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【試し読み】夏生 | 岬れんか

第4回ジャンプ恋愛小説大賞銀賞受賞作『夏生』が6月17日より、各書店で電子配信されております。講評時に「構成の巧みさと、それを支える描写力は抜きんでたものがあった。」と評された作品。是非ご一読ください。

『夏生』岬れんか


あらすじ

『プリンセスタイム』……いわゆるレンタル彼氏を派遣する店だ。今日も絶えず様々な女性から依頼が届く。婚期を逃したシナリオライター、心を病んでいる少女、夫との暮らしに迷いを感じる主婦。彼女たちを温かく包み込むのは店のエース・夏生。どんな女性も愛することができる天才。その正体を知るものは、誰もいない。今のところは……。


第一章 結理ゆり

 虚無を切り裂くように携帯電話の着信音が鳴り響く。
 やたら軽快なメロディと小刻みなバイブレーションは、空白の世界にトリップしていた香こう坂さか結理の意識を一瞬にして現実に引き戻した。
 すぐさま口元が「げっ」とでも言いそうに歪む。
 気づかなかったフリをしようかと考えて、忌々しく音を鳴らし続ける黒い板から目を逸らした。相手が諦めるのを待ってみたが、なかなかメロディは途切れない。早く出ろと言わんばかりにそれは震え続けた。
 あと一秒、もう一秒だけ待ってみたら切れるかもしれないと考えた。裏腹に、結理の手がそろそろと携帯電話に伸びていく。画面にデカデカと表示されている「パパ」の文字に、睨みつけられている気分だった。
 結理は小さく喉を鳴らして、応答のマークをスワイプした。
「おう、出たか。何してたんだ?」
「普通に仕事だけど」
「ええ? 仕事って、ほんとに仕事か? アソビじゃないのか?」
 半笑いの小バカにしたような話し方。電話を取ったことを激しく後悔したが、もう遅い。
「いやいやめっちゃ仕事してるから」
 携帯電話を耳に当てながら、反対の手でワイヤレスマウスを動かす。スリープモードになっていたパソコン画面が起動して結理の顔を認証する。ロックが解除されたと同時に眼前に広がった真っ白いWordファイルの中で、ちっかちっかとカーソルだけが点滅を続けていた。半日前に開いた時と寸分変わらぬ光景だ。
「で、何? どうかしたの?」
「メールの件、返事ないからこっちから電話したんだよ」
 どこか弾むような父親の声に、またしても結理の口元が歪む。記憶を手繰り寄せるのと同時進行で結理はメールソフトを立ち上げた。父親の名前で検索すると、一週間ほど前のメールが表示された。件名に【経理を募集している会社です】と書かれていた。
「遅くても年明けには面接しておきたいって言われてるんだよ」
 口を挟む前に話を進めている父親の、恐ろしいまでの勝手な思考にぎょっとした。結理には、今の仕事を手放す気など毛頭なかった。
「仕事には困ってないけど」
「ゲームシナリオだか何だか知らないけど、そんなアソビみたいな仕事いつまでも続けられるもんじゃないだろ」
「遊びじゃないってば」
 還暦を過ぎた父親にとって、ゲームに関わる仕事は「仕事」とは言えないらしい。三十代も後半になった娘が、趣味の延長で何やらごちゃごちゃやっていると思っているのだ。二十代の頃は、ごく普通の会社員としてオフィス勤務をしていたから余計にそう見えるのかもしれない。結理がシナリオライターの職を得たのは三十歳を過ぎてからだった。
「趣味なら会社勤めしながらでもできるだろ」
「無理だよ。納期とか色々あるし。今、結構案件抱えてるし」
「どうせ大した案件でもないんだろ?」
 父親の言う「大した案件」というのは、誰しもがタイトルを聞けばわかるような作品のことを指している。結理が引き受けている案件は、いわゆるスマホゲーム好きのユーザーの間では人気の作品も多いものの、世間一般の認知度は決して高くない。父親を納得させる材料としてはあまりに火力が弱すぎた。
「とにかく面接だけでも受けてみろ。パパの知り合いの会社で業績も安定してる」
「そんなこと言われても」
「小説家みたいに名前が売れるならまだしも、そういうもんでもないんだろ? いい加減、現実を見たほうがいい」
 いい加減にしてくれと言いたいのはこちらだと思いつつ、結局結理は反論できないままうやむやのうちに電話を終えた。
 父親の言っていることも半分はわかる。スマホゲームの仕事は、名前を公表できる案件が圧倒的に少ない。安定的に仕事を獲得できるようになったとは言え、業界内での結理のネームバリューなど無いに等しい。新陳代謝が激しい業界で、四十を越え五十を越えても生き残っていくのは簡単ではないだろう。この辺りで、自分の名前を売っておきたい気持ちは結理にもあった。
 幸運にも、チャンスは今、結理の手の中にあった。大手メーカーが手掛ける人気シリーズから新たにリリースされるスピンオフ作品の、メインライターに抜擢されたのだ。結理にとって初めてのコンシューマゲーム。当然、スタッフクレジットにも大々的に名前を載せてもらえる。本家シリーズほどの売り上げは見込めなくとも、大きな経歴になるのは間違いなかった。
 この案件ならば、父親に自分を認めさせることができるかもしれないと結理は考えていた。絶対に失敗は許されない。
 気を取り直しキーボードに両手を配置する。あとは思うまま文字を打ち込んでいけばよいのだが……。
 じっと固まったまま、一向に降りてこない物語を結理は待ち続けた。
 ふと、パソコン画面から顔を上げ視線を窓へと向ける。外はすっかり暗くなっていた。
 ぐっと腕を伸ばして凝り固まった首と肩をほぐし、携帯電話を手に取った。目的があるわけでもなくSNSのアプリを開いて、タイムラインに表示される他人の呟きに目を通す。業務を進めることはすでに諦めていた。
 しばらくして何気なく手を止めた。URLと共に何人もの男の顔写真が並べられた画像付きの呟きが目についた。
 レンタル彼氏。
 最近よく目にする単語である。一度か二度、顔を合わせたことがあり、SNS上で親しくしていた同業者が、関連記事や呟きを頻繁に共有しているためだった。
 それらに関する日々の呟きがあまりにも楽しそうなので、結理はレンタル彼氏とは何ぞやとクローズドチャットで聞いたことがある。彼女は嬉々として語ってくれた。
 いわく、レンタル彼氏とは最高の癒やしである、と。
 最も大きなメリットは自分の好みの男性と確実にデートができることであると、彼女は言った。選ぶ権利はこちらにあるわけだから当然のように思えるが、とにかく断られたりデート中に冷たくされたりする心配が一切ないのはかなりの安心材料となりえるらしい。
 彼らは、様々な妄想を現実へと変えてくれる魔法使いのようなものだとも言っていた。
 思春期に憧れた少女漫画のような告白も、ロマンチックな恋愛映画のようなデートも、時には時代小説の悲恋さながらの別れですら、彼らは演じてみせてくれるのだそうだ。クオリティはキャストにより様々だとも、言葉を濁していたが。
 とにかく、現実では三十代後半の自分が彼らとのデートをしている間は、少女にも妖艶な美女にも清楚なお嬢様の気分にもなれることが、たまらなく新鮮で心躍ることなのだと彼女は楽しそうにチャットを送ってきた。
 付け加えて、レンタル彼氏を利用するようになってからというもの自分磨きにも力を入れようと思いたち、生活スタイルの改善にまで着手したというのだからすごい。今となっては、生活にハリと潤いを与えてくれる欠かせない娯楽にまでなっていると、彼女のチャットは締めくくられていた。
 SNSで検索すると、彼女と同じような呟きをするユーザーも見受けられた。彼女たちの投稿からは、レンタル彼氏に癒やされ明日への活力を得ている様子が伝わってきた。
 時折、デート相手のレンタル彼氏に対する、感謝以上の強い好意がしたためられている呟きも目に入った。ポエムのような愛の呟きには軽い胸やけを感じずにはいられない結理だったが、羨ましさを拭えないのも事実だった。
 もう何年も恋人がいない。それどころか、プライベートで誰かと会う機会自体がほとんどなかった。自宅を職場にしている結理が外出する用事と言えば、買い物か打ち合わせだけ。その打ち合わせも、ここ最近はリモートで行われることが常になりつつある。純粋な人恋しさに襲われるのも無理はなかった。
 結理はこれまで何度かそうしたように、ごくごく軽い気持ちでURLをタップした。
 SNSの画面が、レンタル彼氏店のホームページに切り替わる。そこには、「店長のオススメ」とカテゴライズされた若い男の顔がズラリと並んでいた。いずれも、顔の一部にモザイクがかかっている。
 ネット通販の品物のように並べられた彼らはどんなデートをしてくれるのだろうかと、想像が膨らむ。初めてレンタル彼氏の存在を知ってから数ヶ月。結理の興味はすっかり高まっていた。
 一人、特に気にかかる男の子がいた。
 顔写真をクリックすると、画面がプロフィールを記載したページへと切り替わる。そこに掲載された数枚の写真は、良くも悪くも普通で派手さがない。華美な印象の男性陣の中にいて、逆に目立っている。シンプルな白いシャツとスッキリまとめられた黒髪には好感が持てた。口元にはやはりモザイクがかけられているが、やや重たげな奥二重の目は笑うと可愛いだろうことが想像できた。
 写真の下に書き連ねられたプロフィールの最後には、「貴女の望みを叶えます」とコメントが添えられている。その文言が、結理の好奇心をチクチクと刺激した。
 本当にサービスの利用を検討していたわけではない。ただ、気になっただけ。もしも自分が利用するならこれくらい普通の男の子がいい。できれば並んで歩いていて不自然すぎない相手が望ましい。
 ――でも、まあ、一回り以上も年下が彼氏は、ないよね。
 結理は二十歳前後から顔が変わらない。あまり幼く見えすぎるのも仕事上支障があるので努めて大人っぽいメイクをするが、すっぴんは童顔の部類に入るのは間違いなかった。一度、クライアントのおしゃべり好きなシナリオディレクターから、カップうどんだか蕎麦だかのCMに出ている女優さんに似ているとはやし立てられたことがあった。この年齢になると、若く可愛く見えればいいというものではないということを結理はよく知っていた。
 それに、いくら若く見られることが多いとはいっても、こちらはもう四十代がすぐそこに迫っている歳なのだ。本物の二十四歳と釣り合うとは思えない。
 我ながら余計な心配をしているものだと自嘲して、結理はサイトの画面を閉じた。それとほぼ同時に、クライアント企業からの連絡を知らせるチャットアプリの通知が届いた。内容は、今週末に締め切りが迫っているプロットの進捗についてである。
 もともと沈みかけていた結理の気分は、上げた視線の先にある真っ白い画面を再び目にして、たちまち小さく萎んでいった。
 何としてでも成功させたい案件なのに、書けない。
 面白いと認められるものを書かなければならないというプレッシャーの下で、完全に尻込みしていた。
 ひとしきりうめき声をあげてから、結理は携帯電話に入れているのと同じチャットアプリをパソコンで立ち上げて当たり障りのない返答を打ち始めた。送信ボタンをクリックしてから、再び携帯電話を手に取る。表示させたのは、先ほどまで眺めていたWebサイトだ。
 レンタル彼氏店「プリンセスタイム」。
 村上むらかみ夏生なつき(24)と記された白シャツの彼の予約可能スケジュールと、デスクに置かれた卓上カレンダーと、交互に睨めっこして、結理はえいやと予約フォームへ進んだ。

 駅の改札を出た待ち合わせ場所に、その人物は静かに存在していた。
 黒いデニムのジーンズに白いタートルネックのセーターと、チャコールグレーのコートというシンプルないで立ちは、Webサイトで見た夏生の雰囲気そのままだ。
 しかし、奇妙に存在感が希薄である。まるで背景の一部に同化しているような。十二月頭の寒々しい駅の雑踏の中で、夏生は淡く溶けてしまう粉雪のような空気を纏っていた。昼過ぎの弱々しい日差しが、ますます夏生をはかなげに見せていた。
 声をかけていいものだろうかと躊躇する。結理は一瞬、彼の姿は自分の目にしか映っていないのではないか……などと考えて足を止めた。
 そもそも、むしゃくしゃした気持ちを持て余してやけくそ気味に予約した結理である。
 正直なところ、このまま逃げ出したいような気持ちにも駆られていた。
 迷った挙げ句、やはり引き返そうかと後ろを向いたところで、心地良く柔らかみのある声が耳に届いた。
「結理さん?」
 小さく心臓が跳ね上がり、瞬時に耳が熱を帯びていく。
 恐る恐る振り返ると、いつの間にかすぐ目の前に夏生の姿があった。驚いて、結理はよろめくように後退りした。
「大丈夫ですか」
 咄嗟に伸びた彼の手が腰に回された。
 結理は、しがみつくように夏生のコートを摑んでいた。
「驚かせちゃいましたよね。すみません」
「あ、いえ。こ、こちらこそ」
 道行く人がこちらの様子を気にしている。そそくさと体勢を直し、結理は何事もなかったかのように咳ばらいをした。
「あの、なんでわかったんですか?」
 改札からは、絶えず人が吐き出され続けているというのに、何故自分が待ち合わせの相手だとわかったのかが気になった。夏生は、一瞬きょとんとしたような顔をして、どこか困ったように眉尻を下げた。
「事前にお聞きしていた服装、そのままだったので」
 言われてみれば、数時間前にプリンセスタイムからきたメールに詳しく服装を伝えていた。ボルドーのセーターにミモレ丈のチェック柄のスカート。コートと鞄も、スカートの色みに合わせてグレーをチョイスしていた。
 そんなことも忘れて、なんと間抜けな質問をしたのかと気づいたがもう遅い。夏生は、叱られて今にも「クゥン」と鳴き出しそうな、子犬のような目をしてこちらを見ていた。
 黒々とした大きな瞳がやけに印象的だった。
「気持ち悪かったですか?」
「ぜ、全然です! ごめんなさい、変なこと聞いて!」
「よかった! 結理さんに嫌われたらどうしようかと思いました」
 瞬時に、子犬フェイスがふにゃふにゃと溶けてしまいそうな笑顔に変わった。想像していた通り、とても愛らしい笑顔である。
 風に運ばれて飛んで消えてしまいそうだった夏生を覆う空気は、春の日差しを思わせる温かさを含みはじめ、鮮やかに輪郭を生み出していた。
「それじゃあ、行きましょうか」
 結理の短い返事を聞くか否かのところで、夏生が再び手を伸ばしてくる。意図がわからず無言の結理の手を、夏生が握った。
 歩き出した夏生に手を引かれ、結理も足を踏み出した。
 人混みを抜けたところで、自分と夏生の手が恋人つなぎに変わっていることに気づいた。
「彼氏だから、ね?」
 結理の視線を受け取って、柔らかく瞳を細める夏生。
 男性特有の体温の高い大きな手の感触に、結理はじわじわと体が熱くなっていくのを感じていた。

