女子高生2人の青春18きっぷの旅の果てには…!? ジャンプ小説新人賞テーマ部門<会話劇>金賞受賞作品「女子高生、北へ」全文公開
ジャンプ小説新人賞2019テーマ部門<会話劇>の金賞受賞作品『女子高生、北へ』を特別に公開いたします!
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あらすじ
福岡の高校に通う楓子(ふうこ)と瑠衣(るい)は、二年生の夏休み、博多駅から青春18きっぷを使った鈍行の旅に出発する。二人にはかつて慧人(けいと)という共通の友人がいたが、彼は去年の冬、不運な事故で亡くなっており、二人は彼の墓参りのため北海道を目指していた。電車に揺られ ながらとりとめのない会話を繰り広げる二人。その中で、楓子はある秘密を告白する……
松明『女子高生、北へ』
午前6時の博多駅のホームは閑散としていた。
くたびれた顔をして歩く会社員と、大きなキャリーケースを引いた観光客らしき外国人の家族。駅舎の外はいまだ濃い闇に沈み、煌々と光る照明が朝と夜の区別を失わせる。
「こんなに朝早く来たことなかったけど、あんまり人いないんだね」
ぺたぺたとステッカーの貼られた大型のキャリーケースを引きつつ、大きな眼で物珍しそうに周囲を見回すのは、高校二年生の南野(みなみの)瑠衣。セミロングのふわふわした茶髪を星形の髪留めで押さえ、夏らしいタンクトップにホットパンツを合わせている。
「確かに。18きっぷ期間中だからもっと多いと思ってた」
隣を歩く私が答えると、瑠衣は急に小振りな鼻をひくつかせた。
「あ、ラーメンの匂い」
あたりには豚骨の濃厚な匂いが漂っていた。駅構内にあるラーメン店が仕込みを始めているのかもしれない。福岡の街角を歩けば不意にぶつかるお馴染みの匂い。再びこれを嗅ぐのが何日後になるのか、私はまだ知らない。
私たちは「小倉」と表示された電車に乗り込んだ。
座席は新幹線と同じく一方向を向いたもので、クロスシートと呼ぶらしい。二人掛けの席に並んで座る。私のリュックサックは網棚に、瑠衣のキャリーケースは二人の間に置いてある。瑠衣は網棚の上のリュックサックを不思議そうに見上げた。
「楓子の荷物、かなり少ないけど大丈夫なの?」
「乗り換えが多いから、身軽にしたほうがいいんだよ」
知ったように言ったが、私も鈍行旅は初めてだった。インターネットに残る先人たちの知恵を拝借しているだけだ。なるべく日に当たらないように路線と時間帯を考えて座席を選ぶこと、衣服は数セット持って行きホテルで洗濯すること、貴重品は常に持ち歩くこと、エトセトラ。私は故意に、それらの予備知識を瑠衣に伝えていなかった。
この旅は、瑠衣に嫌われるための旅だったからだ。
「旅行は友情を試すものなんだ」
天戸慧人からそんな話を聞いたのは去年の九月だった。
彼とは瑠衣と同じく小学校からの付き合いであり、当時は私と同じクラスだった。容姿は平々凡々としているものの、妙につかみどころのない異星人めいた性格がミステリアスな魅力を発散しているのか、彼の周囲には案外人が多い。だが、夏休みが明けてからというもの、彼は一人で行動する時間が増えていた。ある日の放課後、それとなく事情を訊くと、慧人は憂鬱そうな顔で前記の発言をしたのだった。
「夏休み、リュータたちと東京に行ったんだよ。青春18きっぷで」
「何それ」
え、知らないの? と異星人を見る目で私を見るや、まくし立てるように説明を始めた。青春18きっぷとは、春夏冬のある期間だけ使えるJRの切符で、日本中の路線に五日間乗り放題なのだという。値段はおよそ一万二千円。ただし、特急や新幹線は使えないので、遠くに行こうとすれば普通列車をひたすら乗り継ぐ長旅になる、云々。
「ふーん、鈍行限定か。東京までどのくらいかかるの?」
「始発から終電まで乗っても一日じゃ無理だ。一日半はかかる」
朝から晩まで電車に乗り続けることを想像してぞっとする。
慧人の話は続く。彼を含めた男子五人は同じロックバンドのファンであり、彼らは八月に東京で開かれるライブに行く計画を立てていた。そこで移動手段に青春18きっぷを提案したのが慧人だった。飛行機ならどんなに安くても往復三万円以上かかるが、この切符なら二日で東京まで行けるから、往復で一万円を切る、と。
金のない高校生にとってこの安さが大きな魅力だったことは想像に難くない。二日かけて東京に行き、ライブと観光を楽しんでから二日かけて帰ってくる旅程が組まれた。それは青春の一ページに刻まれる輝かしい思い出になるはずだった。
「でも、甘かった。鈍行の旅というものを見くびってたんだ」
最初に襲ってきたのは空腹だった。乗り換えがタイトなせいで食事の時間が取れないにもかかわらず、彼らは食料を微塵も用意していなかった。広島で生牡蠣を、大阪でたこ焼きを、と無邪気に描いていた旅程は脆くも崩れ去り、空腹をこらえつつ無言で電車に揺られる時間が長く続いた。さらに一人が駅のトイレで手間取って電車を逃し、当日中にホテルに着けないことになると、坂を転がるようにムードは悪化の一途をたどる。仕方なくバスでホテルを目指したが、降りる停留所を間違えて途方に暮れる。いよいよ喧嘩が勃発し、五人の仲は決定的に壊れてしまった。気まずい雰囲気でライブに参加した後は、各々飛行機で帰ったという。
「それは慧人が悪い。自分の趣味を友達に押しつけた罰だよ」
手厳しいな、と慧人は苦笑しながらもどこか楽しそうだ。
「まあ結局、そこまで仲良くなかったってことなんだろう。一緒に退屈な時間を過ごしたり、トラブルを楽しんだりできるほど、耐久性の高い関係性じゃなかった」
「普通、一緒に旅行したら仲良くなりそうなものだけど」
「旅行は往々にして人間関係を壊すんだ。旅行の後で別れたカップルの話はよく聞くだろ。一緒に朝から晩まで顔を突き合わせてると、細かなストレスが積み重なって相手が嫌いになるらしい。どんなに親しくてもな」
相手が瑠衣でも? と返そうとしてやめた。瑠衣が彼のことを好きなのは傍から見ていて明らかだったものの、異星人たる慧人の内面はいまいち読めなかった。下手にからかえば藪蛇になりかねない。代わりに、冗談めかして言った。
「あんたと私だったら、小倉まで持たない」
「博多まで持つなら上々だよ」
この数ヶ月後、誰よりも遠い場所に行くことになる慧人は、白い歯を見せて笑った。
6時9分、博多発。
電車がゆっくりと駅から滑り出ると、暗い車窓を博多の街の灯が流れていく。次の乗り換えまでは1時間と少しある。緊張の糸が切れたのか眠気を感じた。かたたん、かたたん、と心地よい振動に身を委ねるように瞼を閉じる。
「ねー楓子、眠いの?」
目を開けると、鼻が触れそうなほど間近に瑠衣の顔があった。おとなしく眠らせておく気はないらしく、弄ぶように頬をつんつん突かれる。
「瑠衣はあんまり眠くなさそうだけど、何時間寝たの?」
「11時に寝て、4時に起きたから、5時間。でも全然眠くないよ」
「凄いな。6時間は寝たけど眠いよ。空が暗いから、まだ夜みたいな気がして」
瑠衣は静かな車内に配慮したのか、ふふっ、と口に手を当てて上品に笑った。
「楓子、修学旅行のときも真っ先に寝てたもんね。修学旅行の醍醐味って、夜中にお喋りすることじゃない?」
いつの話だろうと考えて、瑠衣と同じ部屋に泊まったのは中学校のときだと思い出す。旅行先は京都だった。金閣寺と清水寺、あと稲荷山に登ってくたくたになったことを覚えている。
「喋ってたら先生に怒られるでしょ。あれってほんとに理不尽だよね。私はちゃんと眠ってるのに、連帯責任で一緒に怒られるんだから」
「どうせおとなしく寝るわけないんだから、参加すればよかったのに」
「どんな話してたの?」
「えーと、ミッチが――」
ここで瑠衣はしまったというように表情を硬くしたが、苦しげに言葉を継いだ。
