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試し読み【十和田シンの恋愛短編小説】ああ、鬱くしき日々よ!

コロナ禍と呼ぶ状況がはじまって久しく、緊急事態宣言のもとでの生活も日常になった感があります。会いたい人と会えない日が続きます。これを書いている僕も、もう2年近く親兄弟の顔を見ておりません。
家族のみならず、友人や知人と疎遠になっていく気がしてたまにものすごくさみしくなったりします。
一方、誰か近しい人がいる場合、その人と過ごす時間が増えているかもしれません。ただ、近しいからこそ、見えるものもあり……。
そんな日々から着想を得た恋愛小説を、十和田シンさんから頂きました。ぜひ読んでみてください。

作者プロフィール

ノベライズ作家、シナリオライター。別名義である十和田眞の名前で『恋愛台風』を執筆、小説デビュー。『NARUTO』『東京喰種』シリーズの小説を担当、ADV『ジャックジャンヌ』シナリオを石田スイ氏と執筆。また、奥十の名前で漫画家として活動する。コミックス『マツ係長は女オタ』発売中。

ああ、鬱くしき日々よ!

「ねぇ、昼ご飯まだ?」
 寝室に領土の狭い簡易テーブル。不安定な丸椅子に腰かけ、メガネの奥にある本来は大きな瞳をこれ以上なく細めながらイラストの彩色仕事をしていた桐乃雫(きりのしずく)の背中を氷のような声が刺した。反射的に顔をあげ、体がねじ切れるのではないかという勢いで振り返ると、見るからに不機嫌そうな顔をした男が一人。体は細く薄く色白で切れ長の目が印象的な彼は、雫の恋人であり、この1LDKに共に住む同棲相手、久戸礼(くどれい)だ。年はともに二十五歳。同棲して三年が経つ。
「えっ、あっ、もう、そんな時間? ご、ごめん、すぐに終わらせるから」
 イラストはキャラクターの瞳にハイライトさえ入れればもう完成。3分もせず終わる。しかし礼は息をつき何も言わず去って行った。足音が大きい。雫はしまったと仕事を放って立ち上がる。またやってしまった。
 隣の部屋、日当たりの良いはずのリビングは厚手のカーテンで覆われ、冴え冴えとした青白い昼光色の照明が部屋の太陽。ちょうどその下、二人がけのテーブルに礼のノートパソコンとコーヒーカップが悠々とバカンスしている。そこにご主人様のご帰還だ。
 パソコンを再起動させる礼に、雫は「すぐ作るね」と言って、小走りで台所に入った。時間は12時6分。部屋に渦巻くのは凶暴ながっかり感。
「礼くん、何か食べたいものある?」
 冷蔵庫の中を確認しながら明るく尋ねても、返ってくる返事はない。雫は「そうめんにしようかな」と大きな独り言。それには返事が返ってきた。
「器、別にしてよ」
 ちくり。
 同じ器に入れた食べ物を箸でつつきあうのは不衛生だし、だからといってたかが昼食のそうめん相手に菜箸を使うのは面倒、そんなこともわからずに選んだんだろうな浅はかだなという彼の気持ちが伝わってくる。
 だから雫は「わかった」と笑顔で頷いて、並べた二つのトレイにそれぞれお皿を置いた。
 15分もすればトレイが料理で賑やかになる。片方だけ。
「お待たせ」
 礼のトレイをテーブルに運んで、今度は自分の分を用意する。
 こっそり窺うと、めんつゆの中、突き落とされたそうめんが嫌々泳がされていた。溺れてしまうのではないかと心配になるくらいに。
 自分の分を用意して彼の正面に座ると、彼が待ち構えていたように「あのさ」と口を開く。
「テレワークになっても一日の流れは会社通りでいきたいって話したよね?」
 そうめんが器の底に沈んでいく。
 礼の会社では12時ちょうどにお昼ごはん。家事担当の雫がそれに合わせるためには、11時半にはキッチンに立つ必要がある。しかしいつまで経っても雫は現れず12時を超え、12時5分。犯行現場を押さえた礼が寝室に籠って仕事をしていた雫のもとに事情聴取に来たというわけだ。
「俺、今日、午後から打ち合わせあるんだよ」
 聞いていなかった、知らなかった。12時に食事を出していれば知らずにすんだお話。
「こういう言い方するの好きじゃないけど……稼ぎの軸は俺だよね?」
 生活費の割合は雫が3で礼が7。
「ほんの少しでいいから気を遣って欲しいと思うのは、俺の我が儘かな」
 雫は「そんなことないよ!」と声をあげる。
「ごめん、作業に集中していたせいで……」
「そう言うけどさ」
 礼が食い気味で反論する。
「俺が声かけても作業続けようとしたよね」
 これが言いたかったのだ、彼は。
「俺が声かけに行ってる時点で、もうだめじゃん? なのに仕事続けようとするってなに。前もそういうのやめてってお願いしたよね?」
「そ、それは……」
「雫にも仕事があって大変なのはわかるよ。でも、一緒に暮らしてるわけだしさ。守って欲しいルールはあるよね。家のことが疎かになるなら仕事とのつき合い方も考えたほうがいいんじゃないのかな。俺が細かすぎる?」
「う、ううん。言いにくいこと言わせちゃってごめん。私が悪かったよ。次から気をつける。本当にごめんね」
 謝罪に礼の表情がようやく柔らかくなった。