「僕の好みで決めちゃいましたけど、気に入ってもらえると嬉しいです」
 夏生が結理を連れてきたのは、待ち合わせの駅から歩いて十数分ほどの場所にある喫茶店だった。
 いわゆる隠れ家というやつなのだろう。店内は、さほど広くなく客数も決して多くはない。だからこそ居心地は好さそうだった。店内に流れるゆったりとしたBGMが、落ち着かない結理の心を鎮めてくれるようだった。合間に、コーヒー豆を挽く微かな音が聞こえてくる。
 結理は店内に溢れる、少しほろ苦い芳香をゆっくりと吸い込んだ。
 二人は、店内奥の半個室のような席に並んで腰を下ろし、コーヒーを注文した。
「ここなら、他のお客さんから見えないので」
 何に対しての気遣いなのか判然とせず、結理は生返事をした。
 他人に見られて困るわけではないが、確かに気恥ずかしさはあるかもしれない。客観的に考えれば、年増の女と若い男の組み合わせというだけで奇異の目で見られているのかもしれないとも思った。ただの知り合いという距離ではないのだからなおさらだ。甘すぎないスパイシーな香りがほんのりと漂う。軽めにつけたであろう香水の香りがわかる距離である。
 何しろ、隣に座る夏生は今も結理の手を放さないでいる。いくらレンタル彼氏といえど、こんなにもベッタリくっついているものなのだろうか。
 結理はやはり、人目につかない席に案内してもらってよかったのかもしれないと考えた。
「今日は、リクエストはなしでしたよね」
「リクエストって?」
「デートプランについてです。カラオケとか、ショッピングとか」
「あ、うん、そうですね。特に考えてなかったかも」
「だから僕、まずは結理さんとたくさんお話をしたくて」
 夏生の話し声は、ゆったりとしていた。店内に流れるBGMに合わせたようなテンポと言えばいいのだろうか。さすがこういう仕事をしているだけあって人の緊張を解くのが上手いものだと感心した。
 とはいえ、いったい何を話せばいいというのか。
 ちらりと横目で夏生を見ると、ニコニコと楽しそうな笑みを浮かべている。つられて結理もにこりと笑みを返す。すると今度は、繫いでいた手をぎゅっと握りしめられた。どうリアクションしていいかわからず、結理が再び彼に視線を向ける。
 結理の顔には明らかな戸惑いが浮かんでいた。
「結理さん、可愛い」
 そのひと言に、結理の顔面が崩壊した。口元が奇妙にひくつき、どういう表情をしているかわからなくなる。
「なんで、今?」
「だって可愛かったから」
「いや、どこが」
「照れてるところ?」
「恥ずかし」
 消え入りそうな言葉に被せて、夏生が囁いた。
「ほら可愛い」
 結理はすっかり下を向いていた。顔が熱くて仕方ない。自分でもわかるくらい、にやけてしまっている。
 なるほどこれがレンタル彼氏というものなのかと、妙に納得した。
 SNSでこれでもかと、デート相手を絶賛し彼らへの愛を綴っていたユーザーの気持ちが、少し理解できる気がした。
 ――いや、でも、甘すぎるっていうか、早すぎるっていうか。
 まだ集合してから三十分と経っていない彼の怒濤の連続攻撃に、結理は動揺を隠せなかった。せっかく緊張がほぐれかけてきたところだというのに、またもソワソワしてしまう。
「可愛い」なんて、お客さん全員に言っているのだろうと冷静に判断する自分もどこかにいる。けれども、数年ぶりに、しかも自分よりもずっと年下の若い男に言ってもらえることが、こんなにもこそばゆく強制的にテンションを上げられてしまうものなのだと、結理は初めて知ったのだ。
「結理さん、コーヒーきたよ。お砂糖とミルク入れる?」
「えっ?」
 ハッとして顔をあげると、淹れたてのコーヒーの香ばしい薫りがした。
「あ、えっと、じゃあ、はい。あ、ミルクだけで」
「じゃあ僕もそうしよっと」
 子供みたいな弾む声を出して、夏生がようやく繫いでいた手を離した。同時に、今度は太ももあたりに熱が走る。夏生は、ぴったりと寄り添うようにさらに距離を詰めてきていた。
「どうぞ、熱いから気を付けて」
「ありがとう、ございます」
 コーヒーをひと口含むと、ほろ苦さとミルクのまろやかさが広がった。
 そのまま、何度かカップに口をつけ茶色の液体を飲み下し、結理は心臓の音が静まるのを待っていた。察するように夏生も黙ってコーヒーを飲んでいる。
 しばしの無言は、むしろ苦痛ではなかった。
 夏生が次に言葉を発したのは、結理がカップを置いてからだった。すでにコーヒーは、三分の一ほどが減っていた。
「結理さんは、こういうのは初めてなんだね」
「そんなわかりやすい?」
「うん、かなり緊張してるから」
 その通りなのだが、指摘されると何とも言えず恥ずかしい。いい歳をして彼氏も作らずレンタル彼氏を頼むなんてと、思われているのかもしれない。
「なんか、ごめんね。こんな年上のおばさんが」
「え? 何でそんなこと言うの? 結理さん僕とそんなに変わらないでしょ?」
 居たたまれない気分に拍車がかかったのは言うまでもない。夏生はまったく信じられないといった表情を浮かべている。
「いや、私今年で三十七だし」
「えっ! 噓でしょ! ぜんっぜん見えないよ」
「あーうん、ありがとね?」
 何かを誤魔化すようにコーヒーカップを口に運ぶ。内心では嬉しい気持ちがむくむくと湧き上がっていたが、真に受けてはいけないと自分を律していた。
「嬉しいな。年上の女性、好きだから」
「そんな気つかわなくても」
「いや本当に。それに結理さん、綺麗だし」
「ちょっと、もう、やめて、本当」
 今にも人体発火してしまいそうだと、結理は顔を手で扇いだ。お世辞だとわかっていても、脳は素直に喜んでしまうようだ。
「ね、結理ちゃんて呼んでいい?」
 ――結理、ちゃん。
「そう呼びたい」
「ああ、うん、いいけど」
「僕のことは夏くんって呼んでほしいな」
「ん……わかった」
 もうどうにでもしてくれと思いつつ、口元が緩むのを必死でこらえる。学生時代にも経験していないような甘酸っぱさに包まれて、叫び出したい気分になる。
 このあからさまな「営業」にガッカリする気持ちも少しはあった。
 褒めておだててチヤホヤすればお金を引っ張れると安直に考えているのだとしたら、何ともくだらない世界ではないか。結理は、今日のこの時間を楽しんだ後は、もうレンタル彼氏を利用することもないだろうと思い始めていた。
 結理が微かに冷静さを取り戻そうとする横で、夏生もまた、トーンを抑えて口を開いた。
「本当に嬉しいな。ありがとね、結理ちゃん。僕に会いたいって思ってくれて」
「そんな、大げさだよ」
 ただのやけくそで予約をしたなんて、とても言えない雰囲気だ。
 夏生は、そんな結理の本心をも見抜いているかのように静かに微笑んでいた。
「理由はね、どんな理由でも構わないんだよ。僕らに会いに来る女性たちって、多かれ少なかれ大変な思いを抱えてる人が多くってさ。仕事のこと、家庭のこと、将来のことで悩んでたり苦しんでたり。そんな中、僕を選んで僕に会いに来てくれた。だから僕は、結理ちゃんの望みを叶えて幸せにしたい。結理ちゃんの心を救う支えになりたいんだ」
 心を救うとは、なんとも大それた発言である。客でしかない、まして会ったばかりの自分の支えになりたいだなんて。結理は不思議そうな顔をした。
「僕には、何でも話してくれていいってこと」
 夏生の手が、結理の手にそっと重なる。
 最初に手を繫いだ時よりも、ずっとゆっくり、深く、夏生の体温が染み込んできた。
 ――そっか。別に、変な見栄とか言い訳とかしなくていい相手なんだもん、ね。
 リアルの生活に無関係の他人だからこそ話せることもある。女性客の多くはそうやって彼らに話を聞いてもらっているのかもしれない。もちろん、何もかも嫌なことを忘れてただ好みの男の子と騒ぎたいという場合もあるに違いないが。
 結理は、夏生の「何でも話してくれていい」という言葉を待っていたような気さえした。
 一気に肩の力が抜けて、結理はぽつりぽつりと話し始めた。
「どこから、話したらいいのか……」
「うん。結理ちゃんの話したいこと、どこからでも聞くよ」
「私ね、父親にダメな娘だと思われててさ」
「それは、悲しいね。でもどうしてそう思うの?」
「仕事がね、父親の望むようなちゃんとした職種じゃないから、かな」
 ここ数日の父親とのやり取りが瞬時に思い出されて情けなさと悔しさが募る。結理は先ほどまでとは違う意味で、表情を崩さないよう努めた。
「安定しない仕事なんだよね。シナリオライターしてるんだけど」
「えっ、すごいお仕事じゃないの? 僕は詳しくないけど、誰でもできることじゃないと思うし」
「業界的にはね、意外とたくさんいるんだよ、シナリオライターって。それに私、全然有名とかじゃないし」
「でも、それで生活してるんだよね? 僕はやっぱりすごいと思うな」
「ううん。もうね、ほんと、全然すごくはないの」
 ははは、と乾いた笑いが喉に張り付いた。
 今の職に就いたのが三十を越えてからだったこと、この歳になって代表作だと堂々と明かせる経歴を作れていないこと、それもあって父親から転職を迫られていること、そのつもりは毛頭ないのにキッパリ断れないでいること、せめて大きな仕事で成功すればと思うのにチャンスを前に尻込みしていることを、結理は物語を聞かせるように話し続けた。いかにもな作り笑いが浮かんでいた。
「あれなんだよね。姉は若いうちに結婚して家庭に入ってるし、弟は大手企業に勤めてて安泰だし、それにくらべてお前はって思われてるのも無理ないんだよね」
「結理ちゃんだって立派に働いてる。それを認めて欲しかったよね」
「でもほら、私なんて結婚はとっくに諦められてるし、仕事もこんなだし。親としては心配でしかないんだろうなって」
「一人でずっと頑張ってたんだね。偉いね」
 夏生の大きな手が、頭をそっと撫でていく。
「私……頑張れてる、のか、な」
 結理は声を震わせた。
「頑張ってる。すごく頑張ってるよ。そう言って欲しかったんだよね」
 小さい生き物に触れるような手つきで、夏生は頭を撫で続けてくれた。それがあまりにも優しくて、たちまち喉が苦しくなる。呼吸が浅くなり、胸が圧迫されてしまう。息を上手く吸い込むこともままならず、次の言葉を継ぐことが難しくなった。もうずっと鼻の奥にツンとした痛みが走っている。結理は、両の瞳から涙を零すのを止められなかった。
「が、頑張ってるねって、パパに、言われたかった」
「うん、そうだよね。褒められたかったよね」
「なんで……パパは私だけ、いつも褒めてくれない」
「辛いよね。悲しかったよね」
「子供の頃から、お姉ちゃんと弟ばっかり、で」
 言いながら、心のどこかで引っかかっていたものの正体を知った。父親に対して抱え続けた愛情の飢えを、結理は三十七歳にして初めて自覚した。
 苦しくて息を吸い込めない。だけど、こんなところで泣き声をあげることなどできるはずもない。人目も憚らず、いやそれよりも初対面の男の子を前に涙を流し続けていること自体普通じゃないと思う。しゃくりあげそうになるのを必死で堪えて、結理は喉の奥をギリギリと締め付けられるような痛みに耐えた。
 ――これ以上泣いたらダメ。
 糸は、驚くほど簡単に、ぷっつりと切れた。
「泣いていいんだよ。僕の前では我慢しなくていいからね」
 物理的な圧迫感に脳みそが揺さぶられた。
 夏生が、文字通り結理の体を包み込んでいた。筋肉質な腕の力と熱が、体の強張りも震えも溶かしていくようだ。赤ん坊をあやすような声色に、取り繕っていた大人としての自分があっさりと崩れてしまった。
「偉かったね。頑張ったね。いい子だね」
 繰り返される言葉と背中をトントンと叩く感触に、ついに結理がごくごく小さな嗚咽を漏らし始める。夏生のくれる言葉は、体温は、安心感は、幸福感は、ずっとずっと子供の頃から欲しくて欲しくて、狂おしいほど熱望していたものたちだったのだと、結理は理解した。
 夏生の腕の中で、結理はすっかり幼い子供に返っていた。
「わたし、いいこかなぁ?」
「いい子だよ。結理ちゃんはとってもいい子だね」
「う……ん」
 夏生の背中に回した手に、ぎゅうっと力を込めた。瞑った目の端からは、今も涙が滲み続けている。脳の奥がふわふわのトロトロになりそうで。ああこれが幸せというのかもしれないと結理は思った。
「これからは僕が、結理ちゃんの側にいるからね」
 砂糖を直接かじった時のような、強烈な快楽が耳から脳へと駆け巡る。
 結理はこくんと頷いて、今はただ、自分をあやす夏生の手に身も心も預けることにした。

