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十和田シンの恋愛小説【短編】『食事だけの関係です』

十和田シンさんから恋愛小説を頂きました!! 恋人たちの『食卓』をテーマにした、切ない佳作が生まれました……。クリスマスの夜の余韻にふさわしい作品です。ぜひ、一息に読んでいただきたい! 十和田さんは、つい先日発売された、コロナ禍の中の恋愛をテーマにした『非接触の恋愛事情』というアンソロジーにも参加されてます。そちらもぜひチェックしてみてください!!

十和田シン

ノベライズ作家、シナリオライター。別名義である十和田眞の名前で『恋愛台風』を執筆、小説デビュー。『NARUTO』『東京喰種』シリーズの小説を担当、ADV『ジャックジャンヌ』シナリオを石田スイ氏と執筆。また、奥十の名前で漫画家として活動する。コミックス『マツ係長は女オタ』発売中。


「食事だけの関係です。」



 日々野慧(ひびのけい)という男は女性に食事をたかることで有名だった。
 どれくらい有名かというと、彼が清掃バイトをしている県内最大規模の複合商業施設、「Zee」の女性スタッフ全員が彼に食事を奢ったことがあると噂が立つほどである。
 所詮噂だということは、同じくZeeの管理運営で働く賀古井知佳(かこいちか)が彼に声をかけられたことがない時点で明らかだが。
「俺、今日、お昼空いてるんですよぉ」
 施設の裏口で餌をねだる猫のように甘くすり寄る慧と、まんざらでもない表情を浮かべている女性スタッフを見ると、自分以外の女性全員が彼の毒牙にかかっていたとしてもおかしくないと思ったりはする。
「うわ、またやってる」
 知佳と一緒にランチに向かっていた先輩、市原仁那(いちはらにな)も同じ気持ちだろうか。
「顔だけは良いから引っかかっちゃう女の子が多いのよねぇ」
 慧は今年二十一歳と成人しているが、まだ未熟さが残る可愛らしい顔つきをしている。
「ああいう男ってほんっと迷惑よね、知佳ちゃん!」
「そうですね」
 一方、今年二十六歳の知佳は、落ち着いた佇まいで実年齢よりもずっと大人びて見える。長く真っ直ぐ伸びた墨染色の髪が、その印象を一層強めているのだろう。中身は少し、独特だが。
「あんな風に裏口の真ん中に立たれたら通行の邪魔になるので困ります」
 市原が「そこっ?」と声を跳ね上げた。声の通りが良すぎたのか、慧を焦らして甘言を引き出そうとしていた女性スタッフがこちらに気づく。
「えっと、じゃ、行こっか」
 逃げるように歩き出した女性の後ろを、慧が「やった」とはしゃいで続く。彼は途中、なにを思ったのかこちらを振り返り、にこりと笑った。
「うわ、今、知佳ちゃんのこと見たよね、危険危険!」
 市原が慧の視線から知佳を守るように間に入る。
「ご飯くらい自力で食べろっての。しかも彼、ああやって人に食事を奢らせといて、ケチつけることも多いらしいよ。食事だけじゃ終わらないって話もあるし……」
「市原さん」
「うん?」
「私たちも食事に行きませんか」
 空いた裏口に向かってどうぞと手を伸ばす。
「……知佳ちゃんは心配無用かも」
 二人がやってきたのは施設から歩いて五分ほどの距離にある小さな公園。南側には四方を樹木で囲まれた神社があり、公園に日陰を作ってくれている。
「ごはんごはん!」
 市原のランチはコンビニで買ったパスタサラダと菓子パン。
 知佳はバッグの中からランチクロスで包んだ縦長の弁当箱を取り出した。
「うわ、知佳ちゃんのお弁当、今日もすっご」
 鮭とひじきの混ぜごはん、マッシュポテトのベーコン巻き、旬の野菜ロースト、他にも様々、彩り豊かに食用花の飾りまでついている。
 食事の気配を察知したのか、神社の方からハトたちが飛んできた。
「一個食べても良いっ?」
 食事を狙うのはハトだけではない。市原もだ。
「お好きなだけどうぞ」
 弁当を差し出すと市原がおかずを摘まんでぱくり。
「おいしい~! これ全部手作りなんだよね」
 週に数回、市原からこの確認をされる。
「たまにはコンビニとか、冷凍食品とか、レトルトで済ませようって気持ちにならない?」
「なりません」
 市原が空を仰ぎ「すごすぎぃ、私は無理ぃ」と嘆く。
「でも、これだけ美味しければそうなるかぁ。その辺のレストランよりも知佳ちゃんの料理の方が美味しいもん。知佳ちゃんの彼氏が羨ましい。こんな料理がいっつも食べられるんだから」
 知佳は市原が褒めちぎる自分の料理を持ち上げる。
「でも、別れました」
 全体重を預けるようにベンチにもたれかかっていた市原がガバッと前のめりになった。
「ええ、またっ? 彼氏さんから結婚の話出てたよね!」
 知佳は「そうなんですよね」と軽く答え、口に入れた食事を淡々と咀嚼した。

 彼氏と別れた理由をしつこく訊かれながらその日の仕事は終わり、知佳は外に出る。
 昼食を食べた公園の角を曲がって、神社通りの鳥居を左手に横切り、真っ直ぐ向かうのはスーパーマーケット。食材を吟味し、購入し、自宅に持ち帰って、化粧も落とさず台所に立つ。調理の手際はすこぶる良いが、作る料理の難易度は高く必然的に時間がかかる。ようやく料理が揃い知佳が食事を前に腰を下ろすのは帰宅から一時間以上たってから。市原が見たら「高級レストランのディナーみたい!」と興奮するだろう料理が並ぶ。
 しかし、料理を口に運ぶ知佳の動作はひどく緩慢で限りなく憂鬱だった。
 手間暇かけて作った自分の料理への評価はいつも同じ。
「美味しくありません」

 体力は充実しているのに気力は消耗しているアンバランスな人たちが街に溢れる月曜日。日が落ち、Zeeの明かりが煌々と夜空を照らす中、人の間を縫うようにスーパーへと向かう知佳の足どりは規則正しく機械的だった。
 公園までくると人が引き、薄暗くなってくる。それ以上に暗いのが公園を曲がった先にある神社通りだ。神社は小さいながらも歴史は古く地域の観光名所。ただ、夜は神様の安眠を考慮してか、明かりが極端に乏しい。昼間は穏やかな木陰を作っていた樹木も、今は全ての光を覆い隠して寒々しく揺れている。そんな場所で女性の一人歩きともなれば早足に通り過ぎるのが真っ当だろう。
 しかし知佳の歩みは鳥居が近づくにつれ緩やかになっていった。
 神社に見入ったわけではない。見つけたのだ。
 鳥居を背もたれに座りこむ男を。
 しかも喧嘩でもしたのか、ボロボロだった。
 もう一つ言えば、男は女に食事をたかることで有名な日々野慧だった。
 知佳は鳥居を見上げる。
「天罰でも下ったのでしょうか」
 信心深くはないがそんなことを言いたくなるシチュエーションだ。
 慧はまだ知佳の存在に気づいていない。触らぬ神にたたりなし、見なかったフリをして通り過ぎた方が賢明だろう。
 知佳は足を踏み出した。コンクリートで舗装された道――ではなく、人々が歴史と一緒に踏み固めた土の上。なにせ知佳は信心深くないから。
「もしもし、生きていますか」
 慧を見下ろし訊いてみた。
「死んでいます」
 すぐに返事が返ってきた。安心した。それなら遠慮も不要だろうと。
「だったら持って帰ってもいいですか?」
 慧が顔を上げる。正面から彼を見るのは初めてだ。可愛らしい顔つきの中に、ふわりと甘い男の気配が潜んでいる。これが女性たちを惑わせているのかもしれない。
 慧の目が、知佳を値踏みするように動く。
「美人さんだね」
「ありがとうございます。あなたも顔だけはいいようで」
 慧が「なにそれ」とシニカルに笑った。女性に食事を媚びているときとは違う表情だ。
「じゃ、お持ち帰りいただきましょうか」

