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【試し読み 第2回:The Cat's Whiskers】Paradox Live Hidden Track "MEMORY"

9月3日に『Paradox Live Hidden Track "MEMORY"』が発売となります。
こちらに先駆けて、4日連続で各チームの物語冒頭の試し読みを公開させていただきます!

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以下のリンクより購入が可能です。

あらすじ

大人気プロジェクト小説版が登場! Paradox Live終了後、「BAE」「The Cat's Whiskers」「cozmez」「悪漢奴等」は、訪れた平穏の中でそれぞれの過去を思いだしていた。14人のラッパーたちが成し遂げたかった想いの原点が、4つの記憶の物語として描かれる――
・アンがアレン、夏準と出会ってからBAE結成までの秘話を解禁!
・西門、神林、椿の三人で過ごした美しくも儚い日々が初めて語られる――
・那由汰と四季の出会い、そしてサンタを信じる珂波汰にこっそりプレゼントを準備!?
・翠石組に玲央が加入した直後、紗月や北斎と夏祭りの出し物を企画するように依織から言われるがその意図とは...?
ここでしか読めないオリジナルストーリーが満載!

『Paradox Live Hidden Track "MEMORY"』試し読み

第1回:BAE 「Before Anyone Else.
第3回:cozmez 「Be Rewarding One.」
第4回:悪漢奴等 「Boys And Dad.」


それでは、第2回は「The Cat's Whiskers」の物語をお楽しみください。


Birdhouse Any Remember.

 雨の降る夜だった。
 Paradox Liveの一件以来、平和がBar4/7(バーセブンフォー)に満ちていた。雨で客足が少ないその日は特に、穏やかな時間の流れる夜だった。
「……匋平(ようへい)。最近はよくピアノを弾くようになったね」
「まあな。雨の日はどうも、弾きたくなる」
「はーい! リュウくんもっとバトルBGMっぽいのリクエストします! 黒ぶち魔王DX(デラックス)最終決戦のテーマ!」
「なんだその珍妙なリクエストは……」
 西門(さいもん)はグラスを傾け、神林(かんばやし)はピアノを奏でる。リュウは黒ぶち魔王DX──猫を頭に載せて、ソファに転がっている。
 やがて、神林がピアノを弾き終えると、いよいよ雨音だけがバーを支配した。
「四季(しき)のやつ、ちゃんと傘持って行ったろうな」
「リュウくんカバンに傘入れてあげたから大丈夫! 小さくて銀色でオシャレ!」
「シェイカーが一つないと思ったらお前か、リュウ……」
 The Cat's Whiskers(ザ・キャッツウィスカーズ)にとって変わらない日々のようで、Paradox Liveを経て、いくつか確かに変わったことがあった。
 まず……四季がよく出かけるようになった。
 那由汰(なゆた)との一件における過去と誤解の解決に伴い、四季はcozmez(コズメズ)の双子と遊ぶことが多くなった。四季を苛む全てがなくなったわけではないが、間違いなく笑顔は増えた。生来の気弱さはあるものの、明るさを取り戻しつつある。
 もう一つ。最も西門と神林を悩ませていた、バーの土地買収の件が解決した。
 Paradox Liveの終了と共に、不動産会社の態度が露骨に軟化した。アルタートリガー社の影響であることは、明らかだった。
 優勝して賞金を手に入れることはできなかったものの、十分余裕をもって土地と店舗を買い取ることができた。結果として、店を守るという目的は達成されたのだ。
 そういうわけで──The Cat's Whiskersの問題は、多くが解決したと言っていい状態だった。
 けれど、それはあくまで今あるものを、何とか守っただけの話。
 もう戻ってこないものは、確かにあった。
「なあ西門」
「なんだい?」
「お前の中の椿(つばき)さん、笑ってるか」
「……ああ。だから匋平も、ピアノが弾けるんだろう?」
「……まあな」
 神林の視線は、窓の外を向いた。静かにこぼれ落ちる雨垂れが、窓ガラスに縦線を描いていく。
 確か、あの夜も……。
 あまりにも穏やかで、平和な夜。優しい雨のリズムが、大事な店だけは確かに守ったのだという実感と共に、神林を、西門を……遠い過去の記憶へと、誘(いざな)っていった。