 その日の夜、夏生と別れ自宅へと戻った結理は、夕飯もそこそこに早めに入浴を済ませて眠りについた。布団の中に入って数分もしないうちに意識を手放したのは、久しぶりのことだった。
 翌朝、目覚ましが鳴るよりも早く目覚めた結理の頭はスッキリと冴えわたっていた。
 腹の奥からふつふつとやる気が湧き上がる。
 ――早く書かなきゃ。書きたい。書こう。
 居ても立っても居られず飛び起きて朝食代わりのインスタントコーヒーを淹れると、結理は寝間着のまま仕事部屋のパソコンを立ち上げた。
 開いたのは、昨日まで真っ白のまま一文字も刻まれることのなかったWordファイル。
 肺にたっぷりと空気を送り込み、結理の手が静かにキーボードに置かれる。
 本当に書けるだろうかと、ほんの少し緊張が走る。
 その時、デスクに置いた携帯電話の液晶画面にポンと、メッセージアプリからの通知が現れるのが見えた。
 送り主の名は、村上夏生。
 二人は昨日の別れ際、連絡先を交換していた。
 驚きと喜びで、結理の心臓はトットット……と、音を立てていた。
『結理ちゃん、お仕事頑張ってね! 結理ちゃんなら、絶対大丈夫だよ』
 僕がついてるから――。
 夏生の声が頭の中で再生される。
 結理はすぐさまお礼の返事をして姿勢を正すと、今度こそ文字を打ち始めた。
 物語は淀みなく結理の手を動かし続け、プロットはその日のうちに完成した。

 日に数回のメッセージの応酬は、すぐに結理の日常と化していった。
 プリンセスタイムのWebサイトに、最初に夏生の口コミを書いてからまだ十日と経っていないのに、すでに三回目の予約を間近に控えてもいた。
 夏生は、こんなに短期間に何度も結理に呼んでもらえることを、心から喜んでくれているように見えた。それが嬉しくて、結理は仕事の合間を縫って夏生との時間を捻出した。
『大丈夫? 仕事、忙しいんでしょ? 無理しないでね』
『大丈夫だよ。むしろ、時間が限られてるほうが集中できるとこあるし』
『そっか。僕、役に立ってる?』
『すごく』
『よかった。それが一番嬉しい。早く会いたいね』
 ――私も、早く会いたい。だから、仕事きっちり進めなきゃ。
 少しやり取りするだけで、結理のモチベーションはわかりやすいほどに上がり、仕事への集中度もアップしていた。
 夏生との時間を、結理はハッキリ心待ちにしていた。ただ、自分が夏生に向ける気持ちがどういう類いのものであるのかについては曖昧にしていた。三回目の予約を翌日に控えた夜を迎えるまでは。
 結理は、その日進めるべき業務の全てを終え、夏生とのデートに着ていく服を選んでいた。
 いつものように夏生からのメッセージが届いたのは、その最中のことだった。
 きっと、明日の待ち合わせについてのリマインドだろうとアプリを開くと、文字面からもわかるほど落ち込んでいる様子のメッセージが送られてきていた。
『今、通話したらダメ?』
 予想外のリクエストに、一気に全身に血が巡る。
 事情はまったくわからないが、夏生に求められていることだけは間違いないと確信した。
 結理は、微かに震える手で夏生への返信をしたためた。
『どうしたの?』
『結理ちゃんの声が聞きたい』
『いいけど、何かあった?』
 メッセージを送信して数秒もしないうちに、アプリが音声通話を求める画面に切り替わった。
 ――ほんとに掛かってきた!
 思わず携帯電話を取り落としそうになる。心臓の鼓動がどんどんスピードをあげていく。夏生から電話がかかってきたという、それだけの事態に、結理は呼吸もままならない緊張を覚えていた。
「あ、もしもし」
 結理の声は上ずっていた。
「結理ちゃん、ごめんねいきなり」
「ううん、全然平気だけどビックリした。急にどうしたの?」
「俺ね、今日仕事で別のお客さんと会ってたんだけど」
 彼の言葉は、結理の予想の遥か彼方の方向から飛んできた。「俺」「別のお客さん」という、二つの聞き慣れないワードにちょっとした衝撃が走る。プライベートを強く思わせる一人称と、初めて本人の口から聞いた他客の存在に、結理は複雑な思いを抱かずにはいられなかった。相槌を打ちながら部屋の隅に置いていたヒーターの温度を上げる。少しばかり体が冷えていた。
「でさ、お客さんと別れて帰るって時に、財布ないのに気付いた」
「えっ?」
 盗難ということなのだろうか。
 結理が確認するより先に、夏生は疑念を否定した。
「なくなったのは、たぶん待ち合わせの前。少し時間あまって、だから適当なお店に入ってたんだけど、そこでだと思う」
「そう……なんだ」
 何と返すべきなのか、言葉が上手く出てこない。結理にできるのは、一般的な手続きに関するアドバイスだけだった。
「と、とりあえず警察に届けたほうがいいよ。あと、カードとかは止めて」
「今日はもうこんな時間だから明日、結理ちゃんに会う前にやっとく」
 夏生の声は、ひどく落ち込んでいた。
 財布を失くすなんて災難にあえば、誰だって落ち込むだろうと思う。が、それ以上の何かがあるような気がした。
「もしかして、誰かにもらったものだったとか?」
「……うん。二十歳になったときに母親にね。俺、それまで親からプレゼントらしいプレゼントとかもらったことなくてさ、だから」
「それは、悲しいね」
「ほんと、めちゃくちゃ悲しかった」
 夏生が今抱えているだろうやるせなさには、結理も覚えがあった。中学生の頃、初めて父親が自ら選んでくれた時計をうっかり落として壊してしまったことがあるのだ。大事に大事に使おうと思っていたのに。父親に失望されるのが怖くて、結理はその時計を壊れたまま机の奥にしまい続けていた。今も、貴重品類をまとめている棚の中で、時計は眠っている。
 夏生の悲しみは、いつかの自分の悲しみである。
 そう思うと、途端に胸がきゅうっと締め付けられるようだった。
「……甘えたい、な」
 か細い声が携帯電話の向こうから聞こえてきて、結理は泣きたくなった。
 どうして今、ここに夏生がいないのだろうかと歯がゆさに全身がチリチリする。飛んでいけるものなら、今すぐに夏生のもとへと向かいたい。
 時刻はすでに夜の十一時を回っている。夏生がどこにいるのかわからないが、これから会いに行くという選択は現実的とは思えなかった。
「ごめん結理ちゃん、俺変なこと言ったよね」
「ううん……ううん! 私こそ、ごめん。何で私、今、夏くんと一緒にいないんだろう」
「それは、仕方ないよ」
「でも、悔しい」
「ありがとね、結理ちゃん」
 間もなく家に到着するからと電話を終えた夏生からは、すぐさま、心配をかけて申し訳ないという謝罪と、話を聞いてくれたことに対する感謝を述べるメッセージが届いた。
 結理もまた、自分の力不足を嘆きつつ、頼ってくれたことへの喜びを綴った。
 財布が見つかろうと見つかるまいと、新しいものを夏生にプレゼントしよう。結理は、そう決めていた。

 一緒に選んだ財布を、改めて手に取った夏生の顔が輝く。結理は心から満足した。何か、特別な絆が生まれたような……そんな充足感に包まれていた。
「俺、こんないい財布持ったことないから、本当に嬉しい」
「良かった」
「ありがとうね、結理ちゃん。俺、結理ちゃんに出会えて本当に幸せだよ」
「私もだよ」
 いや、私こそが幸せなのだと、結理は思った。
「夏くん」
「ん? なあに?」
「好き」
 結理の言葉に夏生は少し驚いて、だけどすぐにふにゃふにゃと顔をとろけさせた。
「嬉しい」
 照れ隠しのように抱きついてきた夏生が、大きな子犬のようで。結理は、腕の中の幸福を力いっぱい抱きしめた。
 結理にとって、夏生は「レンタル彼氏」から「好きな男」へと変わっていた。
 それでもまだ、自分が客の一人に過ぎないという意識はどこかにあった。
 夏生との時間を過ごすためにお金を払う。口コミを書く。飽き足らず、結理はレンタル彼氏ユーザーと銘打って、SNSのアカウントを新たに作った。そこで、夏生に対する溢れんばかりの想いを綴った。かつて自分が抵抗感を覚えながら見ていた、レンタル彼氏について熱っぽく語るユーザーの一人になったのだ。もちろん、相手が夏生だとは明示せずに。
 SNSで、持て余すほどの恋心を発散するようになったことは、結理に悪い結果をもたらした。営業の一環として夏生が使用しているアカウントをフォローしたせいで、他の女性客たちの存在をまざまざと知るところとなってしまったのである。
 夏生の呟きをいち早くチェックしてリアクションしている女。
 夏生と公に交流を図っている、見込み客。
 夏生がプライベートで訪れるお店に、自分も行ったことを匂わせるユーザー。
 噓か本当か、SNSの世界を覗けば覗くほど怪しげな情報を摑めてしまう。匿名の掲示板には、それ以上の虚実不明のエピソードが飛び交っていた。そのひとつひとつの情報の真偽を確かめる術はない。そもそも夏生に関する話かどうかも、不明なのだから。
 溢れるほどの情報は確実に結理の精神状態を蝕んでいった。
「結理ちゃん、SNSなんてあんまり見ないほうがいいよ」
「うん、わかってるんだけど。そうなんだけど」
「俺、噓つかないから。てか、つけないから。だから気になることがあったらSNSなんかチェックしないで、全部俺に聞いてよ。ね?」
 諭された直後は夏生の言う通りだと気持ちが落ち着くが、どうしても気になってしまう。
 自分と会っていない間の夏生の様子を知りたくて、仕事中も携帯電話を手放せなくなっていた。一時間のうちに何度もSNSとレンタル彼氏の匿名掲示板をチェックし、夏生からの返信を待つ日が増えた。反比例するように、夏生からの連絡頻度は低くなっていった。
 当然のように、結理は仕事への集中も欠くようになった。くだんのコンシューマゲーム案件も、ようやくプロットが通ったというのに、そこから先の作業が一向に進まない。さらには、他の定期案件でも、細かなミスを重ねる事態に陥っていた。
 意を決して他に太いお客さんでもついたのかと尋ねてみたが、夏生は「結理ちゃんが一番会ってくれてる大事な人だよ」と笑った。
 安心して別れた次の日、いつものように口コミを書こうとプリンセスタイムのホームページを開いて、愕然とした。プライベートの友人と約束があるからと十九時前には解散したはずの夏生と、会っていたらしい客の口コミが載っていた。二十代にカテゴライズされた、いつも詳しすぎるデート内容を書く女の口コミだ。結理は自分と数日違いで口コミが連投されるようになったこの女の存在も、引っかかっていた。数えてみたら、自分と彼女の口コミ数はまったく一緒だった。この日は、クリスマス・イブだった。
 夏生が噓をついた。
 頭の中で言葉にしてしまうと、胃の奥がずっしりと重くなり冷や汗が浮いてきた。体の末端という末端から血液が引いていく。指先が、氷のように冷たい。
 受け入れがたい事実に、結理は何も考えられなくなってしまった。思考が、どんどんボンヤリしていくようだった。
『ねえ、なんで友達なんて噓ついたの? お客さんに会ってたんじゃん』
 脳髄を通さず、指先が勝手にメッセージアプリに文字を打ち込んでいく。
 送信ボタンを押して数分待ってみたが、夏生からの連絡はこない。
 そうして一度メッセージを送ったら、結理は自分を止められなくなってしまった。
『私が一番大事なんて噓じゃん』
『夏くんは、私より他のお客さんを優先したんだね』
『やっぱり私ってただのATMなの?』
『だから最近連絡くれなくなったの?』
『夏くんの言ってた、私を幸せにしたい、支えたいって何?』
『今まで夏くんが言ってたこと全部噓なら、私もう無理だよ』
『つらい』
『もうダメなのかな』
『私のこと嫌になった?』
『ここが引き際なのかな……』
 十分と間をおかず、結理は夏生にメッセージを連投し続けた。ひとしきり心情を吐露し尽くした後は、指一本動かすことができず、部屋の中でうずくまった。
 今日は定期案件の納品があったはずだと理性が働きかけるも、体がどうしても反応してくれない。結理はとうとう、シナリオライターになって初めて締め切り当日に納品が間に合わない旨をクライアントに伝えることとなってしまった。
『連絡遅くなってごめん。ちょっと実家に用があって』
 夏生から返信がきたのは、すっかり外が暗くなってからだった。
『実家じゃなくて、お客さんじゃないの』
 追及する意味などないとわかっていながら、棘のある言葉を抑えられない。疑念と怒りと悲しみの煮凝りのようになった自分の衝動を抑える方法など、結理にはわからなかった。
『今日は本当に実家だよ』
『今日は、ね』
『ごめん。結理ちゃん気にすると思って言えなかった』
『噓つかないって、噓じゃん。夏くん、噓ばっかり』
『結理ちゃんのためにだよ?』
 意味のないやり取りが続いて、結理のイライラはますます募った。これ以上何を話しても無駄なのかもしれないと思い始め、虚しさに襲われた。「もういい」という言葉が、まさに喉まで出かかっている。
 その四文字を打つべきか否か迷っていると、先に夏生からのメッセージが届いた。
『今どこにいるの? 会いにいく』
 ――え、本気で?
 これまで夏生とデートを重ねてきたのは、結理の自宅から一時間程度かかる場所が多い。夏生の家と結理の家との中間地点だと、彼が言ったからだ。夏生の家がどこにあるのか詳しくは知らないが、結理の家まで片道二時間近くの距離であることが推測される。
 もう夜は更けてきている。今から来たとしたら、帰りはどうするつもりなのだろう。
 この期に及んで夏生の心配をしてしまう自分が愚かしくなり、結理は住所だけを報せることとした。本気で来るなら来てみろと、どこか挑戦的な気持ちもあった。
『わかった』
 その返事を最後に、夏生からのメッセージは途絶えた。
 本当にこちらに向かっているかと確かめたいが、聞くのは躊躇われた。こちらから状況を確認するなんて、負けな気がしたからだ。
 次第に、結理はソワソワと夏生の到着を待ち始めた。
 会ってどうすればいいのだろうとも思う。夏生が何をしにここへ来るのかも、疑問である。他客に嫉妬した自分を切り捨てるだけならば、わざわざ会いに来るわけがない。期待する一方、結局さよならをするだけなのではないかという恐怖もある。やはり、夏生を手放したくないという思いが湧き上がる。
 結理は小さく丸めた自分の身体を両手でしっかりと抱きかかえながら、時計の針が動いていくのを凝視した。カチコチと鳴る音に意識を集中させ、叫び出しそうになるのを何とか堪えていた。
 二時間ほどして、家の玄関チャイムが響いた時は心臓が破けるのではないかと思ったほどだった。
 能面のような顔を引っ提げたまま玄関扉を開ける。冷たい北風が吹きこんできたが、結理の手はそれよりさらに冷たかった。
 夏生は、いつだか見た、叱られた子犬のような目をして立っていた。
「お待たせ」
「とりあえず、どうぞ」
「お邪魔します」
 何でもないやり取りの声も、心なしか弱々しく幼さが目立つ。
 狭いリビングに夏生を通し最低限のおもてなしをしてから、結理も適当な場所に座った。
 重い沈黙が二人を包む。体を押しつぶすような沈黙だ。
 どちらから口を開くべきなのかと迷って、結理はきっかけを待っていた。
「ごめんね」
 先に沈黙を破ったのは、夏生だった。
「ごめんね、俺、不器用で」
 返す言葉を見つけられないまま、結理は夏生に顔を向けた。
 夏生の、黒々とした大きな瞳が哀しそうに揺れている。
 ――ずるい。
 端的にそう思った。
 ずぶ濡れの子犬。飼い主の許しを待つ子犬のような顔だ。大きな体が、自分よりもはるかに小さく縮こまっているように見えた。
「なんか結局、私はただのお客さんでしかないんだなって思っちゃって」
「俺にとっては本当に大事な人だよ?」
「夏くん、噓つかないって噓ついたし」
「ごめんね。嫌な思いさせたよね」
 夏生の謝罪がねっとりと絡みつく。結理は、謝るよりも言い訳をして自分こそが唯一無二の大事な存在なのだと主張してほしかった。
 そんな結理にとって、夏生が次に発した言葉は希望を打ち砕くものだった。
「結理ちゃんが辛いなら、もう終わりにする?」
 幸せにしたいと言ったのと同じ口で、別れを示す言葉を吐かれるなどと到底考えていなかった。心のどこかで、夏生は絶対に自分を放さないだろうという自信があったのかもしれない。初めて会ってからまだひと月と経っていないが、それだけ夏生にお金をかけてきた自負があったからだ。夏生が頼るのも、自分だけなのだろうという考えもあった。なのに。
 ――ああ、終わった。
 結理は脳天をかち割られたかのような衝撃と、気絶に近い急激な眠気に襲われて瞳を閉じた。