「わぁ、金持ちだぁ」
 マンションのエントランスに入ると、慧が無遠慮に言った。
「給与に見合った家に住んでいるだけです」
 エレベータに乗り込み十階のボタンを押すと、慧は「やっぱり金持ちだ」と機嫌良さそうに言う。
「どうぞ」
 知佳は部屋の鍵を開け、玄関に入ると招くように振り返った。
 そこで、急に慧の手が伸びてくる。
「ご所望は?」
 声が蜂蜜。慧の手が知佳の髪を撫で、首筋に触れる。
 彼の手の甲に青い痣を見つけた。
 知佳はその痣をじっと見つめ、静かに自分の手を重ねる。
 そして、痣をぎゅっと摘まみ、ガスコンロに点火するかのような勢いでねじり回した。
「っぎゃ!」
 慧の手が叫びと一緒に大きく跳ねる。
「ああ、大変、痛そうです」
「あんたがやったんでしょ!」
 慧がつねられた場所を押さえ非難の声。
「全くご所望じゃないことをされたので、つい」
「じゃあなんで俺をわざわざ家に連れてきたのさ」
 知佳は慧に触られた黒髪を悠然と整えてから言う。
「まずは手当てです。大丈夫ですか、怪我」
 慧が虚を突かれたように目を丸くした。その大きな丸の中、瞳がうろうろと泳ぎ、やがて沈む。
「……だったら最初にこれを看て」
 慧がつねられた手をブラブラ振った。
 知佳は慧をリビングのソファに座らせ、怪我の確認と手当てを行う。
「顔の怪我は少ないですね」
「商売道具なんで」
 慧が自慢の顔を見せつけるように前髪をかき上げる。すると額にミミズ腫れのようなものが出来ていた。
「……それは?」
「ああ、子どもの頃にやったヤツ。今日じゃないよ」
「そうですか。他に痛むところは?」
「ここ」
 慧がつねられた場所を掲げる。知佳は「でしたら終わりですね」と救急箱をしまい、今度はタンスの中から男物の服を取り出した。元彼のものだ。
「どうぞ、着替えてください」
 恐らくは喧嘩をしてボロボロになり、その上、地面に座りこんでいたので服が汚れている。
 慧は「はいはい」と服を受けとり洗面所に入っていった。着替えだけかと思いきや、シャワーの音が聞こえてくる。図々しい男だ。
 だが、それがいい。
 知佳は冷蔵庫を開いた。
 それから、三十分たっただろうか。
「風呂、メチャ足伸ばせた! すげー良い! ……あれ」
 頭にタオルをかぶった慧の目に映ったのは、テーブルに並ぶ料理たちだった。彼がシャワーを浴びているうちに作ったのだ。いつも通り誰が見ても美味しそう。
「うわぁ」
 しかし慧は露骨に顔をしかめた。
「私の料理すごいでしょ感が強いー。見ただけで食欲なくなる」
 料理を否定されたのは初めてだった。
「七割野菜じゃん、おかずどれ、味薄そぉ、これ腹にたまる?」
 慧は文句を言いながら席に着き、箸をとる。そして不承不承食べ始めた。
「米、雑穀米? なんで女子って米に余計なもの入れたがんの。うわ、鶏肉のソース、どう見ても辛そうなのに甘ぁ……! あとやっぱ野菜多すぎ。夕飯で草ばっか食わされてもさぁ」
 彼は全ての料理に文句をつける。作った相手への配慮なんか全くない。
 知佳は思った。
「私を救うのはあなたしかいません」
 慧の食事を口に運ぶ手が止まる。
「……はい?」
 知佳は慧を真っ直ぐ見て言った。
「私の料理を毎日食べて評価してください」
 慧が「どういうこと?」と困惑の表情を浮かべる。知佳は気にせず打ち明けた。
「私、自分の料理を『美味しい』と思ったことがないんです」
 これが知佳の人生の悩み。
「ええ? この料理も?」
「味見をしました。美味しくなかったです」
「……自分で美味しいと思えない料理出したの?」
 慧が呆れたように言う。
「はい。でも、一般的には『美味しい』に分類されるものだと認識しています。みんなそう言ってくださるので。それに関しては、お世辞でもないかなと」
 慧がモグモグと口を動かし「んーまぁ、そうかもね」とひとまず同意してくれる。
「美味しくないって、具体的にどんな感じなの?」
「憂鬱を噛みしめるような味です」
「よくわかんないけど、ふーん……。人が作った料理は? レトルトとか」
「苦手意識があって食べられません。レトルトは最悪、吐いてしまうことも」
「病院行ったら?」
「原因不明でした」
「逃げ場ないじゃん」
 知佳は「そうなんです」と答え、自分の胸を押さえる。
「でも、私はこの問題を解決したい。それには自分の料理ともっと深く向き合う必要があると思うんです」
「その協力をして欲しいってことか」
 知佳は力強く頷いた。
「あなたのように人が作ってくれた料理に対して不遜な態度で無配慮にケチをつけてくるろくでなし、そういませんから」
「……ん?」
「底辺のような人間から意見をもらうことで自身を暴く……地獄をのぞくような気分でお願いしています」
 慧が頬杖をつく。
「貶してる?」
「思いの丈を伝えただけです。そもそも真っ当かクズかで言えば、あなたはクズに属すのでは?」
 慧がうーんと首をひねり「なるほど」と納得する。
「それはそうだ」
「良かったです、きちんと自覚があって」
「貶してくるね」
「正直にお話ししているだけです」
「まぁ、いいや。そっちのご所望はわかった。俺の答えだけど……」
 慧が知佳に渡され着用している衣服を摘まむ。
「男、いる?」
「つい先日別れたばかりです」
「なら良かった。いやさ、配給係に彼氏がいたら、揉めること多いから」
「『配給係』?」
「俺に食事を奢ってくれる人のこと」
「惜しみなく品性を疑えますね」
 慧は「ありがと」と軽く受けとめる。
「今日も配給係の彼氏と揉めたんだ。本人は彼氏いないって言ってたのに、真っ赤な嘘。一緒にごはん食べようってところで彼氏が現れ暴力沙汰」
「勧善懲悪ですね」
「嘘ついた配膳係も悪くない?」
「率直に言えば、女性を配膳係と称して食事をたかるあなたも、彼氏がいることを隠してあなたに食事を与えていた女性も、あなたに暴力をふるった彼女の彼氏も全員悪いと思います」
「やった、みんな道連れ」
 話が逸れた。
「そういうことで、彼氏つきの女の子はご遠慮したいわけ」
 知佳は「私なら大丈夫です」と答える。
「あともう一つ条件がある。料理を食べるのは今日を含めた一週間だけ。それが過ぎれば、あんたが料理を美味しいと思えるようになろうがなるまいがお終いだ」
「どうして一週間なんですか?」
 常に食事をたかっている慧であれば、知佳をカモとして延々とねだってきそうなものだが。
「さっきの話に絡んでくるけど、俺いっつも女の子にごはん奢ってもらってるから評判悪いんだよね」
「でしょうね」
「いざこざも増えてきたから、潮時かなって。仕事辞めて街を出るんだ、一週間後に」
 それで期限が一週間。今日という月曜日を含めた一週間となると日曜日までだ。
 ただ、知佳の気持ちは最初から決まっていた。
「わかりました、どうぞよろしくお願いします」
 慧が「ん」と頷く。契約成立だ。
「ところで、俺、あんたと会ったことある? 見覚えあるんだけど」
「職場が一緒です。Zee」
「それで話が早かったのか。知ってるんだね、俺のこと。テナントスタッフ?」
「管理運営です」
「本部じゃん、お偉いさんじゃん。へー、同じ職場かぁ」
 知佳は「そのことですが」と話を切り出す。
「この一週間については他言無用にしませんか。よからぬ噂を立てられては面倒ですから」
 知佳は普段慧に食事を奢っている女性たちとはタイプが違うため、悪目立ちし、より一層大きな噂になる可能性がある。
「私たちは食事だけの関係ですから」
 それ以上でもそれ以下でもない。
「……ねぇ」
 慧が急に神妙な面持ちになる。
「ところで名前なに?」
 そういえば、名乗っていなかった。

 その後、慧が帰り、汚れた食器を流しに運ぶ。二人分の食器。ぼんやりと思い出す光景があった。
『……まずい』
 怒りを押し殺した声。
『全部まずい……!』
 知佳は蛇口を思いきりひねり、皿の汚れにぶち当てた。
 これが慧との一日目。