「……ミッチが何か話してたんだよね。うーん、何だったっけ」
瑠衣との付き合いはとても長いから、彼女が何を隠しているのかは手に取るようにわかったが、それを追及する気力はまだなかった。
「やっぱり眠いから、少し寝るね。7時過ぎに起こして」
会話を中断できたことにほっとしたように、わかった、と瑠衣は頷いた。
7時24分、八幡着。同29分、八幡発。
空はすっかり明るくなって、乗り換えた電車も半分以上の席が埋まっていた。立ちっ放しも覚悟していたが、幸運にも二つ並んだ席が空いていたので、二人でそこに腰を落ち着けた。
八幡駅の次に停まったのはスペースワールド駅だった。数年前に閉業したアミューズメントパークがあった場所である。
「何か不思議」瑠衣がぽつりと呟いた。「もうないのに、スペースワールド駅なんだ」
「駅の名前ってそう簡単には変えられないんだろうね」
「ボートに乗って川を下るやつが好きだったな。あれ、何て言うんだっけ」
「わからない。乗ったことないし」
「じゃあ、どういうやつが好きだった? 一つくらい覚えてるでしょ?」
「いや、スペースワールド行ったことないから。遊園地も」
瑠衣はしばらく絶句して、「あ、ごめん」と慌てて謝った。
そんなふうに気を遣わなくていいのにと思う。普段は気にしていないのに、瑠衣が腫れものに触るように扱うから、余計に惨めな気分になる。普通の幸せな家庭に生まれていたら得られていたもの、初めから失っていたものを思い知らされる。
いくつかの駅を通過した後、私はフォローのつもりで口を開いた。
「遊園地は行ったことないけど、あまり興味もなかったな。楽しみ方を指示されてるものより、自分で楽しみ方を探すほうが好きだったから。近所の公園で遊ぶだけで十分楽しかったし。お化け公園で缶蹴りしたり」
瑠衣はようやく頬を緩めた。
「懐かしいね、お化け公園。リュータがお化けを見たから、そう名付けたんだっけ」
「子供の幽霊がブランコ漕いだり、ボールで遊んでたり」
「今思うとちょっと怖くない? 昔、あそこで子供が亡くなったりしたのかな」
「公園の裏手にある盛り土、あそこに死体が埋まってるってリュータが言い出したことがあってね。スコップ持ってきて、みんなで掘り返したんだ」
「そんなことあったんだ。馬鹿だねー」
「そしたら、骨が見つかった」
「……骨?」
ふっ、と唐突に車内の明かりが消えた。「ひっ」と瑠衣は短く悲鳴を上げて、きょろきょろと周囲を見回す。照明が消えたのは一瞬のようで、もう元に戻っている。
「何? 停電?」
首をきょろきょろ振りながら怯える瑠衣は、餌を探す鳩のようで面白い。ずっと眺めていたくなるが、そうもいかないのですぐに種明かしした。
「関門トンネルを通るとき、電気系統を切り換えるから、そのときに一瞬停電するんだって。面白いよね」
「もー、びっくりした。まさか、お化け公園の話をした理由ってこれ?」
「ここまでぴったりタイミングが合うとは思ってなかった。あと、見つかった骨って猫の骨だから」
8時1分、下関着。同11分、下関発。
ついに本州に上陸した。下関駅を出てからは瑠衣の怪談話が始まる。必死に怖がらせてくるが、語り口調がふわふわしているので全然怖くない。麦わら帽子の女性やら、白くてくねくねした化け物やらの登場する、どこかで聞いたようなメジャーな怪談を三連続で語った後、そういえば、と話を切り出した。
「電車の怖い話と言えば、『きさらぎ駅』だよね。聞いたことある?」
「異世界の駅に迷い込むやつ?」
「そうそう。あれは無人駅なんだけど、あたしは新幹線とか飛行機とかを使ったときのほうが異世界感あるの」
話の繫がりがよくわからなくて、「どういうこと?」と訊く。
「普通の電車って線路の上をことこと進むでしょ。どこまで行っても出発した駅と繫がってる気がする。でも、新幹線も飛行機もとにかく速いし、外もあんまり見えないし、いつの間にか目的地に着いてるから、異世界にぽんと放り出された感じがする」
「なるほど」
窓の外には青い瀬戸内海が広がっていて、陽光を眩しく反射させている。列車が潮風を受けながら走っているこの線路が、はるか後方の博多駅に繫がっていて、そこに私や瑠衣の街があると思うと、もっと早く、と列車を急かしたくなる。
それでも列車はマイペースに速度を落とし、知らない山間の駅で停まった。
「山口って長いな」
私が呟くと、瑠衣も感じ入ったように頷く。
11時18分、岩国着。同23分、岩国発。
相変わらず乗り換えに余裕がなく、トイレを済ませるだけで精一杯だ。昼食はあらかじめコンビニで買っていたもので済ませる。瑠衣もさすがに疲れてきたのか、言葉少なにジャムパンを齧っていた。その後はうたた寝を始めたので、私も倣って目を閉じる。
13時38分、糸崎着。同40分、糸崎発。
糸崎駅を出て海沿いを走ると、尾道駅に着く。車窓からは急な斜面に沿ってひしめくように立ち並ぶ家々が見えて、線路が街中を縫うように走っていることがわかる。
「長崎に似てるね」
一眠りして体力を回復した瑠衣が言う。九州の人間は坂の街イコール長崎という認識がある。それでも、広島にあるこの有名な坂の街は何となく知っていた。
「猫がいっぱいいるらしいよ」
「めっちゃいいじゃん。でも降りられないんでしょ。……あ、そういえば、お化け公園で猫の骨が見つかったって言ってたよね。お化けの正体ってそれじゃない?」
よく意味がわからなくて、またもや「どういうこと?」と訊き返す。
「リュータが見たのは、子供に化けた猫の幽霊だったの。ほら、お話の猫って人間に化けがちだし、子供の幽霊より猫の幽霊のほうが怖くないよね」
確かに、猫に呪われてもたいした害はなさそうだ。むしろ呪ってほしい。
「そうだったらいいな。死んだ後もマクロが楽しくやってるなら」
「マクロ?」
「家で飼ってた猫の名前。あの骨と一緒に首輪が埋まってたから、すぐにわかった」
「え、楓子の飼い猫だったんだ。いつまで飼ってたの?」
「中学まで。七年くらい生きてたけど、最後は助けてあげられなかった。私のこと恨んでないといいけど」
「そんなに長いあいだ可愛がってもらったんなら、恨んだりはしないと思うよ」
電車が動き始めた。その振動音に紛れるように、私は声を低めて言った。
「殺したの。病気でずっと苦しんでたから」
――それでいい、楓子。
父親は絞め殺された猫の死体を無造作につかみ、外に出ていった。幼い私は膝をついたまま、震える自分の両手を見つめていた。柔らかな肉の感触がまだ残っていた。
瑠衣は楽しい旅行の雰囲気を取り戻そうとするかのように、ぎこちなく笑った。
「それって怖い話?」
「うん、とても怖い話」
フィクションではないというところが、とても怖い。
16時16分、相生着。
今回は乗り換えに30分以上の余裕があったので、駅前を散歩した。駅から少し離れると平凡な住宅街が続くだけだったが、座りっ放しの疲れを解消することができた。コンビニで食料を買い込み、駅に戻って電車に乗り込んだ。
16時48分、相生発。
「夏目漱石」と瑠衣は言う。
「紀貫之」
「き……木戸孝允」
「白洲次郎」
「う……もう無理、降参降参。人名しりとりって難易度高すぎ」
時刻は19時半。大阪を過ぎて京都に入ったところだ。すでに日は落ちて暗い。
瑠衣がこの不毛なゲームを提案したのは、単純に会話のネタが尽きたというのもあるだろうし、慧人の件を迂回して探り探り話すことに疲れたというのもあるだろう。しかし、回り道の時間はそろそろ終わらせるときだ。そっと唇を舐める。
「京都と言えば、修学旅行の夜、ミッチは何を話してたの?」
「よく覚えてない」
「はい、噓発見」私は小さく笑う。「当ててみせようか」
私の右肩に当たる瑠衣の左肩が、動揺からぴくりと動くのを感じた。
「慧人がミッチに告白した話、だよね」