 通い慣れた駅の改札を出て、人混みをさけるように壁際に立つ。
 駅周辺には、営業の途中らしき会社員たちの姿があった。
 ――こんな寒い中、大変そうだなぁ。
 一月も終わろうというこの日は、例年よりも低い気温と北風の強さが相まって、特に寒さが厳しかった。
 かじかむ両手をこすり合わせてからコートのポケットに手を突っ込むと、中で携帯電話がブルブルと震えていることに気づいた。
 電話は、父親からである。
「もしもし」
「おう、どうだその後」
 相変わらずの人を小バカにするような色を含む声である。
「どうもこうも仕事してるよ、ちゃんと」
「経理の仕事な、まだ募集の枠はあるんだぞ?」
「やらないって。言ったじゃん」
「後悔しないのか?」
「するわけないじゃん。むしろ、今やってる案件から離れるほうが絶対後悔するから」
 結理は、コンシューマゲームの案件が順調に進んでおり、今後は名を売れるような仕事を増やすべくより業務に邁進するつもりでいることを、すでに父親に報告していた。
「とにかく私、この仕事辞める気ないからね。じゃ」
 電話の向こうで父親がまだ何か言いたそうにしている気配を感じたが、結理は一方的に通話を終えた。もう、父親から認めてもらう必要はない。
 せっかく楽しみにしているところなのにと、ため息をつく。
 すると、結理の憂鬱な気分を払う一通のメッセージが届いた。
『結理ちゃん、あと五分くらいで着くからね』
『早く会いたいね』
 続けざまに届いた彼からのメッセージに自然と顔が綻ぶ。
 夏生から終焉の言葉を告げられたかと思った結理だが、二人は関係を解消してなどいなかった。
 あの夜の、あの言葉の続きを、結理は脳内で静かになぞり始めた。

   *

「結理ちゃんが辛いなら、もう終わりにする?」
 全ては終わったと結理は考えた。
 脳天を鈍器でかち割られたような衝撃と、直後に襲いくる強烈な眠気に瞳を閉じる。眠いのは、これ以上考えることを脳みそが拒絶したからに違いなかった。
「も、ダメって、こと?」
 リビングのカーペットに吸い込まれそうな声を零すと、一気に喉が締め付けられた。ここで泣くのは卑怯だと奥歯をぐっと嚙みしめても、眉間のあたりに力を入れても、目の縁からぽろぽろ落ちていく雫を止めることはできなかった。
 ――ああもう、本当にダメなんだ。
 無言の返答を前に結理は唇を震わせたが、そうはならなかった。
「おいで」
 声が、意味を持たないただの音として聞こえてきて、結理が不可思議なものでも見るように夏生に視線を送る。
「ん」
 夏生は、両手を開いて待っていた。
 ――え? え?
 彼は自分とさよならをしにきたのではないのか。これは別れの抱擁ということなのだろうか。上手く考えることができず、感情が求めるままに夏生の胸に飛び込んでいた。
 途端に、喉の奥から嗚咽が溢れて、結理は上手く息を吸うことができなくなってしまった。
「あ……うあ、ひぃっ、うぇぇ」
 幼い子供のように泣きじゃくってしまいそうになるのを、耐えて耐えて、我慢できずに肩を揺らした。
「ごめんね、嫌だったよね。我慢しなくていいんだよ。泣いていいんだよ」
 ひとしきりわんわん泣きわめく結理の身体を抱きしめながら、夏生は背中をゆっくりさすり続けた。
 ほんのりと夏生の汗の匂いがする。ここへ駆けつけるために急いでくれたのかなと思うと、やはり嬉しさが込みあげた。夏生の、ナマの匂いを結理は深く吸い込んだ。
 少しして、結理のしゃくりあげる声が小さくなると夏生は静かに囁いた。
「俺は、もうダメだなんて思ってないよ」
「だって、でも、お、終わりにするって」
 結理のしゃべり声は、舌足らずな子供そのものだった。
「結理ちゃんが、本当に辛いならそのほうがいいのかなと思ったんだけど。でも、俺はお別れなんてしたくないよ? 結理ちゃんは、バイバイしたい?」
 夏生の胸にうずめた頭を横に振る。結理とて、さよならするのは不本意なのだ。
「じゃあ、一緒にいよ」
「でも……」
「ちゃんと聞いたことなかったけど、結理ちゃんは俺とどんな関係でいたい?」
 本当のことを言えば、今度こそ呆れられるのではないかと結理は口をつぐんだ。
「恋人がいい? それとも」
「それが、いい」
 今まで確かめるのを避けてきたが、結理はやはり夏生と唯一無二の関係を築きたかった。たとえそれが、この先もずっと、お金が介在する関係だとしても。
「そうする?」
 こくりと、頷く、
「じゃあ、今から結理ちゃんは、俺の彼女ね」
「うん」
 夏生と出会ってからずっと、欲しくて欲しくて、狂おしいほど望んでいたものが、結理の手に転がり落ちてきた。

 結理と夏生は、関係を続けていくためにいくつかのルールを作った。
 結理はSNSの利用を止めること。
 二人でいる時は、ペアリングをすること。
 週に一度は会うこと。
 夏生がレンタル彼氏の仕事を続けることに反対しないこと。
 ルールは、すぐさま運用されることとなった。

   *

 改札からどっと人が吐き出されてくる。流れに交ざって、夏生もやって来ることだろう。
 結理は、ポケットにしまっていたペアリングを左手の薬指にはめた。
 普段はつけないのは、結理のせめてもの線引きのつもりだった。
「結理ちゃん、お待たせ!」
 飼い主を見つけた子犬のごとき勢いで、夏生が走って来る。もちろん、彼の左手の薬指にも指輪が光っていた。
「大丈夫、全然待ってないよ」
「でも寒かったでしょ。はい」
 すかさず夏生は結理の手を取った。
 相変わらずの高い体温。夏生の熱が、繫いだ手を通してじわじわと広がることに結理は幸福を感じていた。
「そういえば、仕事の調子どう?」
「順調! 今ね、シナリオの初稿を書き進めてるんだけど、いける感じがする」
「そっか、良かった。結理ちゃん頑張ってるもんね。偉いね」
「うん」
 夏生に褒められて、結理の表情はどんどん幼くなっていった。
 夏生に褒めてもらえるなら、どんなにきつい案件でもこなしていけそうだと思った。
「でも、無理はしないでね」
「無理って?」
「仕事を詰め込みすぎないで。それに」
「お金は、大丈夫。私、いっぱい仕事して稼ぐもん」
「……そっか」
 貯金は、少しずつ減らしてしまっているがまだ尽きてはいない。それに、宣言通り仕事量を増やしていけば問題ない。
 今の結理にとっての一番の問題は、夏生と会う時間が減ってしまうことにある。
 ――まだ、大丈夫。絶対、大丈夫。
 結理は自分に言い聞かせた。
 これから先の、自分の将来を思うと、ずっとこのままではいられないことくらいは理解している。いつかは、さよならする時が来てしまうのだろう。だけど今は。今だけは。
「結理ちゃん?」
「ううん、何でもなぁい」
 えへへと笑って、結理は夏生と繫がる手にギュッと力を入れた。
 すぐさま夏生がギュッと握り返してきて、結理はまた、えへへと蕩けた笑みを浮かべた。
 歩き出す夏生の横顔を見上げて、結理は少しだけ胸の痛みを感じていた。
 夏生の言った「恋人」が本当は何を意味しているのかは、とても聞けそうになかった。


【20×0年4月〇日 年齢:三十代Y ★★★★★】

 今日もありがとうございました。
 夏生くんとお会いするのは、これで通算15回目かな。いつも楽しい時間をありがとう。
 特に今日は、夏生くんの提案で急遽お花見スポットに連れて行ってくれて。
 もう感激でした!
 歩きながら見る桜がすごく綺麗で、特別な思い出になりました。
 また来年も一緒にお花見しようね。
 いつも私に特別な時間と思い出と幸せをくれる夏生くんが大好きです。これからも、ずっと夏生くんと一緒にいられるように頑張るね。


