十和田シンの恋愛小説【短編】陸地のビーバー


十和田シンさんに恋愛をテーマにした小説を書いて頂きました。十和田さんが石田スイさんとご姉弟でシナリオを担当している少年歌劇ADV『ジャックジャンヌ』絶賛発売中です!! 今回書いて頂いた短編は社会人の恋愛……。告白無しで、付き合ったり付き合わなかったりするかんじ、共感値ものすごく高い作品です……是非お手にとってみてください……!!  


作者プロフィール

ノベライズ作家、シナリオライター。別名義である十和田眞の名前で『恋愛台風』を執筆、小説デビュー。『NARUTO』『東京喰種』シリーズの小説を担当、ADV『ジャックジャンヌ』シナリオを石田スイ氏と執筆。また、奥十の名前で漫画家として活動する。コミックス『マツ係長は女オタ』発売中。



陸地のビーバー



1

「あの、すみません。今、現場にいるんですけど」
 受話器を耳にあてた途端、氷水を浴びたときのような寒さと、地獄の釜で煮られているような熱さを河村律(かわむらりつ)は同時に感じた。
「イメージと違うんですよね、壁紙が。なんでかよくわからないんですけど」
 電話先の相手は丁寧な口調のなかに押し殺せない怒りを滲ませ、膨らませ、破裂寸前の風船だ。律は「すぐ参ります」と応え電話を切った。
 助けを求めるように周囲を窺うが、事務所は全員出払っている。いたとしてもこの仕事の担当者は律なので逃げ場はない。律は作りかけの建築模型をそのままにして事務所を出る。すぐに参りますといったものの、足どりが重かった。
 現場は、山肌を削り新しく誕生した見晴らしの良い新興住宅街。真昼の光を浴びる建設中の家には『カイリ建築設計事務所』という名も記載された建築確認表示板がある。
「リビングの壁の色! イメージと違うんです!」
 打ち合わせの時は「私も河村さんと一緒で今年二十八なんです」と明るく話していた女性の声が今では破裂音。隣に並ぶ男性は「あーあ」をそのまま顔に書いた顔で黙っている。結婚して間もないこの夫婦は、律が勤めるカイリ建築設計事務所に新居の設計依頼をした建築主――律たち建築関係の人間は「施主」と呼ぶことも多い――だ。
「色がうるさいっていうか、騒がしいっていうか、こんな部屋じゃ休まりませんよね、そう思いませんか、私は思います!」
 律は指さされたリビングの壁を見る。打ち合わせの時に様々なサンプルを見せ、詳しく説明し、施主であるこの夫婦自らに選んでもらった壁紙だ。業務日誌にも記録してある。当時も説明したのだが、壁紙は張りつけた面積や光の受け方によって色合いの印象が変わることが多い。今は真昼ということもあり、日光が反射して特別明るくなっているのだろう。日が傾けば、あるいはカーテンをつければ、施主のイメージに近い色になるはずだ。心配しなくても大丈夫だと伝えるため、律はもう一度説明し直そうとする。
「以前もお伝えしたのですが……」
 しかし導入がまずかった。彼女があからさまにムッとした表情を浮かべる。
「わかりました。ちゃんと理解してなかった私が悪いってことですね」
「えっ」
話が思わぬ方へ転がっていく。本来の問題を置いて。
「説明を受けたのに覚えてない私が悪いんですね」
「あっ、いえ、そんな」
 違います、誤解ですと言ったところで届かない。
「だいたい、やり取りを全部覚えているわけないじゃないですか、こっちは素人ですし。だからお金を出してお願いしているんです、『建築士』に!」
 律はすみませんと頭を下げる。アイツなら上手くやるんだろうなと憎らしく思いながら。

 古くからの貿易港であり商業地でもある博津(ひろつ)市。市役所の近く、ツツジ通りの交差点に律が勤めるカイリ建築設計事務所がある。外観は真っ白な正方形。小規模な事務所ながらも、ツツジ通りの『トーフハウス』として街の人に親しまれている。最近、屋上に緑を配置したので冷や奴ハウスと呼ぶ人も出てきたようだ。
「お疲れ様です……」
「律先輩、お疲れ様です……ってどうしたんですか」
 疲れ切った律を見て、一年後輩の山崎(やまざき)ミカが目を丸くする。
「新興住宅地の施主様から壁紙のことで呼び出しが。説明の仕方失敗しちゃって、奥様、とりつく島もなく……」
 律は自分の机に突っ伏して大きくため息。
「律先輩、正しく説明することで頭がいっぱいになって、相手の心情逆なでしちゃうことありますもんね」
 グサッと刺さる一言だが、ミカは突っ伏す律のすぐ側に淹れたてのコーヒーをおいてくれる。香りにつられて顔を上げ「ありがとう」と口をつけた。
「ご主人は納得してくださったけど……」
「ご主人が納得してもって感じですよねぇ。二人揃って怒ってるよりかはいいですけど、根本の解決になってないというか」
「そうなのよ……」
 どこかで改めて話しておかないと、あとをひくような気がする。
「しんどい仕事ですよねぇ、建築士って。歴史に残る建物が作りたい! ……なんて気持ちで目指したのに、実際はお施主さんとの終わらない依頼要望ラリーや打ち合わせで言った言ってない合戦」
フォローしてくれるのはありがたいのだが、律は「んー……」と否定的な唸り声を上げる。
「私はそういう野望ないから。住む人にとって木漏れ日みたいに穏やかな建物づくりが出来れば、それでいい」
「律先輩、いっつもソレですよねぇ」
 聞き飽きましたよと言いたげな顔をしてミカがコーヒーを飲む。
「でも、いいですよね、施主さん。あの若さで新婚新築マイホーム。思い入れが強くなるのもわかりますよ」
「新婚だからとか関係なくない? 新しく家建てるならみんな思い入れ強くなるよ」
「いーえ、新婚は違う! 律先輩だって、愛しの彼氏と結婚して家建てるなら思い入れ強くなるでしょ?」
「………」
 律はスッとミカを見て、問う。
「嫌がるのわかって言ってるでしょ?」

 仕事を終えた律は職場近くで買い物を済ませてからバスで自宅マンションに戻る。築年数は古いが利便性が良く部屋も広い、栗色のマンションだ。動作が遅いエレベーターに乗って、荷物を持ち直しながら部屋の前。
「……ん?」
 扉を開こうとしたが鍵がいつもの方向に回らない。反対側に回すとガチャンと鍵が閉まる。
「あいつ……」
 舌打ちしたい気分になりながら鍵を本来の方向に回しなおす。ドアが開いた。
 中を見ると、落ち着いた色合いの照明が統一感のある部屋のインテリアを穏やかに照らしている。“木漏れ日みたいに穏やかな建物づくり”を目指す律の国だ。
 しかし、今の律の心にあるのは穏やかさではなく苛立たしさだった。
 玄関から短いフローリングの廊下を進めばリビングキッチン。真ん中に置かれたテーブルの上には色鉛筆と手書きの建築スケッチ。個性的でユニークなデザインは律が描いたものではない。姿の見えない敵を追って、律は自分の作業部屋兼寝室に入る。
「またこいつ……」
 ベッドに仕事帰りとおぼしきストライプのワイシャツとズボン姿で寝転がる男がいた。細身な体に、身長のわりには幼く見える顔。平(たいら)の黒髪が散らばる枕には何故か律が作った建築模型が並んでいる。
「不在時に来ないでって言ってるでしょ、平!」
 建築模型を取り上げて律が注意すると、男――八条(はちじょう)平が、今まで寝ていたのが嘘のように、スッと起き上がった。閉じていた目も開いて、律の姿を瞳に収めるとたおやかに微笑む。
「出張から帰ったから顔見せにきたんだよ。やっぱ律の“地味建(じみけん)”はいいねぇ」
 平の言葉に律はカッと頭に血がのぼった。
「“地味健”“地味健”うるさいなぁ!」
「僕、一回しか言ってないじゃん」
「これまで言われた回数も合算されてんのよ!」
「でもさ、ほら」
 平が律の手から建築模型を取り上げる。
 ちょっと! と制止しても聞かず律の隣をスーッと通り抜けてリビングへ。
「部屋を大人しく照らす照明、主張の少ないインテリア、シンプルで教本通りのレイアウト」
 平が一つ一つ指さして、最後に建築模型を持ち上げる。
「なんだかどっかで見たことあるな~と思える懐かしい建築模型、総じてまとめてめっちゃ地味。地味な建築、律の“地味健”」
「うるっさい!!」
 律は平の手から建築模型を取り上げた。
「もう、帰れ! 帰れ帰れ!!」
 律は平の背中を押す。平は力を上手く受け流してくるりと体を反転させたあと、再び律から建築模型を奪った。そしてテーブルの上に置く。側には建築スケッチ。このスケッチは平が描いたもの。律の建築模型とは全く違う個性的なデザインだ。
「スケッチなんて描いて、コンペにでも出すつもり?」
 平は「やだな~」と手をひらひら動かす。
「僕はしがない営業部員ですよ?」
 平がひょいとスケッチを取り上げる。
「建築士への道は大学に置いてきました。はい、さよーなら」
 彼はなんの執着もなく、スケッチをゴミ箱に落とした。思わず「あっ」と出そうになった声。建築スケッチは一瞬で紙くずになった。
「……あのさ」
 上げた顔は強張っている。
「人の家に文句つけて、好き勝手して、いい加減にしなさいよ。前々からずーっと言ってるけど、とっとと別れてくれる?」
 律の声は鋭く、覚悟もあった。
「ないなぁ」
 対する平はお茶を一服でもしていそうな態度で返した。真面目に取り合おうとしない。
「あのね!」と追撃しようとする律を、「だって楽じゃん?」と平が止める。
「彼女いるってなにかと便利なんだよね。『すいません、今日はちょっと彼女が来てて……』なーんて言い訳も使えるし」
「私はあんたを言い訳に使ったりしない!」
 語気強く断言した。平がえらい、さすが、かっこいいと拍手する。完全に馬鹿にされている。
「別の子とつき合ってその子を言い訳に使いなさいよ」
「別の新しい誰かとつき合うってのがまず楽じゃないじゃん、わかってよ。それより律、今日疲れてるんじゃない? 早く休んだら?」
「あんたのせいよ!」
 仕事で上手くいかず、家でも振り回されて疲れない方がおかしい。
「それに律、今日は金曜日の夜だよ?」
 これだけ怒りをぶつけても平は意に介さず、急に手を伸ばしてくる。律の首元を通り過ぎて、壁にトン、と置かれた薄い手のひら。背中に壁、正面の至近距離に平。同年代の女性に比べると背が高い律だが、平は可愛く言うとリンゴ一個分ほど高い。
「なんで僕が来たか、わかるでしょ?」
 平が顔を寄せ、律の目をのぞきこんでくる。今までとは違う真剣味を帯びていた。すぐ崩れたが。
「どうですか、壁ドンサービス」
 不愉快でしかない。
「いやなに、壁ドンって」
 意味不明なことをする男だ。
「知らない? 壁ドン」
「知らない」
「古典芸能だよ」
「え、そうなの」
 とりあえずどけ、と平の肩を押した。まぁまぁと平に肩を揉まれた。
「とにかく、金曜の夜ですよ。と、いうことは?」
 平が念を押すように言う。
「明日はそろってお休みの土曜日」

