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半田畔の恋愛小説『あのひとの。』

自身初のノベライズ作品『サマータイムレンダ 南雲竜之介の異聞百景』も好評発売中の半田畔さんから新作短編を頂きました。行方不明の兄の彼女と一緒に旅に出る青年。彼が旅の果てに見つけたものとは……? 抒情にあふれた一編です。



半田畔(はんだほとり)

2012年、ジャンプ小説新人賞銀賞を音七畔名義で受賞、『5ミニッツ4エヴァ―』でデビュー。2015年に「風見夜子の死体見聞」が富士見ラノベ文芸大賞・金賞を受賞、同作を刊行、以後半田畔名義で活動。一迅社文庫大賞の審査員特別賞を受賞、『人魚に嘘はつけない』を刊行する。集英社文庫『ひまりの一打』など著作多数。


あのひとの。



     1

 行方不明になった兄が最後に送ってきたのは、稚内の岬にある展望台の写真画像だった。北海道の最北端に到着したことを知らせるその写真画像とともに、一件のメッセージが添えられていた。兄は一言、僕にこう告げていた――

「くそ、負けた」
 僕が失踪した兄のマンションに入り浸り、兄の代わりに占拠してゲーム三昧の日々を送っていたある日、彼女はとつぜんあらわれた。
 オンラインゲームの対戦格闘で負けてコントローラーを放ったそのとき、肩に手が置かれて、声も出せず飛び上がった。振り返ると、ひどく動揺した女性の顔が目の前にあった。
「隼人あんたどこ行ってたの!?」
「あ、いや……」
「あれ?」
 女性が肩から手を離す。すぐそばの窓にかかったカーテンを勢いよく開けて、自然のスポットライトを僕に浴びせてくる。目を閉じるのが一瞬遅く、光をもろに食らって、視界が白く焼き切れる。いまは朝か、それとも昼だったか。
「……隼人じゃない」
「お、弟です。安岐といいます」
「きみが? へえ! 名前は聞いてたけど、実物見るのは初めて。何歳だっけ?」
「一八です。大学一年です」
 どたどた、とその足音から、角度を変えながら僕を見つめているのがわかった。動物園で初めて会った動物を檻の外から観察するような態度を向けてくるこの女性は、いったい誰だろう。
「あなたの方は?」視界が戻ると同時に尋ねた。
「あ、ごめんなさい。部屋のカギが開いてたから思わず入っちゃった。千沙です。戸枝千沙。隼人とは同じ大学でいまは三年生。あと同じサークル」
「兄と付き合ってるとか?」
「あ、うん。そんなところ」
 長い茶髪に、輪郭のはっきりとした目。それに高い鼻。口元、唇が一番厚い中心部分の下にある、印象的なほくろ。知らないロックバンドのTシャツに白のカーディガン。七分丈のジーンズからのぞく足首には、きつく結ばれたミサンガ。同じようなデザインのものを、兄も腕に巻いていたのを思い出す。
「なんか顔についてる?」
「いえ、なんでもないです。じろじろ見てすみません」
「びっくりさせちゃったね。ごめんね。まあお互いさまということで」
 ひへ、と独特な声を出して千沙さんが笑う。
 奇麗なひとだった。やり取りはまだほんのわずか。だけどきっと、思ったことをはっきり伝えるタイプのひとだと思った。隠しごとを、良い意味でしない種類のひとである気がした。
 部屋を舞っている埃が陽光に浮かび、ただようのが見える。その一部が彼女にぶつかり、服に付着する。こうやって観察していると、また不審に思われかねないので、質問を続けることにした。
「何か用があってきたんですか?」
「大した用じゃないんだけどね。貸してたゲームソフトがあるの思い出して、返してもらいたかったんだけど」
 ソフトの名前を聞くと、千沙さんが答えた。聞き覚えのあるタイトルで、僕も昔少しだけやっていたことがあった。
「探すので適当にくつろいでてください」
「いや悪いよわざわざ」
「いいんです。喉乾いてたら冷蔵庫のなか、好きに漁ってください。いまは僕がほとんど使ってるので」
「……んじゃあ、任せた」
 あのひとの恋人である千沙さんは、抵抗のない様子で兄のベッドに腰かけて、僕を後ろから見守り始める。彼女が座るベッドは、さっきまで僕が仮眠を取っていた場所でもあるけど、わざわざ口に出すことでもない。
 十分ほどテレビ台の棚や近くの本棚に収納されたゲームソフトを漁ってみたが、なかなか目的のソフトは見つからなかった。振り返ると、千沙さんがいつの間にか冷蔵庫から持ってきたオレンジジュースのパックを飲んでいた。しっかりくつろいでいて、思わず笑った。千沙さんは僕の視線に気づき、あわててオレンジジュースを置いて一緒に探すのを手伝い始めた。別にそんなつもりで顔を向けたのではなかったので、申し訳なくなった。
 探しながら何気ない雑談も交わした。
「兄とはどれくらい付き合ってるんですか?」
「それはいなくなった期間も含めて?」
 ブラックジョークすれすれの返答に笑う。こちらがちゃんと笑ったのを見て、千沙さんもほっとしたように表情をゆるめた。
 ソフトを探す途中で、パッケージとソフトが一致していないものが見つかり、さらに二重の捜索が始まった。兄は平気でこういうしまい方をする。溜息をつくと、同じようなタイミングで千沙さんも呆れていた。お互いに顔を見合わせて、壁がまた一枚取り払われた。
 肝心のソフトはゲーム機のなかに納まっていた。中身違いのソフトも無事に元の場所に返すことができた。すべて終わるころには陽がくれかかっていた。
「長時間ありがと、安岐くん」
「いいんです。見つかってよかった」
「これ、協力プレイじゃないと倒せない敵がいてさー。手伝ってもらってたんだよね。ダウンロード版ないからわざわざソフトで買って、サークル仲間と皆で集まって、ここで夜通しやって」
「倒せたんですか?」
「いや確か寝落ちした」
 ひへ、とまた彼女だけの笑顔を見せて、持ってきたトートバッグのなかに、ソフトをしまう。
 千沙さんが去ろうと玄関を目指す。見送りに僕も立ちあがり、廊下を一緒に進んでいたときだった。
「よかったら、倒していきます?」
え? と千沙さんが振り返った。
 気づけば声をかけていた。口に出そうか躊躇する前に、すでに言葉になってこぼれていた。千沙さんともっと一緒にいたかったのかもしれないし、この部屋にまた一人になるのが嫌だったのかもしれない。もしくは両方。
「そのソフト、僕も少しやってたので、協力できるかも」
 友人も少なく、誰かを何かに誘うということがひどく久々で、縁のないことだと思っていた。そのはずなのに、あっさりと声がでた。
「じゃあ、やっていこうかな」
 答えた千沙さんが引き返してくる。僕が固まっていると、ほら早く、と部屋に戻るよう急かしてきた。誘ったのは自分なのに、まさか本当に乗ってくるとは思わなかった。
そこからはあっという間だった。一緒に部屋に戻り、テレビとゲーム機を起動し、床に敷いたクッションに座る。気づけばゲームが始まっていた。コントローラーを握っている間も、まだふわふわと浮いた不思議な心地のなかにいた。
 その日から兄のマンションに、千沙さんも入り浸るようになった。