「いや、俺のほうこそうるさく言ってごめん。わかってもらえてよかった」
 礼が器の底、息もできずに黙っていたそうめんをすくい上げ、さっと口に運ぶ。その所作は美しい。
 雫はといえば、硬くなった頬をなんとか動かし、笑顔を作りながらすくったそうめんがすべって落ちてつゆが飛んだ。
「汚い」
「ご、ごめん」
 ――なんで私はいつもこうなんだろう。
 その後、早々に食べ終わった礼が歯を磨くために席を立つ。一人になった雫は食事を一気に流し込んで、洗い物を流し台に運んだ。カーテンはそのままに少しだけ窓を開くと、軽やかな風が吹き込んでくる。それを感じながらテーブルをキレイに拭く。
 片づけが終わったころで礼が戻ってきて、ほんの少し前は食事用、今は仕事用に戻ったテーブルに腰かけた。
「……雫、窓を開けたら閉めてって前言ったよね」
「あ、ご、ごめん」
 なにひとつ上手くいかない。
 片づけを終えて寝室に戻ると、リビングから礼のしゃべり声が聞こえてくる。打ち合わせが始まったのだろう。
 雫の元にも仕事のメールが届いていた。新規の仕事依頼だ。いつもなら嬉しいのに、今日は憂鬱。納期が短い。
 作業の速さと対応力の高さを売りにやってきた雫は、面倒な案件やトラブルの末に舞い込んだ仕事依頼が多かった。一日が100時間あるとでも思っているのかと疑いたくなるような納期設定もままある。そんな無理難題をこなすことに達成感があったのだが。
 雫は先方に断りのメールを出した。仕事に追われると、家のことが疎かになる。先ほどのように。
 礼の涼しげな言葉運びに、氷のような冷たさが混じるようになったのはいつからだろう。
 出会いは、高校。三年の時に同じクラスだった。特別仲は良くないが、全く話さないこともない、ごくごく普通のクラスメイト。ただ、マスク越しの知的な横顔に心惹かれるものがあった。
 それから別々の大学に進学し、再会したのが二十歳記念に行われた高校のリモート同窓会。当時、感染症の煽りを受けて父親の収入が減少し、家の濁った空気ばかり吸っていた雫は、『現在』のしがらみから解放されて懐かしさと素顔での会話に高揚するなか、大人びた礼の姿がひときわ輝いて見えた。聡明な彼に明るい未来を感じたのかもしれない。そんな雫の好意が透けて見えたのだろうか。礼が雫に声をかけてくれた。会話は弾み、気づけば交換していた連絡先。
 二人での会話が始まり、二人で会うようになり、交際、同棲、順調に進む。
 あのリモート同窓会の時と同じよう、でも直接面と向かってマスクをせず素顔で話せるようになったのが喜びだった。
 このご時世、人と人と間に距離ができ、出会いの場は減ったが、人間関係を社会で生きるうえでのたしなみ程度にしか捉えていない人種にとっては、不要な関わりを遠ざけられる時代でもある。雫も気心の知れた人たちが数名いれば充分で、そんな相手に巡り会えたことを奇跡と呼んだところで差し障りないだろう。
 ただ。
 二人で暮らし始めて間もなく、礼の言葉に戸惑いを覚えることが増えた。
 例えば自分の仕事を終えて趣味のアクセサリー作りをしていた時。仕事から帰ってきた礼が開口一番、言ったのだ。
『いいね、ヒマで』
 時間があるからしていたことで彼の言葉に間違いはない。だが、その一言は胸に刺さった。彼はすぐ『雫は手先が器用だね』と褒めてくれたが、爪先でかきたくなるようなうずきは残った。それはさながら氷の針。痛みに驚き戸惑う内に、針が溶けて消えていく。
 一度であれば忘れただろう。しかし、氷の針は一本、また一本と増えていった。
 ――仕事が大変なのかも?
 同棲時期はちょうど礼の就職に重なっていて、彼は毎日忙しそうだった。
 仕事のストレスが膨大なうえに、互いに初めての同棲という不慣れな出来事が重なって、余裕がなくなっているのかもしれない。
 在学中から在宅でできる仕事を探してイラストやネット漫画に色を塗る彩色のバイトを行い、仕事に関する経験がいくらか豊富だった雫は彼を支えることに決め、家事の一切を請け負った。それには礼がいたく感謝していた。いつかまたそのうち、同棲前の落ち着いた彼に戻るだろうと期待が持てるくらいには。
 しかし、同棲から一年が過ぎても彼の態度が変わることはなかった。
 氷の針が二人の日常になっていく。
 気にしすぎなのだろうか。言葉の受けとり方を間違っているのだろうか。雫は繰り返し悩んだ。
 しかし、悩めば悩むほど氷の針に敏感になっていく。
 雫は思い切って彼に打ち明けることにした。
「礼の言葉が刺さることがある」と。
 彼を責める気持ちは毛頭なく、それこそ「気にしすぎだよ」とか、「そんなつもりはないよ」とか、笑い飛ばして欲しかった。
『ハァ?』
 返ってきたのは、至上最低温。
『だったら俺も言わせてもらうけどさ』
 彼の口から出てきたのは溺れるほどの不平不満だった。
『家事を全部やってあげてますって顔してるけど、けっこう手抜きだよね? 食事、お惣菜ですませることあるし、ワイシャツにアイロンあててくれないし、掃除だってさ、雫の物が多すぎていつも散らかってるように見えるんだよ。なのに雫は楽して浮かせた時間で趣味にかまけて自分のことばっかり。俺はこんなに頑張ってるのに、稼いでるのに、甘えることも支えてもらうこともできない』