 確か、あの夜も雨が降っていた。
 人の声も、ビルの明かりも滲(にじ)ませるように、雨音が夜を包んでいた。
 街はまるで喪に服したように静まっていて、外を歩くのがどこか罪深く思えるような、そんな夜だった。
 濡れたアスファルトの道を、捨て猫のように歩いている青年がいた。
 水を含んだ安いシャツと、ボロのスニーカーを引きずって、重い足取りで道を行く。濡れた前髪が視界を覆っても、見えていないかのようだった。
 視界は狭く、足元に落ちて、どちらが前かもわからぬような足取りで、それでも不思議と迷いはなく、まっすぐに進んでいた。
 雨の中。聞こえそうもないピアノの音が、なぜだか耳に届いていて。
 それに従って歩くうち、一軒の店にたどり着いた。
 Bar4/7。看板の名前は、その時は目に入らなかった。
 バーの扉は、狭く重い。それは外の世界と店の中を隔てるためだ。
 知る人に言わせれば、バーとは〝Hideout〟(ギャングの隠れ家)なのだと言う。店の中に入った客を守るために、入り口は狭く作られている。そしてバーテンダーとは〝優しい止まり木〟を意味する。バーは、疲れた者を優しく休ませるためにある。
 だからきっと、そのピアノの音は、バーの厚い扉を通して、彼の耳に届いたのだろう。
 その優しい音は、扉の向こうから聞こえてくる。
 そう確信して、彼は重い扉を、寄りかかるように押し開いた。
 そこに──椿の花が咲いていた。
 聞いたこともないような、優しい旋律があった。春の太陽よりも柔らかい、暖かな明かりが満ちていた。
 白く細い指で鍵盤を叩く彼女の姿は、彼にはまるで天使に見えた。
 その日の夜、彼は、本当の意味で〝音楽〟に出会った。
 そのころは悠月(ゆづき)椿と呼ばれた彼女と、西門直明(なおあきら)という名の男。バーに突然現れた、まだ年若い青年に、二人は少し驚いて、それから優しく微笑んだ。
 中に入って扉を閉じた時、世界と隔たれた店の中には、泣きたくなるほど暖かな、空気と音が満ちていた。
 まだ十七歳の神林匋平の、人生が変わりゆく夜だった。