「隼人がいなくなったみたい」
 買ったばかりの週刊漫画雑誌を読んでいたとき、母が部屋に乗り込んできてそう告げたのが、兄の失踪を知った最初のきっかけだった。兄が僕に稚内の写真画像を送りつけてきてから、一週間後のことだった。
 兄が北海道で利用していたレンタカー店から母に連絡があった。緊急連絡先に番号が書かれていたらしい。オートバイの返却期限がとっくに過ぎているが、行方は知らないか。いくら連絡しても電話にでないという。
 母が僕にも電話を試すように言うのでそうした。チャットメッセージの欄に、応答のない着信履歴が重なっていき、とうとう警察に通報した。
 消息を最後に知っていたのは僕だった。僕に送られてきたあの稚内の写真が、兄が周囲と取っていた連絡のなかで、一番新しいものだった。勢いと気分に任せて兄が突発的にどこかに旅行に行く事自体はめずらしくなかった。ただ一週間以上、誰にも連絡をよこさないのは、確かに少し不自然な気がした。
 警察の捜索がいよいよ本格的に始まり、兄が見つからないまま日々が過ぎていった。僕は兄に事前にもらっていた合い鍵を使って、あのひとのマンションに入り浸るようになった。いつかひょっこり帰ってきて、「おう安岐。来てたのか」と周囲の騒動を少しも知らない態度で挨拶してくる、そんな兄の姿を想像している。
「なるほど、それでいまはきみがここの城主なのか」
 テレビ画面を見つめたまま、横並びで千沙さんと会話する。手元はコントローラーの操作で忙しい。
最近、二人でストーリーを進めているRPGゲーム。いまは次のエリアへ向かう移動中にいきなり盗賊に襲われて、その対処に時間を食っているところだった。
「だから千沙さんがいきなり肩に手を置いてきたとき、心臓が跳ねあがりました。てっきり兄が帰って来たのかと」
「こっちだってびっくりしたよ。きみの後ろ姿、隼人にそっくりなんだもん。あいつが何食わぬ顔で帰ってきてゲームしてたのかと思った」
「何食わぬ顔っていうのはなんとなく想像できますけど。でもあのひとと似てるとかはやめてください。嫌です」
「でも似てるよ、目の形とか、髪型とか」
「似てません」
「似てる似てる。ほら、不機嫌になるとそうやって目を細めるところ」
 千沙さんがからかうように指をさして笑う。盗賊への攻撃が逸れたフリをして、千沙さんの操作キャラクターに攻撃を加えた。気づいた千沙さんがやり返してきた。盗賊はとっくに倒し切っていたのに、内紛が勃発していた。
「そんなに嫌なの? 兄弟に似てるって言われるの。私一人っ子だからよく分からない」
「他の家庭がどうかは知りませんけど、僕は嫌です。兄とは何もかも合わないんです」
 いなくなったいま、唯一理解しあえると分かったのは、異性への好みだろうか。趣味も、好みも、思想も、何もかも真逆の兄だったけど、千沙さんという一人の女性を見つけ出せたことは、素直に尊敬する。
「髪型だけでも変えようかな。茶髪とか」自分の髪をひと束つまんでひっぱり、目の前におろしながら言う。
「どうだろう。似合うかな、きみ」
「少なくとも、後ろ姿で千沙さんに間違われることはもうなくなります」
「後ろ姿といえば隼人が前、講義中にさ――」
 そこから千沙さんの、兄にまつわるエピソードをいくつか聞いた。僕も同じ数だけ兄にまつわる話を返した。ひとしきり盛り上がったあと、僕たちはまた目の前のゲームに集中しはじめた。ゲームは世界一優秀な時間泥棒だ。気づけば深夜をまわっていた。千沙さんがいつも帰る時間を二時間以上もオーバーしていた。
「泊まってってもいい?」
千沙さんが提案してきたとき、え? と、甲高く素っ頓狂な声がでた。
「大学、ここからのほうが近いのよ」
「でも寝るところが」
「確かクローゼットにいくつかシュラフが入ってるはず。サークルの皆で泊まったときのがまだあると思う」
 確認すると、確かに四つほど収納されていた。シュラフの袋には大学名と、キャンプサークルの名前が雑にマジックペンで書かれている。サークルの備品らしい。使ったまま返し忘れているのだろう。
 千沙さんは近くの量販店から寝巻きを買ってきた。そのまま体が冷えたといい、シャワーを浴び始める。彼女の体に当たり、床に落ちる水滴の音やその不規則なリズムが、とても心に良くなかった。平常心を取り戻すために再びテレビをつけてゲームを再開した。ほんの一分で崖から落ちて操作プレイヤーが死亡した。
ラフなトレーナーに、灰色の短パンショーツで出てきた千沙さんを見て、視線のやり場にすごく困った。床にあぐらをかいて、そのままドライヤーで髪を乾かしはじめる。視線は開いたスマートフォンに表示された、ゲームの攻略サイトに向けられている。
 シュラフには自分が寝るべきだ、とお互いが言い合って、結局対戦格闘ゲームで勝敗を決めることにした。千沙さんには兄のベッドで寝てもらうことになった。「おやすみなさい」と告げると、背中を向けながら、ゲームに負けて不機嫌そうな声で「おやすみ」と返してくれた。
 電気を消してもしばらく寝付けなかった。ベッドの上から衣ずれの音が聞こえるたびに、目がさえていった。
千沙さんもまだ起きているのだろうか。確かめるために何か声をかけたかったが、何も思いつかない。寝返りを打って顔が見えるのを待ったが、その気配もなかった。振り返らせる方法は何かないだろうか。もし起きていたら、どんな言葉をかけたら振り返ってくれるだろうか。
 考えるうち、気づけば言葉が漏れていた。
「僕が兄を殺したって言ったら、どうしますか?」
 声は反響せず、すぐに落ちて沈んでいく。
 返事はなかった。やはりもう眠ってしまったのかもしれない。
僕も背中を向けようとしたとき、彼女が振り返ってくるのがわかった。カーテンの間から洩れる薄い月明かりのおかげで、千沙さんが僕を見つめているのがわかった。
「殺したの?」穏やかな口調だった。
「もしもの話です」
「……なら、居場所を訊くかな。どこで殺したか、どこに隠したか」
「兄の最後の消息を知ってるのは僕でした」
「写真が送られて来たんだよね」
 千沙さんにもすでに稚内のあの画像は見せていた。親や警察以外の誰かにあれを見せたのは、千沙さんが初めてだった。
 そして僕にはまだ、親にも、警察にも、詳しく話していないことが、ひとつある。誰にも明かしていない兄との記憶がある。
「もし兄がもうこの世にいないなら、きっとそれは、僕が殺したようなものです」
 千沙さんは詳しく聞いてこなかった。その優しさがありがたかった。自分から明かしたくせに、僕はまだすべてをさらけ出す覚悟ができていなかった。
 暗闇のなかで千沙さんが起き上がり、こちらに手を伸ばしてくるのが見えた。反射的に僕も起き上がる。
「もう一回見せて、あの写真」
 僕は言われたとおりにスマートフォンを差し出した。画像と見比べながら、千沙さんは自分のスマートフォンで地図アプリを表示して稚内を検索していた。位置を確認しているらしい。
「あった。ここだね、宗谷岬。日本最北端の地にある、宗谷岬灯台。なんか見覚えあると思ったら、私の好きな漫画にも登場してたわ、ここ」
 よし、とつぶやいて千沙さんがベッドから立ち上がる。そのまま部屋の明かりをつける。暴力的なまぶしさに思わず目をつぶる。初めて彼女と会ったときも、僕はこの光の暴力を受けた。
 視界が戻り切らないうちに、千沙さんは言ってきた。
「ちょっと行ってみようか。宗谷岬」
「は?」
 何かの聞き間違いかと思った。視界が戻って、あらためて彼女を見つめるが、冗談を言っている雰囲気ではなかった。千沙さんがなぜかハイタッチを求めてくる。訳も分からず応じてしまい、パン、と部屋に小気味の良い音が鳴る。決まりだね、と千沙さんが笑う。違う。全然違う。決まってない。何も決まってない。
自分のコントロールの外で物事が進んでいくこの感覚を、僕は知っていた。いまわかった。このひとは兄と同じ種類の人間だ。
「私たちで、隼人を探しにいこう」