 次から次に知らされる雫の悪。
 礼の目が鋭く尖る。
『そりゃ冷たい言葉だって出るだろ、俺のこと感情がないATMとでも思っているのか!』
 お前は被害者ぶっているだけの加害者だ。礼はそう突きつけてきたのだ。
 ――全部、私が悪かったの……?
 彼の口から飛び出す氷の針は、全て雫の罪の形。
 気にしすぎだと笑い飛ばして欲しいだなんて願ってしまった愚かさに馬鹿を言うなとギロチンが落ちる。
 くらくらと意識が遠くなる。思考がぶつかり、散って消えていく。息が上手く吸えない。
『あ、ごめん、雫……』
 口に酸素が押し込まれた。
『言い過ぎた。疲れてたんだ。ごめん』
 赦しがこれほどまでに尊いものだと知らなかった。礼が『ごめん』と繰り返す。
『あ、う、ううん……私、至らないところ、いっぱいあったみたいで、ご、ごめんね。これから気をつけるよ』
 震える声を必死で押し出す。知らないうちに彼を傷つけていたことをきちんと詫びたかった。
 礼が嬉しそうに微笑む。
『わかってもらえてよかった』
  礼の表情は日差しを浴びたように明るく、雫の心は土に埋められたように暗かった。
 雫は自分の行動を改め、もっと献身的に彼に尽くすようになった。
 でも、彼の氷の針は消えない。
 何かを正すと新しい課題が提示され、それを乗り越える別の試練が降りそそぐ。
 雫は礼に自分の意見を伝えるのが怖くなった。何か言おうとする度にあの時の光景が蘇り、口が勝手に閉じるのだ。気づけば、些細な会話まで気を遣うようになった。
 ただ、礼が怒りを露にしたのはそれこそあの時だけ。
 余計な事を言って波風を立てるよりも黙っている方が賢明だと思うようになった。
 それに、礼が出社してしまえば一人になれる。自分の時間でしっかり気晴らしをしておけば余裕をもって礼と向き合えた。礼に変わって欲しいと願うのではなく、自分が変わればいいのだ。
 二人で暮らす日々が続いていく。雫の口数はどんどん減っていく。
 そんなある日、彼が言った。
『仕事、テレワークに切り替えるよ』
 もともとは感染症の拡大をきっかけに多くの会社が導入したこの制度。本人が望む場所でのストレスフリーな働き方は社会に広く浸透していた。
 ただ、従来通りのスタイルを貫く会社も多く存在し礼の会社もそれだったのだが、今回思い切った改革に乗り出すことになったそうだ。
 まずは希望者からということで、礼は真っ先に手を挙げたらしい。
『家で仕事するの楽そうだし』
 ちくり。
 そして二人の在宅ワークが始まって、三か月がたつ。
 雫が仕事用に使っていたリビングテーブルは礼が占拠し、日当たりのいい窓はパソコンが見えづらいとカーテンで塞がれ、家の時間は彼のスゲジュールで進んでいく。
 在宅ワークだからこそ家事を請け負っていた雫だったが、二人揃って家で過ごすことになってもそれは変わらず、逆に要望は増えていった。その多さと細かさは、まるで百科事典。全てを覚えることができず、取りこぼしては叱られる。
 そのうえ、礼の外出が極端に減った。人と接触がないことが礼と感染症の間に距離を作り、安心を生んでいるようだ。しわ寄せは当然雫の元に。前なら自ら出向き買っていただろう大きなものから小さなものまで全て頼んでくる。感謝の言葉は一つもなく、逆に雫を感染症に近い人間として距離をとった。同じ器の食べ物を避けたのもそれが理由だ。
 夜になると、場所は入れ替え。寝室が礼の国となり、雫はリビングに移動する。礼がテレワークになってから、雫は睡眠時間を削らなければ仕事が回らない。
「……はぁ、まただ」
 雫はメガネを外して目を擦る。ここ最近、視界がゆがむようにぼやけることが増えた。視力の低下を疑い眼科には行ったところ、右が1:0で左が 0:7。目立った問題はなく、左だけ度が入ったメガネを購入してかけるようになったのだが、文字は鮮明になっても世界が歪む感覚は治まらない。
 なんとか区切りのいいところまで仕事を終わらせて、ベッドに入る。礼は既に眠っていて、雫が寝る側に背を向けていた。
「礼くん……」
 そっと、手を伸ばして触れようとする。でも、目を覚ましたら? 雫は手を引き、胸元で緩く拳を握った。
 こうやって気安く手を伸ばすこともできない関係がこれからも続いていくのだろうか。
 くらっ、と視界がねじれる。動悸が不安を全身に流し始めた。大丈夫、落ち着いてと自分の胸を自分でポンポンとたたく。
 ふと、同棲前のことを思い出す。
 あの時期、二人でよくドライブに行っていた。車の中で人目を気にすることなくおしゃべりし、青空の下を並んで歩いて、同じ景色に感動する。
「そうだ、旅行……」
 礼はテレワークになってから、カーテンの閉まった暗い部屋の中、籠ってばかり。知らぬうちに鬱屈とし、ストレスを溜めているのかもしれない。外に出て日光を浴び笑い合えれば、上がる気持ちもあるのではないだろうか。
 なにより、礼と『楽しい』を共有したかった。
 雫は自分の中にある勇気をかき集め、礼の笑顔を思い浮かべながら眠りに就いた。その日は巨人に追いかけられる夢を見た。