 博津市、北のウォーターフロント。遠く浮かぶ島を見渡せる高台にひっそり佇むカフェがある。大きな窓から差し込む光が店内の観葉植物を明るく照らし、温かな空気はコーヒーの香りにまで入り交じっていた。
 そこに、律は平と二人。
「はぁ~やっぱいいね、毎週土曜日、律セレクトの穏やかハウス」
 晴れ晴れしい顔で店内を眺める平とは違い、律は心身共に曇天である。
 律は休日である土曜日に気になっている建築物へと足を運び、『一人』時間を過ごすのが好きだった。しかし、何かにつけて平がついて来たがるのである。邪魔をされるのが嫌で「一緒に行く」と連絡が来てもスルーしていたのだが、いつしか平は前日から律の家に押しかけ、泊まり込んででもついてくるようになった。住所だけ送るから一人で行けと言っても本命建築を隠すためのダミーだと疑い、律が直々に足を向ける場所しか信じない。
「ところで律、昨日、何かあったの?」
 律が頼んだトースト付きのモーニングセットよりもずっとヘルシーなサラダセットをつつきながら平が尋ねてくる。
「律、イライラしてた」
「あんたのせいでしょ」
 間髪いれず応えたが「僕へのイライラとは別起源のイライラがあった」と言う。
「それは……」
 新築の壁紙の件を思い出して出来た沈黙を平は見逃さない。
「ほら」
「べつに……」
 律は視線をテーブルから横にスライドさせて、太陽の光を目一杯受けた観葉植物が床に作った陰影を見つめる。
「こういう建物が作りたくて建築士目指したけど、全然たどり着けないなって思っただけ」
 施主の要望を聞き、答え、それでも未熟でクレームを作り、見積もりの作り直しと、先輩や所長に頼まれた建築模型の制作をしているうちに一日が、一週間が、一か月が、一年が過ぎ去っていく。建築模型を作るのは好きだけど。
「……なんか律の話聞いてるとさ」
 平が静かにフォークを置く。
「建築士にならなくてよかった~って思うわ」
「あんたに話した私がバカだった!」
 一刻も早く平の前から去るため、律は食事を食べるペースを早くする。
「早食いは太るよ」
「うるさい!」

 平と別れ自宅に戻ると、まだ午前中だというのに今日の体力を全て使い果たした徒労感に襲われた。しかしこのまま休みが終わるのは悔しい。好きな建築写真でも眺めて心を落ち着かせようと作業部屋に向かう。
「あ」
 ゴミ箱に捨てられた紙くず。平が書いた建築スケッチ。
「……」
 それを拾い上げ、じっと見る。彼にとってはゴミでも、宝の地図に見える人は多くいるだろうに。
 律はぼんやりと思い出す。
『平、内定もらったらしいぞ』
 大学四年生になってさほど間もない頃、建築学科の研究室内にざわめきが起きる。
 将来を有望視され、教授の寵愛を受けていた平。いい意味で『違和感』のあるユニークなデザインを得意とし、学生ながら様々なコンペで賞をとっていた。
 当然のように大学院へと進み、修士を取り、著名な建築家の事務所に入って、ゆくゆくは自分の事務所を構え名を上げていくことが約束された人間。そんな彼が大学院を蹴って決めた内定先は、建築にまつわる多くのことを一手に請け負うゼネコン『万事(ばんじ)建設』。建築士としての内定ではない。営業や開発、現場事務といった仕事を望んで内定を得たというのだ。つまり、設計には関わらないということである。建築士にならないということである。みんな「なんで」「どうして」と口々に言い、教授の落胆ぶりはすごかった。
『河村さーん』
 ぽつんと夜に一人、研究室。自作の製図確認をしていると、平が現れた。
『内定祝いちょうだい』
『……全員にそれ言ってるの?』
『どう思う?』
 返事をする気にならず、律は自分が書いていた製図をそっと隠して、別の作業を始める。
 先輩と親しかった平と、同期と少し会話がある程度の律。二人が関わり合うことは極端に少なかった。律が避けていたのもある。平は大学に入って間もない頃、律の建築デッサンをのぞき見て、言ったのだ。『地味!』と。ショックだった。
 そんな彼が何を思ったのか律の隣の椅子を引いて、座る。
『河村さんは建築士になるんでしょ?』
 内定をもらって、気分が高揚し、誰彼かまわず話しかけているのだろうか。
『あんたはどうして行かないの』
 平の質問には答えず、律は質問をかぶせる。平は軽く首をひねって、言った。
『なんとなく?』

「……『なんとなく?』じゃないわっ!!」
 過去の平を怒鳴りつけるように叫んだ律は、スケッチを真っ二つに破いてやろうとする。しかし、一センチほど切り込みが入ったところで手が固まって、そのままゴミ箱に投げ捨てた。