第二章 まゆ

 マイクを片手にバラードを丁寧に歌い上げる夏生の姿に、田所たどころまゆは熱のこもった視線をぶつけていた。
 ――なつの歌声、やっぱり最高。
 選曲は、まゆが数年前からハマっている人気韓国アイドルグループのヒットソング。メインボーカルを務めるメンバーの高音パートが美しい、寂寥感たっぷりの曲である。
 ――発音も完璧だし、裏声もめっちゃキレイだし、マジでカッコいい。
 歌唱力だけではない。夏生は、そのルックスからして完璧であるとまゆは考えていた。
 身長は百七十七センチといったところだろうか。本家の韓国アイドルたちと比べると平均中の平均でしかないが、日本の男たちの中ではやや高いほうである。
 ――でも、わたしは別にそこまで高身長にこだわってないし。
 日本のアイドルとは違う、どこかサッパリとしたキラキラしすぎていない顔立ちもまゆは気に入っていた。黙っていると少し冷たそうな印象なのに、笑うとふにゃふにゃに可愛くなる。それを見ると、フルーツたっぷりのデザートプレートを食べる時のような、幸せな気持ちになれた。
 襟足を短く整えた艶のある黒髪も好きだった。柔らかそうな髪をくしゃくしゃにしてしまいたくなる。
 それから、適度に筋肉がついているところも高ポイントと言えた。
 ――ガリガリもデブもマジ論外だから。
 決してマッチョなわけではなく、それでいて細すぎない、思わず抱きつきたくなるような夏生の体形が、まゆは好きだった。特に、Tシャツの半袖からのぞく逞しい二の腕と、きゅっとしまった腰が絶妙なバランスで。まゆは夏生に会うたび、そのスタイルの良さにため息を漏らすほどだった。
「全然聞いてないじゃん」
 頰杖をつきながらうっとりと見つめていたまゆに、夏生は不満げな声を隠さなかった。
「聞いてる聞いてる」
「バラード飽きた。盛り上がるやつにしよ」
「えーいいとこなのに」
 まゆの抗議など耳に入っていないかのように、夏生がカラオケの演奏中止ボタンを押す。サビに向かって盛り上がっていたメロディがぷつりと切れて、そう広くないカラオケボックスの一室が静まり返る。かと思ったら、またすぐに次の曲の演奏が始まった。今度はラップがメインのアップテンポの曲だ。
「わ、ヤバい!」
 思わず声が漏れ出た。
 夏生の選んだ曲は、一週間ほど前にまゆが最新のお気に入りソングとして教えたばかりのものだった。
「ほら、まゆも」
「え、ムリムリ。これめっちゃムズイやつ」
「ラップ以外のとこならいけるだろ」
 引っ張られるように立ち上がり、マイクを握らされる。
 冒頭、すぐにラップのパートが始まり夏生が歌い出した。
 ――ヤバいヤバい! マジでカッコいい!
 先ほどのバラードとは打って変わっての、低音ラップが繰り出される。それもかなりのハイクオリティで。
 アイドル顔負けのキメ顔でノリノリのラップを披露する夏生の横で、まゆはライブを観覧している時に負けないくらいの興奮を味わっていた。

「もう歌わなくていいの?」
「んー」
「疲れちゃった?」
「んーん」
 二十数曲を歌い満足したまゆは、夏生の膝の上に乗り子供のように抱きついたまま目をつぶっていた。
 夏生の首元からは微かな汗と爽やかな香水の混じった匂いがする。首に、ぴったりと鼻をくっつけるようにして、まゆは夏生の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
「めっちゃ吸うじゃん」
「だっていい匂いなんだもん」
 スンスンと鼻を鳴らして匂いをかぐたびに、夏生がくすぐったそうに身をよじる。まゆを包むように抱える手も小刻みに震えていた。
「もっとぎゅー」
「まゆは甘えんぼさんだね」
「だって好きなんだもん」
「俺もだよ」
 夏生の首に回した腕に力を込める。それ以上の力で、夏生が抱きしめ返してくる。ほどよい弾力が全身を包み込む。脳内に快楽物質が充満していくのを、まゆは堪能していた。
 ――シアワセ。
 けれどまだ足りない。
 このまま脳も体もドロドロに溶けて、夏生の一部になってしまえればいいのにと、まゆは願っていた。一ミリの隙間もなく夏生とくっついていたい。溶け合いたい。二人でドロドロのぐちゃぐちゃの塊になって「ひとつ」の何かになりたい。
 いっそ二人で死んでしまえたらいいのにと考えて、まゆは一層強く夏生を抱きしめた。
 夏生が再度、まゆに応えようと腕に力を込めたところで、突如部屋の中にアラームが鳴り響いた。
 夏生が部屋に到着してからセットしていたアラームである。
「時間になっちゃったな」
 そう言って、夏生はまゆの体を優しく引きはがした。
「あっという間なんだけど」
「だな」
「もっと一緒にいたかった」
「俺も」
 夏生が、いかにも残念そうな表情を浮かべている。残念なのは「わたしといられる時間が少ないこと」なのか、それとも「予約時間が短いこと」なのか。問い詰めてしまいたい気持ちをぐっとこらえて、まゆは鞄を引き寄せた。
「はい、これ今日の分ね」
 中からピンク色の封筒を取り出して差し出すと、夏生はうやうやしく受け取って「ありがとうございます」と頭を下げた。
 他人行儀な口ぶりに、心臓の奥がスゥッと冷たくなるようだった。
 封筒の中身を確認する夏生の姿を極力目に入れないように視線を逸らす。トラブルを回避するための決まり事だからだと理解はしているが、まゆはこの瞬間がどうしようもなく嫌いだった。大好きな彼氏が、レンタル彼氏に戻ってしまう瞬間だからだ。

 二人でカラオケボックスを出て駅まで手を繫いで歩く。
 絡めた指先に力を込めながら、まゆは目的地への到着を一秒でも遅らせようとノロノロと足を動かしていた。
 時刻は夕方の六時をわずかに過ぎたばかり。高いビルが黄金色の光を反射して、街全体を切ない色に染め上げていた。
 同じく駅へと向かう人の群れの中には、梅雨もまだだというのに汗だくになりながらスーツのジャケットを小脇に抱える会社員や、疲れた顔をした会社帰りらしき女たちの姿が多い。反対に、駅から繁華街へと向かっている若者たちは、いかにも今から始まる夜の時間を楽しんでやるぞといったオーラをまとっていた。
 駅へと吸い込まれていく人には帰る場所があって、吐き出されていく人には行く場所があるのだと思うと、無性に腹立たしい。まゆは目の前に迫ってくるターミナル駅への入り口を睨みつけた。
「いつもありがとな」
 願っても呪っても、別れの時間はやって来る。
「そんな顔すんな」
「だって」
 わかりやすく膨らませた頰を手で挟むように押しつぶして、夏生が笑った。
 ――帰りたくない。
 言ったところでどうにもならないことは、まゆが一番よく知っている。夏生ともっと長い時間を過ごしたかったら、その分の対価を払うほか方法はないのだから。
「来週末また会えるだろ?」
「そうだけど」
「ほら、ぎゅっ」
 夏生が大きく両腕を広げる。人目など一切気にせず、その胸に飛び込んできつく抱きしめると、夏生はやはりそれ以上に強い力でまゆを抱きしめ返した。
「あー折れる折れるっ」
「ぐへへへ、鯖折り」
 はたから見れば、バカップル以外の何ものでもないようなやり取りに、思わず笑顔になってしまう。くだらなくも何気ない、普通の恋人同士のようなじゃれ合いが夏生との本当の関係性を曖昧にしてくれた。
「そういうのずるい」
「嫌い?」
「……すき」
「よかった」
 こうして、いとも簡単にまゆの機嫌を直してしまう魅力が彼にはあった。まゆ自身、自分のツボを完全に押さえられているというのは恥ずかしくもあるが、とても安心できた。夏生には、自分の心を全部預けてもいいのだと、そう思えた。
「じゃあ、そろそろ行くな」
「うん」
「あんま無理すんなよ」
「してないよ?」
「……そっか」
 夏生の心配がお金のことを指しているのは理解していたが、まゆは知らないふりをした。
「じゃ、またね」
 手を振って、まゆが一人、駅構内へと向かっていく。
 しばらく歩いて振り返ると、夏生はまだこちらを見ていた。嬉しくて手を振ると、夏生もすぐに振り返してくれた。
 ふわふわした足取りで、改めて歩き出す。
 ――なつはまだ見てる。きっと見てる。わたしを見てる。見てるはず。
 改札階のある地下へ向かおうと階段を下りる手前で、もう一度振り返った。
 そこに、期待した姿はなかった。
 幸せでいっぱいにしたはずの自分という器から「ウレシイ」と「タノシイ」がどんどん抜けて、空っぽになるような。全身が氷の彫刻にでもなったような。一瞬でそんな気分になってしまう。
 夏生が駅に入らなかったのは、恐らく次の客の予約が控えているからなのだろう。なんとなく予測はついていたが、事実そうなのだと突きつけられると不快感が拭えない。
 今すぐ戻って、どんな女が夏生の前に現れるのか確かめてやりたいと思った。
 ――どうせすっごいブスかデブかババアが来るんだろ。なつがカワイソウ。
 自分の予約時間が短かったばかりに夏生が苦労するハメになるのだと、まゆは親指をギチギチと嚙んだ。
 ――もっとお金がほしい。
 貯金はもうとっくに底をついている。今、夏生に会うために工面しているお金はアルバイトで賄っていた。もっと会うためには、今以上のお金を稼ぎ出さなくてはならない。大学生活を考えると、アルバイトの時間を簡単に増やすことはできない。手っ取り早いのは、より実入りの良いアルバイトに変えることである。まゆは、少し前にバイト仲間のフリーターから、いわゆる風俗のアルバイトを勧められたことを思い出した。
 ――ムリ。絶対ムリ。デリヘルとかありえない。
 今現在やっているアルバイトでさえ気持ち悪いのにと、まゆは親指を嚙む歯にさらに力を込めた。
 改札を通る人々が迷惑そうな顔をしてまゆの横を通り過ぎていく。
「うっざ」
 冴えない風貌をしたスーツの男にあからさまに体当たりをされて、まゆは舌打ちをした。
 ひとまず改札の中へと入り駅のホームに上がる。
 鞄から携帯電話を取り出すと、ちょうどメッセージアプリが着信を告げた。
 夏生が連絡をくれたのかと期待したが、送ってきたのはアルバイト先の店長だった。
 内容は、数日後のシフトの件。新規の予約客が入ったとの知らせである。時間は午後の一時から三時間。お店のホームページを見ての写真指名であることが記載されていた。他には、待ち合わせの場所と、遅刻は厳禁であるというメッセージが添えられていた。
「ウザすぎ」
 忌々しそうに吐き捨てて、了解の旨を返信する。
 しかしこれで、来週夏生に会う分のお金は確保できたとまゆは胸をなでおろした。
 三時間。三時間だけ我慢すればいい。好きでもない、興味の欠片もない、むしろ並んで歩くことすら拒みたくなるような男を相手に、たった三時間だけニコニコ笑って彼女のフリをしていれば夏生と会うためのお金が手に入るのだ。
 レンタル彼女店「スウィートガール」のマユリになりさえすれば。
 まゆもまた、レンタル彼女のアルバイトをしていた。

 待ち合わせに現れた男の壊滅的なダサさに、まゆは心底ゲンナリした。
 ――サイアク。
 生まれてから一度も手入れをしたことがなさそうなカサカサに荒れた肌と、ボサボサの髪の毛。色あせた服はヨレヨレで、何年も着古したものだろうと推測できた。好みのタイプからかけ離れた顔なのは仕方ないにしても、見た目の清潔感くらいは何とかしろと言ってやりたい気分になる。歳は恐らく二十代後半。女と付き合った経験など皆無なのだろうと、まゆはジャッジした。
「は、はじめまして。マユリちゃん、す、すごいかわいいね。びっくりした」
 男の視線はほとんどずっと足元を彷徨っていた。
「どうも」
「それに、す、すごくお洒落だし」
 時折顔を上げて、ちらりと男が目を向けてくる。
 ――きっも。
 手入れを欠かさない長い黒髪も、オルチャンメイクとワンピースも洒落たカーディガンも、お気に入りのチョーカーアクセサリーも、お前のためではないと心の中で毒づいた。街中で見知らぬ男たちから品定めされている時と同種の不快感があったが、今は耐えるしかない。まゆは相手に聞こえないように、口の中で「一万五千円」と念仏のように唱えた。
 一万五千円――それが今日のまゆの取り分の金額である。
「あ、あの、手……手、つないでいいんですよね?」
「まぁ」
 まゆが籍を置くレンタル彼女店では、デート中の手繫ぎが基本サービスとなっている。断るわけにはいかない。
 仕方なしに男の手を取ると、緊張なのか体質なのか、べっとりと汗をかいていた。夏生の温かくて優しい手とは全然違う。瞬時に振り払いたい衝動に駆られたがやはり我慢した。そんな自分を褒めてやりたいとさえ思った。
 ――一万五千円のためだから。
 自分に言い聞かせて、まゆは歪んだ笑顔を作った。
「で、どこ行くの?」
「あ、あの、カフェとか、そういうデートがしてみたくて」
 やたら大きなリュックサックからデート特集らしき雑誌を取り出して、男は今いる場所からほど近くにあるカフェを指定してきた。オープンテラスが人気のカフェで、まゆもいつか夏生と訪れてみたいと思っていた店だった。
 話題のデートスポットに一緒に行くのが夏生以外のどうでもいい男であるというのは腹立たしいが、密室を指定されるよりはよほどマシというものだ。まゆはとりあえずの同意を示して、カフェへと案内させることにした。
 いざやって来ると、カフェは思った以上に広々とした素敵な空間だった。
 二人が案内されたのは評判のオープンテラスである。休日などはすぐに埋まってしまうらしいが、今日は一組の女子グループが座っているだけだった。
 彼女たちが向けてくる好奇の視線がうざったく、まゆはひと睨みしてから椅子に座った。
 美味しそうなフレーバーティーも写真映えしそうなデザートも頼む気になれず、一番安いコーヒーを注文する。男は、いつでも好きなものを追加で頼んでくれていいと言っていたが、どうでもよかった。
「や、やっぱこういうところのコーヒーって味違うのかな」
 取り立てて美味しくもないコーヒーを楽しそうにすすりながら、男はしゃべり続けた。話題のほとんどが仕事に関することで、まゆはひたすら適当な相槌を打ち続けていた。
 ――なんでこいつらってみんな仕事の話すんだろ。マジ意味わかんない。
 夏生ならこんな退屈な話をすることもないのにとぼんやり考えながら、まゆは手元で携帯電話をいじっていた。手慣れた様子でSNSのアプリを開き、夏生のアカウントをチェックする。最後に投稿された呟きも、他のアカウントのフォローの数も、夏生がつけた他のアカウントへの反応も、今朝見た時と変わっていないことにまゆは安堵した。自分が知らない間に夏生が他のユーザーと交流を深めることを、まゆはいつも恐れていた。
「あの、マユリちゃん聞いてる?」
「んーうん、聞いてる聞いてる」
 少しばかり機嫌をよくしたまゆが顔を上げると、男はほっとした顔を見せた。
「あのさ、さっきから気になってたんだけど」
「なに?」
「その、手首のって」
 男の指摘に、まゆの表情がみるみる険しさを取り戻していく。
 カーディガンで隠している左手首には、薄茶色の傷が何本も走っていた。
「は?」
「え、いや、あの、怪我してるのかなって思って」
「違うけど」
「じゃ、じゃあ、それってやっぱり」
「わかってんならいちいち聞いてくんなよウゼェ」
 突然トーンの下がったまゆの声色に、男は乾いた笑いを漏らしたきり俯いてしまった。