     2

 小学三年生のころ、二つ隣の町にある大きな神社で祭りが開かれたときがあった。数年に一度行われる豊作を祝う祭りで、神主が集まった参拝者に餅を投げて配る。その派手なビジュアル写真が掲載されたポスターを兄が持ってきて、行こう、と誘ってきた。僕はすぐには乗らず、ゲーム機をなかなか離さなかった。
「いまから? あと一時間で始まるじゃんそれ」
「自転車で飛ばせば間に合う」
「突然すぎるよ、ゲームがいいところなんだよ」
「いつでもできるだろ。餅が投げられるのは今日だけだ」
 ほら、と強引に引っ張り立たせてくる。部屋から連れ出され、気づけば自転車にまたがっていた。兄が有無を言わさず飛ばし始めるので、必死になって追いつこうとする。
そのうちに目的の町につき、さらに橋を渡って進んでいく。いつもなら車の窓から眺める標識が飛び込んできて、急に怖くなった。こんなに遠くまで自転車で来たのは初めてだった。いまさっきまでは存在していなかった予定に、どうしてここまで振り回されているのだろう、と自転車をこぎながら兄を恨んだ。
 息がほとんど切れかけたところでようやく祭り会場である神社に着いた。祭りはすでに始まっていた。高さのあるやぐらから、神主や巫女装束を着た女性たちが餅の入った袋を投げていた。大人も子供も入り混じり、縁起の良い餅を掴もうと手を伸ばす。その人垣から少し離れたところで、一緒についてきたらしいお年寄りたちがほほ笑ましく眺めていた。気づけば僕もそこに加わりかけていた。
「ほら、ぼさぼさしてないで行くぞ」
「いいよ。ここで見てるよ。別にそんなに欲しくないし」
「行動したもん勝ちなんだって、こういうのは」
 本当は祭りに参加したかったし、餅を掴んで喜びたかった。一つだけじゃなく何個も取って、誇らしい気持ちになりたかった。けれどなぜか見栄が勝ってしまい、兄はそんな僕を放置して一人で行ってしまった。
 眺めているうちに餅がすべて尽きたようで、祭りの終了を告げる鐘が鳴った。人の群れが四方に散っていき、そのなかから兄がもどってくるのが見えた。兄は両手に四袋も餅を抱えていた。一つを開けてすでに口に咥えていた。
「一ついるか?」
 もらって食べると、意外に美味しかった。思わずもう一つ欲しくなり兄を見上げるが、だめだと首を横に振る。
「お前は何もしてない。勝ち取るために手を伸ばしてない。だから一つだけだ」
「自転車でここまできた」
「それはただの準備だ。行動を起こすための準備。準備を行動だと思ってしまうやつはダメになる」
 僕と二つしか違わない小学五年生のくせに、偉ぶったことを言う。その説教臭さが余計に腹立しくて、帰りはずっと無言だった。
 家の前に着いたところで、兄がポケットから餅の袋を一つだして、ほら、と手渡してきた。兄は四つではなく五つも勝ち取っていたらしい。
 手を広げて餅の入った袋を受け取ると、それが気づけば鍵に変わっている。兄が暮らし始めるというマンションの鍵だった。時間も場所も、お互いの背丈も変わり、大学進学と一人暮らしを控えた兄が言ってくる。
「好きなときにこい。使っていいぞ。ああでも、彼女ができたら遠慮してくれ」
「別に用ないし。いいよ使わない」
「まあ持っておけって」
 兄は僕の肩を気安く叩く。
 そしてゆさぶられて。
 目が覚める。
「安岐くん、そろそろ着くよ」
 隣の席に座る千沙さんのほうを向く。自分の口元から涎が垂れていることに気づき、あわてて拭う。千沙さんは気にも留めず、「窓開けていい?」と、そわそわした様子で尋ねてくる。うなずいて、窓のカバーを上げると、圧巻の景色が広がっていた。
 分厚い雲の切れ間から、一面に広がる海が見える。その先には陸地。景色が流れていかないせいで、とてもゆっくり進んでいるように見えるが、いまの僕たちは一番速い乗り物のなかにいる。
「うわ、すごい。陸地見えるよ陸地。あれじゃん北海道。あっという間だなぁ」
 窓の外に吸い込まれようとするみたいに、身を乗り出して景色を眺める。こちらと密着していることなどおかまいなしだった。彼女の体重を感じたり、匂いに包まれたり、髪の毛先に頬をくすぐられたりしているうちに、飛行機が着陸態勢に入る。シートベルトをするようアナウンスが入り、千沙さんはしぶしぶ離れていった。
 窓の外をもう一度眺める。海はもう見えなくなり、下はすでに、北海道の陸地におおわれている。

