病識の話

 精神科の病院薬剤師という職業柄、僕は入院患者の状態を評価し、その記録をカルテに記載する、ということが割とよくある。
 それは何らかの算定に使うためだったり、「直接言うほどのことじゃないけど一応おれはこう思うので、もし読む機会があって役に立つなら勝手に参考にしてちょうだい」という程度の伝え方をするためだったり、純粋に患者に自分が行ったことの記録を残すためだったりと、その用途は様々だ。自分の介入が必要だと考えるところに関しては直接医師なり病棟なりに働きかけるため、カルテ記載しかしていない事項については基本的に読み飛ばされ、認識されないものだと考えるようにしている。
 しかしながら、ありがたいことにその記載をきちんと読んでくれる医師や看護師も少なくない。中には積極的に治療方針の参考にしてくれたり、わからない内容や気になるところを問い合わせてくれたりする者もいる。
 そんなわけで、のほほんと病棟を歩いていると、看護師に呼び止められて一緒に自分のカルテ記載を確認するという現象が生じることがある。
 その主な原因は、この分野における僕の記憶力が極端に足りていないからだ。
「一昨日の誰それさんの記載について聞きたいんだけど」
 なんてことを電話でいきなり言われても、
「その記載ってどんな内容?」
「え、覚えてないの?」
「実はまったく覚えてない。何かおれ書いたっけ」
 みたいな感じできわめて間抜けなやり取りをすることになるわけである。とても純度の高い時間の無駄だ。記載内容自体のクオリティには自信があるし、その時点での持てる能力を総動員して作成したものではあるのだけれど、それらは記載が終わってしまった後も僕の記憶に残っているかどうかとはまったく無関係なことである。
 その点、医師らの記憶保持能力には常々舌を巻いている次第である。彼らは実によく自分の記載内容や患者のことを覚えている。僕にそんなものを期待してはならない。無理なものは無理なのだ。
 だから僕の使い方を理解しているスタッフは、薬剤部にいる僕ではなく病棟を歩く僕に声をかける。そして一緒にカルテを開き、「この記載なんだけど」と話をするわけだ。手書きカルテならではのハートウォーミングな現象と考えられないこともない。顔の見える関係性というやつであり、ただの確認話は時に議論に発達し、たまにそこから有用な結論が導き出されることもある。ある種の能力の低さは必ずしも不利益に結びつくとは限らないのだ。

 閑話休題。今日尋ねられたのは『病識』についてのことだった。
 僕にそれを尋ねてきた看護師の名前を仮に山崎さんとしよう。完全に仮名だ。この話はフィクションであり、実在の人物とは何の関わりもないキャラクターということにする。
 山崎さんはどちらかというと猪突猛進系の看護師で、とても賢いわけではないが学習意欲は高く、しかしながら教科書を長く読むことはできない、といった感じの女性だ。医師に対してアホな質問をすることは許されないと思っているけれど、薬剤師に対してはどんな質問でも許されると思っているふしがある。
 彼女は精神科医療について学びたいが、教科書を読むことも教材動画を見ることも医師を質問攻めにすることをも自分に許していないため、消去法で僕に色々と訊いてくる。求めに応じて僕は求められただけの一般的な知識と求められただけの個人的意見を提供する。たまに研究に使うための病棟データの採集をおねだりする。そんな感じのギブ・アンド・テイクの関係を山崎さんとは構築している次第である。
「ねえ先生、今日のこの記載なんだけど」
 と彼女は今回僕に訊いた。「『一定の病識はある』ってどういう意味?」
「そのままだけど。むしろ山崎さんが何がわからないかわからない」
「病識って、あるかないかのどっちかじゃないの? 一定の病識、って何が言いたいのかわからない。病感レベルで止まってるってこと? 私はこの人病識あると思うんだけど」
「う~ん、そうだなあ」
 と唸りながら、あまりにも表現レベルな問い合わせをされたことに僕は正直驚いた。