「困るんだよね」
 繁華街の隅に建つ雑居ビルの一室で、まゆは説教をくらっていた。
 前日のデートの売り上げを精算するために事務所にやって来たところを、店長に呼び止められたのだ。昨日の客がデート後にクレームを入れたらしい。店長に促されて口コミを確認したところ、評価は最低だった。
「は? サイアク」
「最悪なのは君の態度でしょ。お客さん、もう二度とうちの店は使わないって」
「デート中は普通だったくせに」
「君が怖かったからだって言われたよ」
 確かに、カフェでの一件があった後、男はずっと大人しかった。まゆはこれ幸いと、好き勝手に携帯電話をいじり時間が過ぎるのを待った。何の文句も言われなかったから、問題ないと判断していた。
「直接言えっつーの」
「そういうことじゃないでしょ!」
 舌打ち交じりのまゆの悪態に、店長は声を荒らげた。
「君さ、お金欲しいんだよね? 稼ぎたくてうちに登録したんだよね?」
「そう、ですけど」
「この仕事が人気商売だってのもわかってるよね? 店全体の評判を落とす子を置いとくわけにはいかないんだけど」
「え、クビってこと!?」
 思わず身を乗り出す。まゆは先ほどまでとは打って変わって、しおらしい様子を見せた。
「まってお願い。ちゃんとするからクビはやめて」
「今までも何度も注意したよね? お客さんへの態度を改めるようにって」
「ほんと、ほんとに今度こそちゃんとするから。クビは困る」
 今お店を辞めさせられたら夏生に会うためのお金を稼げなくなってしまう。他のレンタル彼女店を探せばよいかもしれないが、難航するのは目に見えていた。容姿こそ申し分なかったが、その態度の悪さと痛々しい手首の傷のせいでまゆはこれまで何度も採用を見送られてきた。今のお店への登録も、何店舗も面接してやっと決まったのだ。ここを辞めたらいよいよ風俗に手を出さなければならなくなるかもしれない。それだけは避けたかった。
「次に同じようなクレームがあったら、今度こそ辞めてもらうから」
 店長は呆れたようにため息をつきながら、そう言った。
「あと、今日はどうするの? 出勤予定は出てなかったけど、せっかく来たんだし待機していく? 予約が入る保証はないけど」
「お願いします」
 会釈とも言えない会釈を残して、まゆは部屋を出た。
 ――くそ。マジありえない。なんなんだよ、あの客。
 イライラと親指の根本を嚙みながら隣の部屋の扉をあけると、一斉に冷ややかな視線がまゆに集まった。事務所隣の待機室に集まっていた数人の女たちのものである。彼女たちは一様に、迷惑そうな表情を浮かべている。あからさまに馬鹿にしたような顔の者もいた。
「あ~あぁ、なんでこんなお荷物採っちゃったんだろ。ほんとメーワク」
 一人が、わざとらしく大きな声を出す。スウィートガール所属の女性陣の中では、在籍が長くリピート率の高さが抜群のキャストだ。彼女とまゆは以前から仲が悪かった。
「同じお店にこーゆーのがいると、私たちもメーワクすんだよねぇ」
「ちょっとぉ、やめなよぉ」
 他の数名のキャストたちがくすくすと同調の笑いを漏らす。
 当然、まゆも黙ってはいなかった。
「うっざ。お前に関係ねーだろ」
「そんなに客がキモイならとっとと辞めればいいのにね~。てか、そこまでして男に貢ぐとかバカみた~い」
 彼女たちのほとんどは、まゆのアルバイトの理由を知っていた。
「ホストに貢いで捨てられたって騒いで事務所でリスカとか、キモすぎだから」
「ホストじゃねーよ」
「こわ~い! てかホスト以外は認めてんじゃん」
 ケラケラ笑う彼女たちに、まゆはギリギリと奥歯を嚙んだ。
 ――何も知らないくせに。前のクソと夏生を一緒にすんな、クソが。
「うわ、やば。その目やっば。マジ怖いんですけど」
「ああ?」
「カッターとか出さないでよ? いつも持ち歩いてんでしょ? やだ~襲われちゃう~」
「は? バカじゃないの? なんでわたしがあんたみたいなブスをわざわざ襲うわけ? 時間のムダすぎて死ぬんだけど」
「ブスにブスとか言われたくないんだけど!」
 まゆの言葉に逆上した彼女が勢いよく立ち上がり、待機室の空気が一気に張り詰める。
 いよいよ摑み合いの喧嘩でも始まるのではないだろうかと、周囲のキャストたちが固唾をのんで行く末を見守っていた。
 緊張は、唐突に扉を開けて顔を覗かせた店長の吞気な声でかき消された。
「ゆずちゃん、今から会いたいって問い合わせきてるけどどうする~?」
「あっ、もちろんOKでーす」
「じゃあ場所と時間確認するから準備よろしく~」
「じゃ、お先~」
 そう言って、彼女はまゆに勝ち誇った顔を見せて待機室を出て行った。
 ――クソブスのくせに。
 舌打ちをして、まゆは部屋の隅に腰掛けた。周囲のキャストたちはまゆの存在を「無視」する形で受け入れていた。
 そんな中、一人だけ積極的にまゆに話しかけてくるキャストがいた。
 少しぽっちゃりとした彼女はまゆより年上のフリーターで、以前風俗のアルバイトを勧めてきた女である。
 彼女はいつも、目が痛くなるほどのタバコの臭いをさせていた。
「ガラ悪いよね、ゆずも。やっぱ店が悪いと変な子が集まっちゃうのかな」
 彼女はこうしてよく、スウィートガールの文句を口にしていた。所属したものの、なかなかお客がつかず売り上げが伸びないからなのは見え見えだった。運営の方針に対しても、彼女は物申したいことが山ほどあるようだった。
「そもそもレンタル彼女なのに待機室とか作ってて、運営もやばいもんね。普通待機とかないのに。これじゃ風俗と一緒だよ。営業許可取ってるって謳ってるけど、噓だったりして」
 ぼそぼそと小さい声で一方的に吐き出される彼女の愚痴を、まゆはひたすら聞き流していた。彼女の話の展開はいつも決まっている。この後は「いっそ風俗やったほうがいいかなぁ?」「マユリちゃんもそう思わない?」「ねえやろうよ」と迫ってくるのだ。
「マユリちゃん、ホストにお金使うんだったら風俗のがいいって~」
「ホストじゃないってば」
「レンタル彼氏なんてホストと変わんないよ。金使わせるために何でもするよあいつら」
 彼女の言う事は一理あった。
 これまでまゆが出会ってきたレンタル彼氏たちは皆、指名を繰り返すたびに要求が大きくなっていった。やれランキングに入りたいだの、誰々に負けたくないからロング指名してほしいだのと。彼らはまゆが頑張れば頑張るほど、要求を増やした。当然まゆも彼らに求めるものは大きく膨らんでいく。ここまでお金を使う太客なのだからと、まゆもわがままを繰り返した。SNS上で見つけた被り客を切るように迫ったり、他客との時間を変更させたりなんて日常茶飯事だった。いずれ彼らはまゆを持て余すようになり、対応はどんどん冷たくなっていく。怒れば怒るほど、泣きわめけば泣きわめくほど、彼らの心は離れていった。そうして、寂しさと怒りとで自分を見失ったまゆが最後に必ず起こすアクションが、狂言自殺だった。
 死んでやるとわめいて男の前で手首を切りつけると、彼らは一様に青ざめた顔をして、それがみるみる嫌悪に変わっていく。そうなったら、何をどうあがいても元の関係性に戻ることなどないと、まゆはよく知っていた。
 けれど、夏生は……夏生だけは違ったのだ。
 ――なつだけはわたしを否定しなかった。わたしを受け入れてくれたんだもん。
 夏生と初めて会った日のことを、まゆは今でもよく覚えていた。

   *

「なんでわたしを捨てるの!? あんなに金使ったのに!」
 その日、都内のカラオケボックスの一室で、まゆは丁寧に施したメイクがグチャグチャに崩れるほど泣きわめいていた。
 隣には、静かに、ただじっと話を聞いてくれる夏生の姿があった。夏生は、自身が巻いていたマフラーを止血帯代わりにして、まゆの左手首を押さえ続けていた。マフラーを汚した血は、すでに止まっているようだったが夏生はまゆの腕を放さなかった。
「どうせあんたも、キモイと思ってんでしょ!」
「そんなこと思ってないよ」
「トワくんは言ったもん! わたしを気持ち悪いって言ったもん!」
「ひどいこと言う人がいるんだね」
「みんなわたしを嫌いになる! リサだって、ずっと親友って言ってたくせにたっくんと浮気した! なのになんでわたしが悪者にされなきゃいけないの!? うそつきうそつき! みんな嫌い!」
 まゆの話は脈絡がなく要領を得なかった。
 たくさん指名して支え続けたレンタル彼氏と喧嘩別れしたことに始まり、今までに何人もの男に見捨てられてきた話、元を辿れば、高校生になって初めて心から好きになった彼氏を友人に奪われた話などが、後から後から吐き出されていった。
 夏生は、その全てを聞き続けた。
 約束の場所に訪れてみたところ手首を切って泣いている女がいた……などというトンデモな状況であるにも拘わらずだ。この時、二人は初対面だった。
 夏生を指名したことに大きな意味はない。まゆはただ、今すぐ駆けつけてくれて話を聞いてくれて慰めてくれる相手なら誰でもよかったのだ。夏生を初指名したこの日、まゆは彼の名前も顔も認識などしていなかった。
「わたしのこと、好きだって言ったくせに! こんなに愛してるのに!」
「まゆさんを愛してくれる人は、他にもいるよ」
「うるさい! 何も知らないくせに勝手な事言わないでよ! もう、死ぬ! わたし死ぬからほっといて!」
 そう言ってまゆは夏生が握る左腕を振りほどこうと暴れたが、びくともしなかった。
「痛い! 放して!」
「ごめん」
 申し訳なさそうな顔をして夏生が握りしめていた手を緩める。その隙に夏生を突き飛ばすように離れたまゆが、床に転がっていたカッターをつかみ取った。ふーふーと息を吐きながら、まゆはまだ血でべたついているカッターを再び左手首に当てていた。
 ムッとするようなサビた鉄の臭いが鼻をついた。
「みんな嫌い」
 そう言って、グッとカッターを握る手に力を込めた。
 正直に言えば、まゆに本当に死ぬ気があったとは言えない。せいぜい大怪我を負った事実が、自分を捨てた男に伝わればよいと思っていた程度だ。
 結局、まゆはそれ以上自分を傷つけることはできなかった。それどころか、ぴくりとも動けなくなってしまった。全身を包み込むように、夏生に抱きしめられていたからだった。
「今まで、ずっとつらかったね」
「なにそれ」
「もう一人で頑張らなくていいよ。抱え込まなくていい。全部、一緒に背負うから」
 強張っていたまゆの体からフッと力が抜けていく。
 ――そんなこと初めて言われた。
 形式的に、最初だけ慰めてくれる男たちはたくさんいた。命を粗末にするなと怒ってみせたり、諭す男も。だけど、こんな風に「一緒に背負う」と受け止めてくれた相手はただの一人もいなかった。
 手首を切る心配がなくなったと判断したのか、強く抱きしめていた夏生の腕の力も緩む。
 恐る恐る体を反転させてみて、まゆはさらに驚くことになった。
「なんであんたが泣いてんの?」
「だって嫌だもん、俺。まゆさんが死ぬの、嫌だよ」
 夏生は目を赤くしてぐすぐすと洟をすすっていた。
「なんでよ、今日会ったばっかなのに」
「それでも嫌だよ。俺たちせっかく出会えたんだよ? まゆさんが死んだら悲しいよ。寂しいよ」
 目尻に滲んでいた程度だった涙が、ついにぽろぽろこぼれていく。
 成人男子の泣く姿というものを初めて目にして、まゆは驚くよりもぎゅっと胸が締め付けられる思いがした。
「わたしのために泣いてくれるの?」
 夏生がこくんと頷くと、雫がぽたぽたと床に落ちて消えていった。
「じゃあ、わたしのこと受け止めてくれる?」
 もう一度、夏生は大きく頷いた。
「わたしを大事にしてくれる? 本物の恋人みたいに愛してくれる?」
「まゆさんの望みは俺が叶えるよ。だから、もう死のうとなんてしないで」
「わかった。約束する。だから、あんたも約束守ってよ?」
「大丈夫、大丈夫だよ。俺は噓ついたりしないから」
 夏生の言葉に、まゆもまた、涙をあふれさせた。
 もう苦しまなくていいのだと、解放された瞬間だった。