 一週間は火曜日から始まるのかもしれない。背中にへばりつく休日への未練を捨てて、ようやく次の休日に向かって歩き出すのだから。それが心地良い。
「知佳ちゃん、ごはん行こ」
 仕事に区切りをつけて知佳は市原と共に裏口に進む。
「俺、すっごくお腹減ってるですよぉ」
 甘える声が聞こえた。慧だ。
「またやってる……」
 うんざりする市原の隣で知佳は普段通りの他人ごと。
 しかし、向こうはそうではなかった。
「あ、知佳ちゃ~ん! 昨日はありがと!」
 慧が右手を大きく伸ばしてぶんぶん振ってきたのだ。一瞬で周囲がザワつく。市原が「どういうことっ?」と知佳の肩を激しく揺すった。
「無神経な人に配慮を求めること自体、愚かでしたね。学びました」
 知佳は素直に反省した。

「すごいね、知佳ちゃん。表情全然変わんないんだもん」
 時刻は十九時。約束通り、慧が夕飯を食べにやってきた。
「内実はどう? 悪評高い日々野慧くんからハート飛びかうご挨拶を白昼堂々された気分は」
「そうですね、不快でした」
 怪我をしていたので手当てをし、料理を食べさせてあげただけだと説明しても「あの男だけはやめた方が良い!」と繰り返し忠告される一日となってしまった。特に市原から。
「そんなことよりも料理です」
 知佳は話を切り上げる。
 昨日はあり合わせのものでパッと作ったが、今日はスーパーに足を運び、しっかり手間暇かけて作った知佳の本気である。
「さぁ、どうぞ」
「……なにこれ」
 知佳が料理を並べると、慧が眉をひそめた。
「魚のケーキ……?」
「鯛を使った舞茸のチーズリゾット、セルクル仕立です」
「……はい?」
 真っ白なお皿の真ん中に、それこそケーキを焼くときに使う丸いセルクル型で円状に形を整えたリゾットが鎮座している。リゾットの上に一口大の西京焼き、あぶった舞茸、スライスしたすだちが一緒に並び、魚のケーキというのも見た目でいえば近かった。
「職場で馴れ馴れしくした嫌がらせ……?」
「まさか。あとこちらはナスの冷製スープ」
「えっ、ナスが冷製でスープ? スープなのに冷たいの?」
「そちらが柿とニンジンのラペ」
「らぺってなに」
「合鴨とクレソンのタリアータ、それから……」
「ちょっと待って、はい、ストップ!」
 慧が制するように両手を突き出す。
「……なに一つわからない。最初から最後まで全部」
「ナスをご存じないと?」
「ナスは存じてますさ。このドロッとしたクリーム色のスープがナスのなれの果てだとは存じ上げませんでしたけど」
「確認してみては」
 知佳がスプーンを差し出す。彼の手はなかなか伸びてこない。しかし、じっと待つ知佳を見て観念したようにスプーンを受けとり、先端でスープの表面を掻いた。味見にもならないだろう量のスープがこびりつき、彼はそれをぺろりと舐める。
「……ナスだぁ」
「ナスですから」
 彼はスープをもうひとすくい。先ほどに比べればずっとスムーズにスープが彼の口に招かれる。
「まろやかクリーミー冷え冷えナス……」
 慧はスプーンをテーブルの上に置き、腕を組んだ。スープから得られる未知の情報に混乱しているようだ。
 慧は意気込むように箸をとり、他の料理も食べていく。箸が動けば動くほど彼の表情は曇っていった。知佳の視線は慧の顔よりも彼の箸に注がれていたが。
「……複雑!」
 やがて慧がさじではなく箸を投げた。
「見た目で味が想像出来ないし、食べてもわかんないし、なんなのこれ、疲れるんだけど!」
「ネットで検索すれば簡単に出てくる料理ばかりですよ」
「『簡単』に温度差ある。そもそも料理名覚えてないし」
 知佳は同情するように口元を押さえる。
「偏差値が低いんですね。……料理の」
「とってつけたね『料理』の部分」
 誤魔化せないようだ。
「まぁ、料理にも偏差値があるっていうならそりゃ低いでしょうよ。なにせ俺は酸いも甘いも噛み分ける知佳お姉様とは違って、まだ二十一歳のお子様ですから。女子の自己満オシャレ料理なんかにつき合いきれません」
 知佳の眉がピクリと上がった。逆に慧は知佳の表情をわずかばかりでも崩せたことに喜びを感じ、笑みを作る。挑発的に。
 だから知佳は自分の箸を持った。
「こうです」
「え」
「箸の持ち方。間違っています」
 知佳の手に、美しく箸。
「正しくはこうです」
 慧が食べる姿を見て気がついた、箸の崩れ。
「箸の乱れの先に、あなたの親御さんの姿が見えます」
 今度は慧の眉が上がった。それだけではなく眉間にしわが寄る。怒りだ。
「親は関係ないだろ」
 刺すような鋭さで、慧が睨みつけてきた。人を小馬鹿にするような態度ばかりとっていた慧が、親を庇ったのだ。
 しかし知佳は怯まなかった。
「子どもは親とセットで語られるものです。それが嫌なら自立して大人になられてはいかがでしょうか、二十一歳のご子息様」
 慧が奥歯を噛んだのは、知佳の言葉が刺さって痛んだからだろうか。彼はチッと舌を打ち、視線を外す。
「……とにかく」
 慧が声のトーンを戻して椅子から立ち上がった。
「味も見た目も複雑すぎて、難解なクイズを出されているみたい。レトルトの方がずっとわかりやすくて優しいや。明日もこんな料理が出るならそこで『ごちそうさま』だ」
 一週間という約束を、明日で終わらせるということだ。
「わかりました、改善します」
「……そこは素直なんだ」
 肩すかしを食らって慧が息をつく。
「好みを聞いても良いですか。ご家庭ではどんな料理を?」
 質問に再び空気が尖った。
「……忘れた」
 どうやら家族の話はタブーらしい。
「手間暇かけた凝った料理が嫌いってことだけは伝えとくよ。ああ、あとそれから」
 慧が知佳の顔を指さす。
「そのお綺麗すぎるマネキン顔もどうにかして。料理まで食べられない食品サンプルに見えてくるよ」
 慧がひらりと手を振って、食事をそのままに去って行った。
 テーブルに残された料理たちを見て思う。
 自分が料理を美味しいと感じられるかどうかはいったんどうでも良い。
 あの男に「美味しい」と言わせなければ。

 一週間で一番意識されない曜日は水曜日じゃないだろうか。知佳の意識も水曜日ではなく日々野慧に向いている。
「このままだと落第です」
 知佳が今までつき合ってきた男性は普段からレストランで食事を楽しむ人ばかりだった。
 一方、慧は女に食事をたかって済ませる男である。知佳のこれまでの常識をぶつけたところで受け入れられるはずがない。
 それに、慧の意見は的を射ているところもあった。
 料理が複雑というのもそうだ。
 知佳が料理を始めたのは十歳のとき。年を追うごとに知識や技術が深まり、扱える食材も増え、より緻密で繊細な料理を作れるようになった。反面、いわゆる王道の料理から離れ、食べる人を選ぶ料理になっていたのかもしれない。少なくとも慧の舌には合わない。
 慧に「美味しい」と言わせるには、初心に戻る必要を感じる。
その場所に、なに一つ良いものがなくても。
 だったら、と、知佳は「テナントの様子見てきます」と言って、席を立った。
「さて」
 仕事は既に片づけてある。これからほんの少し自由時間、慧の調査に出発だ。
 知佳は事前に清掃班のスケジュールを手に入れていた。職権の有効活用である。
「これによると今は一階のこもれび広場にいるはず……」
 こもれび広場は買い物客の休憩スペースで、隣接している飲食店で買った料理を食べることも出来る。また、憩いの場として自然を多く取りこんでおり、大小様々な樹木が植えてあった。
「……いました」
 そんな樹木から落ちる葉を清掃スタッフである慧がかき集めている。落葉シーズンということもあり、忙しそうだ。
 意外なことに慧の働きぶりは真面目で、次から次に落ちてくる木の葉と根気強くつき合っている。綺麗になった場所に落ちてきた葉っぱを睨みはしたが、それもゴミ袋に放り込んだ。
 そして、作業着の袖で額を拭う。風は冷たいが、彼の体は火照り汗が浮かんでいるようだ。
「あ……なるほど」
 用は済んだと知佳はその場を立ち去った。