「律さん、ちょっといいかしら」
 事務所で建築模型を制作していた律はさっと青ざめた。事務所が持つ案件は様々あるというのに、先週末、壁紙の件で揉めた新婚夫婦のような気がしたからだ。
「山の新興住宅地の件でしょうか、カイリ先生?」
 困ったように眉尻を下げる小柄でふっくらとした五十代前半の男性は、カイリ建築設計事務所の所長で、律の大学時代の講師でもあった海野海里(うみのかいり)。在学中、カイリのまろやかな口調を面白がっていじる生徒が多かったが、律は丁寧で聞き心地がいいその話し方が好きだった。人柄もだ。
「奥様が部屋のコンセントが少なすぎるから増やして欲しいとおっしゃっているの。コンセントの個数や場所についてはきちんと確認をとっていたわよね?」
 律は打ち合わせ記録を引っ張り出し、勢いよくページをめくる。
「はい、とっています、確かに」
 文字を指で追い、コンセントに関する記載を見つけた。合わせて記憶も呼び起こす。こちらに非はないはずだ。
「律さん、このとき、ご主人と奥様、どちらとも合意していた?」
「えっ……」
 対面に座る夫婦。体を前のめりにして「よろしくおねがいします」と言ったのは夫のほうだった。あの時、妻はどんな顔をしていただろう。全く思い浮かばない。それは律が合意した夫のことしか見ていなかったことを指す。
「律先輩、壁紙の件って旦那さんは納得してるのに奥様は納得してない感じでしたよね。あれは打ち合わせの時、どうだったんです?」
 ミカの言葉に律はハッとする。壁紙を決定したのも夫で妻の声は聞いていない。
「打ち合わせの時点で、ご夫婦間の意思の疎通が出来ていなかったのかもしれないわね」
 夫婦間の問題が飛び火しているようにも見えるが、妻側にもっと丁寧にアプローチしていれば解決出来た問題だ。自分の希望を叶えていく夫の横で、妻は不満を募らせていたのだろう。
「コンセントについては別途料金がかかることをお伝えしたら、いったん持ち帰るとおっしゃっていたわ。また別の話が出てくるかもしれないから、しっかり聞いて根気強く対応しましょう」
「はい……」
 それぞれ自分の席に座り直す。
「先輩、落ち込んでも仕方ないですって」
 よっぽどひどい顔をしていたのか、ミカが励ましてくれた。
「先週末の対応が呼び水になった可能性はありますけど」
「だ、だよねぇ……!」
「でも働くしかないですし」
「だよね……」
 今日はまだ週明けの月曜日。これ以上メンタルが落ちないように必死で堪える。
「こんにちは~、万事建設の八条で~す」
 しかし崖っぷちで踏ん張ろうとしている律の背中を景気良く突き落とすような声が事務所に響いた。
「あら、平さん、いらっしゃい」
 髪をワックスで整え、ブランドもののネクタイを締めて、営業スマイルを浮かべる平だ。
「カイリ先生、お久しぶりです。これ、お土産。出張先で見つけて、先生、好きそうだなぁって。豆腐クッキー」
 カイリは律の大学時代の講師。平にとってもそうである。
「あら嬉しい。でも、平さんがわざわざ手土産を持ってくるなんて怪しいわね」
土産を受け取りながら、カイリが探るように聞く。
「さすが先生。実はお願いしたいことがあって。うちが携わっている都市開発なんですけど」
「急な話じゃないでしょうね」
「もちろん急ですよ」
 カイリは一般住宅、ビル、社寺などを幅広く手がけて、大学の非常勤講師もしているため、スケジュールは詰まっていた。急な仕事なんて受けられるはずがない。いや、受けないで欲しい。
「この事務所みたいなキューブ状のボックスハウスをずらっと並べて商店街にしたら可愛いと思いません?」
「思うわ!」
 カイリのつぶらな瞳が爛々と輝く。早々に平の勝利が確定し、律の敗北が決まった。
「平さんの手腕、おっそろし」
 平が用意した資料を見ながら楽しそうに意見を交換し合う二人を見て、ミカが呟く。
「厚かましいだけよ」
 言ってから、これほどまでに見事な負け犬の遠吠えがあるだろうかと律自身思った。
「なんでそんな人とつき合ってるんですか」
「家に入り浸られたのよ……」
 律は大学院に進み、平は就職して、もう会うこともないだろうと思っていたある日のこと。律の自宅に研究室のメンバーが集まり飲んでいると、先輩の携帯に平から遊びましょうよと電話が入った。先輩が律の家で飲んでいることを伝えると平は参加したがり「呼んでもいい?」という先輩の言葉を断ることも出来ず。真新しいスーツ姿で酒を片手にやってきた彼は律の家に入るなり「河村さんち、地味極めてんじゃん!」とはしゃいだ。帰れと叫びたかった。それから数時間、ようやくみんなが帰りホッとしたあと、何を思ったのか平が戻ってきた。忘れ物だろうかと仕方なく家にあげると、平が無遠慮に家探訪を始める。どうやらそれ以外の目的はないらしい。熟成し続けていた「さっさと帰れ」を投げつけると、平はその場に座って、あまつさえごろりと寝転んだ。「じゃ、おやすみ」「嘘でしょ」。
その日からだ。平が律の家に頻繁に訪れるようになったのは。断り、追い払い、拒絶しても平はめげない。「河村さんち、なんか落ち着く」と言って、律の家に入るためにあの手この手と使ってくる。平のようなタイプの人間と深く関わったことがなかった律は翻弄される一方だ。家でくつろぐ平を見て「つき合っているわけでもないのになんで居座られなきゃいけないのよ」とぼやいた。それがよくなかった。平は「じゃあつき合おう」と言い出したのだ。初めは最低なおふざけだと取り合わなかったのだが、アプローチは半年にも及び「お疲れ、河村さん。つき合おう」と挨拶のように言われ続ける。ノイローゼになりそうだった。結局、根負けした律が、一度つき合えばすぐに飽きるだろうと関係を持ってから、もう五年ほどたつ。「平のことが好きなのか」と聞かれれば「どちらかというと嫌い」と答えるだろう。平は律の気持ちなんて全く気にしない。
「え~、そんな人とどんな風に時間過ごすんですか」
「どうもこうもないわよ。会話だって噛み合わないし。意味不明なことばっかされるし」
「イチャつかないんですか?」
「つかない! この前だって壁ドンとかいう訳のわからない伝統芸能されて」
 ミカがすっと真顔になった。
「のろけないでくれます?」
「えっ、ご、ごめん?」
 怒るように言われて、律は原因がわからないまま反射的に謝った。
「じゃあ、平さん。また改めてお話しましょう」
「はい、よろしくお願いします」
 一方、平たちの話は上々で終わったらしい。学生の頃から年上殺しと呼ばれていた屈託のない笑顔を平が浮かべている。律には全く響かないどころか不快だったが。仕事でミスばかりしている今は特に。
「所員の皆様もどうぞ召し上がれ」
 平が土産を律に差し出してきた。自然と睨んでしまうが、平はご機嫌な表情を崩さないまま、律が製作していた建築模型を見る。
「これ、律のデザインじゃないね、シャレてる」
 人の腹をたたせないと気がすまないのか、この男は。
「で、向こうに飾ってある建築模型が施主の依頼を受けて自分を殺して作成したものの隠すことが出来ない律の地味デザ」
 憎らしいのはカイリのものを始め他の所員たちの制作物もあるというのに、律のデザインを見破ってしまうこと。
「あのねぇ!」
 机を叩くように立ち上がると平が楽しそうに笑う。反応しても喜ばせるだけなのだ、この男は。湧き上がる怒りを押さえるようにぐっと息を飲んでから「郵便物の確認に行ってきます」と退席した。外の空気を吸って気分転換でもしよう。そう、思ったのだが。
「え、わっ!」
 事務所の扉を開いた瞬間、真正面にアスパラガスによく似たひょろ長い男が立っていた。
「あっ、すみません!」
 アスパラガス――もとい、ライトグリーンのベーシックシャツを着た男があとずさって腰を低くし、謝ってくる。肌は白く、顎がつるりとした清潔感のある男だ。奥から平が「何かあったの?」と聞いてきたので、何でもかんでも首を突っ込もうとするなと追い払う。
「すみません、何かご用件が?」
「あ、えっと、その……」
 男は指を組み合わせ、視線を泳がせる。
「カフェの建設のことでご相談出来ないか、と!」
 清水の舞台から飛び降りる顔だった。

 律はカイリに断りを入れてから男を招き、事務所が手がけた建築資料をテーブルに並べる。連絡も予約もしていないのにすみませんと恐縮する男の態度には好感が持てた。
 男の名前は青山といい、大学時代、ファミレスの厨房でバイトをしたのをきっかけに調理師免許を取り、様々な調理場を経験したのち、ホテルのシェフとして働くようになったそうだ。今年でホテル勤務暦十年の三十六歳だという。
「良い職場なんですけど、年数が経つにつれて他スタッフへの指示や管理が増えてきまして。これがどうにも苦手だったんです。一人で気ままに料理が出来ないものかと考えていたところに、お茶の販売店をやってた実家が百年に一度あるかないかという豪雨被害にあいまして。去年の夏です」
「それは……大変でしたね」
「ええ。うちの実家というか、もう、町全体です。川が中心の町だったものですから。天水(てんすい)町の天水川っていうんですけど……」
 天水町は博津市から車で四十分ほどの距離にある四方を山で囲まれた県境沿いの町だ。名にもあるように水資源に恵まれた町で、中心である天水川を始め各所に湧水地があり、町の水道は全て地下水でまかなっているという水郷。町の名前そのままの『天水』という天然水も販売している。しかし、彼が言う昨年夏の豪雨により、町に恩恵を授けていた水が一転、牙を剥いた。死者こそ出なかったものの、天水川から溢れた水で川沿いの家屋が浸水し、なかには押し流された家もあったという。
「ご家族にお怪我はありませんでしたか?」
 こういう時になんと声をかけたら良いのか迷うが、心配なのは被害に遭ったご家族だ。青山が「はい」と笑顔で答えてくれたのでホッとする。近隣地域に住んでいた青山の姉夫婦が川沿いに住む両親を心配して早めに避難させていたらしい。
「でも、家は浸水被害からは逃げられなくて。二階建ての一階部分、お茶屋をやっていた場所がですね、水に浸かってしまいました。水が引いてからみんなで汚泥を掻き出したり、水で痛んだ家財を処分したり、出来うる限りのことはやったんですけど、元々木造の古い家だったのもあってか、あちこち腐り出して。あとは異臭にカビにシロアリに……」
 水害による住宅被害が、次から次に起きてしまったらしい。
「心身ともに疲れ果てた両親は、店をたたんで姉夫婦と同居することになりました。元々高齢でしたし、商売道具も全部水にやられてしましたからね。同じように天水町を離れる人は少なくないそうです。仕方ないことだし、新しい場所で元気に暮らして欲しいとも思うのですが、寂しい、という気持ちが捨てきれなくて。自分が生まれ育った場所ですから」
 青山が顔を持ち上げ遠くを見つめる。
「だから実家を新しく建て替えてカフェを開こうと思ったんです」
 見つめる先にあるのは過去の思い出か、未来への展望か。
「町の人が集まってホッと息をつけるような憩いの場。それでいて、町の外から来た人が気軽に足を踏み入れられそうな、ひらけた場所。そう……」
 青山が穏やかに微笑む。目尻に笑いジワが出来た。
「そっと木漏れ日が差すような、穏やかなカフェ」
「……!」
 律の体が、心を映すように跳ねた。
 青山の視線が、事務所の棚の上、建築模型にうつる。
「あの模型みたいな」
 彼が見つめる先にあるのは律の建築模型だった。