 数日後、まゆはさっそく二度目のデートに夏生を呼んだ。
 初回のデートがド修羅場になってしまったことを、まずは謝罪するつもりだった。
 実を言うと、まゆは夏生の容姿をあまり詳しく覚えていなかった。泣きすぎて視界がほとんどぼやけっぱなしだった上に、最初のほうは夏生のことなどどうでもいいと思ってまともに見ていなかったからだ。
 Webサイトで改めて写真とプロフィールは確認していたが、顔の一部にモザイクがかけられているので判然としない。不細工ではないだろうとは思ったが、好みから激しく逸脱していた場合は指名の継続は取りやめようと考えていた。
 カラオケボックスでは雰囲気に流されてあんな約束をしてしまったが、男の容姿はまゆにとって絶対に譲れない大事なポイントである。
 カラオケ事件以後はSNSで連絡を取り続けていたから、夏生がいい人なのだろうということはわかっていた。あとは顔さえ好みであれば言うことはないのである。
「はー、さっむ」
 ハーフコートのポケットに手を突っ込んで、まゆは待ち合わせ場所へと急いだ。
 立っていた男は、遠目にもなかなかのスタイルの持ち主であることがうかがえた。それに、着こなしのセンスが抜群に良い。落ち着いた色みのジーンズに黒いセーターと、いかにも仕立ての良さそうな細身のコートを羽織った姿が、どことなく韓国アイドルを彷彿とさせた。ヘアスタイルのせいもあったかもしれない。
 まゆの表情はすでに明るかった。
「あ、まゆ!」
 振り返った夏生の人懐っこそうな笑顔に、まゆの瞳が大きく見開かれた。
 ――え、やば。めっちゃタイプ。
 まゆは、ようやく運命の人に巡り会えたのだと歓喜した。

   *

 ――あの時のなつ、神だったなぁ。
 夏生は全てが完ぺきだった。
 彼の良さは容姿やスタイルだけには留まらない。まゆの好きなアイドルの話を何時間でも聞いてくれて、一緒に楽しんでくれた。まゆが寂しいと電話をかけた夜は、安心して眠れるまで話し相手になってくれた。当然、まゆと共に過ごしている時間内に他の客の存在を自ら匂わせるような失態を演じたりしないし、わざと煽って予約を増やそうとなんて卑怯な手も使わない。むしろ、夏生はいつだってまゆの財布事情を心配しつつ、会っている時間は彼氏として甘い甘い幸せをくれるのだ。
 今となってみれば、これまでに別れてきた全ての男たちは夏生へ繫がる道を作るただのパーツだったのかもしれないと、まゆは真剣に考えていた。
「なんかにやにやしてる~」
 夏生との美しい思い出に没頭していたまゆの鼻先を、再びタバコの臭気が掠める。
 まゆが顔をしかめたことなど気にも留めず、フリーターの女は話を続けた。
「ね、ね、その彼ってさ、ランカーなの?」
「なつんとこはランキングとかないから」
「へ~でもさぁ、やっぱ人気なんでしょ~?」
 女の口のヤニ臭さに、吐き気にも似たムカつきがこみあげた。
「でも、わたしが一番大事にされてるから。イブも一緒に過ごしたし」
 夏生は、予約が取れないほどの人気キャストとまでは言えないが、常に安定してスケジュールが埋まることは口コミからわかっていた。時々入る新規客と、何人かの太いリピート客がついているようなのだ。
 夏生自身が口に出すことはなくとも、どうしたって他客という敵は存在している。特にまゆは、自分と同時期に夏生を指名し始めたらしい三十代の女の存在におびやかされていた。何の仕事をしているか知らないが、相手の女には確かな財力があるようだった。
 ――だからもっと稼ぎたいのに。
 夏生を他の女たちに取られまいと、まゆは必死だった。その必死さが、フリーターの女にも伝わっていた。
「ねぇねぇ、一緒にデリやろうよ~。いい店紹介するよ?」
 ――どうせ紹介料目当てだろ。
 まゆは女を無視することにした。女は相変わらず勝手にしゃべり続けていたが、まゆにはどうでもいい話だった。
 ――なつ以外の男とどーこーするとか、ありえないし。
 もはや、夏生以外の男たちは同じ空間に存在しているだけで嫌悪の対象になりえた。レンタル彼女のサービスが、まゆの許容できるギリギリのラインだった。ここで歯を食いしばってやっていくしかないのだと、まゆは親指を嚙んだ。
 そんなまゆの思いも虚しく、この日新たな顧客がつくことはなかった。
 それどころか向こう一週間、予約のスケジュールが埋まる気配すらない。
 さすがに少し落ち込んで、まゆは夏生にメッセージを送った。いつものように慰めてほしかった。
 しかし、日付が変わっても夏生からの返事はこなかった。仕事中に返事が途絶えることはままあるが、真夜中を過ぎても何の返答もないことは珍しい。
 明け方、改めて夏生の予約状況を確認するといつのまにか丸三日、貸し切りの表示になっていた。
 そんなことをする客は一人しか思い当たらない。
 まゆは怒りのあまり携帯電話を部屋の隅へと投げ捨てて叫び声をあげた。
 咄嗟にベッド脇のチェストに置かれていたカッターを手に取って、手首に刃をあてる。マグマのように体内でうねり狂うどす黒い感情を落ち着かせるには、これが一番いいことをまゆは知っていた。
 ――ダメだ。
 ギリギリのところで、まゆはとどまった。
 夏生との約束を破るわけにはいかなかった。

 およそ十日ぶりに夏生と会えるというその日の昼、まゆは寝不足の青い顔をして、太った男と歩いていた。相手はもちろん、レンタル彼女マユリの新規客である。
 男はかなりの暑がりのようで、手を繫いでいるこちらまで体感温度が数度は上がりそうだった。おまけに香水の匂いがきつすぎる。汗臭さを誤魔化すためなのだろうが、完全に逆効果だ。そんな男と手を繫いで歩くなどご免だと言わんばかりに顔をしかめたまゆだが、店長の「次はクビ」という言葉を思い出し無理矢理笑った。
 そもそも、デートの直前に仕事など入れたくもないのが本音である。けれど、全てはお金のためだからとまゆは自分に言い聞かせていた。
 夏生とは、三日間の貸し切り表示を確認したあの日以来、あまり連絡が取れていない。太客との貸し切りデート以外にも、予約が重なってしまったためだろう。夏生からの返信の遅さが、かつてないほどまゆを不安にさせた。
 返事が遅くなってごめん。大丈夫、心配いらないよ。まゆを大事に思ってるから。早く会いたいな。次のデートが楽しみだ。
 夏生から送られてくる文字は、その瞬間は不安を取り除き、まゆに幸せを与えてくれた。けれど、幸福感はほんの一瞬で過ぎ去ってしまい、再び強烈な不安と焦燥とで神経が尖るばかりだった。
 メッセージのラリーが途切れるたび、まゆは夏生のSNSとプリンセスタイムのホームページと匿名掲示板とを巡回した。夏生に関する情報を、ひとつも見落とすまいと携帯電話にかじりつく。おかげで、以前から気になっていた三十代の太客の女と思しきSNSを特定することにも成功した。思った通り、三日間の貸し切りデートをしていたのは彼女らしい。ご丁寧にSNSに「久しぶりのまとまった休暇に連日デート。とても幸せな時間」などと投稿されていた。腹の底がぐつぐつと煮えたぎり、まゆは自身の腕に強く爪を立てた。それでも我慢ができず、匿名掲示板に「妖怪マウントババア乙」というコメントを書き込み、彼女のSNSの投稿を晒したりもした。
 そこまでしても、まゆのイライラは収まることを知らなかった。家にいても外出していても、何をしていても、まゆの頭の中は夏生でいっぱいで。彼を思う気持ちだけでまゆは今にも爆発しそうなほどだった。
 ――つーかこいつどこまで歩くんだよ。とっととカフェでも入れよ。
 やたらと強い日差しと熱風が、まゆのイライラを助長する。
 汗だくの男がようやく足を止めたのは、どこにでもあるカラオケチェーンの店だった。
「ここでいいよね」
 ――サイアク。
 どう断ろうかと逡巡する。
 新規の客の場合、密室はできるだけ避けるようにとお店側からはアナウンスされていた。実際のところ、どう過ごすかの裁量はキャストの女の子たちに一任されているが、まゆの選択肢に個室などあるわけがなかった。
「んー、カフェとかじゃダメ?」
 しおらしい声でやんわりと告げる。すると男は小さい声でこう言った。
「付き合ってくれたら上乗せしてあげようと思ってたんだけどなぁ」
 ――コイツ。
 男のにやけ面に心底嫌気がさしたものの、ハッキリ断ることもできなかった。男の立てた人差し指が一万円を示していると気づいたからだ。二時間のカラオケに付き合うだけで、元々の取り分とは別に一万円が手に入る。今のまゆには抗えない、魅力的な誘いだった。

 個室に入って十分と経たないうちに、まゆは自身の決断を激しく後悔した。
 注文したドリンクを店員が置いて出て行くや否や、男がまゆにキスを迫ってきたのだ。
「一万円も渡すんだから、ちょっとくらいいいよね」
「ダメですよ」
「ちょっとだけ」
「いや無理だから」
「金は払うって言ってるだろ!」
 激高して、男がまゆの腕をつかみ上げる。そのままソファの背もたれに押し付けられて、まゆは身動きが取れなくなってしまった。
「てめぇ、放せよ! デブ!」
「しっ、静かにしろ!」
 男は目を血走らせて、額に大量の汗を浮かべていた。
 荒い息が顔にかかり、脂のような臭いが充満する。男の顔がゆっくりと近づくにつれて、全身に鳥肌が広がっていった。バタバタと暴れているのに、男はびくともしない。
「キス、キスだけ、だから、ね」
 ――ふざけんな! ふざけんな!
 はーはーと口で息をする男の顔が目の前に広がって、まゆの理性がはじけ飛んだ。
「ぎゃあああああ!」
 悲痛な叫び声とともに、男がまゆから飛びのくように離れる。
 男は鼻を押さえて、目には涙をためていた。
「は、鼻、俺の鼻ぁ」
 ふごふごと情けない声を出す男を睨みつけたまま、まゆは鞄からカッターナイフを取り出した。
「殺す。ぜってー殺す」
 まゆの尋常でない様子に、男がギクリとする。
「は、あの、いや、じょ、冗談。冗談だから」
「クソが。きたねぇもんかじらせやがって」
 カッターを握りしめて怒気で顔を真っ赤に染めるまゆの迫力に、男はすっかり腰が引けていた。
「か、かかっ、帰る! 俺は帰る!」
「ああっ!? てめぇふざけんな! 金払えこの野郎!」
 床を這うように逃げていく男に向かって、まゆは力の限りの怒声を浴びせかけた。
 部屋の扉が閉まると、途端に足に震えがきて、まゆはソファにへなへなと座り込んだ。心臓がとんでもないスピードで全身に血液を送りだしている。こめかみがズキズキと痛んで、吐き気と共に涙が溢れてきた。
 必死に抵抗していなかったらどうなっていたことか。考えるとただただ不快で恐ろしくて、まゆは今すぐ夏生の声が聞きたくてたまらなくなった。
 約束の時間まではあと三時間ほどあるが待てない。まゆはまったく力の入らない手で、何度も取り落としながら携帯電話を操作した。
 通話の呼び出し音が耳元で鳴り続ける。いくら待っても夏生は出ない。
「なんで出ないの!」
 金切り声を上げて携帯電話をソファに投げつけた。
 折り返しの連絡が来るのではないかとじっと見つめてみたが、携帯電話の液晶は真っ黒のままである。
 嫌な予感がした。
 何かに導かれるように、携帯電話を再び引き寄せ、SNSのアプリを立ち上げた。以前まゆが「妖怪マウントババア」と名付けた、夏生の太客のアカウントを確認するためだ。
 ――違う。きっと違う。二人が会ってるはずなんて。
 ブツリ。
 頭の中で何かが切れた気がした。
 女がSNSにアップした写真は見知らぬどこかの部屋で、テーブルの上には手作りらしき料理が載っている。まゆが注目していたのは写真の端に写っている冷蔵庫だった。黒々としたガラス扉にうっすらと写り込んでいる人物を、見間違えるはずがなかった。
「あー、あー、ああああああああ!」
 耐えがたい事実を目の当たりにして、まゆは頭が沸騰しそうだった。
 先ほどまで抱えていた恐怖と不安と、ずっと我慢し続けていた強烈な寂しさが、全てどす黒いドロドロに搦めとられていく。
「んあああああっ!」
 ぱっかりと開けた口から、悲鳴とも言えない叫びを吐き出しても吐き出しても、振り切れた感情が戻って来る気配はない。
 まゆは無意識に、ぶん投げていたカッターを拾い手首を切ろうとしていた。今度こそ、自分を止められそうにないと思った。
 カッターの刃を、左手首に押し当てて、いざ思いっきり引こうとしたところで別の考えが湧き上がる。
 ――切るなら、なつの前でが、いいんじゃないの?
 自分がどれほど苦しい思いをしたか、どんなに悲しいか、夏生に思い知らせてやらなければならない気がした。それを知り、理解して受け止めるのが「彼氏」の役割なのだから。
 もしも夏生が自分を受け入れないというなら、今度こそ本気で切っていいとさえ思った。
 でもそれでは、夏生をむざむざと他の女にくれてやることになってしまう。終わらせる時は、夏生も一緒に。
 まゆは心を決めた。
 決断したまゆの行動は冷静で早かった。
 先ほどのSNSの写真を改めてよく観察する。一見普通の部屋に見えるが、天井に違和感がある。普通のマンションというよりは、どこか会議室を彷彿とさせるような照明だ。
「レンタルルームってことね」
 すぐに写真を保存して、画像検索にかけたら一発だった。
 現在まゆがいるカラオケボックスから五つほど離れた駅に、夏生が滞在していると思われるレンタルルームは存在していた。
『今からそこ行くね』
 まゆはそれだけメッセージを送った。
 今度は一分と経たないうちに既読マークがついたが、夏生からの返信はなかった。
 うすら笑いを浮かべてカラオケボックスを出たまゆの顔は蒼白というほかなく、会計時に対応した店員が顔を引きつらせるほどだった。

