【小説】写真

 昔から写真を撮るのが好きだった。

 きっかけが何だったのかは覚えていない。記憶がないほどの幼少期にオモチャとして与えられたカメラのようなものを気に入ったのかもしれないし、父親や友達なんかが持っていたカメラに興味をもったのかもしれない。

 とにかく私は写真を撮るのが好きなのだ。誰に見せるわけでも、SNS上でバエを競い合っているわけでもなく、勝手にひとりで撮りたい写真を撮っている。

 たまに見返し、撮りたい写真を撮れていることを確認してほくそ笑む。素晴らしいひと時だ。これは私の中の小さな世界では世界一の趣味である。

 おそらく今日における携帯電話のカメラ機能の充実に私ほど感謝している者は少ないだろう。この科学技術は直方体の機械をほかに持ち歩かずとも写真を撮ることを許してくれる。

 私は私が取りたい写真が撮りたいだけなのであって、その被写体や撮影内容に口を出されるのはまっぴらごめんなのだ。隠しているわけではないけれど、この趣味を積極的に口外するつもりもない。

 そのため、「わたくし写真が趣味であります」と宣言しているに等しいカメラの日常的な所持から解放してくれるスマートフォンを、私は誰より愛している。

〇〇〇

 私はその日のその時間、私以外に誰も知り合いが出席していない講義を受けていた。選択科目だ。同じコマにとても簡単に単位をもらえる講義がほかにあるので、私以外の友人たちは皆こぞってそちらを履修登録していた。

「え〜、真由、それ受けるの? こっちだったら持ち込みありのテストだけで単位がもらえるらしいよ?」

 友人のひとりはそんなことを言っていた。私はそうした善意を笑顔で右から左に受け流し、履修科目を変更することはしなかった。

 何故ならそれが面白そうなテーマの講義だったからだ。それも、おそらく大学卒業後に私が常識的な人生を歩むことになったらちゃんと学ぶことはないだろうなと思える種類の。最悪この単位を落とすことになったとしても十分挽回は可能なのだから、この機会を逃す選択の方が私にとっては受け入れがたい。

 友人たちと議論を交わすつもりは毛頭ないので、私はこの曜日の午前中の講義はすべてひとりになるように組んでいる。彼女たちと疎遠になるつもりもないので午後から合流するような次第だ。もっとも、その日の午後には1コマしか講義がないので、ろくに口も利かずに解散することも多いのだが。

 勝手に写真を撮るのが好きであることからわかるだろうが、私は結構ひとりで気ままに暮らすのが好きだ。女子大生の義務として学部内や所属サークルに友人関係を構築し、飲み会やイベントに参加することもあるけれど、基本的には放っておかれるのがありがたい。

 矛盾しているようにも思えるけれど、これが私の素直な気持ちだ。

「素直であるということと、矛盾しているということは、意外と同時に成り立つのねえ」

 ひとりで過ごす休み時間にそんなどうでもいいことを頭に浮かべ、ぼんやりと過ごすのは幸せなことだ。頬杖をついて見るともなしに教室内を眺めていると、私の斜め前に座った女の子がペンを人差し指の腹に乗せ、バランスをとっているのが視界に入った。

「となりは何をする人ぞ」

 斜め前だけど、と心の中で呟きながら、私は彼女をなんとなく眺め続ける。染められていない艶やかな黒髪がさっぱりとした長さで蛍光灯の光を反射している。測ったペンの重心周りを彼女の右手が軽く包む。字を書く握り方ではないな、と私は思う。指が長く、手が大きい。

 そして彼女は右腕を肘から前に出し、手の平を天に向けるような奇妙な形でペンを構えた。

 ゆっくりと腕を引く。呼吸をひとつ。集中しているのが見て取れる。私の位置からは彼女の表情が見えないが、真剣な顔をしているのではないかと思われる。

 なんだかカッコイイ形だなあと私は思った。

 まるで武術の型か何かのようである。武術の型を見たことはないけれど。

 そして彼女は引き絞った腕を何かの拍子に振り下ろした。正確には、振り下ろす真似をした。その動作に入るまでの、腕を引いていた時とは違って冗談のような気の抜け方だ。「なんちゃって」なんて呟かれるのではないかと私はひとり身構える。

 独り言を漏らすかわりに彼女は大きくひとつ息を吐き、机にペンを置いた後、何かの感触を確かめるようにペンの重心を覆っていた指を擦りながら眺めていた。大きなあくび。先ほどの集中感はどこかへ捨ててしまったらしい。