 夜。慧が知佳のマンションにやってくる。
 今日は突然発生した料理試験日。合否で明日の運命が変わる。慧は終わらせるつもりで来ているかもしれない。
「あれ?」
 しかし、知佳の部屋に入ったとたん、慧がなにかに惹かれたように顔を上げた。
「この匂い……」
 知佳はテーブルの上に料理を置く。
 平皿の上には『なにか』を大きく包む和紙。
「なにこれ」
「『奉書焼き』です」
「複雑だし凝ってるぅ」
 昨日、自分が言ったことを聞いていたのかと言わんばかりの表情だ。ただ、言葉の険は乏しい。紙袋の中から漂ってくる香りへの期待がそうさせているのかもしれない。
「紙を破いてみてください」
 慧が怖々と和紙を破って、左右に開く。
「わ」
 同時に、食欲をくすぐる肉の香りが湯気と一緒に飛び出した。
 紙袋の中にあるのは、じゅわりと肉汁を垂らす豚肉だ。
 慧が一口大に切られた豚肉を箸で摘まむと、さらに肉汁が溢れ出す。
「……食べて良いの?」
「そのための食事です」
 慧が、はふ、と肉を噛んだ。
「ん!」
 最初に感じるのは濃い塩気。そしてストレートな肉の味。噛みしめれば噛みしめるほど、原始的な旨みが口の中で弾け散る。胃袋に落ちてもそれは終わらない。
「いかがでしょうか」
 慧は答えず、次の肉を摘まんだ。それを答えとしていいだろうか。
 清掃は肉体労働。疲労回復に効果がありそうな食材を選び、旨みがぎゅっと詰まるよう、和紙で包んで蒸し上げた。味つけは塩コショウだけ。至ってシンプル。だからこその美味しさがある。
「まじかぁ」
 食べ終えた慧の感想はそれ。今日は完食。
「今日で『ごちそうさま』でしょうか?」
 慧が「んー」と頬杖をつく。
「明日も『ご馳走』になるわ」
 合格だ。
 知佳はやっと自分の食事を口に運ぶ。相変わらず美味しくはないが、いつもと違う感覚があった。
 お腹が満たされている。
「マネキン顔も改善してくれたんだ?」
「え?」
「昨日より全然良い。今日の方が美人で、柔らかい」
 知佳は顔を隠すように口元を押さえた。
 いつもと違う感覚は、知佳が感じている以上に芽生えているのだろうか。
「明日になって逆戻りしないでよね」
 慧の忠告に知佳は「だったら」と返す。
「私を監視してくれませんか」

 木曜日に対して思うことはない。
 その日、知佳は慧と公園で待ち合わせ、一緒にスーパーに来ていた。
「俺が嫌がりそうな料理にならないように、食材購入の時点から見張っていろと」
「なにをしてしまうかわからないので」
 別の目的もある。一緒にスーパーを回れば、慧の食の好みもいくらか把握出来るのではないかと思ったのだ。
 しかし、上手くいかないものである。
「いない」
 慧は知佳の監視を放棄して、スーパーの中を自由に動き回っていた。彼にしてみれば会計前に籠の中を確認すれば良いだけの話なのだ。知佳の思惑ばかりが先行して、そこに思い至らなかった。
「知佳ちゃーん、これ欲しい」
 気まぐれに戻ってきた慧の手にレトルトカレーが握られている。ブラックジョークだろう。
「返してきてください」
「そう言わず」
 慧が買い物カゴにレトルトを落とす。
 慧がいなくなったところで棚に戻そうと思いながら足を踏み出すと、かまぼこやちくわといった練製品が並ぶコーナーが姿を見せた。
「あっ。知佳ちゃんこれも欲しい」
 見れば誰もが知っているパッケージ、歯ごたえ抜群のウィンナー。
「……好きなんですか? ウィンナー」
「あ、子どもっぽいと思った? 男の味覚なんて小四で止まるから、これでちょうどいいんだよ」
「世の男性に謝られては」
 知佳はウィンナーを手に取りじっと見てから、買い物カゴに落とす。
「ウィンナーでしたらハーブ入りもありますよ」
 知佳は別の段に陳列されていたハーブウィンナーを指さした。
「そういうごちゃごちゃしたの好きじゃない」
 知佳は「そうですか」と言いながら、ハーブウィンナーも買い物カゴに入れる。「ええぇ」と慧が否定的な声を上げたが無視だ。
 知佳の手はそれにとどまらない。チーズ入りのウィンナー、燻製ウィンナー、チョリソー。その場にあったウィンナーを次々カゴの中に入れた。
 自宅に戻り、料理を開始。スープ、サラダ、前日から準備して焼いたパン。メインディッシュは――。
「うわっ、すっごいウィンナーだらけ」
「ウィンナーの食べ比べです」
 慧が自主的に持って来た食材を真ん中に据えた。
 ちなみに、焼いたものとボイルしたもの、二種類用意し、ケチャップ、マスタード、手作りソースも準備した。
 料理を作ったという手応えが薄くて落ち着かないが。
「へー、面白い。いいね」
 慧の言葉に胸が晴れた。これは安堵だろうか。
「じゃ、食べようよ」
 慧は知佳にも食事を促す。
「評価を聞いてから食べます」
「ウィンナーなんて食べる前から絶対勝利でしょ」
 ほら、とやや強引に促してくる。仕方なく知佳はボイルしたハーブウィンナーをとった。慧は王道のウィンナー、焼きだ。
「じゃあ、いただきます」
「いただきまーす」
 知佳の口にはじわりと、慧にはパリッとウィンナーの味が広がる。
「ほら、やっぱ間違いない!」
 予想通りの美味しさに慧が明るく笑う。
「一応、ハーブも食べとくかぁ」
 意外だった。どうせスルーするのだろうと思っていたから。
「……ん。……」
「口に合いませんか」
「悪くは、ない」
 慧は他のウィンナーも一つずつ味を確認していく。あれが美味しい、これが美味しいといつも以上に多弁だ。
 結局、一番好きだったのは、慧が自分で選んだウィンナーだったが。
「自分で焼いたウィンナーよりも美味しいような気がした」
 食べ終わり、慧がそんなことを言う。
「普段どういう風に焼かれているんですか?」
「普通だよ。油引いて、強火でサッと」
「私は販売元の社員さんが推奨している焼き方をしました」
「えっ、そうなの? どんな?」
「フライパンに薄く水を張って、茹でるように焼くんです。水分がなくなったら完成」
「へぇ」
 慧が空になった皿を見つめる。
「ただ焼いただけかと思ったら、しっかり手が込んでたんだ」
「手が込んでいると言うほどのものではありませんが」
「でも、その一手間が味を左右したんでしょ。……ああ、そっかー、うー、あー、んー……」
「どうされました」
「料理偏差値、上がったかも」
 慧が今までの行動を後悔するように息をつく。
「知佳ちゃんの料理って、こういう一手間がいっぱい詰まっているんだね」
 気道がうっと詰まるような感覚を覚えた。意味がわからず、とにかく元に戻そうと息を吸う。体内に取りこまれる酸素が妙に冷たい。
「じゃあ、片づけますので」
 今日を終わりにするため、知佳は立ち上がり、空になった食器を流しに運んだ。しかし、いつもならすぐに帰る慧がなぜか椅子に座ったままだ。
 知佳は彼を無視するように蛇口をひねる。いつもより水が冷たい。
 いや、自分が熱いのか?
 水に濡れた手のひらを見るのに深く俯いてしまい、髪が肩から零れてくる。食器を洗うには邪魔だが、囲いの中に避難出来たような気がした。
「知佳ちゃん」
 なのに狭い視界の中、急に慧の手が入り込んだ。慧が知佳の背後から、両手を伸ばしてきたらしい。再び気道が詰まる知佳を置いて、慧の手が、指先が、知佳の髪に触れた。そして長い黒髪を、ゆっくり肩から背中へと流す。
「……髪、濡れちゃうよ」
 垂れた黒髪が、蛇口の水に触れるとでも思ったのだろうか。
「そこまで長くありません」
 ようやく声を押し出した。
「……感じた?」
 なにを、と言いかけて、察する。
「『“品”困(ひんこん)』ですね」
「酷いこと言われた」
 慧がけたけたと笑ってから、汚れた皿を取る。
「食器、洗ってあげる」
「どうしてですか?」
「どうしてだと思う?」
 慧が横目に知佳を見た。ぞわりと走る『なにか』。
 この質問に答えたら確実に『なにか』が進む。
「洗えるんですか」
 知佳は蛇口の水を弱め、話をすり替えた。
「清掃員だよ、俺?」
「それがなにか?」
「綺麗にするのは得意ってこと」
「分野が違うのでは」
 慧が腕まくりをして、知佳の手からスポンジを取りあげる。
「ほら」
 慧が食器を洗い始めた。確かに彼が言うとおり、食器が綺麗になっていく。
「明日もスーパー行くの?」
「毎日行っています」
「ふーん」
 だったら、と慧は知佳を見ずに言う。
「明日も見張りに行くわ」
 さりげなく、でも早口。
 ――ああ、やめて。