中学校のとき、ミッチこと塩野美智(しおのみち)はクラスの女子のリーダー的存在だった。華やかな容姿と明るいキャラクターで、男女問わず人気が高く、いつも多くの取り巻きを連れていた。ほとんど友人がおらず、容姿も性格も地味な私とは住む世界の違う人間だったが、時折親しげに声をかけてくれるので悪い感情は持っていなかった。
慧人があのミッチに告白した、という噂を聞いたのは中二のときだ。
このエピソードには「勇猛果敢にも」や「恐れ知らずに」といった枕詞が似合う。客観的に言って、慧人は目立って魅力的な男子ではないし、女帝ミッチとは釣り合いそうにない。案の定、その後二人が付き合っている様子はなかったので、本人に確かめたわけではないが、慧人は順当に振られたのだろうと解釈し、彼の蛮勇を心の中で労った。
「ミッチ、どんなふうに告白されたって言ってた?」
ここでようやく瑠衣は重い口を開いた。
「二人とも図書委員だったでしょ。図書室で二人きりになったとき、慧人に告白されたんだけど、他に好きな人がいるからって断ったんだって」
慧人は人間に興味がないのではと疑うほど、誰に対してもフラットな付き合いをしていたが、恋愛に関して人並みに関心があったようだ。その相手がミッチというのが少々引っかかるが。
「なるほど。でも、ミッチが他の誰かと付き合ったって話は聞いてないな」
「気が変わったのかもしれないし、他校の人だったのかも」
「あるいは、振られたのか」
それはないか、と打ち消そうとして、瑠衣が思いつめた顔をしていることに気づく。言うか言うまいか逡巡するように暗い窓を見つめて、小さく囁いた。
「もしかしたら、逆なのかも」
「逆?」
「放課後、廊下でミッチとすれ違った日があったの。あたしは声をかけようとしたんだけど、向こうは気づいてもなかった。目を腫らして泣いてたから」
「それって告白のあった日?」
「ミッチは具体的な日にちを言ってなかったけど、時期的には同じなの。正直あり得ないって思うよ。だけど、もしかしたら――」
「ミッチが慧人に告白して、振られたのかもしれない」
確かに信じがたい話だ。あの女帝が凡夫然とした慧人を選んだことも、どんな男子でも喜んで飛びつきそうな申し出を慧人が突っぱねたことも、同じくらい信じられない。
瑠衣は口元を引き結んでこくりと頷き、持論を語り始める。
「どうしてミッチが京都であんな話をしたのか、ずっと不思議だったの。ちょっと得意げに話してたのも引っかかってた。でも、告白の話が噓なら納得できる。ミッチは、慧人に振られたことが広まるのが怖くて、自分から振ったって話を無理やり広めようとした。慧人は優しいから、その噓に乗ってあげた。そういうことだと思う」
真実はともかく、瑠衣が信じたがっている筋書きは理解した。
「瑠衣、どうして慧人はミッチを振ったんだと思う?」
すると、彼女はまっすぐこちらを見据えた。潤んだ大きな瞳に私の顔が映っている。
「慧人には、他に好きな人がいたから」
かたたん、かたたん。レールの隙間を次々に乗り越えて電車は疾走する。私たちのいた街から、私たちの日常から、私が逃げ出した世界から、どこまでも遠ざかっていく。
「誰だと思う?」
私が静かに訊くと、瑠衣の目から丸くて綺麗な涙が一粒、頬を転がっていった。
「楓子……慧人が好きだったのは楓子だよ」
「いや、瑠衣だって。私は知ってる」
「そんなの、噓」瑠衣は首を振る。「慧人はあたしのことなんか見てなかった」
私のことだって見てなかったんだけどな、と内心溜息をつく。
結局、これは永遠に答えの出ないクイズだ。瑠衣が最後まで慧人に思いの丈を打ち明けなかったのは、きっと私と慧人の仲を勘ぐっていたからだ。二人のあいだに友達関係以上のものはなかったし、少なくとも私のほうは、彼に恋愛感情を抱いたことはない。
私はこの不毛なクイズを根本からひっくり返すことにした。
「確かに、慧人が誰かを好きだったとして、それが誰なのかまではわからない。でも、ミッチを振った理由は、他の誰かを好きだったからじゃない。ただ、自分に釣り合わないから断った――それだけの話だと思う」
「慧人がそんな卑屈なこと考えるかな」
「逆だよ、逆。慧人のレベルに、ミッチが達してなかったってこと」
瑠衣はきょとんとして目を瞬かせた。意味が飲み込めていない顔だ。
実は、と私は続ける。
「慧人の家は旧財閥の分家で、明治時代に開拓地の炭鉱開発で財を成したんだけど、今も銀行や製鉄会社の株をたくさん持ってるんだ。親は銀行の頭取だし、親戚にも政治家が何人かいる。だから、ミッチのほうが立場が上ってことは全然なくて、むしろ慧人が選ぶ側の人間だったんだよ」
「……全然知らなかった。家が大きかったし、お金持ちだとは思ってたけど」
「まあ、慧人が他の連中を見下してたとか、そんなことはないだろうけど、交際となると慎重になったと思うよ。慧人は長男だったし」
そっか、と瑠衣が呟いた声はかすれていた。
「だったら、あたしも駄目だったんだね。レベルが低すぎて」
「瑠衣、慧人のことが好きだったの?」
今さらかよと突っ込みを入れたくなるほど、瑠衣は顔を真っ赤に染めた。
「……うん、好き」
大きな瞳を潤ませて、まるで私に愛を告白するように言う。過去形を使わなかったのは彼女の意地だろうか。それとも、今でも真摯に彼を想っているのだろうか。
死者は何も語らず、誰も想わないというのに。
20時52分、米原着。21時7分、米原発。
喋り疲れたせいか、感情のメーターがおかしな方向に振り切れたせいか、瑠衣は私の肩に頭を預けてぐっすり眠っていた。その温かな重みを感じつつ、スマートフォンでニュースアプリを立ち上げ、記事に素早く目を通す。最後までスクロールした後、溜めていた息を吐く。恐れていたことはまだ起こっていない。
23時8分、豊橋着。同11分、豊橋発。
電車が動き出しても、瑠衣は何度も腰を浮かし、お尻をもぞもぞさせていた。
「うー、お尻痛い。クッションとか持ってくればよかった」
朝から17時間くらい座りっ放しだ。私も痛みを覚えていたから、「ちょっと行儀悪いけど」と断り、靴を脱いで座席の上に体操座りをした。体重が分散されたからか、座席の身体に当たる位置が変化したからか、少々身体が楽になった。「それいいね」と瑠衣も倣ったので、私たちは座席の上で体操座りをする妙な二人組になる。
23時45分、浜松着。
駅前のビジネスホテルにツインの部屋を取っていた。順番にシャワーを浴び、すぐさまベッドに身を投げ出す。まもなく瑠衣の寝息が聞こえてきて、こっそりほくそ笑んだ。
浜松の街にはたくさんの飲食店が軒を連ねていたが、早朝とあって開いているのはコンビニくらいである。うなぎの店の前で物欲しそうな顔をしている瑠衣を引っ張り、コンビニのイートインで手早く朝食を済ませる。
6時12分、浜松発。
結局ホテルでは4時間くらいしか眠れていない。粘着質な疲れが身体にねっとりと絡みついている気がして、出発早々気が萎えそうになる。一方、瑠衣はすっかり元気を取り戻していて、スニーカーをぱたぱたと楽しげに踏み鳴らした。
「ね、ちょっとは美味しいもの食べない? せっかく来たことないとこに来てるんだし」
「ホテルに着くころにはだいたい閉まってるからなー」
「見て、宇都宮で30分ある」瑠衣はよれよれになった旅程表を指さした。「餃子、餃子食べようよ、餃子」と自らの主張を餃子でサンドする。
「30分じゃ厳しくない?」
「たぶん駅の近くに店があるよ。さっと食べて、さっと乗り換えれば絶対大丈夫だから」
スマートフォンで熱心に店を調べ始める瑠衣の横で、車窓に目を向けた。住宅街を縫って川が流れ、遠くに朝日を浴びる山々の稜線が浮かぶ。初めて見る風景のはずなのに、ずっと前から知っているような気がする。静岡という馴染みのない地名と、目の前に広がるありふれた世界がうまく繫がらなくて、自分がどこにいるのか見失ってしまう。