 十九歳になった神林は、バーの扉の重さが好きだった。
 まだ暑さの残った外の空気から、快適な空調の室内へと飛びこめば、目当ての人物はすぐに見つかった。
「西門。時間いいか」
「ここに勤めてそこそこ経つけれど、そんなに堂々とバーに来る未成年は、お前くらいだよ。匋平」
 笑いながら神林を迎えた西門は、バーカウンターの一番奥の席を顎で指す。それから、ライムジュースとグレナデン・シロップ、それにシュガー・シロップを少々シェイクして、丸氷を入れたゴブレットグラスへ。最後にソーダを注いで満たす(フルアップ)。
「サマーディライトでございます」
「かっこつけてるけどジュースじゃねえか」
「酒を出すわけがないだろう?」
「ライムのスライスくらい飾れってんだよ。つーか勝手に作るし」
 頰杖をついた神林は、少し不貞腐(ふてくさ)れた顔でグラスをつまむと、その赤いノンアルコールカクテルで唇を濡らした。酔いはしないが、さっぱりとした味わいは心地いい。
 喉がある程度潤うと、神林は饒舌(じょうぜつ)に喋りだした。
「金曜のイベントは手ごたえがあったな。良い気分だった」
「ああ。やっぱり私たちにチル系の音楽性は合っていたと思うよ。私も気持ちよくリリックが書けたしね。匋平も、また表現が一皮剝けたんじゃないか」
「まあな。あのトラックは間違いなく最高傑作だ」
 会話の合間に、神林が上機嫌にグラスを傾ける。しかし、グラスを持つのが様になるものだ。バーで働くのも似合うだろうな、と西門は目を細めた。
「ピアノの伴奏にフィンガースナップのビート、あれは想像以上によくハマった。屋根から落ちる雨垂れのイメージ……」
「いちいち褒め方が理屈っぽいんだよ。まあ、言語学なんてのを学んでると、そうなるのかもな……院のほうは大丈夫か? けっこう忙しそうなイメージあるけどよ」
「暇と言えば噓になるけどね。XXXX(クアドラエックス)としての活動に割く時間は十分にある。むしろ、リリックを作る助けになっているくらいだ」
「……確かに、最近のお前の詞は特にノってる」
「相棒に太鼓判をもらうと安心するよ」
「それに加えて、あのトラックだ。正直、どこの誰にも負ける気がしねえ。……知ってるか? こないだのイベント、海外の注目度も高いらしいぜ。このまま行けば海の向こうでも──」
「武雷管(ぶらいかん)みたいに一気に知名度が上がる、かい?」
「なんだ、歯切れが悪いな」
「そりゃあ、ある水準以上のチャンスを摑むには、運が必要になってくるのは確かだ」
「そういう前置き、どうにかならねぇのか? 目はギラついてんじゃねえか」
「弱気に聞こえたかな」
「実力なら足りてるつもりだ、って言えよ。まどろっこしいんだ、お前の言葉は」
「匋平には伝わるからね」
「ふん。俺はお前ほど謙虚じゃねえ」
 また、グラスに口を付ける。甘ったるい信頼の言葉から逃げるように、ライムの酸味で舌を満たす。
「もう少し素直な言葉使えよ。すました顔で、燃えてるくせに」
「高温の炎は、静かに灯るものだよ」
「行くつもりなんだろ、武雷管(テッペン)を超えるとこまで」
「当然」
「そう妙に謙虚な言葉を付け足すのは気に食わねえ。俺の音とお前の言葉があれば、手が届く夢だ。運とやらも捻じ伏せられる」
「ずいぶん、あのトラックが気に入ったみたいだな。最初はもっと攻撃的なラップを好んでいたはずなのに」
「当たり前だ。良いものは良い。チル系だろうがなんだろうがな。サンプリングも上手く行ったが、何より椿さんのピアノが──」
「あら、なあに? 私の噂話?」
 低く響く二人の男の会話に交じった、高く細い声に、神林は思わず顔を上げた。
「──やあ、椿」
 西門が、女性の名前を呼ぶ。
 低く優しい西門の声に、もう一つ、愛しさを込めた響きが宿る。
 西門の声と神林の視線の先。二人にとって、特別な人がそこにいた。
「……つ、椿さん!」
 西門に遅れて、神林の唇は、どこかぎこちなく、その名の形をなぞった。