 雰囲気の弛緩した彼女はあまりカッコよくはなかったが、失われたカッコよさと引き換えに、背伸びをしてのけぞった拍子に私の位置から顔が見えた。

「あ」

 思わず私の口から声が出る。私は彼女を知っている。知り合いのいない講義と思っていたのはどうやら私の勘違いだったらしい。

 その小さな声が届いたのか、それともじろじろ見ている視線を感じていたのか、とにかく彼女は首を回し、私の方に目を向けた。

「――三浦さん?」
「そうだよ、あたしは三浦さん。こんにちは佐藤さん」

 それが同じ学部で同じく大学1年生の、佐藤華子と私がはじめて交わした会話だった。

〇〇〇

「いやあビックリした。まさか私のほかに、この授業を取っている人がいようとは」

 授業終わりの昼休みに学校を抜け出し、近場の定食屋で私と佐藤さんは向かい合っていた。私は日替わり定食、佐藤さんはアジフライ定食。「私、アジフライ好きなんだよね」と佐藤さんは爽やかな笑顔で注文をした。

「――それはあたしも驚いた。同じ学部のひとがいるとは思ってなかったな」
「確かあっちの、なんだっけ、統計学入門? の方が楽に単位を取れるんだよね?」
「そうそう。試験も持ち込みありらしいしね。その上今後も使える知識だから、っていうんで皆あっちを受けてるね」
「三浦さんはなんであっちにしなかったの?」
「そうねえ、簡単に言えば気まぐれかな。こっちの方が面白そうだったから。佐藤さんは?」
「私もそうね、こっちの方が面白そうだったから。お、きたきた」

 佐藤さんはいかにも嬉しそうにアジフライ定食を受け取った。スーパーの惣菜コーナーではお目にかかることのできない肉厚で揚げたてのアジフライは確かにとても美味しそうだった。

 私は自分に配膳された日替わり定食と彼女のアジフライ定食を見比べる。この定食屋の日替わり定食は毎日美味しく、本日のメニューであるタレのかかった鶏ムネ肉の揚げ物も実際悪くはないのだが、近いうちにアジフライ定食を食べようと私は心に誓った。

「アジフライ定食も悪くないねえ。今度あたしも食べてみるよ」
「是非そうして。不人気メニューで打ち切られたら私が困るから」
「確かに、アジフライ定食頼む人ってはじめて見たよ」
「皆アジフライを見くびってるのよねえ。せいぜいお酒のツマミ程度にしか考えていないんだから」

 アジフライに対する世間の過小評価について愚痴をこぼしながら、佐藤さんは滑らかにアジフライ定食を平らげた。

 とても速い。男子のようだな、と私は思う。佐藤さんは長身で、長い手足を持っていることを定食屋までの道すがらに私は見ている。何かスポーツでもしていたのかもしれない。

 どうやら無遠慮にじろじろと見すぎてしまったらしい。

「どうかした?」と佐藤さんは私に訊いてきた。
「いや別に。――ええと、佐藤さんはお酒強いの?」
「どうかな、ひとより体が大きいからその分飲める気はするけど、あんまり強い気はしないなあ。三浦さんは?」
「あたしもあんまり。でも酔っぱらうのは好きよ」
「酒好きかあ。未成年のくせに」
「あら知らないの? 未成年の飲酒は法律違反だけど、飲酒した未成年に対する罰則は存在しないのよ」
「――つまり?」
「国は黙認してくれているのも同然よ。これって、車が来ない赤信号を無視するのと同じ程度の悪さじゃない?」
「申し開きはできないけどね」
「そりゃあそうよ。あたしも自分からこんな持論を語りはしないわ」
「お酒の話題は三浦さんから振ったんだけどね」
「あれ、そうだっけ。これは失礼」

 私は笑って謝罪した。佐藤さんはそれを受け入れ、コップの水を飲み干した。スマホを取り出し私を見つめる。

「よかったら連絡先交換しない? 飲みにいこうよ」
「もちろん、行こう。でも佐藤さんも未成年じゃないの?」
「私は家から出たら2浪の20歳と思い込むことにしているの」
「なにそれ」
「生まれ年も、自分の干支も覚えたわ。即答できる。だから私は今20歳で成人なの。こんなことに確信を持てるような精神状態の女は責任能力がないでしょう? だから私が飲酒をしても、そもそも罪を問われることはないの」
「なにそれ、ばっかみたい」
「私の“言い訳”も紹介しておこうと思ってさ」