「宇都宮餃子って、野菜が多めでヘルシーなんだって」
そう得意げに話す瑠衣だけが、変わらぬ日常の空気をまとっていた。
8時25分、沼津着。同29分、沼津発。
初めて肉眼で見る富士山に別れを告げ、電車は首都圏へとひた走る。
もう少し、このままでいいんじゃないか。置いてきた過去を忘れて楽しんでも許されるんじゃないか。罪深い私にも、そのくらいの権利はあるんじゃないか。
餃子を食べるまでは素直に楽しもう、と心に決める。
10時4分、戸塚着。同20分、戸塚発。
「うわー、凄い! 東京だよ東京!」
横浜、渋谷、新宿、池袋――福岡からほとんど出たことがない私でも知っている有名な地名が次々に流れてくるとあって、瑠衣のテンションは最高潮に達した。
「鈍行で東京まで来たなんて凄くない? 偉業だよ偉業。どっかで写真撮ろうよ」
「写真はいいけど、ネットには上げないで」
「わかってる。楓子はそういうの嫌いだもんね」
瑠衣のスマートフォンをちらりと見る。SNSの最新の投稿は電車から撮った富士山の写真で、今度は新宿駅の駅名標をアップしていた。コメント欄には――
「瑠衣、待って」とっさに彼女の手首をつかむ。「私の名前は出さないで」
「だけど、片仮名で『フーコ』だから知ってる人しかわからないよ」
「でも足がつく」
「足?」
「いや……何でもない。私、父親に黙って来てるから、知られたくなくて」
「えーっ、そんなの駄目だよ。絶対心配してるって」
心配しているわけがない、と心の中で皮肉に笑う。
瑠衣は家に連絡を入れるよう散々説得してきたが、最終的には投稿済みのコメントを削除し、今後はSNSに私の情報を流さないことに渋々同意してくれた。
12時48分、宇都宮着。
電車が止まりドアが開くと、私たちは荷物を持って走り出した。駅前の餃子店は地元で有名な店だという。案の定、店内は混雑していたのではらはらしたが、やっと空いたカウンター席に着くと、焼き餃子と水餃子はそれほど待たずに出てきた。味もよくわからないほど大急ぎで平らげ、支払いを済ませるやいなや駅に走った。電車が出るまで数分もなく、転がり込むように乗車した直後、ドアが閉まる。
13時20分、宇都宮発。
「美味しかった?」荒い息をつきながら瑠衣が訊いた。
「よくわからない。早すぎて」
「あたしも」
私たちはほぼ同時に吹き出した。笑いの波がなかなか収まらず、向かいの中年男性が眉をひそめる。これなら駅で売ってた餃子弁当にすればよかった、と瑠衣は特に残念そうでもなく言った。
14時12分、黒磯着。同26分、黒磯発。
笑いながらぐだぐだ喋っていたらあっという間に乗り換えが来た。餃子タイムは終わったが、乗り換えの時間が詰まりすぎてシリアスな話には向かない。
14時50分、新白河着。同58分、新白河発。
また30分もしないうちに乗り換えだ。電車がどんどん小さくなっているのは気のせいだろうか。車内が狭いわりに乗客が多いので、話をするのに不向きだった。
15時37分、郡山着。同41分、郡山発。
「また乗り換え?」
瑠衣はげっそりとした顔でキャリーケースを引いていた。乗り換えても車内の顔触れはほとんど変わらないので、だんだん顔見知りのように思えてくる。車窓の外は延々と田園風景が続いていて、まるで出口のない迷路をさまよっているような感覚に襲われた。
16時27分、福島着。同32分、福島発。
仙台まで1時間半ほど時間があることを確認し、意を決して口を開く。
「慧人のことで、話したいことがあるんだ」
あまりにリアクションが薄いので横を見ると、瑠衣は電池が切れたように眠っていた。乗り換えの連続で疲れたのだろう。仕方なく、私も目を閉じる。
17時53分、仙台着。
いきなり身体を揺さぶられて目が覚めた。
「楓子、楓子ってば、早く電車降りなきゃ」
目の前に焦った瑠衣の顔がある。はっとして周囲を見ると「仙台」の駅名標。慌てて網棚からリュックサックを引き下ろしたら、チャックの金具がどこかに引っかかっていたのか、口が大きく開いて中身がどさどさと床に散らばった。
替えの下着やタオル、化粧ポーチなどを慌てて拾い集めていく。「あーもう」と呻きながらも瑠衣は手伝ってくれたが、ふとその動きが止まった。凍りついた笑顔でこちらを振り向き、手に持ったものを掲げてみせた。
鈍色に光る、小振りのバタフライナイフ。
「……護身用にね」
「あ、護身用かー。何だ、びっくりした」
瑠衣は私の台詞を信じたのか、単にそれ以上考えるのをやめたのか、私の持つリュックサックにナイフを放り込んで「行こ」と促した。
18時5分、仙台発。
電車が動き出してしばらく、瑠衣は何やらもじもじしていた。元来能天気な彼女も、さすがに私の言動に不審なものを感じていたのだろう。そこに凶悪な面をした刃物の登場である。何か裏があると疑わないほうがどうかしている。
「あのナイフってさ」瑠衣が口火を切る。「その、どういうところで買ったの?」
「父親がくれたの。お下がりだけど」
その不穏なプレゼントを受け取ったのは小学生のときだ。表面は綺麗に磨かれていたが、鼻を近づけると微かに血の匂いがした。何年経っても匂いは消えなかった。
プレゼントと言えば、と半ば強引に話題を変える。
「小六のクリスマス会でプレゼント交換やったよね。慧人の家で」
どういう経緯だったかは覚えていないが、あのとき初めて慧人の家に招待されたのだ。クリスマス会には私と瑠衣、慧人の他に、リュータを含めて彼の友達が数人いた。
「プレゼント交換って、誰が提案したんだっけ? 慧人とは思えないし」
「あたしが言ったの。せっかくやるなら、クリスマス会っぽいことしようって」
全員のプレゼントをシャッフルし、番号を振ってあみだくじをした記憶がある。
「私はリュータの駄菓子セットだったな。外れだと思ったけど、みんな大差なかった」
「まあ、小学生だから仕方ないよ。あたしはちょっと高そうな筆箱だったけど」
「瑠衣、結構長くあれ使ってたね。ドラゴンが描いてあるし、どう見ても男の子用だったけど、慧人のプレゼントだから使ってたの?」
「……うん」
「そういえば、慧人が当てたのって瑠衣のキーホルダーだよね。銀色で電車の形をしたやつ。慧人、すごく喜んでたけど、どうしてあれを買ってきたの?」
瑠衣は悪戯を咎められた子供のように、うつむき気味にぼそぼそと応じた。
「別に、たまたま天神のお土産屋で、新発売だったから……」
「あのシリーズは何種類かあったはず。電車の名前とか、覚えてない?」
「そんなの覚えてないよ。適当に買ったもん」
「はい、噓発見」私は溜息をついた。「もう五年くらい経ってるんだし、何やったって時効だよ。瑠衣も言ったけど、小学生だから仕方ない、ってやつ」
探偵に問い詰められた犯人のように、瑠衣は諦念混じりの笑みを浮かべた。
「……どうして気づいたの?」
「どうしてっていうか、最初からばればれだから。あのメンバーの中で電車好きなの慧人だけだし、誰の手に渡るかわからないプレゼントとして相応しくない。瑠衣は慧人のためにプレゼントを選んだ。だったら、交換のやり方にトリックがあったに決まってる」
あみだくじを用意したのは瑠衣だ。くじにこっそり細工をすれば、彼女のプレゼントを慧人が、慧人のプレゼントを彼女が手に入れるように誘導できる。
「慧人に送る大切なプレゼントを、瑠衣が適当に選ぶわけがない。キーホルダーの電車の名前を教えて。確認したいことがあるから」
私の真剣な様子にただならぬものを感じたのか、瑠衣は表情を引き締めて答えた。
「西鉄9000系電車。2017年にデビューした、西鉄の新しい車両だって。凄く格好いいって慧人が何度も言ってた」
やっぱり、そうだったか。
