も大事だけど、洗濯機の回し方も覚えてね、芸術家さん」
「洗濯機を回してくれるパートナーがいるから大丈夫」
 手を止め、紙から目を離し、私を見つめてくる。彼のそばにいる十年後の自分を想像してみる。きっと昌のなかでは、ありありとイメージが浮かんでいるのだろう。一方、私の内面にあるスケッチブックは白紙のままだ。鉛筆を握ったまま、その手は動かない。
「芸術家だからお金に無頓着でいいとか、そういう考えがおれは嫌いだ。古びた人種だと思ってる。さっさと淘汰されればいいんだ」
 彼の想いに呼応するように、鉛筆の走りが速くなる。もはやスケッチの域を超えていた。そこに感情がこもり始めた。
「おれは芸術的評価も、金銭的成功も、両方手に入れる。どちらもないがしろにしない、そういうアーティストになる」
 彼の手が止まる。白紙だったその小さなスケッチブックのなかに、ランドリーが完成していた。ドラム式の洗濯機の蓋を開けて、一人の男性がなかに入ろうとしている。いや、女性だろうか。性別がよくわからない。平凡な私にはそのテーマすらも理解できない。
「絵のタイトルは?」
「『グッド・ローカス』」
 迷いなく彼はそう答えた。描いている間に決まっていたのかもしれない。タイトルを直訳するなら、「良い場所」。どうやら本当に、ここが気に入ったらしい。
そして私は唐突に気づいた。何か劇的な出来事が起こったわけでもなく、まばたきをした次の瞬間、見ている世界が変わっていた。
根拠はない。でも確信があった。昌とずっと一緒にいることは、おそらくないだろう。理由は簡単。彼はたぶん、本物だから。一方で、私は偽者だ。コバンザメみたいに彼に張り付いて、自分も大きく、〇から一を生み出すアーティストのふりをしている。自尊心は満たされるけど、本当は空っぽのままだ。
この日以降、私と昌はコインランドリーに入り浸るようになった。自宅アパートの洗濯機が直っても、習慣は続いた。単純にクーラーが涼しかったからというのもあるけど、それ以上の魅力がここにはあった。
ランドリーにいて、洗濯が終わるまでのスケッチをしている時間は、私たちにとって、生活のリズムを整えるための、リラクゼーション的な意味合いが強くなっていた。心地よく、そして何かが終わっていくような不安が膨れ上がっていった。
昌と一緒にいられなくなるだろうという私の予感は、その半年後に当たることになった。私たちは四年生になり、将来のことを考え始めるべき時期にさしかかっていた。彼は自分が芸術の道に進むことを決めていた。そして私は少しずつ、デザインの道から離れ始めていた。
何か大きな喧嘩をしたとか、そういう決定的な出来事があったわけではない。昌は私が芸術の道から離れ始めていることに気づき、私も自分が向かう道と、昌が進む道が逆方向を向いていることを理解していた。
アパートの契約更新の時期が近づいたとき、どちらが言い出すこともなく、私たちは別れることになった。それきり彼とは会わなくなった。
 一人暮らしを始めてすぐ、私がまずしたのは、公務員試験のための参考書を買いあさることだった。読んでみて、意外なほどすんなりと内容が頭に入ることに驚いた。同時に、ああやっぱりな、と合点もした。自分は元々こちら側の人間だったのだ。
 デザイン系の会社に就職することもなく、私は無職のまま芸大を卒業した。
その半年後、公務員試験に一発で合格した。これが私の選んだ道だった。


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