 空港のエントランスホールの時計を見ると、午前九時を回っていた。早朝の七時半ごろに羽田空港を出たので、約一時間半で着いてしまったことになる。つい一昨日まで、自分が北海道に行くことになるなんて少しも想像していなかった。
 兄を探しにいこう、と思い立った千沙さんの行動は早かった。素早く飛行機のチケットを予約してしまい、あっさりと便を確保してしまった。状況を整理できないでいるうち、稚内で一泊して戻ってくる計画にしよう、とさらに新しい情報を豪速で投げつけられた。ばたばたしているうちに当日になり、すでに北海道の新千歳に着いてしまっている。
「レンタカー店の場所わかったよ」
 近くのインフォメーションカウンターから、パンフレットを持って千沙さんが戻ってくる。ナップザック一つの身軽な格好。いまさっき空港の土産店でひとめぼれして買った、猫と雪だるまが合体したキャラクターが描かれたセーターをすでに着ていた。
「本当に車で行くんですか?」
「うん。オロロンラインって言ってね、海岸線をまっすぐ進む景色の良い道があるのよ。そこを走ってみたい。どうせ行くなら道中も楽しまないと」
「今日中に稚内に着くんですか? ホテルもう予約しちゃってるんですよね」
「大丈夫、夜には着くって」
 根拠を示さず千沙さんは先に進んでしまう。追いかけて、横に並ぶ。確認しておきたいことというか、懸念していることがもう一つあった。
「僕、車の免許持ってないです」
「私が運転するよ。任せて」
 ぱた、とそこで千沙さんが急に立ち止まる。我に返ったのか、控え目な口調で尋ねてくる。
「ごめん、勝手に決めて迷惑だった?」
「いえ。運転を手伝えないのが申し訳ないだけです」
「それじゃあナビを任せてもいいかな」
「もちろんです」
 僕は笑って続ける。
「というかその質問、いまさらです。とっくに北海道まで来てるのに」
「……やっぱり迷惑だった?」
「たまにはこういうのも悪くないです。それにたぶん、行動したもん勝ちです」
「あはは、なんか隼人みたいな台詞」
 実際に兄が昔使っていた言葉だったので、見抜かれて少し恥ずかしくなった。そうやってうつむいているうちに、千沙さんはすでに歩き出していた。行動のリズムというか、調子が本当に兄とよく似ていると思った。
 目的のレンタカー店は空港から歩いて一〇分ほどの場所にあった。一一月という時期もあり一応警戒していたが、外は想像以上に寒かった。風が冷たいというよりは、気温自体が低い気がする。念のために持ってきていた上着を早くもリュックから出すことになった。
 レンタカー店に着き、千沙さんが受付を済ませる。明日の夕方にはここに返す手筈になった。
それから僕たちは車を借りる以外にもう一つの目的を済ませた。店にいる店員さん一人ひとりに、兄の写真と名前を見せて、行方について知っていることはないかを尋ねた。
兄はここでオートバイのレンタルをしていた。千沙さんが思い立ったのと同じように、電車を使わず自分で運転して稚内に行こうとしたのだろう。
当日対応した店員さんがもしいれば、そのときの兄の様子を聞きたかった。だが見つからなかった。それどころか、兄の失踪自体を知らない店員がほとんどだった。唯一、支店長が兄の失踪の事実を把握していたが、当日は出勤していなかったという。
「期待はしてなかったけど、やっぱりダメでしたね」僕が言った。
「ひとまず稚内を目指そう。きっと何か見つかるよ」
 駐車場に移動し、僕たちの相棒となる車を見つける。白い車体で二ドアのコンパクトなタイプだった。ヘッドライトが丸くて可愛らしい形をしている。外車のようにも見えたが、右ハンドルで操作の難しくないオートマ車だという。
「なんか天井が開くタイプらしいよ。店員さんがサービスしていい車にしてくれたみたい。オロロンライン着いたら開けてオープンカーにしちゃおうよ」
「もう秋ですよ。寒くないですか?」
「平気だよ、まだ秋だよ」
 さあいこう、と千沙さんが運転席に乗り込む。分かりやすくはしゃいでいて、可愛らしかった。時々年上であることを忘れてしまう。
兄と同じ場所に通いたくないというだけで違う大学に進学したが、もし千沙さんが事前にいることを知っていれば、そこまで愚かな行動はとらなかったかもしれない。キャンパス内で偶然会って学食で休憩したり、講義がかぶって同じ教場にいったり、そういうことが、ありえたかもしれない。一緒に過ごせたら、とても楽しかっただろうなと思う。
預かった千沙さんのリュックと自分の荷物をトランクにつめこんでいるうち、せっかちな千沙さんがエンジンをかけた。僕は慌てて助手席に乗り込んだ。