 自宅の作業部屋に置かれた資料は机の上だけではなくベッドの上まで占領している。
「うわ、すごっ」
 金曜日の二十二時。主張の激しい柄物のシャツに黒のスキニーパンツ姿で現れた平が、作業部屋を見渡し露骨に引いていた。資料の上には幾多もの建築スケッチ。律は隠すように慌ててそれをまとめる。
「律の趣味全開な“地味健”スケッチだ」
 しかし、集め損ねたスケッチを平が取る。
「返して!」
 平は「はいはーい」と言いながらスケッチを返さずベッドにダイブした。「平!」と叫び、椅子から身を乗り出してスケッチを取り返す。
「この前来てたアスパラガスみたいな男の依頼?」
 初見で全く同じことを思ったが、思うのと口に出すのは違う。律はやめろと制する。
「任せたい、って言われたの」
 青山の目についた建築模型が律のものだと伝え、律が手がけた建設やそれこそ空いた時間に描いた建築スケッチを見せると、青山は宝の地図でも見るように目を輝かせ「河村さんにカフェを設計してもらいたい」と言ったのだ。
「夢ばっか見て現実見えてない感じした」
「どこがよ。施主の悪口はやめてくれる」
「悪口じゃないよ印象」
 平は寝転がったまま資料をたぐり寄せパラパラとめくり、ポイ、と別の場所に投げ置く。乱雑に見えて律なりに整頓された資料が散らばっていく。
「勝手な事しないで! あと私忙しいから! 明日も仕事するから、土曜どこも行かないから! あんたはもう帰りなさい!」
 平を無理矢理起こし突き飛ばすように作業部屋から追い出して、ドアを閉める。向こう側から「はいはい」という声がして、足音が遠ざかっていった。代わりに冷蔵庫が開く音が聞こえ、キッチンが賑やかになる。人の家の食材を使って勝手に料理を始めたらしい。
「律ー、ごはん出来たー!」
 三十分後、ドアをどんどん叩かれ、いい加減にしろと叫ぶように飛び出した律だったが、結局一緒に食事をとった。翌朝も「お腹減った」と騒ぐ平を黙らせるため、複合商業施設にある窓の大きなカフェで朝食を食べた。またしても平のペースに飲まれているが、ここは律が今一番気になっているカフェ。窓の外にはうねるように走る人工の川が見える。「これだ」と確信した律は、後日改めてここにきた。平と一緒に――ではない。
「わ、すごい。ついつい長居しちゃいそうな居心地のいいカフェですね!」
 青山が子どものようにはしゃいでいる。好みに合ったようだ。青山から自分のカフェもああしたい、こうしたいと様々な要望が出てくる。律はそれをカフェ設計に落とし込んでいく。
「あ……」
 ところが、窓の外の景色を見て、青山の表情が急に曇った。
「どうされましたか?」
 理由は天水川のすぐそば、青山のカフェ建築予定地にあった。

 賑やかな博津の街を通り過ぎ、田園地帯を抜け、果樹園が並ぶ緩やかな坂道を上っていくと、緑深い山に囲まれた天水町が姿を見せる。のどかな風景のなか、道路は土木資材を運ぶトラックが多く、律の車の後ろにピッタリついてくる後続車もそれだ。威圧感が煩わしく道を譲ると、荷台に大量のコンクリートブロックが詰まれているのを見た。
 ふいに両脇を覆っていた木々がひらけて、目の前に川が広がる。大小様々な石が顔を覗かせる翡翠色の川、これが天水川。道路から川までの高低差は三メートルほど。川のところどころに朽ちた木が転がっている。
 青山の敷地に近づいたところで、律はあるものに気づいた。律は指定されていた場所に車を止めると、対岸にある小山を見る。
 小山の中腹から川に向かって、えぐられたように赤茶色の土がむき出しになっていた。
「河村さん、お疲れ様です」
 青山が姿を見せ、穏やかな笑顔を浮かべ歩みよってくる。しかし律の視線に気づいたのか山を見やって「そうなんです」と表情を固くし眉尻を下げた。
「ここがうちの敷地なんですけど……」
 案内されたのは、両隣を二階建ての住宅にはさまれた十四坪ほどの細長くてまっさらな土地。取り壊しは終わっており、対岸の土砂崩れがはっきり見える。水害の爪痕だ。
「ロケーションが最低で……はは」
 苦笑する青山に返す言葉もない。生活に支障がない程度に修繕はされたらしいが、元の風景に戻るまで、あと何度、この傷跡を見なければならないのだろう。
「店からあれが見えたら嫌でも水害のこと思い出してしまうと思うんです。だから、塀で隠して欲しくて」
 改めて青山の土地を見るが、両隣の家が高い壁となって日当たりが悪い。道路に面した出入り口側と、川沿い側くらいしか、日光を期待出来そうにないのだが、そのうちの一つが塀で潰れることになる。
「なんだかすみません……。目の前を塀にするなら、川側の窓も潰した方がいいですかね」
 青山が申し訳なさそうに背中を曲げる。しなびたアスパラガスだ。律はいや、と自分を奮い立たせた。どんな状況であれ最善を尽くすのが依頼を受けた建築士じゃないか。
「塀は暖かみのある板塀にして、小さな庭を造るのはどうでしょう? そうすれば窓からホッと落ち着ける景色が見られますよ」
 パンと手を叩いて提案した律の声が一回り大きい。
「そんな方法が……! ステキですね!」
 青山の背が真っ直ぐ伸びた。
「庭にいくらかスペースが取られてしまいますが、店内が手狭に感じないラインを探ってみます」
「よろしくお願いします!」
 打開案に青山の声は弾んでいる。施主の期待に少しは応えられているのだろうか。
 自分だって前に進んでいるんだと、今ここにいないあの男が捨てた建築スケッチを思い出す。
 律はよし、と気合いを入れ直したあと、対岸の土砂崩れを眺め、すっぽり隠すことが出来るだろう塀の高さを計算しようとした。
「……あ」
 視線が下がり敷地のすぐ側を流れる川が映った。翡翠色の天水川は人々に牙を剥いたのが嘘のように美しい。見上げた空も青々としていて、全て塀で覆ってしまうことを残念に思う気持ちは捨てきれなかった。
 ただ、青山の仕事自体はスムーズで、打ち合わせを重ねながら青山の理想とするカフェ作りが進んでいく。

「そろそろ施工者を選定しましょうか」
 あらかたの準備が整ったところで律は青山に提案した。律の建築設計事務所は施主の要望を聞きながら建物――ここで言うと、青山のカフェの設計を行い、カフェが設計通り建てられるよう、監理するのが仕事。
 カフェを建築するための資材を揃え形作っていくのはそれを生業(なりわい)とする工務店などに任せることになる。
 平が勤めている万事建設であれば全てを社内でまかなうことが出来るが、以前、カイリに設計を依頼してきたように、様々な垣根を越えて協力し合うことも少なくはないのが建築業界だ。
 カイリ建築設計事務所も、腕を見込んで協業している工務店が複数社あり、律は青山のカフェ建築に向いていそうな工務店を数件ピックアップしていた。
「あっ、それなら大丈夫です」
 青山が自信ありげに微笑む。
「どこか心当たりが?」
「はい。高校時代の先輩なんですけど、工務店の社長さんがいて、同郷先輩後輩のよしみで安く建ててやるぞと」
 青山が事務所に訪れるずっと前の段階から決まっていたことらしい。
「そうだったんですね。わかりました。ちなみにお名前は?」