 悠月椿──そのころは西門椿と名乗る女性を、一言で表すのは難しい。
 だが一文字を選ぶならば〝凜〟だろう、というのは西門の談だ。
 ビロードのような髪も、雪のような肌も美しい。
 けれど、彼女の魅力というのはそういう見た目の話ではなくて、手を少し伸ばしたり、脚を一歩踏み出すような、そういう所作一つ一つの洗練された美しさ─澄んだ美しさだと、神林は思う。
 背筋に一本、しなやかな芯が通ったような人で、それは内面の強さの表れでもある。だから彼女を指す時、神林は美人よりも、綺麗な人だと言いたくなる。
 そんな彼女が、西門と神林の姿を見ると……それこそ椿が咲くように、喜色鮮やかな笑みを浮かべるのだ。
「こんばんは、匋平くん。少し久しぶりね」
「ああ……驚いた。今日は店に出てたんだな」
「うん。しばらくは自分の楽曲づくりに専念してたから、顔を合わせる機会なかったものね」
「ということは、納得のいくものができたとか?」
「まだなんだけど……いい加減、研究に根を詰めすぎだって直明さんに𠮟(しか)られてね。このバーにもご無沙汰していたし、気分転換を兼ねて」
「没頭している時の椿は、ベッドで寝る間も惜しむからね。書きかけの楽譜を枕にして、五線譜のインクが頰に写った顔を何度も見ていちゃあ、苦言も言うさ」
「もー、直明さん! ……そこまではバラさなくていいでしょう」
 椿は眉を八の字にして笑いながら、𠮟られたという相手──肩をすくめる西門──を見つめて、滑らかな髪を、指先で静かに払った。
 そんな所作の一つも、バーの明かりの下で見ると、不思議な艶があって、目を惹くものだ。だから神林は、ピアノを弾くために作られたような、細く長い薬指。その根元に収まる白銀の指輪を、つい見つめてしまった。
 そうすると不意に、グラスを磨く西門の指先に意識が向いた。同じデザインの、白銀の指輪。
「それで、私の話だったの?」
「ああ──」
 椿が話の続きを始めて、何が悪いわけでもないのだが、神林はまるで悪戯が見つかった子供の様にこめかみを搔いて、答えた。
「──その、椿さんのおかげで、良いトラックができたなって話を……」
「ふふ、ありがとう。送ってもらったデータ聴かせてもらったけど、ジャズのスイングにも似た変拍子、本当に素敵だった。やっぱり匋平くんには、天性の音感があると思った」
「……でもサンプリングソフト弄(いじ)ったのは西門なんだよなぁ~……」
「機械を使ったのは私でも、確かに匋平の曲だよ」
 謙遜する神林に先回りするように、西門が続ける。
「マニュアル通りに機械は弄れるが、私にはあの音源をHIPHOPのビートへアレンジするセンスはないからね。やはり椿の音への理解は、匋平のほうが上かもしれない」
「あ~、やめてくれやめてくれ。どんだけ褒められても、ソフトに打ちこんでもらったんじゃあ、子供の宿題みたいで格好がつかねえよ……クソ、覚えねえとなぁ」
 西門のフォローに、神林はバツが悪そうに頰を搔いた。照れているのは確かだが、まんざらでもないのは表情ですぐにわかった。
 まあ、機械に弱いという神林の短所は、このころは特に酷かった。
 厳密には、機械と言うよりデジタルに弱いのだ。ピアノの調律は繊細にやってのけるのに、デジタル腕時計の時刻合わせすら丸一日できなかったのだから、相当なものだ。それでいて、今時マニア好みの手巻き時計なんかは上手にメンテする。──匋平くんは、感覚が物質的(ソリッド)なんだよね──とは、椿の評だ。椿に言わせれば、それは音を空間的にとらえる才能でもあるという。
 その才能は、西門もわかっている。わざわざ打ちこみを任せたことを言う必要も無かったはずだし、先ほどまでは神林も機嫌よく自画自賛していた。ひねくれたことを言うのは椿の前だからだと……西門は、そこも理解している。
 今度、もっとアンティークなサンプラーでも探してこようか、西門はそう考える。