 ナビに従い、まずは札幌市を目指す。中心街には入らずそのまま通過し、市外へ向かうのが一番近いルートだ。ところがいきなり千沙さんが札幌ラーメンを食べたいと言いだした。時間的に余裕がないかもしれないと伝えたが、それでも食べたいと聞かなかった。結局、早めの昼食を札幌市内で取ることになった。ラーメンに満足したあと、パーキングエリアの料金が高いと千沙さんは不機嫌になった。
市外に出ると建物が急になくなり、道路の左右には、牧場や用途の不明な草原が広がった。道がどこまでもまっすぐ延びていて、そのシンプルな道路の作り方に北海道の土地の広大さを垣間見た。
水色の大きな橋を渡り、石狩川を渡って、国道231号線に合流する。千沙さんの言っていたオロロンラインだった。とにかく絶景だという千沙さんの言葉を信じて、事前情報を仕入れずにやってきたが、まったくその言葉の通りだった。都心では絶対に見られない光景が広がっていた。
普段やっているRPGの世界に迷い込んだような広大な草原に、まず目を奪われる。そこをまっすぐ突っ切るように舗装された道路。遠くの丘に設置された風力発電用のプロペラ。高い建物が一切ない、どこまでもさえぎられることなく開放された青空。千沙さんが一度車を停め、ルーフを動かして天井を取っ払う。どこかに牧場があるのか、土と自然の匂いが鼻をついた。
 圧倒されているうち、丘を登りきったところで、さらに景色が変わる。海岸線があらわれ、どこまでも広がる地平線の先、その陸地にそって道路が続いているのが見えた。自分たちはいま、北海道の端を陸地上になぞっていくのだ。
「これをたどれば、稚内に……」思わずつぶやく。
「ナビとか必要なさそうだね。簡単じゃん、北海道」
調子に乗った千沙さんが速度をあげた。海岸線に合流し、海を左手に見ながらひたすら進む。途中で道の駅があらわれ、一度休憩を取ることにした。車を降りると千沙さんが肩をさすっていた。
「オープンカーにしたせいで体冷えた……」
「だから言ったじゃないですか」
 なかで温まろう、と木製の建物のなかに入っていく。簡易的なフードコートのようなものがあり、そこで飲み物を調達した。お手洗いから戻ってきた千沙さんが、アイスクリームと書かれたのぼり旗を見つけて飛び跳ねた。ひとは喜ぶと本当に飛び跳ねることを初めて知った。
「ご当地アイスクリームだって! 酪農だよ酪農。ここでしか食べられないよ。絶対東京より美味しいって」
「また体冷やしますよ」
「大丈夫だって。もう寒くないし。安岐くんもいる? おねーさんが奢るよ」
「けっこうです」
「もったいない。そうやって人生を豊かにするチャンスを逃すんだよ安岐くんは。北海道のアイスクリームの味を知らずに一生を終えるんだよ」
 千沙さんはスタンダードなバニラのソフトクリームを買ってきて、僕に得意げに見せてきた。一口あげる、と言われたのでもらった。千沙さんが兄の恋人であることを思い出し、罪悪感に襲われたせいで、味はわからなかった。
 建物を出て、傾き始めた太陽と、溜息がでるほど広大な海を眺める。手すりによりかかり、観光客たちが記念撮影をしていた。海に背を向ければ、ひとの手に染められていない草原と、遠くには山々がそびえている。ここではきっと人間が不利だ。意味もなくそんな感想が浮かんだ。
「安岐くん」
「なんですか」
「……お腹痛くなってきた」
 振り返ると、がたがたと震え、唇を白くする千沙さんがいた。
「だから言ったじゃないですか」

 僕の上着で暖を取り戻した千沙さんは快調に車を走らせ、やがて留萌と呼ばれる市についた。
「ありがとう上着。安岐くんは寒くない? 大丈夫?」
「平気です。なかにたくさん着てるので」
 本当は少し肌寒かったが、僕と千沙さん、どちらを凍えさせるかなど選ぶまでもなかった。立ち寄ったガソリンスタンドで、給油中に温かいココアを飲んでなんとかしのいだ。千沙さんは地平線に沈もうとする夕日を写真に収めていた。
 小休憩を終えて再び走り始める。道路標識に『稚内』という文字が見え、二人で同時に指さした。だがその横の178キロという、都心の基準では冗談みたいな数字が印字されているのを見て、指した指が挫けて折れ曲がった。
「稚内までまだそんなにあるの? 安岐くんいま何時?」
「午後五時半です。行程的には半分です」
「やばいね。着くころには真っ暗だね。夕陽撮ってる場合じゃなかったね」
「正直にいうと、札幌でラーメン食べたあたりからやばかったです」
「言ってよ!」
「言いましたよ!」
「やばいやばい、本当に今日中に着くのかな? シンプルな分大きいんだな北海道って。大丈夫だよね道に迷ったりしないよね? うわあ安岐くん左見てよ海がきれい」
「翻弄されまくりです、千沙さん」
 夕陽がさらに落ちていく。景色はどこを見ても相変わらずきれいだったが、僕たちは二人とも慣れ始めてしまっていた。最初のころはあちこちにスマートフォンのカメラを向けていたのに、いまは取り出そうともしていない。
走りながらそのとき、海岸線に設置された街灯が極端に少ないことに気づく。僕たちをさっきまで魅了していた自然が牙をむき始めていた。速度を上げたかったが、暗くなっていきそれも危険になる。数メートル間違えてガードレールをつきやぶり、崖下に落ちればおしまいだ。かといっていまのペースを落とせば、到着時刻もさらに遅くなる。ナビに表示された到着予定時刻はさっきよりもまた延びて、いまでは夜の一〇時になっていた。
緊張感に支配されたドライブが続いた。途中でいくつかの町を通ったが、町民はみんな寝静まってしまったのか、道沿いの街灯と信号以外の明かりをまともに見つけられなかった。夕食をどこか途中の町で取ろう、などと札幌で話していたが、店が開いている雰囲気もなかった。あまりにも暗くて、人が見つからず、誰も住んでいないのではないかと思える町すらあった。
 稚内まで残り七〇キロまで近づき、いくつめかもわからない中継地点の町に寄って、コンビニで夕食用のカップ麺とパンを買った。我慢できずパンはその場で食べた。千沙さんはメロンパンを、僕は焼きそばパンを選んだ。これが人生で一番美味しい焼きそばパンだった。空腹が満たされて元気が出たのか、顔を見合わせると、訳もなくお互いに笑い始めた。知らない土地で、これほどリラックスできる自分がいるなんて知らなかった。
「あと少しですね。運転、手伝えずにごめんなさい」
「いいの、一人だったら無理だったし。隣にいてくれて心強い。残りちょっと頑張ろう」
 兄を探すための旅なのに、気づけば稚内に着くこと自体が目的になっていた。多分、千沙さんも気づいているはずだが、考える余裕もいまはない。
 千沙さんが予約を取ったという稚内のホテルには、なんと温泉が併設されているという。このペースで到着すれば温泉はまだやっている。僕たちはそれを自分たちのご褒美に定めた。「温泉、温泉、温泉」と、よく分からないリズムで歌い、二人で奇妙なテンションになりながら、真っ暗な道をひたすら走り続けた。
 左手にはおそらくまだ海がある。たまに白い飛沫が見える。右手には何があるだろう。草原だろうか。黒く塗りつぶされ、何も見えない。車のハイビームライトと、道路の端に等間隔で設置された反射板だけが、進む道を示す唯一の手がかりだ。宇宙のなかを突き進んだらこんな感じだろうかと、不思議な心地に包まれる。
 稚内まで残り五キロの距離になって、千沙さんが急に車を道路の脇に停めた。ハザードをつけてレバーを引く。いったいどうしたのかと思った。まさかガス欠か。声をかけようとした瞬間、千沙さんはルーフを動かし、天井を開けた。
 広がる夜空に、またも呼吸を奪われる。
 ちりばめられた星々。地上よりも明るい空。無加工のプラネタリウム。表現するたびに陳腐になっていって、頭上の景色に対して申し訳ない気持ちになる。
「すごい……」
「ほんとにね」
 車を降りた千沙さんは、そのままボンネットに飛び乗り、大の字になって寝転ぶ。一瞬だけ躊躇して、僕たちを見ているのは星だけだと気づき、同じように飛び乗った。
 夜空を全身で浴びながら、伸ばした手が千沙さんの手に触れた。薬指が、どこかの指とぶつかっていた。
少し留まって、そっと離した。