 その夜、知佳は夢を見た。
『せっかくごはん作ったのに、どうしてそんなことするの』
 哀しげな母の声。その先に父の背中。
『そんなまずい飯、食えるか』
 父がレトルトのカレーを温めている。
 湯煎の中、レトルトのカレーが二つ踊っている。

 休日前の金曜日を嫌う人は、誰にも言えない哀しみを背負っている。
 土曜日も仕事がある知佳にとって、金曜日は流れる平日の一つでしかないが。
「あなたも明日、出勤ですか」
「そ。ラスト出勤」
「ラスト? ああ……」
 公園で落ち合い、買い物に行こうと歩き出したところで慧と交わした会話。そうだ、彼はこの街を去るのだ。
 知佳が彼と食事をするのも今日を入れてあと三日。
 食事は未だ変わらず、味気なく。ただ、味覚以外の部分に訪れた変化がいくつかある。
 彼との一週間を終えたとき、一体自分はどうなっているのだろう。
 そんなことを思いながら神社の鳥居を横切ろうとした。
「え、日々野?」
 知佳は思わず顔を上げた。神社の前、観光客らしき若い男が、大きく目を開いて知佳たちを見ている。知り合いを見つけた目だ。それも、ずっと探していた相手。
「知佳ちゃん、行こ」
 慧が顔を伏せ、短く言った。しかし男が「日々野じゃないかっ!」と駆け寄ってくる。日々野慧の元に。
「お前、なんでこんなとこにいるんだよ! みんな心配してたんだぞっ? 親父さんだって!」
 男が慧の腕を掴んだ。しかし慧は、穏やかに男の手を払う。
「すみません、人違いだと思います」
 慧は人当たりの良い笑顔を浮かべ、頭を下げ、捨てるように歩き出した。
「そんな、いやでも、だって……」
 日々野、と呼ぶ声が、哀しく闇に溶けていった。
 スーパーに到着し、食材を見て回る。前日、好き勝手行動していた慧が今は黙って知佳の後ろ。
「……知佳ちゃん、ちょっとだけ神社寄っていい?」
 買い物を終え、エコバッグに食材を詰め終わったところで、慧がその荷物をとり、頼んできた。
 薄暗い神社に戻ると人影一つない。
「……もういいや、ありがと」
 自宅に戻ると慧が「なんかやることある?」と訊いてきた。
 知佳を見下ろす彼の視線は仄暗い。彼らしくない。それともこれが本来の彼なのだろうか。
 今日は手の込んだ料理を作るつもりでいた。その工程に他人の手は必要ない。
 だから知佳は、今日買った食材を見て、諦める。
「冷蔵庫の中に昨日のウィンナーが残っているので出してもらっていいですか」
 今、最もふさわしい料理が別にある。

「はい、ご苦労様です」
 慧と一緒に用意したのは、長細く切ったウィンナーに厚焼き卵、ツナにサーモン、キュウリ、大葉、そして酢飯に海苔。
「今日は手巻き寿司です」
 好きなものを、好きなように、好きなだけ。その方が気楽だろう。
 だが、慧の瞳は複雑な色がない交ぜとなっていた。
「……実家」
「実家?」
「……いや」
 慧は言葉を飲み込み海苔とる。酢飯をしいて、具材はきゅうり、厚焼き卵、ウィンナー。
「知佳ちゃんちも手巻き寿司にウィンナー入れてたんだ。珍しいらしいよ」
「そうなんですか? これが普通だと思っていました」
「知佳ちゃんと共通点があるなんて意外」
 海苔でぐるりと巻いた手巻き寿司。慧が大きく口を開け、あむりと噛む。
 食事に対する感想はない。
 ただ、準備していた具材は次々消えていった。
「これ、どうぞ」
 食事が終わり、後片づけも済んだところで、知佳は慧にアイスクリームを渡した。普段、料理に使っているバニラアイスだ。
 すると、慧が「えっ」と驚き声を上げる。
「どうしました?」
「いや……」
 彼はまた言葉を飲み込んだ。
 そのまま腹の奥で吐き出されることなく昇華されていくのだろうか。
「このアイス……親父が好きで、いつも冷蔵庫に入ってた」
 しかし、アイスの蓋を開けたところで彼の口も開いた。
「思い出の品ですか」
「そうだね。……」
 突然、慧の顔が、歪む。
 彼は両手で顔を押さえ、んっん、と不自然に咳払いをした。そのあと大きく息を吸い、なにごともなかったようにスプーンとる。
「……高三のときにさぁ。学校帰り、コンビニでこのアイス買ってた母さんに会ったんだ」 スプーンでアイスをすくいながら、唐突に昔話。
「俺は反抗期の終わりかけ。母親と並んで歩くなんてまだ無理なわけ。だから、声かけてきた母さんを無視して、点滅してた信号を強引に渡った。母さんは渡れず向こう側。やっと解放されて振り返ることもなく進んでたら……後ろから、ドーン」
 スプーンの上、ゆっくりアイスが溶けていく。
「歩道に車が突っ込んでた」
 溶けたアイスが、ぽた、とテーブルの上に落ちた。
「知らない人たちの叫び声が聞こえて、みんなが駆け寄る中、俺はその場から動けなかった。そこで、記憶飛んでるんだよね。気づいたら家にいて、テーブルを見てた。テーブルの上には、父さんと、母さんと、俺、三人分の食事が仲良く並んでて……」
 ぽた、ぽた、ぽた、と零れるアイスが涙の斑点に見える。
「俺のせいで、母さんは死んだんだって思うようになった。あのとき、母さんと立ち話でもしてたら、並んでゆっくり歩いていたら、母さんを置いていかなかったら、こんなことにはならなかったんじゃないかって」
 慧がアイスを舐めた。苦そうに。
「そんなことない、お前だけでも無事で良かった、母さんもそう思ってるはずだって父さんは言ったけどさ。友達も励ましてくれたけどさ。逆に、それがしんどくて家を出た。バイトで食いつなぎながら、街を点々と。……そしたら、急に思い出したんだ。子どもの頃に住んでた街のこと。近所に小さな神社があって、休みの日は家族揃ってお参りをして、神社のハトに餌をやってた。ま、その神社ではしゃいでたら転んだのか、ぶつけたのか、額に石がぶつかって、怪我しちゃったんだけどさ。めちゃくちゃ血が出て。頭ってすげー血が出るのな。……母親が泣きそうな顔して手当てしてくれた」
 知佳が「もしかして」と尋ねる。
「あの神社……?」
「そ。怪我した後、神社に行かなくなっちゃったんだけどさ。無性に懐かしくて久しぶりに帰ってきたんだ。で、そのまま住み着いたってわけ」
 慧はカップの中でかろうじて形を保つアイスをぐるりとかき混ぜ、一気に飲んだ。これでこの話はお終いというように。
「……あなたが女性に食事をねだるのは『ただで料理を食べる』ことではなく、『女性と一緒に料理を食べる』ことが目的だったんですか?」
「え?」
 聞いていて、思ったのだ。
「女性を死んだ母に見立てて、失ってしまった母との食卓を再現しようとし続けていたんじゃないですか?」
 過去から今に続く苦しみを誤魔化すために。
 慧は苦笑する。
「もしそうなら、女の人が一番嫌がるパターンだよね。『私はあんたのお母さんじゃないのよ!』って。実際、言われたことあるなぁ、あはは」
 否定も肯定もせず笑う声は寒々しい。
 彼はもうずっと、母が死んだ罪悪感で首を絞められ、熱を生み出すことも出来ないのかもしれない。
「……私は別に、かまいません」
 思わず口走っていた。
「あなたのお母さん代わりでも」
 慧が驚いて知佳を見る。知佳は真っ直ぐ見つめ返した。
 慧の目に熱が籠もったような気がした。
「……いや、無理でしょ」
 否定の言葉。しかし拒絶とはほど遠い温かな音色。
「俺の母親、料理が下手でしょっちゅう失敗してたから。知佳ちゃん全然似てないよ」
 慧が椅子から立ち上がる。
「それでも、食卓はいつも明るかったけどね」
 彼は空になったアイスのカップをゴミ箱に捨てた。
 彼の家庭は幸せだったのだろう。それに知佳の胸が締めつけられた。
「……知佳ちゃんはさ、料理が美味しくなくなったきっかけあるの?」
 急に、訊かれた。
「え……」
「知佳ちゃんの親ってどういう人なの? 手巻き寿司、揃って食べるような家だったんでしょ?」
「私の家は……」
 そういう時期も、あった。そんな、夢みたいな時期も。
「……一週間か」
 慧がぽつりと呟く。
「知佳ちゃん。一週間が過ぎても……」
 彼の言葉はまた飲み込まれた。
 それにホッと出来ない自分が恐ろしかった。