「それはもちろん、匋平もパソコンが使えれば、もっとできることが広がるんだろうけど……それを補って余りある物がある。なんでも一人でできる必要はないさ。そう思わせてくれたから、私は匋平とXXXXを組んだんだ」
「べた褒めだねぇ、直明さん。でも私もそう思うよ」
「信頼してるんだよ。匋平は私の〝夜叉(やしゃ)〟だからね」
「ちっ。そう言われちゃ……何も言えねえじゃねえか」
 拗(す)ねたように口を尖らせる神林を、微笑ましげに見つめる二人。その視線から逃げるように、神林はグラスを一気に呷(あお)った。
 MC夜叉と、MC修羅(しゅら)。二人の伝説的幻影ラッパー、武雷管。
 西門にとっての〝MC夜叉〟。それが神林の、ラッパーとしての在り方だ。
 かつて武雷管のライブを見に行って、衝撃を受けたあの日。
 武雷管への憧れを口にする西門に、一緒にラップをやってやる、と神林が持ち掛けたのが、XXXXの始まり。
 ──夜叉の圧倒的な才能、これを支えているのが修羅の知性と理論なんだよ。この二人だからこそ、武雷管の音楽、あの圧倒的なパフォーマンスは生まれるんだ。
 ──だったら、俺があんたの〝夜叉〟になってやるよ。だから西門、俺と組め。俺があんたを〝修羅〟にしてやるよ。
 あの日、二人の〝憧れ〟が〝目標〟へと変わった。
 そしてまた、椿もそこで音楽の理想形を見つけた。
 ──武雷管の音楽は特別。〝ヒトとヒトをつなげる音楽〟。自分の境界がなくなって、心が、魂が見えないどこかで確かに繫がる。なんて素敵なことなんだろう。
 それ以来、椿もまた、〝ヒトとヒトをつなげる音楽〟について模索し続けている。
 全ては武雷管から始まった。
 その日の感動が夢へと変わり、目標になり、この瞬間に続いている。
 だから……西門が〝私の夜叉〟と呼んでくれることを、神林は誇りに思う。
 それ以上、謙遜などできないのだ。だから代わりに、空になったグラスを差し出した。
「西門、おかわり」
「私も同じの貰おうかな」
「椿さんも? ミックスジュースだぜ、これ」
「いいの。直明さんの作るミックスジュース好きだから」
「ノンアルコールカクテルと言ってほしいなぁ……」
 カウンターにかける二人を見て、笑いながらフルーツナイフを用意する西門。顔を上げた神林が、その様子を指さす。
「はぁ? おま、ざっけんな……椿さん、こいつ俺だけの時はライム切らなかったんだぜ。こんな顔してゲンキンだよな、眼鏡のくせに」
「匋平が二杯目を頼むのは知ってたからだよ」
「噓つけ。なあ椿さん、こいつぜってー椿さん用だからってサービスしてんだぜ。眼鏡のくせによ、まだ新婚だからってやることがスケベなんだよ」
「新婚はともかく眼鏡は関係ないだろう、眼鏡は」
「あはははっ」
 二人のやりとりを見て、さも可笑しそうに椿が笑う。凜と整った椿の顔が、こういう時は幼く見える。それから、その目が穏やかに細められて、神林に向けられる。その視線に少しどきりとして、神林は頰が熱くなるのを感じた。
「直明さんも面白いけどさ……ほんと、匋平くんは良い顔するようになったね」
「は……なんだよ、急に」
「久々にバーに来たからかなぁ。匋平くんに初めて会った時のこと、思い出しちゃって。あのころの匋平くんは……もっと、何も近寄らせたくない、って感じでさ。世界中を恐れているみたいに、刺々しい声と冷たい目。調律しないまま叩いた鍵盤の音みたいに、ギザギザしてたけど──」
 思い出に浸る椿の前に、ゴブレットグラスが置かれた。鮮やかな赤い液体に、緑のライムの切れ端が飾られていた。
「──今はとても柔らかい響きが伝わってくる。なんだろう……クラシックで言えば、トロイメライかな。そんな感じ」
「……椿さんのそういう喩え方、相変わらず分かりづれぇけど……擽(くすぐ)ってぇこと言われてんのだけはわかるわ」
「椿の共感覚的な表現を意訳するのは、いつも苦労するよ。そのために言語学を専攻したようなものだね」
「二人ともなんか酷いこと言ってない?」