初めから予想していた答えだったが、こうして確証を得ると、感動と哀しみと色々な感情が一緒に込み上げてきて言葉に詰まった。真相を口に出すのが恐ろしくなって、「それがどうかしたの?」と不安そうな目を向ける瑠衣に、ただ黙っていることしかできない。
18時49分、小牛田(こごた)着。
小牛田はいくつもの路線が合流する重要な駅らしかったが、周辺はやや寂しかった。次の電車まで1時間以上あるため、夕食を取ろうと店を探したものの、結局チェーンの格安ファミレスに落ち着いた。これからの旅程を考えるとあまり贅沢はできない。
鉄板の上で音を立てるハンバーグを黙々と切り、口に運ぶ。ともすればテーブルの向かいにいる瑠衣の存在を忘れるほど、深く考えに沈んでいた。
どう話せば、慧人の死にまつわる悲劇を信じてもらえるか。
駅へ戻る道中、街灯の乏しい暗い通りを歩きながら、私は切り出した。
「慧人の死因、知ってる?」
「……通学路の階段で足を滑らせて、首の骨が折れたんでしょ。あの朝、珍しく雪が積もってたから」
二月の寒い日だった。夜のあいだに降った雪で外は白銀色に染まっていた。あまり雪が降らない福岡でも、年に数回はそういう日がある。
瑠衣はあの朝の雪を思い出しているのか、手のひらをそっと上に向けた。
「最初は信じられなかったな。そんなことで人が死んじゃうなんて、リアリティがなくて」
「転倒や転落で亡くなる人って、意外と多いんだよ。交通事故より多いくらい」
「そんなに?」
「そこに、付け入る隙がある。事件を事故に見せかけて、他のたくさんの事故の中に紛れ込ませることができる。そう思わない?」
遠くに見える駅の明かりから目を逸らさず、瑠衣は震える声で言った。
「……慧人は、殺されたってこと?」
「私はそう思ってる。慧人にとっての敵は何人もいたから。昨日言ったように、慧人の家は旧財閥の分家なんだけど、経営権や不動産を巡って本家との争いがあった。分家の長男を害して力を削ぎ、資産を手に入れようとした可能性がある。ここで最大の利益を得るのは、本家の当主とその長男。それぞれ『本家当主』『本家息子』とするね」
「何、その呼び方」
「容疑者がいっぱい出てきてややこしいから、短くしてみた。どうせ名前なんて覚えられないだろうし。次は分家のほう。慧人は母親の連れ子だから、父親とは血が繫がってない。で、母親が再婚した後に産んだ息子がいて、慧人の異父弟にあたる。つまり、家を継ぐのは慧人だけど、父親としては実の息子に家を継がせたい。そこで邪魔な慧人を消した可能性がある。この父親を『慧人父』って呼ぼうか。同じ理由でその弟にも動機があるから、これは『慧人弟』って呼ぶ」
「ちょ、ちょっと待って」瑠衣は声を荒らげる。「おかしいよ。そんなことで子供を殺したり、お兄さんを殺したりするわけないじゃん」
「父親とも弟とも仲は良くない、って慧人は言ってた。それにね、世の中には平気で肉親に手をかける人間が山ほどいるの。瑠衣には一生わからないだろうけど」
理性より感情が先走って、つい本音がこぼれていた。
「やめて!」
瑠衣は叫び、私をにらんだ。唇が色を失い、大きく開いた目にみるみる涙が盛り上がる。
「楓子、いつもそうやってあたしを仲間外れにするよね。あたしが恵まれてるから? それとも平凡だから? あたしだって楓子や慧人のこと、もっと知りたいのに」
「私は別に、そんな――」
「慧人の死について何か知ってるんでしょ? 変な回り道しないで、今すぐ教えてよ」
「まだ話せない。順を追って話さないと、信じてくれないと思うから」
「教えて」
ふう、と私は短く息を吐き、周囲に人がいないことを念入りに確認して、この世界の秘密を明かすように囁いた。
「私の父親、殺し屋なんだ」
瑠衣はさっと私から一歩離れた。一瞬、傷ついたような顔をすると、そっぽを向いて吐き捨てる。
「ばっかみたい」
それから乱暴にキャリーケースを引きずりながら駅とは反対側に進んでいき、やがて暗い路地裏に消えた。私は追うことも声をかけることもせず、駅に向かった。
「ばっかみたい、か」
ホームを歩きながら小さく呟く。父親が殺し屋なんて、本当に馬鹿みたいな話だ。私だって普通の家庭に育っていたら、そんな話は信じない。
と、そこで自分の失言を思い出して自己嫌悪に襲われる。私はきっと、心の底では瑠衣の境遇を深く妬んでいたのだろう。優しい両親、安全で経済的に恵まれた生活、死で穢(けが)されていない家庭。
19時54分、小牛田発。
電車が動き始める。最後まで瑠衣は戻ってこなかった。この電車を逃せば、私に追いつくことは難しくなる。現状を考えると、それが彼女にとって一番安全だという気もした。
20時41分、一ノ関着。21時14分、一ノ関発。
がらんとした車内に一人座って暗い車窓を眺め続けることが、こんなに心細いとは思ってもみなかった。果てしない闇の中を無限に下降していく感覚。
22時45分、盛岡着。
ツインで取っていたホテルに一人で泊まる。スマートフォンを確認したが、瑠衣からのメッセージは届いていない。これ以上付き合っていられるかと文句を吐き、飛行機か新幹線で引き返したのかもしれない。
たぶん、それが正解だ。
6時55分、盛岡発。
ここから好摩駅までは「IGRいわて銀河鉄道」という第三セクターの路線なので、青春18きっぷは使えない。なぜ銀河なのか疑問だったのでスマートフォンで調べてみると、どうやら岩手の詩人・宮沢賢治の作品にあやかっているらしい。『銀河鉄道の夜』をフリーで掲載しているサイトがあったので読むことにする。ジョバンニとカムパネルラが銀河に浮かぶ白鳥の停車場に到着したあたりで、瑠衣からのメッセージが届いた。
『昨日のあれってほんと?』
どれのことだかわからないが、『噓はついてないよ』と返す。
9時58分、大館着。
アラーム音に飛び起きて電車を降りる。完全に寝入っていた。念のため下車時刻で目覚ましを設定しておいたのが功を奏した。硬い座席で熟睡できるようになったのも、腰やお尻の痛みがすっかり消えたのも、身体が鈍行旅に最適化されたおかげかもしれない。
スマートフォンを見ると、瑠衣からのメッセージが数件溜まっていた。疑ってごめんほんとのほんとにすみませんと素朴な謝罪を重ね、こんな頼みごとをしていた。
『あたしは今一ノ関にいる。ちょっとだけ待ってくれない?』
少し迷って返信する。『ホテルの予約があるから、電車を遅らせるのは無理』
『わかった。頑張って追いつくね』
頑張っても電車のスピードは上がらない、という突っ込みは自制した。
11時34分、大館発。
『楓子のお父さんの仕事って、どんな感じ? やっぱり銃とか使うの?』
『基本は素手。たまにナイフ。解体用のノコギリも家にあるよ』
『解体?』
『殺人業と死体処理業を兼ねてるから。私の家、古いけど広くてお隣さんが遠いんだよね。だから堂々と死体を運び込んで、風呂場で解体したりするんだ。家中が臭くなるから、そういうときは外に逃げてた』
『それってお風呂はどうするの?』
『綺麗に洗ってから使う。でもお風呂は嫌いだった。湯船に白い脂やら皮膚の欠片やらが浮いてくるから。これ、読み終わったらこまめに消してくれる? 誰かに見られたらやばいし』
『読んでて怖くなったから、もう消した。それで、お父さんがどう関わってくるの?』
12時17分、弘前着。同24分、弘前発。
『楓子?』
13時10分、青森着。同19分、青森発。
『ずっと返事しなくて、ごめん。どう書けばいいか迷ってた。本当は直接言わないといけないことだけど、やっぱり顔が見えないほうが楽かな。このことで私や父親を恨んでも、別に構わない。今さらどうやっても償えないし』
『あたしは楓子を恨んだりしないよ』
『慧人を殺したの、私の父親なんだ』
14時35分、津軽二股着。
駅を出て、新幹線の停車駅までそこそこの距離を歩く。日差しが強く、リュックサックの当たる背中が汗でじっとり濡れていく。東北って意外と暑いんだなと思う。