 やってきたのは駅から五分ほどの場所に建つ、小さいオフィスビルだった。
 前のカラオケデートで夏生が歌ってくれたバラードを口ずさみながら、まゆは踊るように軽やかな足取りでエレベーターへと乗り込んだ。
 ――なつ、どんな顔するかなぁ。
 これもひとつのサプライズというやつなのだろうかと、まゆは本当に楽しそうに笑みを浮かべていた。
 もしまだ女がいたら、どうしてやろうかと考えを巡らせる。夏生にとっての一番は自分であると突きつけて慄かせて手を引かせないと、もはや我慢がならない。女を排除できるなら、どんなことでもしてやると自らを高ぶらせた。
 目的のレンタルルームがある階でエレベーターを降りる時、まゆはすでにカッターナイフを手に握っていた。
 ――ああ楽しみだなぁ。
 わくわくしすぎて声が漏れ出そうになるのを我慢するあまり、「ぷすす」と口から奇妙な音が溢れ出た。
 ――さーて、いっきますかー。
 まゆはノックもせずに勢いよくレンタルルームの扉を開けた。
「おまたせー!」
 部屋にまゆの声だけが響く。
 入り口から部屋の中は一望できた。壁際に置かれたソファに夏生が腰かけているだけで、女の姿はない。
「あれ、なつだけ?」
 夏生がゆっくりと顔を上げる。何を考えているのか、まったくわからない。無の表情をしていた。まゆとのデートの時とは違って、前髪を下ろしているから表情がよく見えないせいかもしれないと思った。無地の白いシャツと相まって、今日の夏生はどことなく存在感が希薄である。
 ――わたしと会ってる時とは別の人みたい。
 そう思った瞬間、まゆはまたも煮えたぎるマグマが腹の底からせりあがってくるのを感じた。夏生に偽られ続けていたという感覚が生まれたせいだろう。自分の知っている夏生以外の夏生がいることに。その姿を別の女に見せていることに。
 目の前の夏生は夏生であって夏生ではない。そんな考えが、まゆの怒りを助長した。
「何で女を逃がしたの?」
「約束してた時間が終わって帰っただけだよ」
「そっちの女を守ったんだろ!」
 この場にいない妖怪マウントババアへの嫉妬と嫌悪を解消するすべを失ったまゆは、持て余す感情の全てを夏生へと向けつつあった。
「いたら何するつもりだったんだよ」
「なつを殺してわたしも死ぬ」
 一瞬、夏生の目に険しさが宿ったように見えた。
「もう死ぬとか言わないんじゃなかったの?」
「なつのせいじゃん。わたしがつらいのにほっといたから。他の客を優先したから。わたしのことを大事にするって言ったくせに、恋人として愛して受け止めるって言ったくせに、噓ばっかり!」
「だから死にたいの?」
「他の女になつを取られるくらいなら、一緒に死んだほうがマシなんだよ!」
 口に出していくうちに、まゆの頭の中はだんだんと熱を帯びていった。
 ここに来る前「受け入れてもらえないなら一緒に死にたい」だった思考が、今はもう「一緒に死ぬしかない」にすっかりすり替わってしまっていることに、まゆは気づけないでいた。
「一緒に死ねばまゆは幸せってこと?」
「そうだよ!」
 少し困ったような顔をして、夏生は短く息を吐き出した。
 これはいよいよ捨てられるかもしれないと、頭の奥で警鐘が鳴り体が固くなる。
 ――そうなったらほんとにやってやる。
 どこかでは、いつものように「ごめん」と言って、いつかのように一緒に泣いて、彼氏らしく受け止めてくれるはずだという期待もあったかもしれないが、まゆは冷静になろうとする自分を望んで捨てた。
「もう嫌になったんでしょ? わたしを捨てたくなったんでしょ? だったらもう全部終わりにするから! だから死んでよ! 一緒に死んで!!」
 両手で握りしめたカッターナイフを夏生に向ける。
 夏生は逃げるか怒るかするだろうと考えた。その場合は背中から切りつけてやるつもりでいた。
 ところが、夏生が取った行動はまゆのまったく予期せぬことだった。
 こともあろうに、夏生は笑ったのだ。本当に幸せそうに。
「いいよ。わかった」
「え?」
 思いもしない回答に、まゆの脳が一瞬白紙になる。その隙に、夏生がカッターナイフをまゆの手からするりと抜き取った。
 ――え、何するの?
 夏生の行動を予測できずに、まゆはただ目で追うことしかできなくて。
「二人で死のう!」
「え、え?」
 ほんの軽く瞬きをする間に、夏生はカチカチとカッターナイフの刃を出して、自らの左手首を強く切りつけていた。まるで切り落とそうとするかのごとく、強い力で。
「んっ、ぐっ、うっ」
 前髪が濡れるほど、夏生は額に脂汗を浮かべていた。とんでもない痛みが襲っているだろうことは容易に想像できた。
 いつの間にか、まゆは自分の左手首をぎゅっと握っていた。夏生の痛みが自分の痛みのように感じられて、カタカタと震えだすのを止められない。
 自分がこれまで繰り返してきた自傷とは比べ物にならない血が、夏生の手首から溢れ出していた。それがぼたぼたと床に落ちて、血だまりを形成していた。
 ――どうしよう……どうしよう。
 まったく想定していなかった展開に、まゆは完全に動揺していた。
「きゅ、救急車! 救急車呼ばないと!」
 夏生以上に血の気の引いた顔で鞄をひっくり返すまゆ。床に転がった携帯電話を拾おうとすると、がくりと膝を折った。足が震えてまともに立ち上がることができなかった。
「す、すぐ、助け、助けを呼ぶから」
 ペタンと座った状態で携帯電話の液晶画面をタップする。
「どうして助けようとするの?」
 背後に気配を感じて身をよじると、すぐ目の前に青ざめた顔の夏生が迫っていた。
「一緒に死にたかったんでしょ?」
 真っ白いシャツの片腕がすっかり赤くなってしまうほど血を流しながら、夏生はさも不思議そうに首を傾げていた。
「あー、眠くなってきた。早くしないと俺一人で死んじゃうよ?」
 そう言って、夏生がまゆに覆いかぶさる。
 血まみれの左手がカクンカクンと不気味に揺れて、まゆの頭に触れた。
「ひっ」
 張り付くような声をあげて、まゆは硬直した。頭を撫でてくれているのだと気づいて、胸のあたりをかきむしりたくなるような不快感が走った。恐怖という言葉では表現しつくせない何かに、まゆは支配されていた。
 夏生が完全に体重を預けると、二人はそのまま床に倒れ込んだ。
 強烈な血の匂いに吞み込まれて、まゆは空を切り裂くような悲鳴を上げた。

「わかってると思うけど、クビね」
 スウィートガールの店長から宣告されたまゆは、清々しい顔をして事務所を後にした。
 キスを迫ってきた男のクレームを鵜呑みにするような店はこちらからお断りだと、まゆは気分を入れ替えていた。
 それにこれから新しいバイトの面接も控えている。くよくよしている暇はない。
 一歩、二歩と踏み出したまゆの足は、すぐに駆け足になった。視線の先に、望む者の姿を認めたからだった。
「わざわざ迎えに来てくれたの?」
「心配だったからな」
 大げさに眉尻を下げる夏生の顔色は、いつもより心なしか青く見えた。
「まだ、辛い?」
「いや全然」
 口調こそケロリとしているものの、左の手首には厳重に包帯が巻かれている。
「ほんとにごめんね」
「いいって。俺こそ、心配かけてごめんな」
 夏生の言い方が優しくて、あまりにも温かくて、まゆはすがるように彼に抱きついた。
「怖かったよな? ごめんね」
 幼い子供に言って聞かせるような柔らかい声が、まゆの耳に落ちてくる。こくりと頷くと、頭をそっと撫でられた。
 瞬間、まゆの体に一週間前の恐怖が駆け抜け胃が引きつれた。
 カクン、カクン、と奇妙なリズムで頭を撫でる夏生の手の感触と、強烈な鉄臭さが思い出されて、まゆは目尻に涙を滲ませた。
「こわかった。すごく、こわかったの」
「そうだよね。ごめんね。俺が死んじゃうかと思ったんだもんね。そりゃ怖いよね」
「うん」
 返事をしながら、果たして本当にそうだったのだろうかと自問自答する。
 恐怖の根源は、その正体は――。
「それより、本当にいいのか? 新しいバイト先、今までのとこより大変だろ?」
 夏生の声は変わらず優しい。まゆの新たな選択を、心から心配しているように聞こえた。
「なつは、やめたほうがいいと思う?」
「まゆが後悔しないなら俺は止めない」
 にわかに、夏生の声色に冷ややかさが宿った気がした。
 もしかしたら引き際なのかもしれないと考えるまゆがいた。まだ引き返せる。いや、ここで引き返せなかったら、あとはもう堕ちる一方なのだと、どこかでわかっていた。
 面接先にと選んだのは、スウィートガールのフリーター女がしつこく勧めてきた風俗店である。
 ――レンタル彼女より稼げるようになれば、なつの時間をもっと独占できる。
 だから間違ってなどいないはずなのだ。
 覚悟と共に、どうしても消えない不安もあった。ずっと守り続けてきた一線を、いよいよ越えてしまうのはやはり怖い。
 ――このまま進んでいったら、どうなるんだろう。
 先の見えない穴に堕ちていく自分を想像して、足がすくむ。
 立ち止まるならばここが最後のチャンスなのだと、警鐘を鳴らすもう一人の自分が頭の中にいることをまゆは理解していた。
 ――何か、言わなきゃ。
 息を吸ったと同時に、夏生の腕に一層強く力がこもる。
「俺がついてるよ」
 耳にかかる囁きが、まゆの脳内に一気にアドレナリンを駆け巡らせた。
 恐怖や不安が何だと言うのだろうか。
 夏生と共にいれば、確実に地獄へ堕ちるだろうことは目に見えている。それは事実だ。
 ――でも、夏生がいない地獄より、ずっとマシ。マシなはず。
「それがまゆの幸せだもんね?」
 夏生の言葉を否定する材料など、まゆは持っていなかった。
「そうだよ。なつがいれば、幸せ。なつのそばにいることが、幸せなの」
 本心からそう思っているはずなのに、まゆの瞳からは涙が溢れた。
 夏生が普通じゃないことくらい、まゆはとっくに知っている。
 普通とは違う、何か特別な存在なのかもしれないとまゆは思った。愛を食べる存在。食べた愛を致死量ギリギリの毒に変えて注いでくれる存在。
 夏生と共に歩いていけば、いずれはこちらがやられてしまう。だからこそ。
 ――どうせ死ぬならなつの手で、死にたい。
 まゆはとっくに、夏生の毒に侵されていた。もう逃げられない。
 ただひとつ、まゆの中には疑問が残っていた。
 あの日、レンタルルームでの光景が脳裏に浮かぶ。自分が見てきたどの笑顔よりも幸せそうな笑みを浮かべて、嬉々として自身の手首を切りつけた夏生の姿が。
 本当に死ぬつもりだったのか、それとも……。
 恐らく永遠に聞けないだろう疑問を、まゆは胃の腑に押し込めて夏生と共に歩き出した。

【20×0年7月〇日 年齢:二十代 MAYU ★★★★★】

 今日はなつと出会って、200日記念をお祝いできてちょーハッピーだったよ♡
 なつと出会えたから今のわたしがいるんだよ。
 これからもずっとアイシテル♡♡♡
 なつの気持ちは、全部わかってるよ! なつのことを一番理解してるのもわたしだってちゃんとわかってるから。
 これからも、一緒に歩いていこうね♡


*この続きは製品版でお楽しみください。

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