 一応の補足として書いておくと、『病識』というのは『自分が病気であるという認識』のようなもので、『病感』というのは『病気とまではいかないけれど、なんだかおかしいなあと薄々気づいているような感じ』のことである。厳密な定義は知らないけれどおそらく大きく外れてはいない。
 彼女の意見にも頷けはする。認識の有無はそれこそ“ある”か“ない”かの話であって、“一部ある”というのは何とも中途半端で無責任な表現と言えないこともないかもしれない。
 しかし僕にはそれなりの考えがあって、結果そのような記載をしている。だからそのそれなりの考えを求められるままに話すことにした。
「この人って本当に病識あるんかね?」
「あるでしょ。だって入院時はまったく病識なかったのに、今では自分が統合失調症であることをちゃんとわかって、服薬にも同意してくれてるじゃん。これを病識ないと言ってどうするの」
「まあそうなんだけどね。でもさ、病識が本当にあるかって、外から見てわかると思う?」
「あるって本人が言ってるんだからあるんでしょ」
「いやだからさ、それって言ってるだけでしょう?」
 そう言いながら、話がまったく噛み合っていないなと僕は感じた。

 だから僕は山崎さんに訊いてみた。
「ところで病識とは何かね?」と。
 山崎さんは少し考えて返事をした。
「病識は、病気の患者が、自分が病気だと思うことでしょ?」
「そうだよね。思うかどうかが病識なんだから、それを言ってることで判断ってできない気がするんだよね。思ってることと言ってることが違うひとっていっぱいいるじゃん」
「え〜、そんなのいるかなあ?」
「いやいや、いるでしょ。これまでどれだけ正直に生きてきたんだよ」
「でも患者が言ってるわけだからね」
「たとえば糖尿病患者がさ、自分は糖尿病ですと言ったりするわけ。そんなことを言いながら饅頭を食べる手を止めない、と。彼に病識ってあると思う?」
「病識って精神科だけの話じゃないの?」
「おれは他の科でもよくある話だと思うけど」
「まあそれは置いといて、病識自体はあるんじゃないの? 治療に拒否的かどうかは置いといて、自分が糖尿病であることは認識していると思うよ」
「本当にそうかな? おれは案外自覚ないんじゃないかと思うけど。少なくとも、口では病気と言いつつまったく治療に積極的ではない患者の中には、実際そう思ってはいる人と、実はそう思っていない人の両方が混在していると思うね」
「そうかなあ?」
 まったく同意が得られないので、僕はもうひとつ例示を重ねることにした。

 ここにブスがひとりいたとしよう。彼女は自分を評して「あたしブスだし」なんて言う。実際彼女はブスだ。周りはそう思っているし、彼女自身もそう発言する。そのくせ自撮りをモリモリ加工してインスタなんかに載せている。
 そこらへんにいそうなブスだ。
「それで?」
「彼女は実際のところ、自分のことをブスだと思っていると思う?」
「――」
「おれは結構な確率で彼女は自分がブスだと思っていないと思うね。自分で自分をブスだと言い、周りも彼女をブスだと思っているそいつにブス識は果たしてあるのだろうか?」
「ブス識!?」
「ないでしょ。それと同じだよ。少なくとも、本当に自分のことをブスだと思いながらも何故だか精一杯加工しているブスと、実は自分をブスだなんてサラサラ思っていないブスの2種類が混在してると思う。どちらが多数派かは置いといて」
「確かにそうかもしれないけど、それって本人にしかわからないじゃない」
「というか、本人にも本心がわかっていない場合もあるんじゃないかと思うけどね」
「めんどくさ。そんなこと考えてどうするの?」
「自分の評価に相応しい表現を心がける」
「それが『一定の病識あり』?」
「そうだよ」
「あほくさ。聞いて損した」
「聞きたいから教えろと僕を呼び止めたのは山崎さんだよ」
「まったくもう!」

 そんなわけで、僕が患者の病識を評価する際「病識あり」と記載したことはこれまでの薬剤師人生の中で一度としてない。
 もちろん近い表現はある。「一定の病識あり」がそうだし、「病識が芽生えてきている」だとか「病識あるように見える」だとか、「以前と比べて病識あり」だとか書いたりはする。
 なにしろ病識の評価は精神科治療において結構大事なとこなのだ。
 もちろん患者を「病識あり」と評価する人を批判するつもりもなくて、元々評価不可能なところをみる項目なのだから、「(わたしの主観で)病識あり」という常識的な記載解釈は至極妥当なところだと思っている。
 ただ自分がするのが嫌なのだ。他人に強要したりはしないし、推奨するつもりも僕にはない。
 ブス識がない女は嫌いだけれどね。
 ブス識の話のあたりから対応が如実に雑になった山崎さんが、インスタに自撮りを載せていないことを祈るばかりである。

 なお、彼女の名誉のために断っておくと、山崎さんは決してブスではない。そもそもこの話はフィクションで、彼女はモデルもいない完全な架空の人物であることだしね。
 

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