 土曜日は立ち止まることを許さず、ずっと背中を押し続ける。
 その日、知佳は朝から体調が悪かった。有休を使うかどうか迷うほどに。だが、日々の役目を全うしなければ、慧に食事を作ってはいけないような気がする。
 知佳は自分の体に鞭を打ち、出社した。
 しかし、こういう日に限って忙しく、いつも気にかけてくれる市原の姿も見えない。知佳は一人で昼休憩に向かうことにした。
 すると、裏口に女性が二人立っている。
 彼女たちは知佳に気がつくと囁き合い、こちらに歩みよってきた。剣呑な雰囲気だ。
「お疲れ様です、賀古井さん」
「最近、慧くんとすっごく仲がいいみたいですね」
 目的を察した。
 彼女たちは慧によく食事を奢っていた女性たち。知佳と慧の関係を疑って、攻撃してきたのだ。
「慧くんと買い物にも行ってたそうじゃないですか」
「どうやって慧くんを手なずけたんですか?」
「お小遣いでもあげているんですか?」
 二人が代わる代わる言葉を投げつけてくる。
 知佳は人ごとのように彼女たちの話を聞いていた。それがしゃくに障ったのだろう。彼女たちは『とっておき』を取り出す
「賀古井さんって清純そうに見えて男が途切れたことないそうですね」
 知佳の心が初めて波立ち「え」と困惑の声が漏れた。彼女たちはようやく知佳を痛めつけることが出来たと思ったのか「色々お上手なんでしょうねぇ」と嘲笑う。誰からも愛されることがないだろう醜い顔で。
 彼女たちが立ち去っても、知佳はその場から動けなかった。
「あれ、知佳ちゃん? どうしたの?」
 そこに、市原がやってきた。異変を感じたのか、駆け寄ってくる。
「市原さん」
 知佳は裏口の先を見つめたまま言った。
「私、彼氏の話、市原さんにしかしたことないんです」
 他の誰でもない、市原にだけ。
 ゆっくり振り返る。
 市原は青ざめていた。
「市原さんが彼女たちを扇動したんですね」
 違えば良いという気持ちはあった。
「……慧くんと買い物行ってたじゃん!」
 市原のヒステリックな声に打ち砕かれた。
「そういうこと絶対しない人なのに! しかも荷物まで持ってくれてさ! 二人で神社にお参りもして! なによあれ、なんなのよあれ!」
 昨日の一片を市原は見たらしい。
「慧くん、しょっちゅう私に夕飯ねだってたのに、今週になってさっぱり声をかけてくれなくなった!」
 知佳は「ああ」と息を吐いた。
「彼氏さんに暴力をふるわれたからじゃないですか?」
 市原の体が撃たれたように大きく跳ねた。
 市原から彼氏の話を聞いたことはない。
 でも、慧に夕飯を食べさせていたのが市原なら、慧には彼氏の存在を、彼氏には慧の存在を隠し、揉めごとを引き起こしたのは市原なのではないか。
 それが、神社の鳥居を背に座りこむ慧に繋がったのではないか。
「……け、慧くん、そこまで、話したの?」
 市原は正直な人だ。
「いいえ。なに一つ聞いていません」
「えっ……。カマかけたのっ!」
 正直は愚かだ。知佳は憐憫の眼差しを市原に向ける。
「な、なに、バカにしてるのっ? いいわよね、知佳ちゃんは! 美人だから男が勝手に寄ってきて、しかも顔の良い金持ちばっかりで! こっちは相手の顔色うかがって、愛想振りまいて、必死でアピって、それでようやくつき合えるのよっ? しかもつき合ってみたら揃いも揃って下らない、誰にも紹介出来ない男ばっかり!」
 市原の目に涙が浮かぶ。今まで我慢していたことが一気にあふれ出し、止まらないのだろう。ただ、知佳は思うのだ。
「羨ましいです」
「……は?」
「自分がやったことは棚上げで、泣いて喚いて他人を悪者にして、なんの疑いもなく悲劇のヒロインになれる。私、そういう人の方が得をしていると思うんです。だって結局、みんなに同情されて優しくされるのは『私は傷ついた』と恥ずかしげもなく主張出来る人だけですから。だから市原さんみたいに醜く汚い感情を素直に出せるの、羨ましいです。そうやって、自力での解決を諦めてみんなに助けてもらってたんでしょう?」
 とうとうと語る知佳に、市原は顔を引きつらせていく。
「惨めで、みっともなくて、羨ましいです。私もそうありたかった」
 市原の唇がわななき、閉じることが出来ない。酷い侮辱に聞こえるだろう。言葉の強さを思えば仕方ない話だが、本心なのだ。
「私、自分のプライベートなこと話せるの、市原さんだけでした」
 そして、泣きもせず、喚きもせず、淡々と語る知佳の本音は、傷は、風と一緒に消えるだけ。
「意味、わかんない……怖い」
 ほらね。
「あと……誤解してますよ、市原さん」
 乱れ一つない口調で、知佳は続ける。
「……ん? 知佳ちゃん?」
 ちょうどそこに慧が通りかかったことなんか気づかずに。
「市原さんが心配するようなことはなに一つありません。私と日々野慧という人間は、食事だけの関係です」
 安心してくださいと念を押す。市原が拒否するように首を横に振る。
「わかんない。知佳ちゃんが入社したときからずっとそう。知佳ちゃんが考えてること、一個もわかんなかった。不気味だった」
 正直は残酷だ。
 そして、知佳が気づかぬうちに慧は去って行った。

「市原さん、目、赤くない? 大丈夫?」
 食事は食べず、外を歩いてからオフィスに戻ると、市原の周りに社員たちが集まっている。
 知佳はそれを横目に仕事へと戻った。当然「大丈夫?」と声をかけてくる人はいない。
「……仕事、早く終われば良いのに」
 そうすれば。
 そうすれば?
 仕事が終わり、足早に公園に向かった。今日も待ち合わせてスーパーに行く予定だったから。ベンチに腰掛け、慧を待った。
 慧が来ない。
 公園で一時間待って、知佳は一人、スーパーに向かった。食材は二人分。
 家に帰って料理を作る。料理が出来る。しかし、部屋には一人だけ。
 二十三時を回ったところで料理を片づけた。
 そのままさっさと寝れば良いのに、台所の整理を始めた。
「あ」
 すると、本来なら家にあるはずのないレトルトカレーが出てくる。一昨日、木曜日、慧が勝手に買い物カゴに入れたものだ。
『お前の料理に比べたらレトルトの方がずっとマシだ!』
 突然、声が蘇った。
『一生懸命作ったのにどうしてそんなこと言うの……』
『嘘つくなっ!』
 父の怒鳴り声。食事の度に、何度も何度も。
『お前の料理、全部まずいんだよっ!』
「……やめてっ!」
 バンッと叩きつける音が響いた。箱がひしゃげたレトルトカレーが床に転がっていた。
「はー、はー……」
 知佳は床に座りこむ。
「はー、はー、はー、はー……」
 大丈夫? と声をかけてくれる人はいない。