「『後藤(ごとう)工務店』の後藤いいます」
 屈強な体に野太い声。律が現場調査ついでに出向き顔を合わせた天水町の工務店社長、後藤は黒革のソファーにのけぞるように座っていた。
「カイリ建築設計事務所の河村律です」
「えらくお綺麗やないですか。青山のヤツ、顔で設計頼んだんやないですか」
 ガハハと山賊のような笑う後藤に上手く合わせることが出来ず、「は、はぁ……」と返す。
「機嫌損ねてしまいましたか? 褒めたつもりやったんですけどね」
「あっ、いえ、すみません、そうですね、ありがとうございます……」
 律は慌てて気持ちを立て直す。これからカフェの完成までつき合っていく相手だ。
「設計図、見せてもらいましたわ」
 後藤が資料を灰皿の置かれた天然木のローテーブルに置く。
「これ、塀つけるのもったいなくありませんかねぇ」
「えっ」
「ほら、ここ。川沿いに木の塀。ここにこんな高い塀建てたら日光が入らないやないですか。目の前の川も山も見えない。景色は天水の見所ですよ」
 律は「その山のことで」と返す。
「対岸の山の土砂崩れが見えないように設置しています」
「ええ? 別にそこは気にする必要ないんやないですか。カフェが出来るころには元通りになっているでしょ」
 律は驚いた。青山の言葉をそのまま受け取り土砂崩れの今後の経過について調べていなかったのだ。天水町の工務店社長である後藤はしっかり情報を仕入れているのだろう。失敗したと思いながら「それならもうすぐ工事が始まるんですね」と尋ねる。
「いや、知りませんけど」
 後藤は投げやりに答えた。「ええっ?」と棘のある言葉が出てしまい、不快に思った後藤がじろり、と睨んでくる。
「……うちも設計やっとりましてね」
 後藤はテーブルに並べた資料を雑に集める。
「設計もうちでやれば、もっと安く済んだんでしょうけど。いやぁ、儲かってらっしゃいますなぁ、そちらさんは」

「なんなのよあいつ!」
 事務所に戻った律は、怒りにまかせたまま天水町の復旧工事について調べた。町の広範囲が水害の被害を受けた影響で、有り体にいえば復旧が間に合っていない状況のらしい。小山の崖崩れも含めて、数年やそこらで解決する問題ではないようだ。後藤は適当なことを言っていたのである。そんな不誠実な態度をとる人間と上手く仕事がやっていけるのだろうか
 憤りを抱えながら自宅に帰る。平がいた。
「帰れッ」
「腹から声が出てる、すごい。なに、どうしたの、またクレーム?」
 律のトラブルを娯楽とでも思っているのか、うきうき顔で聞いてくる。家から追い出そうとしたのだが、あっと気づいた。
「平、『後藤工務店』って知ってる?」
 平が勤める万事建設のコネクションは随一だ。しかも平はあちこち飛び回る営業部員。
「『後藤工務店』? 同じ名前の工務店何件かあるよ。後藤さんって多いからね」
 大量の情報があるからこそ、答えに行きつかなかった。だが、律が補足情報を伝える前に「天水町の?」と聞かれる。
「そう! そうだと思う! 社長が厳(いか)つくて野太い後藤工務店!」
「毛深そう。社長のビジュアルは知らないや。僕が新人だった頃に少しやり取りがあった程度だから。もう六年前か」
 この男はもう六年も働いているのか。論点とは違うところで驚きが芽生える。院卒の律は社会人としては平の後輩なのだ。
「その工務店が腹の底から声を出す理由なんだ?」
「ま、まぁ……。ねぇ、そこの仕事ぶりや評判、聞いたことある? 社長の話とか」
「社長さんも建築士で、自分で設計が出来るって聞いたよ。腕の良い職人もいて、少数精鋭の工務店ってカンジ」
 がっかりしてしまった。あれだけ嫌な人間なら、仕事も出来なくあれと思っていたから。でもそれこそ不誠実な考えだとすぐに気がつく。律の目的は施主である青山のカフェを理想のまま建てること。工務店の社長の人格が気に入らなかったからといって、建築の質が下がることを期待するような思想を持ってはいけない。
「ごめんなさい……」
 律は椅子に座り、思わず懺悔する。平が「どうしたどうした」と祭のようにはやし立て正面に座る。
「だったらあれは自信があるが故の発言か……うん、わかった」
 自分では読み取れない意図が別にあったおかもしれない。
「調べてみたら?」
 区切りをつけようとしたのに、平が話を引き延ばそうとする。
「やめてよ、反省したんだから」
「でも、六年もたてば状況変わるよ。僕の意見当てにしないで欲しい」
 平の言葉を素直に聞こうとしたのになんだその言い草は。
「私が周り見えてなかっただけよ。反省したし」
 平は頬杖をついて「調べた方が早いと思うけどなぁ」と呟いた。

 見積もりがおかしい。
 青山曰く安く建ててくれるとの話だったが、後藤が出した見積もりは律の事務所とつき合いのある工務店よりもずっと高いのだ。なのに仕入れようとしている資材は安価。金額を不当につり上げているようにしか見えない。全てリストにまとめて送りつけ、後藤に指摘すると「うちも真面目にやっとるんですけどねぇ」とごまかそうとする。
 問題は次々起こる。
「工事前に建築費を全額払って欲しいと言われたんですか!?」
 語尾が強くなってしまった。
「カフェを建てるのに必要だからって、直接……」
「いえいえいえいえ!」
 一般的には、工事着手の時に三分の一、家の骨組み、屋根の梁まで完成させた上棟の時に三分の一、完成した建物が施主である青山に渡った時に最後の三分の一――最初、真ん中、最後に分けて支払う。先に払ってしまうと、そのまま工事をせずお金を持ち逃げする詐欺が発生することだってある。
 後藤さんに確認しますと電話を取ろうとした律を、青山が「河村さん、大丈夫ですよ」と止める。
「俺たちは気心の知れた仲ですから。先輩には先輩の事情があるのでしょう」
 心からそう思っているようだが、律の不安は募る一方だ。
 そして始まったカフェ建設。現場は若い職人中心だった。若くても腕の立つ人間はいるが、彼らの動きは不慣れをそのまま描いたようにぎこちない。
「すみません、そこ、設計図と違います」
「えっ、そうですか?」
 現場に赴き間違いを指摘すると、何が間違っているのか理解していない顔で「わかりました」と応える。建物を建てるのに必要な人材が揃っているとは思えず、後藤にベテランを補充してもらおうと連絡しても留守ばかり、繋がっても「うちの職人たちが、建築士の監視がきつすぎるゆうとるんですよね」と逆に文句をつけてくる。言えば言うほど現場のやる気が削がれているのは感じているが、言わなければ間違った形で工事が進んでしまう。

「………」
 自宅の作業部屋、机に青山のカフェ建築模型を置いて、腕を組み、じっと見つめる。
「鬼?」
 やってきた平が律の顔を見るなりそう言った。鬼の形相だったらしい。
「工務店が最悪」
「ああ、後藤工務店」
「そう!」
 律は後藤工務店のやらかしをあげつらう。聞き終わった平は「はー、なるほどねぇ、大変だなぁ」と人ごとだ。
「施主本人がその工務店選んだんでしょ? こっちは何も言えなくない?」
「でも、青山さんの理想のカフェが建たなくなっちゃうかもしれないんだよ」
「それもアスパラガスが選んだ道じゃん」
「青山さん! 人がいいから後藤社長に強く言えないのよ、きっと。私がなんとかしないと……」
「てゆーかさ、あれじゃない?」
 平が作業机に置かれた建築模型を人差し指で触れる。
「青山さんの理想が崩れることよりも、律の理想が崩れることの方が嫌なんじゃないの」
 は? と乾いた声が出た。
「律の夢のカフェが、後藤に壊されるのが嫌なだけじゃない?」
 心臓に、静かにナイフを突き刺されたようだった。根元まで深く。
「アスパラはその辺どうでもよくて、律だけが気にしてそう。アスパラを盾にして」
 遅れて走る痛みが確かに刺されたことを律に教えた。その痛みにどう対処したらいいのか、わからない。
「冗談!」
 平が急におどけて笑う。
「そんな工務店当たりたくないやぁ。うちで同じこと起きたら社内で鬼共有するよ。律は忍耐強いよねぇ。よっ、鉄人!」
 いつもならうるさいと言い返すのだが、律の口から声は出ず、体はピクリとも動かない。
 ――どうしてそんなひどい事を言われなきゃいけないの?
 青山のカフェのために必死で奔走し、身を削って働いているのに、どうして。目頭が熱くなってくる。「帰って」と声を絞り出した。平は珍しく迷うような仕草を見せて、「また来る」と出て行った。玄関のドアが開いて、そして閉まり、ガチャリと鍵が鳴った。
「……なによ」
 握った拳が震える。
「なによっ」
 律は建築模型を掴んで立ち上がった。両手が天につき上がる。振り落とそうとして、寸前で止まった。
「くそぉ……」
 建築模型を机に戻し、代わりにベッドの枕を掴んで思いきり叩きつける。怒りが収まるまで何度も何度も。しかし収まるよりも早く、喉が痛く、かゆくなってきた。埃を吸ってしまったらしい。律はゲホゲホと咳をして、唾液を無理矢理飲み込み、ベッドに倒れ込む。
「くそぉ……!」
 泣くまいと、奥歯を噛みしめた。