 ホテルに到着するころには、ちょうど大浴場が閉まる時間になっていた。がっかりした僕たちの顔を見て気の毒に思ってくれたのか、ホテルの支配人が特別に、と一時間だけ延長してくれた。僕たちは急いで大浴場に向かい、体を芯まで温めた。湯に浮かび、天井についた水滴を眺めながら、本当に稚内に着いたのだとそのとき実感した。
 脱衣所の洗面台の前で髪を乾かしながら、前髪をつまんでまじまじと眺める。冗談のように前に千沙さんに言ったことがあるが、茶髪に染めたら、どんな感じになるだろう。
 部屋に帰ると千沙さんはまだ戻っていなかった。クローゼットに備え付けの浴衣があったことを思い出し、いまのうちに着替えようか悩んだ。さすがに浮かれ過ぎかなと思い、結局寝巻用のジャージ姿で待っていると、千沙さんが浴衣で戻ってきた。
「回復した。完全に回復した」
 千沙さんがバスタオルを放り、そのままベッドにダイブする。直視するのがはばかられて、背を向けたついでにポットに水を入れて湯を沸かすことにした。二人分のカップ麺に湯をそそぎ、質素な夕飯が出来上がる。
 テレビをつけると、午後一〇時半を回っていることがわかった。知らないローカル番組を眺めながら、僕は千沙さんに訊いた。
「兄のどんなところが、好きなんですか?」
「……うーん、そうだね」
 麺をすすりながら、間を置いて千沙さんは答えた。
「似てる部分が多いところかな。好みとか、趣味とか、考え方とか、そういうのが重なることが多い」
「それは確かに納得です」
「それって褒めてる?」
 聞こえないふりをして食事に戻る。テレビは番組が終わり、天気予報に切り替わるところだった。自分たちがいる稚内付近の明日の天気を、アナウンサーが淡々と読み上げていく。傘や雪マークはなく、天気が崩れることはなさそうだった。
「私も一つ訊いてもいい?」
「なんですか?」
 千沙さんが見つめてくるのがわかった。顔を向けると、目が合った。テレビのなかのアナウンサーよりも感情を上手く隠して、千沙さんは訊いてきた。
「隼人を殺したって言ってたあれ、本当?」
「…………」
 思えばそれを口にしたのが、この旅が始まるきっかけだったとも言える。
 そうです、とうなずく。兄がいなくなったのは自分のせいです、と。そして僕は、親にも、警察にも詳しく話していない、兄との記憶を明かした。
「兄と賭けをしてたんです」

     3

 休日、することがなくて僕は兄の部屋でゲームをしていた。兄のことは好きではなかったが、兄の部屋にあるゲームには夢中になっていた。家でやっていると、ドラマが観たい親とテレビの占領権を争うことになるが、ここではそれを気にせずに済む。
「一日やっててよく飽きないよな」
 僕の後ろでベッドに寝転がっていた兄が言う。呆れているようなニュアンスが汲み取れて、思わず反論する。
「ゲームならどこへだって行ける。現実じゃできないことをさせてくれる」
「ゲームじゃなくてもどこへだって行ける。行動一つで変わるもんだ」
「いいよ、そういう説教臭いの」
「本当だって。思うだけで動かないだけ。その気になれば明日には日本の南の端にだっていられるし、北の端にだって行ける」
 コントローラーを離し、思わずムキになって振り返る。兄は右腕に最近つけたばかりのミサンガをいじっていた。
「じゃあ行ってみてよ。北の端でもどこでも」
「賭けるか?」
 ミサンガをいじるのをやめて、兄も挑戦的な目で見つめ返してくる。
「いいよ。もちろん失敗する方に賭ける。もし兄さんが失敗したら、この部屋ごと僕に譲ってくれ」
「それならおれもひとつ、お前に注文だ。もし成功したら、お前も何かひとつ行動してみせろ」
「何かって何だよ」
「なんかこう、大きく変わっていくようなことをだよ」
 その数十分後、兄は荷造りを済ませて本当に外出してしまった。僕は徹夜でゲームを続けた。翌日、兄の部屋のベッドで目覚めると、連絡が一件入っていた。稚内の展望台が写った写真で、添えられたメッセージにはこうあった。
『賭けはおれの勝ちだ』