瑠衣からの返信はまだ届いていなかった。
17時1分、奥津軽いまべつ発。
青函トンネルを抜けるには新幹線に乗るしかないが、18きっぷは鈍行にしか乗れない。そこでオプション券なるものを購入すると、奥津軽いまべつ駅から木古内(きこない)駅まで新幹線に乗れる。身体に優しい柔らかなシートに、深く倒れる背もたれ――鈍行には望むべくもない快適さだったが、それほど気分は晴れない。
まだ返信が来ていなかったからだ。
17時34分、木古内着。
『今日中には木古内に着くから、明日の朝函館に行くね。そっちで合流しよ』
慧人の件には触れず、瑠衣はそんなメッセージを送ってきた。
函館のホテルをキャンセルして、木古内で瑠衣を待つという選択肢もあった。そうしても目的地には同じ時間に着く。だが、私は再会を先延ばしにする道を選んだ。
瑠衣の顔を見るのが怖かった。
19時、木古内発。
ここから五稜郭まではオプション券を使って「道南いさりび鉄道」に乗る。スマートフォンのバッテリーが切れそうだったので、いっそのこと電源を切ることにした。今、この瞬間は誰も私に繫がっていない。それが心地よくて、冷たいガラス窓に頭を預ける。
19時55分、五稜郭着。20時16分、五稜郭発。
早くベッドで眠りたい。
20時20分、函館着。
「丸一日ぶりだね」
早朝、函館駅で再会した瑠衣はちょっと恥ずかしそうに言った。
駅前には魚市場や海鮮丼の店が並ぶ通りがあって、その中でも店頭のメニュー表の値段がお手頃な店に入った。私が頼んだ三色丼にはイクラとウニとホタテがみっしり載っていた。新鮮な海鮮は瑞々しくて臭みがなく、するりと胃に抜けていく。
「美味しいね。さすが北海道っていうか」瑠衣は恍惚とした顔をしている。
「久しぶりにまともなもの食べたからってのもあるかも」
「あの粗食の毎日は、この一杯のための布石だった、と」
「コンビニ飯を粗食っていうのも気が引けるな。あれはあれで大したもんだよ」
8時18分、函館発。
発車して当分は、函館山の夜景が人気だとか、世界三大夜景ってどこだっけとかいう話をしていたのだが、ふと会話が途切れた。ほどなくして瑠衣がおずおずと言った。
「お父さんが慧人を、その、死なせたってのは確かなの?」
殺した、と言わないあたりに彼女なりの気遣いがある。
「直接見たわけじゃないし、父親から聞いたわけでもないんだ。私が気づいただけ。証拠はキーホルダー一つだから、最初は半信半疑だったけど」
「キーホルダー?」
リュックサックを下ろし、内ポケットからそれを出した。私の手のひらの上で銀色に輝く小さな電車。瑠衣の目が驚きに見開かれる。
「西鉄9000系……これって、慧人の」
「これは瑠衣にあげる。欲しいでしょ?」
「欲しい」瑠衣は受け取ったキーホルダーを大切そうに握りしめた。「ありがとう」
「私に感謝されてもね、それ、盗品だから」
「盗品?」
「私の父親は、殺した相手の私物を一つ盗んで持って帰るのが癖なんだ。別に高価なものじゃなくて、ネクタイピンとかライターとか、失くしても不審がられないもの。戦利品のつもりなのか、記録のためなのかわからないけど、盗んだものは階段下の隠し棚に保管してた」
慧人が死んだ数日後、妙な予感に駆られて隠し棚を覗いたところ、どこかで見たようなキーホルダーを発見した。先月、棚を見たときにはなかった品物だ。これが偶然とは思えなかった。
「父親の十八番は、転倒死に見せかけた殺人。だから、雪の日はよく仕事に出かけてた。あの日も朝早く家を出て行ったから、まず間違いない」
「……それを知って、楓子はどう思ったの?」
「憎かった。殺してやりたかった」
蒼白な顔をした瑠衣のほうを向いて、悪戯っぽく笑ってみせた。
「――なんて言うと思った? 全然そんなことなかった。ああ、仕方ないなって思ったんだ。ついに恐れてたことが起きたんだって」
「慧人を殺されたのに?」
「父親は慧人が憎くて殺したわけじゃない。ただ依頼を受けて、自分がこの業界で生きていくために仕事をしただけ。あいつを恨むのはお門違いだってわかってた。本当に恨むべきなのは、本当に慧人を殺したのは――」
言葉を途切れさせたのは、瑠衣が口元に指を立てたからだ。見ると、いつの間にか向かいに座っていた老人が怪訝そうにこちらを見ている。一両編成の狭い車内で繰り広げるには不穏当な会話だった。おとなしく口をつぐみ、老人に向かって微笑んでみせる。
11時18分、長万部(おしゃまんべ)着。
駅から近いローカルコンビニで昼食を済ませ、海までぶらぶらと歩く。周囲に人の姿がないことを確かめ、中断していた会話を再開する。
「前も言ったと思うけど、慧人を邪魔に思ってた人間は四人いる。『本家当主』『本家息子』『慧人父』『慧人弟』の四人。この四人の名前は昔、慧人から聞いてた。もし自分が殺されるとしたら、犯人はこの中にいるって」
「慧人、楓子にそんなこと話してたんだ」
「嫉妬する?」
「するよ、もちろん」瑠衣は軽く頬を膨らませた。「どうせ、あたしには立ち入れない領域の話なんでしょ。殺し屋が関わってるんだから」
「まあね。慧人は私の父親の仕事を知ってた。それで、私たちは約束したんだ。もしお互いが何らかの形で殺されたら、全力を尽くして犯人を見つけるって」
ふーん、と瑠衣はじっとり湿った目つきで私を見る。
「殺し屋とか財閥とか、何にも知らない素人の立場から言わせてもらうけどさ、それって彼氏彼女よりずっと親密な関係じゃない?」
「そうかな。別に、命をかけてお互いを守るとかじゃないし、死んだ後の処理を頼むだけの契約だから、所詮は保険みたいなものだと思ってたけど」
「それに、楓子が殺される可能性より、慧人が殺される可能性のほうがずっと高いんだから、楓子には保険をかけるメリットがないでしょ。そこに絶対、契約を超えた感情があったはずだよ」
瑠衣はどうしても私と慧人をくっつけたいらしい。それとも、私が慧人の死によって失恋した同類だと思いたいのだろうか。いずれにしても迷惑な話だ。
「父親が仕事を続けて、人の恨みを買い続けるかぎり、私が殺される可能性は十分にあった。それこそ母親が死んだのも――」
と、言いかけてやめる。瑠衣の謝罪攻撃を食らうのは疲れる。
「とにかく、慧人との契約は対等だったし、慧人が好きだったわけじゃない」
「……そっか」
瑠衣はどこか上の空で、波が打ち寄せる砂浜を眺めていた。
13時18分、長万部発。
次の電車も一両編成で乗客がそこそこ多かったので、核心を突いた話は自重せざるを得なかった。話は自然と恋愛トークに移行する。
「瑠衣はどうして慧人が好きになったの?」
「何でだったかなー」ひとしきり悩んだ末、瑠衣は答えた。「最初は、顔」
「顔?」
「こら、疑問符つけるな。確かにイケメンって言うには微妙だけど、上品な感じがする顔じゃない? 育ちの良さが雰囲気に出てて、そこがぐっと来たの。たぶん」
「確証はないんだ」
「だって最初に意識したのって小四だよ? きっかけなんて覚えてるわけない」
「ちょっと異常なくらい一途だな。小四から高二までずっと好きって」
「楓子のせいだよ。楓子がずっと、慧人と付かず離れずの位置にいるせいで、失恋のタイミングがわからなくなっちゃったんだから。相思相愛ならさっさとくっついて。そうじゃないならどっか行ってよって思ってた」
「ひどいな。あんた、本当に私の友達?」
「友達じゃなきゃ、こんなこと言わないって」
ふと感慨のようなものを覚えた。この旅に出る前の瑠衣なら、胸のうちをここまで赤裸々に語ってはくれなかっただろう。旅行は友情を試すものだと慧人は言った。果たして私たちはその試練を乗り越えたのだろうか。
「……やっぱり顔じゃなくて、性格だったのかも」
「性格?」