 翌週、天水町の現場に向かう律の気持ちは重かった。
「……あれ」
 いつも車を止めている場所に、年配の女性が三人集まり、かしましく話している。車に気づいた一人があらあらと場所を空け、律は礼を言うように頭を下げてから駐車した。車を降りると「こんにちは」と朗らかに挨拶をされる。
「あなた、青山さんところに喫茶店建ててる人ね?」
「はい、設計を担当しています。……素敵なカフェになるように」
 女性たちは「楽しみねぇ」と無邪気にはしゃぐ。
「でも、あれでしょ、後藤の坊ちゃんが工事してるんでしょ?」
「後藤の『坊ちゃん』?」
「ほら、後藤工務店の」
 女性が何故か顔をしかめた。
「あそこはね、元々お父さんが腕利きの大工で、人格者で、なんでも任せられる人だったのよ。でも、冬の寒い日に風呂場で急に……」
「それは……ご不幸があったんですね……」
「それで、修業中だった坊ちゃんがあと継いだんだけど、ああいう性格だし未熟なもんだから、お抱えの大工に失敗を指摘されるとかんしゃく起こしちゃってねぇ。呆れた大工が辞めちまったのさ。そうなると質が落ちるでしょ」
 女性たちがうんうんと頷く。
「水害もあって仕事頼まれることが多かったんだけど、まぁ出来がひどい。仕事すればするほど評判が落ちていって、今じゃ後藤工務店に仕事頼む人、いないよ」
 そこで、工務店の若い大工が「立ち話スか」と言って律たちの横を足早に通り過ぎて行った。仕事のことで小うるさく言ってくる律に、働きもせず何をやっているんだと嫌味を言ったのだろう。しかし、工務店のことを噂する自分たちを注意していると思った女性達が「そ、それじゃあね」とちりぢりに去って行く。
 残された律は目眩を起こしていた。
 近隣で仕事が取れなくなった後藤工務店。もしかすると、資材を買うことも出来ないくらい困窮しているのかもしれない。だから建築費を全額、事前に払うよう求めたのではないだろうか。
 完成させるつもりがあるならまだいい。だが、もしかしたら金を持って消えるつもりでは。
 ――倒産を間近に控えて。
 工務店のことが気になるなら調べればいいと言っていた平の言葉が今になって鮮明に蘇る。
「カイリ先生に相談……」
 律は現場の監理もそこそこに博津へと戻った。

「ああ、そうですか、はい、はい、それはもうしわけありません」
 事務所に戻るとカイリが受話器を耳に当て頭を下げている。ただならぬ雰囲気に「何かあったの?」とミカに尋ねる。
「後藤工務店からみたいです」
「えっ」
 耳を澄ますと、何を言っているのかはわからないが怒声が聞こえてくる。
「その辺は、本人に確認を取らないとわかりません。また改めてお電話するということでよろしいでしょうか。はい、失礼します」
 カイリが電話をおく。
「カイリ先生、何が」
「律さんがね、工務店のことを探っているっておっしゃるのよ」
「えっ」
「そのうえ、悪評までばらまいているって」
 そんなことしていない。だが、思い出したのは町の女性三人組と、律たちの横を通り過ぎていった工務店の大工。あの大工が勝手に解釈して、社長に伝えたのではないだろうか。律は一連の出来事をカイリに包み隠さず話す。
「そうなの……先方も誤解しているみたいね」
 カイリが「でもね、律さん」と真っ直ぐ見つめてくる。
「現場の人が働いているすぐ側で、そういうお話をするのは良くないわ」
「あ……」
 怒るわけではなく、アドバイスするようにカイリが言う。
「思いがけず巻き込まれちゃったとしてもね、いらぬ誤解を与えてしまうから。どちらにとっても得がないわ。これからそういうことがあったらするっと逃げちゃいなさい。ね」
「は、はい……」と声を絞り出すので精一杯な律に、「あとは私に任せて」とカイリが穏やかに笑う。
 だが、どんな叱責よりも強く響いた。

 仕事を終え、夕暮れ時の街。夕日が律の過去を赤裸々に照らしていく。
『お父さん。お母さんは?』
 いつも遅く帰ってくる父親が、その日は赤く照らされるがらんどうの部屋の中、一人立ち尽くしていた。重いランドセルを背負ったまま、もう一度、お父さん、と呼ぶ。
『知らん』
 父は言った。
『知らん』
 今思えばアグレッシブな母親だ。家の中のものは一切合切持って行き、夫と子どもは捨てたのだから。
 夕暮れに赤々と燃える空っぽの部屋は、息苦しいほど冷たかった。
 律は思った。帰りたいなぁ、と。家にいるのに、家に帰りたいと思った。

「………」
 俯いて、夕日から逃げる。
「うまくいかないや……」
 両手で顔を押さえる。
 気づいたら、家の方向とは真逆のバスに乗っていた。無情な赤い街を過ぎ、孤独な田園地帯を通って、真っ暗闇の坂道を上って行く。
 気づけば天水川のカフェに来ていた。人も車も明かりも乏しいこの場所でじっとカフェを見つめる。
「帰りたいなぁ」
 どこに?
 律はその場に座り込み、動けなくなった。夜の闇にこのまま溶けて消えてしまいたい。それからどれだけ経っただろう。往来の少ない道に明かりが近づく。車は律のすぐ側で止まり、ドアが開いた。
「律、帰ろ」
 正面に二本の足。それがしゃがんで、律を見る。平がいた。
「……なんでいるの」
「また来るって言ったじゃん」
「家にでしょ……」
「律がいる家でしょ。週明けでどうなったのかと思ったら、待てど暮らせど帰ってこないし連絡しても出ないから、カイリ先生に電話して、話聞いて、ここかなって」
 いつもと変わらない声。毎回毎回同じ声。律がどんなに怒っても、喚いても、どこか他人事で平然と、自分の好きなように。
「……図星だった」
「え?」
「あんたに言われたこと」
 律は膝に顔を埋める。
「青山さんの夢が詰まったカフェに自分の好きなもの詰め込んで、いつのまにか、自分のものにしてた」
 律の理想通りに建てるため、神経質になって冷静さを欠いた。自分の夢を後藤に壊されるのが嫌だった。青山の気持ちなんて、どうでもよかった。
「平が言うことって結局いつも正しい」
「ええ? そんなはずないじゃん。僕ほど当てにならないヤツいないよ」
「あんたはコミュ力が高くて、なにをしても器用で、みんなに可愛がられて、なんでも思い通りにすることが出来る。自由に好き勝手生きることが出来る」
 平は「ないない」と軽く返した。
「僕だって律みたいに仕事で落ち込むことあるよ。気持ちわかるって」
「わかるはずないじゃん!!」
 律は声を荒らげて立ち上がった。
「わかるはずないじゃん! なんでも持ってるあんたに私の気持ちなんて! 大学の時からそう! 建築だって……!」
 言うまいと思い続けていたことが、堰を切ったようにあふれ出す。
「建築スケッチを一枚描けばみんな集まって、すごい、すごいってあんたをもてはやしてた! 先生たちにも可愛がられて、建築家としての将来を熱望されて……でも平気でそれを捨てちゃってさ! あんたはたくさんのものを持ってるから、建築なんてたったひとかけらに拘る必要がないのよ! でも私はこれしかないから、これしかないと思ったから愚直にしがみつくしかなかった! あんたにはどうあがいてもわからないことを『わかる』だなんて陳腐な言葉で汚さないでよ!」
 感情が全てグチャグチャにぶつかって、嵐に煽られた木屑のように落ちていく。
「平の方が……」
 律はぐっと目を押さえた。
「平の方が絶対建築士、向いてたよ……!」
 平が「律」と名を呼んだ。彼の声は今まで聞いたことがない戸惑いを含んでいた。
「平の設計、好きだった」
 息を飲む気配がする。
 嫌いだけど、気にくわないけれど、律にとって平はライバルで、いつか平が作った建築物を見上げながら、作る物はいいんだよなと少し偉そうに思う世界があると勝手に信じていた。自分も負けられないと、心に誓い直せる世界が。
「だからもう、別れて欲しい。別れてください。平といるの、辛い。あんたは私にとって叶わない夢の象徴なの」
 夢への未練を断ちきれず、彼との関係も今日まで続いてきた。でももう、全て諦めたい。もう頑張れない。律は湿った手の甲を下ろし、まだしゃがんだままの姿勢で律を見上げる平を見た。
 平はニヤニヤと笑っていた。
「……なに笑ってんのよッ!」
 今は絶対にそういうシーンじゃない。律は思わず叫ぶ。
「えっ笑ってる? ごめんごめん!」
 平が頬を押さえ、ワシャワシャと上下にマッサージをし、キリッと表情を整えた。でもすぐに、にや、と口元が緩む。本人も自覚したようで「あっ、だめだ」と両手で口を押さえた。
「律に初めて褒められてテンション上がっちゃった」
 隠せないと思ったのか、両手を下ろした平が悪びれずにこーっと笑う。
「あんたね……!」
「でも誤解してるよ」
 平も立ち上がる。
「僕が建築士を諦めたのは、単純に向いてないと思ったからなんだ」
 嘘よ、と返した。ホント、と平が苦笑する。初めて見る顔だ。
「デザインを考えるのは好きだけど他のことがとにかく苦手でさ。設計図の作成がだるい。じっと座って作業するのがきつい。デザインもガワは思いつくけど、中に何を詰めたらいいのか全くわからない。だから適当に誤魔化して描いてた。そんな無責任なヤツが建てた建物に住める? いられる? 僕は無理だね」
 初めて聞く話に今度は律が戸惑う。
「でも、建築士やめたのは、『なんとなく』って」
「カッコ悪いから言いたくなかっただけだよ。今はもう、言わない方がカッコ悪いと思うから言うけどさ。単純に向いてなかった、僕には。難しかった、建築士」
 いつも大学で楽しそうにしていたのに。
「……ごめん、好き勝手言って」
「いいよ、おかげで褒められた。あと僕もごめん」
「えっ」
「地味建って言ってたの、傷ついてた?」
 律は、少し迷ったが、素直に頷く。
「僕、ホント今の今までわからなかったんだ。律は自分の建築に自信持ってて、何を言われても気持ちが揺らぐことはないと思ってたから、スキンシップみたいな感覚で言ってた。学生の頃から僕のことスルーしてた律が、この言葉使った時だけ反応してたから。無視されてる時に、つい、会話のきっかけにしちゃってた」
「無視……」
「話しかけても返してくれないこと多いじゃん」
「そういうの気にするの?」
「無視で興奮出来るタイプの人間じゃないからね、僕」
 知らなかった。当たり前と言えば、当たり前の話かもしれない。だが、その当たり前を平にも、自分にも当てはめることが出来なくなっていた。
「律は疲れるとしゃべりたくなくなっちゃうのかもね。僕は意地でもおしゃべりしたい。気が合わない」
 ははっ、と平が楽しそうに笑う。つき合って笑うことは出来なかったが、目は乾き、不思議と心は軽くなっていた。
「帰ろ」
 平が言う。
「……帰るわ」