「……え、旅行?」
 翌朝。雫は即座に自分の発言を後悔した。礼の表情が明らかに険しくなり、冷え冷えとした空気が流れたのだ。『あの時』と同じだ。
「ね、寝る前に、なんとなく思いついて。ほんと、なんとなくだから。気にしないで、ご、ごめん。あ、そういえば」
「いや、旅行に行きたいって話でしょ」
 ごまかし終わらせようとしたところで礼は逃がしてくれない。
「お金どうするの?」
「そ、それは私が出すよ」
「はぁ? お金ありますアピール?」
「えっ、違うよ! そんなこと、考えたこともない!」
 雫の思考からあまりにもかけ離れた事だったので、思わず強めに否定してしまった。それが礼のしゃくに障ったらしい。
「どうだか。生活費たいして出してないし、貯金あるんじゃないの。いいね、無責任で」
 礼の声が低くくぐもる。
「行ってくれば?」
「え」
「旅行。一人で」
 それでは意味がない。雫は礼と一緒に行きたいのだ。
 しかし礼は旅行に行こうなんて言いだした雫を罰するように「行ってきなよ」と高圧的に繰り返す。
「行きたいんでしょ。行ってこいって」
 何がそんなに罪深かったのか。
 ぼんやり考えながらも雫は自分の今までの行いが正しかったことを理解した。雫の意見なんて、伝えるべきじゃなかったのだ。黙って彼の言葉だけ聞いていれば良かったのだ。
 雫は体を小さく丸め「そうだね、一人で行ってみようかな」と絞り出す。
 礼は急に優しくなって「楽しいよ、きっと」と笑った。


この作品の続きは『非接触の恋愛事情』にてお楽しみください。

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