消しピンの話

 小学校の高学年で転校をした。

 当時、転校元の小学校では消しピンという遊びが流行していて、それは転校先にはまだ伝わっていなかった。消しピンというのは学級机の対角線上にそれぞれ消しゴムをセットして、交互に弾いて落とし合うといった類の心躍る競技である。

 ご多分に漏れずこの遊びにあらゆる情熱を燃やしていた僕は、それなりに頑張って転校先の小学校にそれを流布した。新天地でもお気に入りの遊びをやりたかったし、新しくできた友人たちにこのシンプルかつエキサイティングな面白さを伝えたかったからだ。

 1年ほど経った頃、消しピンはすっかりそこら中で遊ばれるようになっていた。この流行のピークがどれほどの期間続いたのかは覚えていないが、最盛期にはクラス中の男子が自分なりに“強い”消しゴムを持っていた。

 ルールの整備は競技をもたらした者の特権である。僕は自分の技術と好みに合わせて都合よくルールを作り上げた。そのため、転校元の地区と転校先の地区ではルールが微妙に異なる筈だ。おそらくこのような意図的な操作はあらゆる種目で行われることであり、その一部がその地域特有のローカルルールとして生き残っていくのだろう。そうしたもののあらゆるすべてが誰かのエゴの産物であったとしても僕はまったく驚かない。

 才能とは恐ろしいものである。競技が広まるやいなや、何人かが急激な成長をすぐさまみせた。唯一その遊びのノウハウを持ち、自分に適したルール整備を行っていったにも関わらず、僕はすぐに最強のプレイヤーではなくなった。なんとか強豪グループのようなものに属することはできていたと思うけれど、僕が誰もが知る有力なプレイヤーでいられた期間は驚くほどに短かった。

 おそらくトッププレイヤーを目指す者はマネジメント業に手を出すべきではないのだろう。自分に有利となるルールの改変は情熱と技術の向上を阻害する。僕はじきに興味を失い、それまで宝物だった僕の最強の消しゴムも、ただの筆記用具のひとつへと成り下がった。

 そんなある日、何かの拍子に誰かから消しピンで遊ぼうと誘われた。久しぶりに机の上で消しゴムを弾いて落とし合いながら、「そういえば知ってる? この消しピンって、僕がこの学校に流行らせたんだぜ」みたいなことを雑談の中で言ってみると、なんとまったく信じてもらえなかった。

「何言ってんだ」
「つくならもう少しマシな嘘をつけ」
「お前が転校してくるずっと前から俺たちは消しピンで遊んでいた。そんなことはありえない」

 そんな言葉を浴びせられた。実際はもうちょっとオブラートに包まれた言い方だった気もするが、小学生の残虐性を考えると、ひょっとしたらもっとひどい言われ方をしたかもしれない。

 僕は素直に驚いた。

 なんせ僕には確かな記憶があるのだ。最近の消しピン事情には疎いが、黎明期の歴史には誰よりも詳しい自信があった。何故なら僕は他の誰よりもその場の当事者だったからである。何人かでエピソードを持ち寄って突合させれば彼らの誤った考えをすべて論破できる筈だった。

 しかし、そうはならなかった。

 名誉のために言うが、僕が舌戦に負けたわけではない。言い争いにすらならなかったのだ。相手は僕の言い分をまったくの虚偽であると確信しており、僕には議論の場すら与えられなかった。ある意味この方が僕の名誉にとっては不利かもしれない事態である。

 結局、僕はこの遊びにまつわるすべてを諦めた。僕がゼロから考え出した遊びというわけでもないので権利のようなものは元々何もないのだが、興味をなくしたとはいえそれまで消しピンは僕にとって特別な存在だった。この場で行われる競技の細かいルールの成り立ちや、意図するところをすべて把握しているのだ。中には僕しか知らない僕だけのエピソードも存在していたことだろう。

 それらをすべて放棄した。

 もちろん僕の中の気分だけの話なので、他人からしたら「ああそうですか」という程度のことなのかもしれないが、この一連の出来事は僕にとても大きな影響を及ぼしていることだろう。どのようなルールを設けてそれがどう働き、どのような物語が紡がれていったのか、もはや思い出すことはできないけれど、おそらくひとつの話にできる程度には色々あったに違いない。

 そんなことを、何故だか不意に思い出した。たとえば「正しいことを言ったからといって受け入れられるとは限らない」だとか、「議論をするにはそもそもの条件としてある程度の共通認識が必要である」だとかいった何らかの教訓のようなものに結び付けられるエピソードとして披露しても良いのだけれど、そんな気にはどうにもならない。

 素直に昔話のひとつと留めておくのが適切なように思われるので、そうしておくことにしよう。ほかにも思い出した話はちょくちょく文章にしておくことにする。いつか何かの役に立つかもしれないことだしね。

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