「すみませんでした」と木漏れ日の差す街の喫茶店で青山に頭を下げられ、律は慌ててやめてくださいと言った。
「後藤先輩とのことで河村さんにはご負担をおかけして……」
 先日の件が後藤経由で青山の耳に入ったらしい。そのうえで、色々と察してくれたようだ。
「……俺も、後藤先輩に関しては、不安があるんです」
「えっ」
「このままじゃ、無事にカフェが完成しないんじゃないかって」
 施主自らそう思っているなら取れる策はある。ただ、青山の表情には悲哀が滲んでいた。
「本当は、高校時代からの夢だったんです。カフェ経営」
 ぽつりぽつりと青山が話し出す。
「部活帰りに学校近くのカフェでみんなと馬鹿話をしてました。その空気が好きで。将来、こういうカフェの店主になりたいって言ったら似合わないって笑われたんですけど、後藤先輩だけは『いいじゃないか』って」
 青山が顔を上げ、遠く目を細める。律は気づいた。彼の目が見ていたのは、その時の思い出だったのだろうと。
「先輩は工務店を継ぐことになっていたから『俺が建ててやる』とも言ってくれました。本気じゃなかったかもしれないし、俺自身、当時は軽い気持ちで言ってたところもあったんですけど、妙に心に残っていて」
「それで、厨房のバイトや、ホテルのシェフを?」
「はい。充分とは言えませんが資金が貯まり、実家の水害もあって、夢だったカフェを建てることにしたんですけど……久しぶりに会った後藤先輩は、驚くほど老け込んでいました」
 父が亡くなり跡を継いで上手くいかないことだらけで疲弊していたのだろうか。
「河村さんが設計してくれたカフェ、思い描いていた通り……いや、それ以上の出来でした。自分が生まれ育った町のこのカフェで働くことを心から楽しみにしているんです。だから、だから……」
 青山がぎゅっと目をつぶる。
「どうしたら、いいんでしょうね……」
 律は青山の苦悩を垣間見て、何も言うことが出来なかった。
 天水町を故郷に、その町に戻り生きようとしている青山が、後藤工務店の評判を知らないはずがない。それでも彼は後藤にカフェの建築を頼んだのだ。

「おかーえりー」
 帰宅すると、平がひょこっと顔を出す。
「ただいま」
「憂鬱顔」
「うるさいなぁ」
 絡んでくる平をあしらいながら、作業部屋に入る。律が作業椅子に、平がベッドサイドに腰を下ろした。
「またアスパラガス?」
「言い方」
「施主さん」
「そう。……難しいわよね」
 律は青山との話をかいつまんで話す。どうにか出来たらいいんだけど、と自然と漏れた。すると平が「律のどうにかって、具体的にはどんなイメージ?」と聞いてくる。
「え……。無事にカフェが建つこと、だけど」
 それでは大雑把か。しかし平は答えを得たように「それなら」と言う。
「後藤工務店にしっかり働いてもらうのが一番だよね」
「それが出来たら苦労しないけど……そうね」
 前なら後藤を追い出したいだなんて言ったかもしれない。しかし、青山の思いを受けた今、そんな感情は湧いてこなかった。律が自分自分の弱さに触れたのも大きいかもしれない。後藤には後藤の苦しみがあるのだろうかと想像してしまうのだ。
「じゃあ、その路線で攻めてみようか」
「どういうこと?」
「昔の評判教えちゃったの良くなかったと思ってるから」
「だから何が」
「二週間ちょうだい」
 律の質問に答えず、平が指を二本たてる。
 そして宣言から二週間もかからずその日はくることになった。

 天水町の工事現場に赴くと、見慣れぬ顔の大工が数名いる。顔に深いしわを刻んだ武骨な男たちで、その手際は流れるように美しい。今までの遅れを取り戻すように、作業が進んでいる。
「え、どういうこと……」
 呆然と見つめる律に、「おう、あんたか」と後藤が声をかけてきた。今まで現場に顔を出すことはなかったのにだ。
「社長、あちらの方たちは……」
「親父の代から働いてた大工たちや。俺が継いでからソリが合わずに辞めちまってたんやけど戻ってきた。あ、いや……」
 後藤が顎をこねるようにさする。
「……俺が戻ってきて欲しいと謝った」
 律の丸くなった目を見て、後藤が「そんなに驚くことか」とぼやく。
「居酒屋でさ、可愛い顔した兄ちゃんに会ったんだよ。屈託なくてさ、一緒に飲みましょうって。話してるうちに仕事の話になって、なんでも兄ちゃんは万事建設に勤めてるらしい」
「えっ」
「どうした?」
「あ、いえ……。それで、どうしたんですか?」
 万事建設なんてエリートやないかとふてくされて言うと、彼は「そうです」とあけすけに言ったらしい。そうなると笑うしかなく、自分よりも若いのに自信に溢れたその男が羨ましくなったそうだ。どうすればそんな風に生きられるのかと問えば、「結局は充実した人間関係ですよ」と返ってきた。ありふれたつまらない答えだと突っぱねる後藤に男はニコニコ笑って「充実していますか?」と聞いてくる。充実なんかしていない。パッと思い浮かんだのは、喧嘩別れした大工たちのことだった。同時に気づいた。
「未熟者なくせに社長だからと生意気な態度とって、喧嘩別れしたこと、俺は後悔してたんだ」
 後悔は後藤のくすんでいた心をさらうように洗い流して、押し込めていた感情を拾い上げる。後藤は自分でも戸惑うほど「謝りたい」と思ったのだ。でも今さら、格好が悪い。しかし男がまた言った。
「謝らない方がカッコ悪いですよ」と。
 遠慮なく殴りつけるような言葉を発しておきながら、男は屈託なく笑う。こうやって真正面から話してくれる人間に会ったのは、久しぶりだった。「カッコ良くなっちゃいましょうよ」と煽られた後藤は、足りない勇気を補うように酒を飲み干し、電話をかける。それでも心臓が飛び出しそうなほど、緊張していた。「俺が悪かった、すまない、戻ってきてくれないか」。返事は素っ気ないほど短かった。
 ――次の現場はどこだ?
 後藤はむせび泣いた。
「俺は崖っぷちで、本当は、金を持って逃げようとしてたんや。最低のクズ男や。大工に謝ったあと、青山にも洗いざらい話した。あいつ笑って言ったんだ。『知ってましたよ』って。俺はもう、言葉が出らんやった」
 後藤が鼻をすすって、律を見る。
「あんたにも迷惑かけた」
 後藤が建設途中のカフェを見上げる。
「俺はやるぞ。青山と約束してたんだ。俺がカフェを建ててやるって。こんな良いカフェが建てば、天水も活気が出る。……なにせ設計が良いからな」
 律は思った。今まで嫌な面ばかり見てきたが、この人は愛されているのだろうと。
「まぁ、あんたの生意気っぷりも相当なもんやけど」
 律は現状、愛せそうにはないが。