「ほら、また疑問符つける」瑠衣は口を尖らせる。「普通の男子って、自分をよりよく見せようとして背伸びするところがあるでしょ? 世の中を斜めから見たり、他のやつとは違うんだってむやみに主張したり。でも、慧人は昔からそういうところがなかった。いつも自然体っていうか」
「なるほど、瑠衣とは真逆なんだ」
「失礼な。あたしがいつも背伸びしてるみたいに」
「ううん、羨ましいんだよ。瑠衣は現状に満足せずに努力してるから。プレゼント交換の計画だって、慧人に近づくために頑張って考えたんだよね。自分を飾ることを諦めてる人間にはできない、大胆な行動だと思う」
「あー、やめやめ。もうその話やめて」
瑠衣は赤らんだ頬を隠すようにそっぽを向いた。私は含み笑いをして話を打ち切る。
もしかすると、慧人は本当に瑠衣が好きだったんじゃないか――
ふと、そんなことを考えた。慧人が常に自然体でいたのは、自分の命を含め、あらゆることに漠然とした諦念を抱いていたからだ。そんな虚無を抱えた慧人にとって、一途なエネルギーを秘めた瑠衣はきっと眩しかったはずだ。彼女がくれた電車のキーホルダーを大切に持っていたことも、瑠衣に対する特別な想いを裏付けている。
でも、私は。
慧人と同じ虚無を抱えていた私は、彼の同志であっても、憧れの対象ではなかった。
――いや、別になりたくないから。
胸を締めつけてくる由来不明の寂しさを振り払おうとして、強く首を振った。
14時57分、倶知安(くっちゃん)着。
電車を降りて、乗り換えのためにホームを歩きながら瑠衣が小声で言う。
「天戸家の本家って、開拓地の炭鉱経営で大きくなったって言ったよね。開拓地っていうのは北海道のことでしょ?」
「そう。だから本家も分家もお墓がこっちにある」
「つまり、本家の人もこっちに住んでる」
「そうらしいね。……何が言いたいの?」
そう訊き返すと、瑠衣は気圧されたようにうつむいたが、意を決したように言った。
「楓子、あたしにまだ何か隠してるよね」
「どうしてそう思うの?」
「最初に変だと思ったのは、一日に何度もスマホでニュース見てること。暇潰しで見てるって感じじゃなくて、かなり真剣だから不思議に思ってた。次は、あのナイフ。護身用に持ち歩くにしては大きいし、どっちかと言うと凶器に見える。極めつきは、慧人との約束だよ。相手が殺されたあとに犯人を見つける? 自分が殺されたってのに、本当にそれだけで満足なの? もしかして――」
私は口に指を立てた。周囲には停車中の電車に向かうまばらな人の流れがある。
瑠衣は何か言いたそうに口を動かしたが、そこで追及を打ち切った。
15時18分、倶知安発。
車両が混んでいたので、私たちは並んで座ったまま黙り込んでいた。窓の外には灰色の曇り空の下、ゆるやかにうねる畑や草原が流れていく。PCのデスクトップ画面のような、変化に乏しいスクリーンを眺めつつ、思い出していたのは慧人と初めて会った日のことだ。
思えば、あの日の約束が私の人生を決定的に変えてしまったのかもしれない。
小学四年生の夏休みだったと思う。
時刻は午後9時を回っていて、私は居間で一人図書館の本を読んでいた。すると車のエンジン音が近づいてきたので、ぱたんと本を閉じて廊下に出た。
玄関の引き戸が乱暴に開けられ、2メートルを超す巨体が居間から洩れる明かりに浮かび上がった。何か重いものが詰まったナイロンバッグを太い腕で引きずり、のっそりと浴室へ歩いていく。その途中、白目の多い眼がぬらりと光ってこちらを見据えた。
「出てろ」
びくりと肩が震える。血の繫がった父親だとわかっているのに、怖かった。
今夜、父親が家で仕事をすることは知っていたから、早めにお風呂に入って準備していた。最近窮屈になってきたシューズを履いて、嫌な切断音が聞こえてくる前に玄関から飛び出す。
川を渡って五、六分ほど歩くと、いつも時間潰しに使っている公園がある。この周辺は最近開発された土地で、新しいマンションや住宅が並んでいる。昼間は子供たちで賑わっているのだが、夜はまったく人気がなく、ぽつんと灯った明かりが寒々しい。
私はゲームも携帯電話も持っていないし、街灯は暗くて本も読めないから、公園では一人遊びを楽しむのが常だった。
今日は何をしようかな、と考えてずきりと胸が痛んだ。つい先週、この公園でゴムボールを失くしてしまったのだ。ゴミ捨て場で拾って以来、毬突きをしたり壁に投げたりして楽しく遊んできたボールだった。昼間に来て探しても見つからず、無二の親友のような存在を失ったことが哀しくて涙が止まらなかった。
再び込み上げてきた哀しみを抱えつつ、ブランコに座って身体を揺らした。
「寒風沢(さぶさわ)さん」
突然かけられた声に振り向くと、すぐ近くに少年が立っていた。私と同学年くらいだろう。パジャマ姿にスニーカーというちぐはぐな格好だった。
「……誰?」
「二組の天戸慧人。同じクラスだよ。やっぱりあれ寒風沢さんだったんだ。ちょっと待ってて、取ってくる」
訳のわからない言葉を口走ったかと思うと、くるりと踵を返して駆けていく。向かった先を目で追っていくと、彼は公園の前に門を構えた広い邸宅に消えていった。
やがて戻ってきた彼は、両手に私のゴムボールを抱えていた。
「寒風沢さんがボールで遊んでるの、たまに窓から見えてたんだ。で、このあいだ公園でこのボールを見つけたから、きっと君のだと思って」
ずっと見られていたことを知ると、急に恥ずかしくなってきた。目が合わないように下を向きながら「ありがとう」とボールを受け取る。
「リュータは子供の幽霊を見たって言ってたけど、たぶん君のことなんだね。どうしてこんな夜中に遊んでるの? 親と喧嘩でもした?」
私は黙って首を振る。
「じゃあ、親に追い出された?」
「……うん」
「それは問題だよ。ジドウギャクタイってやつだ。先生に言わないと」
「だ、駄目! やめて!」
恐ろしい言葉にぎょっとした。家庭の事情が明るみに出たら大変なことになる。が、慧人は私の態度にいたく好奇心を刺激されたのか、ぐいと顔を近づけてきた。
「どうして駄目なの?」
「お、お父さん、殺し屋だから、そんなことしたら危ないよ」
もし喋ったら殺して埋める、と父から固く口止めされていた秘密をつい漏らしてしまったのは、ボールが見つかった安堵で気持ちが緩んでいたからかもしれない。
「え、ほんとに? 凄いな」
「絶対、誰にも言わないで。ばれたら私、殺されちゃう」
「もちろん、教えてくれてありがとう。でも、不思議だな。僕も同じなんだ」
「同じ?」
「親に殺されそうなところが」
それから慧人は、小学生の彼を取り巻く非常に不穏な現状を語ってくれた。自分よりも恵まれているように見える彼が、自分よりも危険な立場にいることが不思議で、同情めいたものが胸のうちに芽生える。気がつくとこんな言葉が飛び出していた。
「もし天戸くんが殺されたら、私、犯人を殺してあげる」
16時26分、小樽着。同30分、小樽発。
小樽駅からは乗客の多い区間らしく、電車はぐっと長くなってスペースに余裕が生まれた。必然的に内緒話がしやすい環境が生まれる。
電車が動き出すのを待ちかねたように、さっそく瑠衣が口を開いた。
「楓子、あたしの考えてることを聞いてくれる?」
「いいよ」
「まず、あたしは楓子が何かから逃げるために旅に出たんだと考えてる。ネットニュースをこまめにチェックしてるから、その相手はたぶん警察。楓子は何か犯罪を行った後、福岡から遠くに逃げようとして北海道に来た。あと、この旅行は前々から計画されてたから、楓子の犯罪も計画的な日時に実行されたってことがわかる」
でも、と瑠衣は言葉を切る。
「だとしたら、あのナイフを持ってるのはおかしい。犯行に使ったなら適当なところで捨てればいいし、本当に護身用だとしても、誰かに見られたら怪しまれる。警察から逃げる最中にそんなもの持ち歩くわけがないよね」
「あのナイフは父親からのプレゼントだから、お守りがわりに持ってるんだって」