 日曜日は孤独になるから死ねばいい。
 知佳は昼過ぎになってもベッドから起き上がれずにいた。そもそも昨日の朝から体調が悪かったのだ。その上、市原との口論、慧を待つ寒空と続けば悪化するに決まっている。
「……」
 慧は来なかった。
 本来であれば、今日が七日目、最終日。しかしこの関係は彼のさじ加減次第。知らない内に終わっていたのかもしれない。
 でも、それで良かったのかもしれないと思う。
「……なにか食べないと」
 無理矢理体を起こしてキッチンに向かう。前日の残り物をとり出し、温めた。どうせなにを食べても美味しくないのだ。そして一口。
「……っ」
 知佳は口を押さえる。
 まずい。
 〝美味しくない〟が可愛らしく思えるほど、まずい。
「うっ……」
 ふわりと漂ってきた香りも異臭のようで知佳は慌てて料理を捨てた。
「なんで……」
 洗い流すように水を飲み、シンクにもたれかかる。
 こんなことなかったのに。慧と料理を食べていたときだって。いや、それどころか……。
 知佳ちゃん、と慧の声が蘇る。
 小馬鹿にするような声。呆れた声。明るい声。寂しそうな声。全て鮮明に。
 市原の叫びも思い出した。やっぱり羨ましい。あれだけ素直に、正直に、自分の気持ちを晒せるなんて。
「だって私は……」
 そこでピンポンとインターホンが鳴った。
 驚き顔を上げ、振り返る。
 インターホンには、慧の姿が映っていた。
 知佳は慌てて解錠する。
「どうして……」
 昨日は来なかったのに。
 エントランスのインターホンが鳴ってから約三分。今度は部屋のチャイムが鳴り、ドアを開けると慧が立っていた。
 極めて不機嫌な慧が。
「ごめんなさい、今日の分はまだ用意出来ていないの」
 慧が「そう」と冷たく言い放ち、部屋に入ってくる。あからさまに態度がおかしい。理由がわからず戸惑っていると、彼の視線があるもので止まった。
「だったらこれでいいよ」
 床に落ちていたレトルトカレー。慧がそれを拾い、荒く箱を開こうとする。
 それに、父の姿が重なった。
 まずい、まずいと言っていた、父の姿が。
「だめっ!」
 気づけば知佳は、彼の手からレトルトを奪い取っていた。その剣幕に慧も驚く。
「これが食べたいなら……、家に持ち帰って勝手にどうぞ!」
 知佳は忠告と共にレトルトを差し出した。
「……知佳ちゃんはさ。この一週間で変われた?」
「え?」
「食事、美味しくなったの?」
 レトルトは受けとらず、慧が尋ねてくる。
「……いいえ」
 それどころか、だ。
「さっき料理を食べたら……まずかった、です」
 正直に伝えた。
「じゃあ、無駄だったんだ、この一週間」
 正直は人を傷つける。
「いえ、そういうことじゃ……!」
 知佳は弁明しようとした。しかし取り繕ったところで、なんになるというのだろう。
「……そうですね」
 自分を納得させるように、言葉を押し出す。
「そうですよね」
 知佳は真っ直ぐ彼を見た。
「もう終わりにしましょう」
 そして、自ら幕を閉じるように背を向ける。あとは彼が立ち去る足音を聞くだけ。
 あの日のように。
 父が家を去った日のように。
 しかし、足音は響くことなく、感じたのは腕の痛みと熱だった。そして浮遊感。
 慧が知佳の腕を掴み、引きよせていた。
 息を飲むまもなく、知佳は慧に抱きしめられる。
「知佳ちゃん」
 男の低い囁きにこみ上げたのは、歓喜と恐怖だった。
「……やめてください!」
 知佳は後者を選んで慧を押しのける。
「そうやって女性の機嫌をとってきたんですか」
「違う。知佳ちゃんだからだ」
 強く返され、崩れ落ちそうになった。知佳は「だったら尚更だめです」と拒絶する。
「俺のこと嫌い?」
 唇を噛んだのはその言葉のずるさが耐えがたかったから。閉じた口の中が、熱い。
「知佳ちゃん、俺……食事だけの関係で終わるのは嫌だ」
 知佳は耳を塞ぐ。取り乱す姿は知佳の心情を伝えてしまうだけなのに。
「知佳ちゃん、俺」
 それ以上言ってはいけない、聞いてはいけない。
 だって知佳は。慧は。
「私の父は……、母の料理をいつも『まずい』と言っていました」
「え……」
 唐突な昔話。
 慧の顔は見られない。
 今は過去の記憶を見ているから。そこに全ての理由があるから。

 母の料理を食べるたび『まずい』と苛立ちをぶつけていた父。父はいつも当てつけのようにレトルトのカレーを食べていた。
 知佳が小学三年のとき、両親は離婚する。父に女が出来たらしい。あまつさえ、子どももいるという。
 そして離婚から三ヶ月後、再婚した。
 ――母が。
 相手は知佳が昔通っていた保育園の先生だった。
 義父と暮らすようになって驚いたことがある。母の料理が美味しくなったのだ。
 それまでずっと、父が言うとおり、本当にまずかったのに。
 幼いながらも知佳は察した。母は随分と早い段階で義父に夢中になり、父のために手間暇かけて料理を作る気持ちがなくなっていたのだろうと。
 父は母の気持ちが離れていくのを料理で思い知らされていたのだ。だから悔しくて、哀しくて「まずい、まずい」と言っていたのだ。
 再婚から一年もたたないうちに、妹が生まれた。母も義父も妹に愛情を注いだ。
 母からの愛情が失せたのは父だけではなかったのだ。
 知佳は思い出す。粗雑な料理が出るたびに、実父がレトルトのカレーを食べていたことを。知佳の分も一緒に作ってくれていたことを。
 母に捨てられた味を二人で噛みしめていた。
 父とは離婚後もたまに会っていた。本当は父と暮らしたかった。でも、正直に言えなかった。
 知佳が十歳のとき、妹との格差に耐えかねて家を飛び出したことがあった。行く当てもなく一人さまよっていると思い出す光景がある。昔々、母が実父に美味しい料理を出していた頃、まだ仲が良かった頃、よくお参りに行っていた神社。神社にはハトがいて、餌をあげるのが好きだった。
 思い出があまりにも愛おしくて知佳は神社に向かった。
『え……』
 なんの偶然か、父がいた。
 笑顔が優しい女性と、明るくはしゃぐ小さな少年と一緒に。
 父の新しい家族だった。
 父は少年と手を繋ぎ、楽しそうに話している。
 自我を失うほどの怒りに支配されたのはこれが初めてだった。
 気づけば知佳は石を拾い、少年に向かって投げつけていた。
 石は話に夢中になっていた少年の額に直撃する。
 まだ五歳そこそこの少年だった彼は、突然の衝撃に驚いてその場に転んだ。
 少年の額から、血が垂れた。
 父が「大丈夫か!」と叫んで、こちらを見る。
 彼の可愛い『息子』を傷つけた犯人を、射殺さんばかりの勢いで。
「ち、か?」
 その顔はすぐに強張っていたけれど。
 知佳は逃げるように走り出した。父は追いかけてこなかった。
 それ以降、父とは会っていない。もう会いたくないと、母づてに伝えてもらった。
 そしてその日から知佳は料理を始めた。
 料理のせいでなにもかも失ったように感じたから、もうなにも失わなくて良いようにと。
 ただ、料理は全て美味しくなかった。

