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名前なんかいらない
名前を付けるという行為は、世界を分節化する行為である。
連続体である世界を名前によって分類、整理することで、ヒトは物事を理解しようとする。
ペットや人形に名前を与える人もいる。
確かに、佐々木嬢も「クトゥルーちゃん」や「ホームズ」と名付けていた。
なかには、家電に名前を付ける者もいる。
トースターが「山崎」、冷蔵庫が「芝山」、掃除機が「富永」、机上の読書灯が「森」、テレビが「吉村」、パソコンが「ヒロミ」と命名した者もある。
名前に関して個人的に、特に印象的なものはMarquezの『百年の孤独』のマコンドの村人が眠りを喪うと同時に全ゆる名詞をも喪ってしまう場面である。
墨を含ませた刷毛で〈机〉〈椅子〉〈時計〉〈扉〉〈壁〉〈寝台〉〈平鍋〉という具合に、物にいちいち名前を書いていった。裏庭へ出かけて、〈牝牛〉〈仔山羊〉〈豚〉〈雌鶏〉〈タピオカ〉〈里芋〉〈バナナ〉というように、動物や植物にもその名前を書きつけた。さらには日がたち、物忘れの無限の可能性を考えているうちに、書かれた名前で物じたいを確認できても、その用途が思い出せなくなるときが来ることに気づいた。そこで、もっと適格な手段を講じることにした。彼(ホセ・アルカディオ・ブエンディア)が牝牛の首にぶら下げた次のような札は、マコンドの住人たちがどのように物忘れと戦おうとしたかを、もっともよく示すものだ。〈コレハ牝牛デアル。乳ヲ出サセルタメニハ毎朝シボラナケレバならない。乳ハ煮沸シテこーひーニマゼ、みるくこーひーヲツクル〉。こうして彼らは、言葉によってつかの間つなぎとめられはしたが、書かれた文章の意味が忘れられてしまえば消えうせて手のほどこしようのない、はかない現実のなかで生き続けることになった。
このシーンを読んだ澁澤龍彦氏は思わず涙ぐんだらしい。
というのも、彼自身も東京拘置所の独房の中で「発病」したからである。
曰はく、まず「くつ下」を喪くし、一か月後、彼が目を覚ますと
「 」と「 」を着て、「 」をはき、「 」まで行ってから「 」で「 」を磨くようになった
というような状況になったそうだ。
物に名前があることに対する不快感があったらしい。
わたしは物に名前があることに対して、不快と感じない。けれども、
名前がなくなればいいとは思っている。
わたしには近年名前というものが、商品パッケージに貼られているラベルにすぎないように感じられるのである。
名前には個体識別機能だけではなく、他人の評価、先入観さへも付与されているように思われる。
特にヒトの名前の場合がそうで、「さとう はると」という人とやりとりをするとき、その間には必ず他人の評判あるいは偏見で形成された「サトウ ハルト」が存在する。
わたしがいくら「さとう はると」と直接のやりとりをしようと思っても、名前がある限り、「○○会社にお勤めの」「○○大学出身の」「○○で有名になった」などの冠詞のついた「サトウ ハルオ」を媒介したやりとりしか行えない。
物についても同様で、名前がある限り、その物自身を直接眺めることはできない。
いっそのこと名前なんか喪って「24601」のように番号だけでもいいのかもしれない。
名前なんかいらないというと南条あや譲の「名前なんかいらない」を思い出す。
起きなくてはいけない時間に起きて
しなくてはならない仕事をして
名前を呼ばれるなら
誰にも名前を呼ばれたくない
何もかもを放棄したい
そして私は永遠に眠るために今
沢山の薬を飲んで
サヨナラをするのです
誰も私の名前を呼ぶことがなくなることが
私の最後の望み
これは南条あや嬢の血みどろの生活の苦悩の果てに出てきた詩であって、わたしなんかのちっぽけな信条とは大違いだけれども、私が苗字で呼ばれることに抵抗があるのはこの詩のとおりなのかもしれない。
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