「後藤工務店の大工さん、職場の先輩の知り合いでさ。後藤さんに接触する前に話してきたんだ。工務店、超ヤバですよって」
 律の自宅、リビングのテーブルで、サッと描いた建築スケッチに色を塗りながら平が話す。
「大工さんたちも大人げなかったって思ってたみたい。母親のお腹の中にいる時から後藤さんのこと知ってたそうだし、先代にも申し訳ないって。だからもし、後藤さんから謝罪の電話がきたら素直に受けてあげてくださいよってお願いしたんだ」
 それが見事上手くいったというわけだ。結局何でも望み通りにしてしまう恐ろしい男だと思いはするが。
「平は営業に進んで正解だったわ。向いてるし才能あるよ」
 何の気なしにそう言うと、平がパッと顔を上げ律を見る。平にしては珍しく真顔だった。
「あはは、気づくの遅いなぁ」
 平は表情を戻すと描いている途中だったデッサンを、四つに折る。彼は「ありがとね」と何に向けているかわからない感謝を口にして、そのデッサンをゴミ箱に落とした。

「河村ちゃんよ。俺はやっぱ、塀が気になるよ」
 すでに出来上がった木塀を、律、後藤、青山の三人で見る。
 今までのトラブルが嘘のように工事が進み、完成ももう間近。だが後藤は納得出来ないらしい。
「俺の希望なんですよ、先輩」
「崖崩れはわかるが、天水の美しい風景をちょっとでも見せたいやないか」
 太い腕を組み、丸い目でじーっと塀を凝視する後藤。その気持ちには律も共感する。カフェには大きなガラス窓。ここでもっと日差しを浴びることが出来たらどんなにいいだろう。ただ、手立てがないのが正直なところ。半年ほど経った今も対岸の土砂崩れはそのまま、血を流すように赤茶色の土肌が見えている。
「はぁ、なんかもう、この塀、真っ二つに切ってしまいたいわ」
 後藤がチェーンソーで切るような仕草を見せる。
「……あっ!」
 それを見てひらめいた。
「この塀……下を三分の一、切ってしまったらどうでしょうか」
 青山と後藤が「えっ」と声をあげる。それがどういう影響を与えるのかわからない青山と、「いや、これはあるぞ」と目を輝かせる後藤。
「店の中に光が入ってくるわけやないが、ほら、来てみろ青山」
 後藤が先導し、カフェの中に入って、川沿いの大窓から塀の下部を指さした。
「下を開ければ、そこにあるちっちゃい庭に光が差し込むようになる。窓際の席からそれが見える。特別感があるじゃないか」
 それだけじゃありませんと律は言う。
「ここからなら、下に流れる川を見ることも出来るんです」
「川を……」
「ええ、深い瑠璃色をした天水川が。……町には今でも水害の爪痕が残っていますが、天水川の美しさは、不変だと思うんです」
 人は川と共に、川は人と共に生きてきた天水町。恐ろしさや悲しさが胸の奥に刻まれ続けているとしても、この川を美しいと思う気持ちは変わらないだろう。町に住む人なら、なおさら。
「そして、いつか全てが片づいて元通りになったら、塀を外しましょう」
 そうすればこの窓から悠々と木々が生い茂る山が、美しい水をたたえる川が、そして燦々(さんさん)と降りそそぐ太陽と青い空が見えるはずだ。
「楽しみやないか」
 後藤が木塀の向こう、いつか来る未来を見つめるように顎をさする。
「ええ、ホントに。そこに辿り着いて初めて、このカフェも完成するんですね」
 青山にも同じものが見えたのか、目尻が少しだけ潤んでいた。

「あの、河村さん」
 街に戻るため車に乗り込もうとしたところで、青山が声をかけてくる。
「はい、どうしました?」
「本当にありがとうございました。こんな素敵なカフェを生み出してくださって」
 律はまだ完成していませんよと微笑む。それをじっと見た青山が、高い背を丸め、指を組んで言った。
「今日は金曜日じゃないですか」
「……? ええ」
「お時間があれば、一緒に食事でもどうですか」
 あ、と心の中で呟く。ほのかに香る情があった。施主ではなく、青山という一人の人間が律を見ていた。だったら律は?
 青山は気立てのいい男だ。いつも笑顔で、会話は穏やかで、趣味が合い、一緒にいても疲れない。
 時計が回る。刻々と。

 二十三時。ドアの鍵を確認した。開いている。
「……ただいま」
 明かりのついた家の中、平は参考書を開いている。ここ最近、新しい資格を取ることにはまっているようだ。
「おかえり、どっか行ってたの?」
「仕事よ」
 律は冷蔵庫を開いて、何も取らずにそのまま閉じる。
「明日は私が好きな建築家が設計したビル見に行くけど、あんたにはつまらないと思うわよ」
「………」
 律はさっさとシャワーを浴びようと風呂場に向かう。
「律」
 行く手を阻むように、平がとん、と壁に手を置いた。
「……なに? 前やってた壁ドン? あれ、あとで調べたけど伝統芸能なんかじゃないじゃない。おかげで恥をかいた――」
 平がじっと律の目を見る。
 彼はひどく苛立っていた。
 青山はいい人だ。好きか嫌いかで言えば、好きだと思う。
 ――すみません、今日は家に彼がいて。
 言い訳のような事実。青山は「そうだったんですね」と自然な間で返し「じゃあまた別の機会に誘います」と明るく言った。ほんの少し前まで漂っていた情は消え、施主と建築士に戻る。気まずくならないよう、流してくれたのだろう。
 話はそこで終わったが、平と顔を合わせるのが妙に気まずく、こんな時間まで仕事をしてしまっていた。
「………」
 平の目の中に、律の姿が映っている。律にしてみればいつも通りの自分だが、平の目にはどう映るのだろう。こんなわかりやすい自分が、陽炎のように揺れているのか。いつも冷静なくせに、どうして。
「……平って、もしかして私のことが好きなの?」
 平はまばたきして、失笑する。
「知りたい?」
 聞かれて「わからない」と答えた。平は「わかった」と顔を寄せる。
 唇に八つ当たりされ、翌日の土曜日、二人が家から出ることはなかった。

 天水町の天水川通り。のどかな町の中、穏やかに佇むカフェがある。
「いらっしゃいませ。……ああ、お久しぶりです!」
 ドアを開ければライトグリーンのワイシャツにエプロン姿の店主。屋根は高く、出窓をつけた店内では、地元の人たちが明るい表情でお茶をしている。そして一番奥、特等席には。
「えっ」
 驚きながら歩みを進め、窓際の席を陣取る男の正面に座った。
「何してるの、平」
「なんだと思う?」
 へらへら笑いながら、平が青山の入れたコーヒーを飲んでいる。
「地味建だってからかいの来たんじゃないでしょうね」
 平は「地味建って言わないでくれる?」とわざとらしく顔をしかめる。律のマネをしているらしい。
 メニューを取って開くと、地元の食材がふんだんに使われたメニューが美味しいと評判らしい。
 そんな青山のカフェは『元ホテルシェフが経営する復興への思いが詰まったカフェ』としてテレビ取材を受けた。なかでも、いつかは外す木塀のエピソードは多くの人の心を打ったようで、ぽつぽつとではあるが律個人に建築の依頼が来るようになった。よく後藤と組んでやっている。
「律はさ、自分の家建てたりしないの?」
 メニューを選び注文したところで、唐突に平が言った。
 家。
「いつか独立出来たら、事務所兼自分の家として自分が好きなように建ててみたいけど、いつになるか……あ、ありがとうございます」
 ドリンクが来て、会話が中断する。
「じゃあ次はそこに転がりこむか」
「ええ?」
 新築の家に二人暮らし。まるで結婚した夫婦のようじゃないか。自分たちに結婚という言葉はしっくりこないが、律が作った家に平が勝手に住み着いて、結局一緒に暮らしている姿は想像出来てしまう。
「隔離部屋作るわ。平の」
 冷たく言うと「僕の部屋楽しみ~」と平が機嫌良く声をあげる。
「家賃払いなさいよ」
「じゃあ、律の事務所で働くってのはどう? 営業も事務も出来るよ、僕」
「それは……いいかも」
 律は大きな窓の外にある塀を見つめる。その先にある未来はどんな形をしているのだろう。