 翌朝は七時前にホテルを出た。今日の夕方には新千歳まで戻り、レンタカーを返却しなければならない。昨日のうちに飛行機もすでに手配していた。今日の計画を考えると、宗谷岬にいられる時間はそれほど多くない。僕たちの旅は最初から、兄が見つかる前提で組み立てられてはいない。
 目的の宗谷岬まではまだ二〇キロほどあった。ナビを見ると、市街地を抜けて、再び海岸線を目指すルートだった。
 昨日は気づかなかったが、道の端には雪が固まって積もっていた。僕たちは二人とも声を出さずに驚いた。見上げると空はどんより曇っていて、いまにもまた、新しい雪が降り出しそうな雰囲気だった。天気予報は外れるかもしれない。
 市街地の外れに来ると、宗谷岬、と書かれた標識看板を見つけた。漢字の下に見慣れない外国語があり、ロシア語の文字だとわかった。あらためて、日本の北の端にいるのだと実感した。
 海岸線に合流するのと同時に、ぱらぱらと雪が降り出した。うねり猛る海と、そびえる岩肌を左右に見ながら走っていく。昨日とはまた、種類の違う絶景だった。走るたびに違う景色が見える。兄もここを走ったのだろうか。近づくたびに、兄の姿を想像することが増えていく。
 ルーフを開けることも、途中で停車して写真を撮ることもなく、千沙さんは淡々と運転し続けた。会話も少なかったが、不思議と気まずい雰囲気にはならなかった。
 海岸線の道路がなだらかなカーブを描き始める。曲がった先で、『宗谷岬』と大きく書かれた立て看板が飛び込んできた。海側のスペースに広い駐車場があらわれ、入っていく。一〇〇台以上は停められそうな広さだったが、実際に駐車されている車は数えられるほどしかなかった。オートバイもちらほらと停められていた。
 車から降りて二人で進むと、三角形のモニュメントの前で何人かが列をつくり、記念撮影をしていた。『日本最北端の地』と、彫られた看板が真下にあるのが見える。モニュメントの奥には果てしなく広大な海が広がっている。雪はいつの間にか止んで、雲の切れ間からは陽光が射し始めていた。
兄はここでは写真を撮っていない。記念碑ではなく、草原が広がる展望台を写していた。それはいったいどこにあるのか。
「安岐くん、あれ」
 千沙さんが指さす先を振り返ると、小高い丘がそびえていて、その頂上に例の展望台があった。坂道を使って自力で登っていけそうだった。
 日本最北端の地にある信号から道路を渡り、坂道を登っていく。階段を使い、ものの数分で頂上についた。花々が咲く野原はそこにあった。写真で見たのと同じ光景が広がっていた。
 ここだ。間違いない。
 ここに兄が立っていた。
 送られてきた写真をながめて、同じ画角に移動する。展望台との距離、映りこむ野原の角度が、やがてすべて一致する場所にくる。
 たどりついて、自分が最初に何を言うのだろうと想像していた。だけど何も出てこなかった。何も言葉にできなかった。
「どうする?」後ろから千沙さんが訊いてくる。
「……どうするって?」
「このあたりを、もう少し探してみる?」
「見つかると思ってるんですか」
 僕は答える。喋るたびに、内側から、何かから漏れ出そうな感覚に襲われる。
「兄がいなくなってどれだけ経ってると?」
 数日や数週間じゃない。
数か月でもない。
「二年ですよ。もう二年以上も見つかってないんですよ。いまさら見つけられるわけ、ないでしょう」
 兄がいなくなってからの期間の長さを、僕たちは二人とも、一度も話題に上げなかった。無意識にそうしていたのかもしれないし、口にすれば旅が終わるとわかっていて、わざと避けていたのかもしれない。
 レンタカーの店員が兄を覚えていなくて当然だ。二年も経てばスタッフだって変わるだろう。警察だってずっと前に捜索を打ち切った。最初から手がかりなんて、見つかるわけがなかった。
「もう兄はこの世にいないんですよ」
「それでもきみは待ち続けてた。あの部屋でずっと隼人を。そうでしょ?」
「だって、それは……そうしていないと、ダメになる気がして」
 いや。そうじゃない。
僕はとっくにダメになっていた。あの部屋に入り浸り、帰るはずのない兄を待って延々とゲームをして過ごしていた。誰かに見つかるまで、自分はずっとあそこにいた。
 ここにこないと分からなかった。
 自分のなかに、どれだけの大きさで、兄が住んでいたのかを。
 手元のスマートフォンに映る写真と、メッセージが目に飛び込む。『賭けはおれの勝ちだ』。文章が兄の声となって頭に響いて、それでもう、だめだった。
 しゃがみこんで、とたんにあふれた。みっともなくうめいて泣いた。ここにいない兄に向かって、何度も謝った。
 いつものささいな喧嘩だと思っていたい。
 くだらない見栄なんか張ったせいで、兄はいなくなってしまった。あの日、あの時間に戻れたらどれだけいいだろう。冗談だよ、行かなくていいよと、去りかけた背中に言えたら、どれほど救われるだろう。
 あの部屋で帰ってくる日がくるのを、願い続けていた。最後には祈るのが義務にすらなっていた。でも叶わない。兄は帰ってこない。ぜんぶ、ぜんぶ、僕のせいだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」
 吐き出すように、泣き続けた。
 千沙さんは僕が落ち着くまで、ずっと横で抱きとめてくれていた。出会ってから一番近くに、彼女がいた。ごめん、と千沙さんも僕と同じように、なぜかつぶやいていた。

 日本最北端にある定食屋で食事を済ませたあと、僕たちは帰路につくことにした。店を出るとき、千沙さんは自分用のお土産に宗谷岬のポストカードを買っていた。
 海岸線を右手に見ながら、車が走り続ける。サイドミラーに顔を映し、涙で腫れた目を確認したあと、僕は千沙さんに改めてお礼を言った。
「連れてきてくれて、ありがとうございました」
「いいんだよ。私もちゃんと、来ておきたかったから」
 一呼吸置いて、千沙さんはそれからこう続けた。
「実はね、私も一つきみに隠してたことがあるの」
「隠してたこと?」
 千沙さんのほうを向くと、目が合った。
 ひへ、と恥ずかしそうに笑って、彼女は答えた。
「隼人と付き合ってるっていうのさ、あれ嘘なんだ」
「あ、え、へ?」
「ただのサークル友達。きみと初めて会ったとき、怪しまれたくなくてとっさに嘘ついた。ごめんなさい」
 何度か言いだそうとしたらしいが、機会を失っていたという。今日までずっと、あのひとの彼女だと思っていた。
「ミサンガは? 兄も千沙さんも、同じものをつけてる」
「サークルで昔つくったんだよ。当時のメンバーならたぶんまだつけてる子もいるんじゃないかな」
 まだ唖然としていた。本当に付き合っていなかったらしい。
「……僕の質問に答えてくれた、あの『好きな理由』は? あれも嘘?」
「サークルのなかで確かに一番気は合ってたかな。でもなんとなく、付き合うまではいかなかった。告白されてたら、付き合ってたかもね」
 僕の知らない思い出を振り返っていたのか、千沙さんが苦笑いをしだす。
 それなら、どうしてここに来ようと誘ってくれたのだろう。千沙さんが兄の恋人でないのなら、この旅の目的は何だったのだろう。
 視線から察したように、千沙さんが答える。
「私もね、隼人に誘われてたんだ、稚内行きの旅のこと」
「え?」
「サークルのグループチャットに突然メッセージが来たんだよ。『明日から稚内行くけどついてくるやついる?』って。突然すぎたし、次の日も普通に講義があったし、誰も誘いに乗らなくて、結局あいつは一人で行ったんだけど」
 でも、と千沙さんは続ける。
「やっぱりたまに考えるよ。あのとき誰かついていけば、こうはならなかったのかもしれないって。私がついていけば、いなくならずに済んだのかもしれないって。きみが展望台の前で謝ってたときね、私も心の中で、あいつに謝ってたんだ」
 僕の声に合わせて、千沙さんもつぶやいていたのを思い出す。たった一度だけ、その言葉が漏れていた。ごめん、と。
「いまもサークルの仲間といるとね、隼人の話がたくさんでるの。そうやって話してると、あいつがまだ生きてて、どこかほっつき歩いてて、たまたま大学に来てないだけじゃないかって、そんな気分になる。そういうのに、ケリをつけたかった。稚内まで来れば、あいつがいないってはっきりわかって、ちゃんと謝れる気もした」
 だから旅を始めた。
 千沙さんが目を合わせて、微笑みかけてくる。
「隼人からよく、きみの話を聞かされてたの。大事な弟がいるって。本当にいろんな話を聞いた。実際に会って、話すたびに、なんか放っておけなくなってさ。それになんとなく、きみを連れていけば、隼人に許してもらえるかもなって」
 そして千沙さんは、僕を導いてくれた。この旅に誘ってくれた。
 いったいどんな話を兄はしていたのだろう。
 それをすべて聞けるくらいには、ドライブの時間はまだ十分残されている。僕の知らない兄の姿を聞き出せたらいい。
 ありがとうございますと、僕はもう一度小さく言った。千沙さんが窓を開けながら何かを答えた。入り込んだ風の音で、声はかき消されていった。