「でも、リスクを冒してまで家から持ち出すのはおかしいよ。この旅行が計画的なものならなおさら、持ち物は慎重に選んでるはず。つまり、楓子はこの旅行の中でナイフを使うつもりだった」
「なるほど。それで?」
「楓子、言ったよね。慧人を殺すために楓子のお父さんを雇ったかもしれない人は四人いるって。四人のうち二人は福岡にいて、もう二人はたぶん北海道にいる。そして楓子はナイフを持って北海道に移動してる。……あたしだって、こんなことを言うのは物凄く嫌だよ。でも、そうとしか考えられない」
慧人の仇を討ったんでしょ、と瑠衣は静かに言った。
「楓子は慧人を殺した犯人に復讐したいのに、容疑者のうち誰が犯人なのかわからなかった。だから、全員を殺すことにした。福岡で『慧人父』と『慧人弟』を殺した後、北海道に行って『本家当主』と『本家息子』を殺す。そうすれば四分の一の確率が、四分の四になって、確実に復讐が果たされる」
「私が慧人のために、四人も殺せると思うの?」
「う、うん。楓子はきっと、慧人とそういう約束をしたんだと思うから」
「――小さいころから、ずっと怖かったんだ。父親が」
「え?」
「あいつが私に何かするわけじゃない。怖い言葉で脅すことはあるけど、暴力や虐待を受けたことはなかった。なのに、あいつのまとう雰囲気がただ怖かった。この世界のどこかに、人が殺したり殺されたりしてる地獄があって、あいつはそこの使者で、私もいつか、その地獄に引きずり込まれて殺されるんだと思ってた」
地獄に怯えていた私を、慧人との約束が救った。
「慧人は、私より地獄に近いところにいたのに、あんな約束をしてくれた。私の仇を取るって言ってくれた。それだけで、あいつも地獄も怖くなくなった。その恩返しがしたかったのかもしれない」
かたたん、かたたん。電車はトンネルを抜けながら海沿いを走る。灰色にうねる海を背景に、白いカモメの群れが散っている。彼らの鳴き声はどこか人の叫び声に似ていた。
この賑やかな沈黙を、瑠衣が破った。
「でも、人殺しは悪いことだよ」
「親の顔が見てみたいって?」
「茶化さないで。あたしはこれ以上、楓子に人を殺してほしくない」
「このあいだ、私が飼ってた猫の話をしたけど、覚えてる?」
唐突な話の転換に、瑠衣はあっけに取られたように言葉を失った。
「私が小学校に入る前、家に迷い込んできたんだ。真っ黒だったからマクロって名付けて、長いあいだ家で飼ってたけど、だんだん身体が弱ってきて、中学のころにはずっと寝たきりだった。餌もろくに食べられなくて吐いちゃうし、いつも苦しそうで可哀想だった」
マクロを助けて、とおそるおそる父親に頼み込んだが、病院や薬に使う金はないと突っぱねられた。その代わり、父親は身の毛もよだつ提案をした。
――おまえの手で殺せ。
「怖かったけど、自分は殺し屋の娘なんだから大丈夫だと思った。一刻も早くマクロを楽にしてあげたくて、首を両手で握った。心臓の動きがはっきりわかった」
それで殺せなくなった、と私は言った。
「こんなに小さな生き物にも心臓があって、私と同じように鼓動を打ってることを知ったら、どうしても絞め殺せなくなった。それがマクロだからじゃなくて、生きてるからって理由で殺せなかった」
「……マクロは、結局どうなったの?」
「父親が殺した」
ペットボトルのキャップを捻るように軽々と猫の首を折って、父親は言った。
――それでいい、楓子。
「『慧人父』も本気で殺そうとしたんだけどね。夜、天戸家のガレージに隠れて、車から降りてきたらコンクリートブロックで殴るつもりだった。でも、腰が引けてたから頭に当てられなくて、反撃されそうになって必死に逃げた。それで今も逃げ続けてる。念のため、護身用のナイフを持ってね。猫を殺せないなら人も殺せないって、早く気づけばよかった」
「えええっ」瑠衣はぱくぱくと口を動かした。「殺してないの?」
「一度も殺したなんて言ってないよ」
意図せずして誤解させるような言動をとったことは事実だが。
「復讐に失敗したとき、自分には人を殺せないって気づいたし、もう計画を進めるつもりはなかったけど、北海道には予定通り行くことにした。襲撃のとき、顔を見られてたらまずいから」
「そっか。『慧人父』が通報したらニュースになるから、スマホをチェックしてたんだ」
「それもあるけどね。どちらかと言うと心配なのは父親のほう。もし『慧人父』が犯人だったら、私が前に依頼した殺し屋の娘だと知ってるはずだから、報復として父親を殺すかもしれないし」
「……それ、かなりまずくない?」
「ただで殺される人間じゃないから、たぶん平気。もし殺されたら、殺し屋のくせにプロ意識が低いって弔辞を読んでやる」
ドライだなあ、と瑠衣は笑った。
「そういえば、どうして電車だったの? 仇討ちがしたいだけなら、四日も移動に費やすより、さっさと飛行機で行ったほうがよかったんじゃない?」
至極もっともな瑠衣の疑問に、私はとっさに答えられない。
「……何でだっけ。せっかく遠出するから、ゆっくり道中を楽しみたかったのかな」
「その割には全然観光しなかったよね。福岡に戻るのは危険なんでしょ? だったらしばらく北海道で遊ぼうよ。美瑛とか行ってみたい」
「ビエー?」
「綺麗な畑と丘が広がってる、凄く綺麗なところらしいよ」
――旅行は友情を試すものなんだ。
北海道までの移動に鈍行を使ったのは、そして瑠衣を同行させたのは、慧人の語ったエピソードが念頭にあったからだ。長い鈍行旅は友情を壊してしまう。私はこの旅を通して瑠衣と決別し、復讐を果たした後でこの人生を終わらせるつもりだった。四人も殺した後でまともな人生は送れないだろうと思ったから。
計画が反故(ほご)となった今となっては、どうして慧人の仇討ちに自分の命まで差し出そうと思ったのか、よくわからない。もしかしたら瑠衣の主張する通り、慧人に対して度を超えた想いを抱いていたのかもしれないが、慧人のにやにや笑いが脳裏に浮かんできて気分が悪いので、早急に頭の中から追いやった。
ビエーなる土地を検索しようとスマートフォンを取り出す。検索サイトを開いたところで、トップページに表示されたニュースに気づいた。
某地方銀行頭取、天戸乙治郎(おとじろう)氏、福岡市で死亡――
『慧人父』が死んだ。
心臓が早鐘を打つ。コンクリートブロックのざらついた感触が手に蘇る。外したと思っていたが、実は彼の身体に当たっていたのだろうか。私は本当に人を殺してしまったのか。
だが、記事を読み進めるうちに、私の顔には苦笑いが浮かんでいた。
天戸氏は昨晩、会社の駐車場の階段で倒れているのが発見された。死因は頸椎の骨折で、階段で足を滑らせたことが原因と見られている、という。
脳裏に浮かぶのは、私の代わりに易々と猫の首を折ってみせた父親の姿。
「楓子、何でにやにやしてるの?」
「いや、私もまだまだ子供なんだな、って思って」
瑠衣は不思議そうな顔をしたが、まあいいや、とポケットから何かを取り出す。
「これ、返すね」
差し出されたのは銀に光る西鉄9000系のキーホルダーだった。
「いいの?」
「楓子が取り返したものなんだから、楓子から慧人に返してあげて。それで、お墓参りが済んだら札幌で美味しいもの食べて、旭山動物園でも行こうよ」
「ビエーは?」
「もちろん、美瑛もね」
瑠衣は何かを吹っ切ったような爽やかな表情をしていた。
やがて停車を告げる車内アナウンスが流れてきた。電車が減速を始める。かた、たん、かた、たん。長旅で身体に刻み込まれたリズムが徐々に間延びしていく。
博多駅を発ってからの四日間。一本の線路で繫がってきた旅が、ここで終わる。
私たちは顔を見合わせ、どちらからともなく言った。
「やっと着いた」
17時2分、札幌着。
こうして私の逃避行は終わり、ここから私たちの旅が始まる。