「……これが、私の昔話」
 慧の目が信じられないと言うように知佳を見ている。
 知佳はゆっくりと手を伸ばし、彼の前髪をかき上げた。
 額に傷跡。
「お父さんはあなたに怪我の理由を言わなかったのね」
 知佳と慧は、血の繋がった異母兄弟。
「初めから、知っていたの?」
 知佳は浅く頷く。彼と食事を共にした一日目からではない。もっとずっと前。
 Zeeで初めて彼を見たとき、思ったのだ。父に似ていると。
 そのあと知ったかつての自分と同じ「日々野」という名字。休みの日、神社でハトに餌をやる姿。通りがかりに確認した額の傷。
 だから声をかけた。父の面影を追って。苦しみの穴を埋めるように。
「料理は祀り上げられた過去の父へのお供え、ご神託はいつだって『まずい』。それに支配されて、私は自分の作った料理が美味しいと感じられない。ううん、本当は食事そのものが苦手なの。苦痛なの。拷問なの。でも……」
 言葉に詰まった。形にしてはいけない感情がそこにあるから。知佳は必死で飲み込もうとする。
「『でも』?」
 慧が言葉の先を求めた。そこになにがあるのか、知っているかのように。
 それがいとも容易く知佳の感情の堰を切った。
「あなたとの食事は……嫌じゃなかった」
 自身の料理を美味しいとは思えなくても、彼と過ごす時間に喜びが生まれ、いつのまにか――。
 慧が知佳の肩を掴む。
「俺のこと、弟だと思ってる?」
 知佳は「なにを言ってるんですか」と彼を咎めた。
「話したじゃないですか。弟なんですよ、あなたは」
「俺が聞きたいのはそこじゃない」
 知佳の肩に慧の指が食い込む。
「知佳ちゃんは俺のこと、弟として見ているの? それ以外の気持ちはないの?」
 この男はやっぱり最低なクズ男だ。全てわかっていながら、生きるか死ぬかを選ぶような選択肢を強要してくる。
「……私に弟なんていません」
 肩を掴む慧の手がビクンと跳ねた。まるで彼の心臓みたいに。
「あなたを見つけたあの日から今日まで、あなたを弟だと思ったことはありません」
 知佳は笑った。
「あなたはただただ馬鹿な『男』だわ」
 それだけだ。
「知佳ちゃん」
 慧の手が知佳の黒髪を絡め、頬に触れた。見つめられ、見つめ返す。
「知佳」
 慧が屈んで顔を寄せてきた。もう逃げられない。
「……慧?」
 しかし、寸前のところで慧が止まった。
 彼は見つめ合っていた目を閉じて、固く、息を殺す。沈黙が数秒。
「……知佳ちゃんの料理、さ」
 知佳の肩を掴んでいた慧の手が離れ、体が遠のく。
 彼は一日目のような距離感で、にっこりと笑った。
 彼もまた選択したのだ。
「ぜーんぶ、まずかった!」
 父が母に言い続けた言葉を、慧が知佳に放つ。
「俺たちは食事だけの関係だ」
 そして、慧は去って行った。振り返ることもなく。
 部屋に一人。しばらく身動き出来ずに呼吸だけ重ねた。
 やがて頭が落ちるように下がって、床に転がるレトルトのカレーを見つける。
 知佳はそれを手に取り、湯煎にかけた。
 充分温まったところでごはんにかけ、適当に炒めたウィンナーを添える。
 それを、思いきり口の中に放り込んだ。
「……うっ……」
 涙が溢れる。父の姿も声も消えたから。
「……美味しい」
 父と同じ言葉と、嘘で、彼は全てを塗り替えたのだ。

 今日という日は、過去の味と未来の香りで出来ている。
「知ー佳ちゃん」
 場所はいつもの公園、ベンチ。そう言って知佳の隣に座ったのは先輩、市原だった。
 ただ、市原が知佳に声をかけてきたのは実に半年ぶり。
 それは、慧がいなくなってから半年が経ったことも意味する。
「知佳ちゃんのランチ、今日もすごいね! ちょっと食べてもいい?」
 市原が半年前と同じように食事をねだってくる。知佳も同じように「お好きなだけどうぞ」と答える。
 市原がホッとした表情を浮かべ、それが二人を半年前から今日に引き戻した。
「……ごめんね。色々」
「いえ。私もすみませんでした」
 それだけで、不思議とわだかまりが溶けていった。
 しかし、市原はなぜ、急に話しかけてきたのだろう。
 疑問は言葉にせずとも伝わったらしい。
「実はさ、私、結婚するんだ。仕事も辞めることになって……直接伝えておきたいなって」
「そうだったんですか。おめでとうございます。お相手は……」
 半年前の彼なのだろうか。これも、市原が察して答えてくれた。
「えっと、うちの課長、です」
「えっ」
「知佳ちゃんと揉めたとき、慰めてもらって、それで」
「ああ」
 知佳は頷く。
「私をダシに仲良くなったと」
「い、言い方! ごめんって!」
「いえ」
 知佳は表情をやわらげる。
「良かったです。どんな事情であれ、人に暴力をふるう男性と市原さんが一緒になるのは心配なので」
 改めて、おめでとうございますと伝える。市原は神妙な顔つきになった。
「……あのときさ、慧くん、やり返さなかったんだ」
「え?」
「元彼に殴られたとき、慧くん、手を出さなかったの。それに、なにも言わなかった。私のこと、庇ってくれたの。だから私、余計に慧くんのこと……」
 市原はそこで言葉を止めた。それが良いだろう。
「知佳ちゃん、最近可愛くなったってみんな言ってるよ」
「私がですか?」
「雰囲気が柔らかくなったって。色めきだつ男もいて、ほんとバカ。知佳ちゃんを変えた男がいるってことなのに」
 さわさわと風が吹き、背後に並ぶ神社の樹木が揺れる。
「ねぇ知佳ちゃん。慧くんのことなんだけど……」
「……私もなにも知らないんです」
 姿を消した彼のこと。
 慧は街を去ることを誰にも言っていなかったらしく、彼に好意がある女性たちが騒いでいた。知佳に居場所を訊きにきた女性もいる。
「ううん、そのことじゃないの」
 しかし、市原が聞きたいのはそこではなかったらしい。
「知佳ちゃんさ。本当は慧くんのこと……」
「いいえ」
 今度は遮るように否定した。
「私たちは食事だけの関係です。彼も、そう言っていました」
 それが二人の結末だ。
 市原がなぜか苦しげな表情を浮かべた。
「料理、食べないんですか?」
 話を強引に切り替えると、市原がふっと短く息を吐き「食べる!」と前のめりになる。
 市原は知佳が準備していた海苔を手にとった。
「ランチに手巻き寿司ってすごいね」
 保存容器の中には、それぞれ酢飯や具材が入っている。
「あれっ、ウィンナーがある。手巻き寿司なのにウィンナー?」
「合いますよ」
 それならと市原がウィンナーを巻く。
「……あ、ほんとだ、美味しい!」
「でしょ」
 知佳も同じようにウィンナーを巻いて食べた。
「うん、美味しいです」
 あれから、自分の作る料理が美味しくなった。食事も、苦痛ではなくなった。
 ただ、寂しい。
「……ねぇ知佳ちゃん」
 二枚目の海苔を取りながら、市原が言う。
「知佳ちゃんと慧くんは、食事だけの関係なんだよね?」
「はい、そうです」
「……食事ってさ」
 市原が手を止め、知佳を見た。
「死ぬまで続くんだよ」
 え、と零れた声は、擦れていた。
 市原はなおも続ける。
「食事だけの関係って、命が続く限り、一緒にいるってことじゃない?」 
 蘇る、あの日の姿。
『俺たちは食事だけの関係だ』
 彼の目は、生涯の伴侶を見つめるような眼差しだった。
「……市原さんってロマンチストですね」
「ちょっとぉ! ……あ」
 知佳の目から、涙がこぼれ落ちる。
「でも、確かにそうかもしれません」
 次々と、素直に溢れ出す。
 市原が、大丈夫だよと言うように知佳の体を抱きしめた。知佳はそれに甘えて目を閉じた。
 思い浮かぶのは、日々野慧と過ごしたたった七日間。でもあの日々が、知佳の永遠になるのだろう。
 それはきっと、慧も同じだ。