俯瞰的、社会の春。

電車を降りると、しゃがみ込んだ車掌さんと、しゃがみ込んだ車掌さんよりも小さな子どもが写真を撮っていた。微笑ましい光景に思わず足を止めてしまう。また歩き始めて通りすがったあと「もう1枚いいですか?」という声が聞こえた。その声は、小さな子どもでも、その親御さんでもなく車掌さんであった。そんな立場逆転有り得るのか!?と思い咄嗟に振り返ると、車掌さんは自らの帽子をその小さな子どもに被せていた。
大優勝のファンサに思わずまた足を止めてしまった。

車掌さん。それはまさに「会いに行けるアイドル」と謳うAKB48のような存在であり、多くの子どもが憧れるものでありながら、会いに行ける、需要と供給のバランスが非常に良い職業である。
こういった経験が、「憧れる人。会いたい人。だから出会いに行く。」という選択肢を持つ人間を育ててくれたらうれしいな。
「会いたい人に出会いに行くこと」をがんばるわたしは、それに可能性を感じているわたしは、そう強く思うのだった。


この頃ホームでよく若者とぶつかる。

春だからである。

通りすがる集団構成からは、まだクラスが大きく5つのグループくらいに分かれた頃であることが分かる。
当たり前だけどぶつかるのは端にいる人で、端にいるから物理的にぶつかりやすいのか、コミュニケーションから外れないことに意識を向けることでいっぱいいっぱいになることによる不注意でぶつかりやすいのか。端にいるからコミュニケーションから外れないことに意識を向けているのか、いっぱいいっぱいになってしまうほどコミュニケーションから外れないことに意識を向けないと輪に追いついていけないようなタイプの人間だから端にいるのか。
そんな因果が巡る。


暖かくなってきたのでユニクロへ服を買いに行く。もりもりに積んだカゴを持ってレジへ行くと、なんだか賑やかであった。

春だからである。

きっと新しく入った同期の仲間なんだろう。レジのオペレーションについてをあわあわと楽しそうに確認し合ったり助け合ったりしている様子は文化祭のようであった。
日本の接客に慣れきってしまったわたしの目には一瞬それが不真面目なように映ったが、朝起きられず、仕事中に如何にしてカフェやパン屋さんにお散歩に行くかを考えているわたしの方が一層不真面目である。なにより、その文化祭のように仲良しで賑やかなレジがわたしになにか被害をもたらすことはないので、自分の不真面目さを肯定したい気持ちも含めて「こんなもんでいいよな。」と思った。
今日はなんだかどこもキラキラしていて「シャカイもいいな。」なんて感じたけれど、考えてみると「昨年の今頃あったはずのキラキラが一年の間に喪失しているということか。」と気づいてしまって、このキラキラも消えていくんだと悟ってしまって、なんか、すごく冷めた気持ちになった。


パンパンになった紙袋を受け取りスタバへ向かう。いつも学生が集まっていて独特な空気が醸し出されている夕方駅内のスタバは、苦手空間不動の上位である。それでもわたしは再販されたミルクコーヒーをどうしても飲みたいんだ。
今日ももちろん学生で溢れかえっていたが、あまり苦手な空気を感じなかった。

春だからである。

スマホを触らずに目を見て、姿勢よく、微笑みながら。お互い好印象を与えたいという気持ちがよく分かるような、お上品なコミュニケーション。
彼女たちは、絶対お互い特に気になってはいないだろうなと思われる家族構成について話し始めた。
「はい」か「いいえ」で答えられる質問に「はい」でも「いいえ」でも答えられないようなわたしにだってすぐに答えられるようなトークテーマである。
トークテーマ「家族構成」は1分持つか持たないかといったところで終了し、瞬く間にトークテーマ.02「mbti」へと継がれたが、それもまたあっけなく終了した。
そんな、問診票のようなラリーが続いていた。
彼女たちの口からは一切愚痴はこぼれない。まだ愚痴を言える関係にないだろう春、愚痴が出るほど何かを知っていることもないだろう春というのはとても居心地がいいものだな。


ホームに流れる張り切った声のアナウンス。自転車を漕ぎながら、「幼稚園までのベストルートがまだ見つかっていない。」と話すママさん。



わたしの見つけた社会の春はどれも俯瞰的で、それが、わたしが社会のどこにもいないことを突きつけてきたような気がした。

While Writing
『星野 源/SUN』

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