 からかわれる対象が、神林から自分に代わってしまって、今度は椿が「むぅ」と口を尖らせた。「綺麗だな」と「可愛い人だ」という感想が、同時に神林の頭に浮かぶ。
 ふと、思考を始めた頭が、勝手に昔のことを思い出す。
 家庭の不和。預けられた施設の人々の冷ややかな目。大人というものを信じられず、野良犬のように生きていたころ。しまいにはヤクザにまでなって、それでもなお、満足できる何かを得られない……そんな生活を送っていた過去。
 毎日、毎日、どこか、隙間風が胸を吹き抜けて行くような日々──そして、その日々の果てに出会った、優しいピアノの音色。
 かつての神林の痛々しさを、神林自身が一番自覚している。
 だからこそ、あの夜自分を導いてくれたピアノの音が、椿が、西門が、どれほど自分を助けてくれたかも、よく分かっている。
「とにかくさ。二人が一緒に音楽してること、嬉しいんだ、私」
 仕切り直すように、椿がグラスを口元に寄せる。赤い夏色のカクテルを舌に滑らせ、喉に抜けていく爽やかさを感じていく。それからしみじみと、嚙みしめるように呟く。
「やっぱり音楽は、ヒトとヒトをつなぐんだ、って」
 その言葉は、椿の夢だ。
「たぶん直明さんと匋平くんが、一番証明してくれている。武雷管のライブを見に行ったあの日以来、色々考えてきたけれど……私、結局はそう思ったんだ」
「そうだね。匋平は、遠くから眺めるしかないと思っていた武雷管という存在を、目標に変えて、繫いでくれたんだ。……感謝してもしきれないよ」
「……最初にそれを証明したのは、あのピアノなんだけどな」
「えっ?」
「なんでもねえよ」
 それきり、神林も照れ隠しのようなことは言わなかった。ただ口にあてたグラス越しに、カウンターを挟んで笑いあう二人の姿を見つめていた。
 椿という女性に対し、神林が抱いていた感情は、穏やかな親愛ばかりではない。
 椿は神林にとって、雨夜の雲間から射した月明かりだった。
 価値がないと思っていた自分を認めてくれた。ピアノを弾かせてくれた。「その才能は特別だ」と、言ってくれた。青年が大人になっていくにつれて、その感情を恋と自覚するには十分な時間が過ぎて──その恋が叶わないことを悟るのにも、また十分すぎる時間があった。
 けれど、それでも良かった。
 椿が導いてくれた道で、西門が手を取ってくれた。
 あの日、ピアノが聞こえなかったら。あの日、声をかけてくれなかったら。あの日、武雷管のライブに連れて行ってくれなかったら……。
「修羅と夜叉を目指すだけじゃない。武雷管、超えるんでしょ」
「おう」
「勿論だ」
 微笑む椿に、西門と頷く。
 二人がいたから、神林は今ここで、音楽という道を歩いて行ける。椿も西門も、神林にとっては、あてのない夜道を照らしてくれた、優しい明かりだ。感謝なんて二文字では、とても足りるものではない。
 椿の笑顔が見たい。けれど西門の笑顔も、神林は守りたい。
 だから……笑いあう二人を眺めている時間が、何よりも嬉しい。
 胸に痛みを抱えても、悲しい瞳を浮かべても、彼らのために祝福の拍手を贈れるなら……それは彼らに人生を救われた、神林匋平の誇りだ。
 そんな神林の胸中を、西門も薄々は気づいていた。だからこそ、気を遣うような真似は無粋だと思っていた。
 ただ椿の笑顔を護り、三人でこうして語らう時間、彼女が幸せであると示すこと。椿との結婚が間違いでなかったと、証明し続けること。それが西門にとって、神林の誇りへ報いることだった。
 彼らは、愛しい一輪の椿を挟んで……そんな時間が、優しい連弾の音に包まれるような暖かな夜が、どうか永遠に続けばいいと、静かに願っていた。
 きっとそれが、彼らにとって、もっとも幸せなころだった。
 言葉なく響き合う、不器用な男たちのセッションが、穏やかな日々を奏でていた。


読んでいただきありがとうございました。
明日の更新もお楽しみに!

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