 兄の遺体がとうとう見つかったのは、僕たちが東京に帰ってきてからわずか一か月後のことだった。
 山林の伐採工事をしていたところ、作業員の一人が高速道路の崖下にある岩場で、オートバイの残骸を見つけた。その近くで兄の遺体の一部が見つかったと、北海道警察から母に連絡が入った。一部といっても、骨が数本見つかっただけだった。
 二年と半年かかって、兄はようやく家に帰ってきた。

     4

 葬式中、両親は集まってくれた参列者へのお礼と、それから兄が見つかった経緯を詳しく説明した。
稚内から帰る途中、兄は空港のある新千歳にはまっすぐ向かわず、そのまま網走方面へ寄り道しようとしていたことがわかった。途中の高速道路でスリップか、もしくはよそ見運転をしたのか、ガードレールを飛び越えて崖下に転落した。オートバイの残骸とともに回収できたのは、兄の肩甲骨の一部だった。肩甲骨のくだりはさすがに省いていたが、僕たち家族が知っているおおむねのことは、参列者にも伝わった。
両親が挨拶を終えて、僕も横でお辞儀をする。参列者の席に千沙さんの姿も見えて、一瞬だけ目が合った。再会したのはあの旅以来だった。あれから千沙さんは兄の部屋にはこなくなっていた。この葬式が終わったら、次に会えるのはいつになるのだろう。その次など、本当にあるのだろうか。
『行動したもん勝ちなんだって、こういうのは』
 尊敬していたことを、一度も伝えられなかった兄。
 痛いほど優しくて、深い傷のように残り続ける言葉。
『もし成功したら、お前も何かひとつ行動してみせろ』
『なんかこう、大きく変わっていくようなことをだよ』
 示すならいましかなかった。
 葬式が終わってすぐ、会場の外に出ていく千沙さんを僕は追いかけた。サークル仲間だろうか、女子数人と話しこんでいる彼女を見つける。ミサンガを腕につけているひともいた。追いつきかけたところで、話を終えて千沙さんが去ろうとする。
「千沙さん」
 呼びとめると、僕に気づいてすぐに振り返ってくれた。
 何を話そう。どんな言葉で始めよう。久し振りです。来てくれてありがとうございます。この前は稚内に連れて行ってくれて、嬉しかったです。最近はどうしていましたか。
思いついた言葉を、結局すべて振り払って、まっすぐ伝えた。
「好きです」
 こんな場所で、と常識的な自分が非難してくる。
だけどこんな場所でないと、もうちゃんと、兄に姿を見せてやれない。いまの僕を見て、兄なら何というだろう。どんな顔をしてくれているだろう。想像して、もっと行け、と背中を押す声がした。
「千沙さんが好きです。千沙さんの横にいるのに、ふさわしい男になりたいです」
「もう助手席に座ったじゃん」
「からかわないでください」
「うん、そうだね、ごめんなさい」
 ぺこ、とお辞儀して素直に謝ってくる。顔をあげた千沙さんは優しい笑みを浮かべている。答えはまだない。こちらも冗談ではないと示すために、どんな質問にも答えられる自信があった。どんなところが好きか。距離感が自然なところ。一緒にいて落ち着くところ。淡泊な雰囲気があるけど、一緒に稚内まで行ってくれる優しさと行動力があるところ。冷静で大人っぽく見えて、意外にはしゃぎ方が上手なところ。大胆だけど、たまに臆病になる時もあるところ。しぐさ、表情、独特の笑い方。気づけばぜんぶ、惹きつけられていた。
 辛ければ逃げていい、なんて優しい言葉をかけてくれるひとがいる。だけどそんな気持ちの良い言葉に甘えて、戻り方を忘れることもある。千沙さんは僕に思い出させてくれた。一緒に寄り添ってくれた。
だから好きです。あなたが好きです。
「伝えてくれて、ありがとう」
 長く間を置いたあと、千沙さんはその一言だけを残して、僕の前から去って行った。追いかけることはもうしなかった。返事が聞けずがっかりしたり、遠まわしに振られたのかもと、悲しくなったりすることはなかった。こういう別れ方もいいのかもしれない。
 兄を見つける旅が、こうして終わった。

 引っ越し業者により、荷物入りの段ボール箱がすべて外に出され、兄の部屋は小一時間ほどで空っぽになっていった。精密機器であるゲーム機本体といくつかのソフトは、自分のリュックにつめて持ち帰ることにした。
 引き渡しのサインを終え、とうとう部屋に一人だけになる。ここで崩れおちてまた泣くほど、僕はもう、兄に馬鹿にされるような生き方はしない。
 玄関のドアを閉めて鍵をかける。鍵は一階のエントランスにある郵便ポストに入れるよう、管理会社から連絡を受けていた。
 一階に下りて兄の部屋の郵便ポストに鍵を投函する。そのまま去ろうとしたとき、ポストの投函口の隙間から、何かが入っていることに気づいた。昨日確認したときは、何もなかったはずだった。
 入っていたのは、一枚のポストカードだった。
 宗谷岬のモニュメントを写した写真。どうしてこんなものが、と考えてすぐ、彼女が定食屋を出るとき、お土産に買っていたのを思い出した。
 ポストカードをひっくり返すと、そこにシンプルな一文でこうあった。

『茶髪のきみも、見てみたいです』

 思わず笑って、それからカードを持ったまま、いてもたってもいられずエントランスを抜けた。その勢いで通りを駆ける。まずは連絡か? それとも美容院に行くのが先か。
全速力で、僕は兄の部屋から遠ざかっていく。振り返らない。もう戻らない。兄と一緒に、ひたすら自転車を漕いだ日がよぎる。いまの目的地はただひとつ。
 あのひとのところへ。



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