 佐藤さんはニヤリと笑った。

 そして私は彼女の名前が佐藤華子であることを知り、彼女は私の名前が三浦真由であることを知った。

〇〇〇

 私たちが互いを下の名前で呼び合うようになるのに長い時間は必要なかった。

 その夜私はすぐさま華子に連絡を取り、近所にある安くて小汚い焼き鳥屋に彼女を呼び出し、カウンター席でそれぞれのIQがそれなりに低下する程度のアルコールを摂取した。

 酒気を帯びた華子は耳まで赤くなっており、私はそれを非常にかわいらしく思った。彼女のさっぱりとした髪型ではまったく耳が隠れないのだ。黒い髪をかき分けるように、それぞれ左右にひょっこり姿を見せている。

 仮に私が華子の彼氏であったなら、そのあったかそうな軟骨の膨らみをパクリと口に含んでみることだろう。怒られないギリギリの強さで噛んだ場合にどのような気持ちになるのか、是非検証してみたいものである。

「ああ美味しい。ちょっとトイレにいってくるからお替りを頼んどいてくれない?」
「アイ・サー」

 私は敬礼をして彼女を見送った。

 ひとりになった私はタレ焼きに処された鳥の肝臓の欠片をついばみ、見えるようになった串の先端をまじまじと眺めた。

 串の先端が焦げている。先頭のレバーは串に貫通されていなかった気がしたけれど、それは私の勘違いだったのだろうか。

 この疑問が解決することはない。私はビールジョッキを傾け、自分と華子の分のおかわりを店員に注文すると、ジョッキに浮かんだ結露を指で引いて遊びながら考えるともなしに考えた。

 トイレに行った華子は女性だ。“アイ・サー”よりも“イエス・マム”あたりがより正しい反応だったのではないだろうか。

 しかし“サー”や“マダム”は目上に対する表現であったような記憶がある。そもそも私と華子の間柄でこれらを使うこと自体が不適切だったのではないだろうか。その不適切さが面白さのキモなのだけれど、度が過ぎればそちらが気になるというものだ。

 この疑問を解決するにはスマホで検索でもすればよいのだろうが、そこまでして正しい英語表現を身に着ける気にはならなかった。

 店員が私たちのおかわりアルコールを運んでくる。それを受け取った流れでなんとなくトイレの方に目を向けると、先ほど目にしたカッコイイ女が立っていた。

 華子だ。しかしこれまでとは雰囲気が違う。集中力が感じられる。

 頭のてっぺんに紐を付けられて神様から引っ張り上げられているかのように、長身の彼女はピンと伸びて立っていた。右足に体重がかかっている。そして右肘を前に出し、手の平が上を向くような形で妙なポーズを取っている。

 カッコイイ姿だなあ、と私は思う。バレエの一瞬を切り取った形だと説明されたら信じてしまったかもしれない。

 講義前に見たのと同じ形だ。違うのは、今回は立ち上がって全身で表現しているところと、その手にペンを持っていないところである。

 集中感。今回の方が強く感じる気がする。おそらくこの全身を使った形が本来のものなのだろう。

 やがて華子は引き絞った右手を宙に投げ、その長い右腕は直線になってだらりと揺れた。今回はそれでも集中力が弛緩しないようである。残心という単語を私は頭に思い浮かべる。

 そして大きくひとつ息を吐くと、華子はこちらへ向かって歩き出した。歩き出した途端に集中感はどこかへ消え失せ、彼女は赤い耳をしたただのかわいらしい酔っぱらいへと姿を変えた。

 私は帰還した華子を受け入れる。そして訊いた。

「ねえハナちゃん、今のって何?」
「今の? 今のって何のこと?」
「すごい集中して、何かを投げてるように見えたんだけど」
「ああ、あれね。ええとね、うひゃ~、見られてたか。はずかし~」

 華子は本当に恥ずかしそうに顔をそむけて身もだえした。耳まで赤くなっているが、これは羞恥心よりアルコールの影響が強いのかもしれない。

 ちびちびとジョッキのビールを飲みながら、私は華子が羞恥心から立ち直るのをしばらく待った。是非とも説明をしてほしかったからだ。

 そして私が本当に知りたがっていることを察すると、華子はアルコールに緩んだほんわかとした顔で、「あれはね、ダーツよ」と教えてくれた。

 ダーツ?

「なにそれ」

 正直に思ったままの疑問を口にする私に、「なにそれと言われてもなあ」と華子はとても困った顔を見せた。

〇〇〇

 論より証拠ということで、華子に誘われ私はダーツバーにやってきた。

「いや、うちはダーツバーではないんだけどね」

 そのつもりでいた私は即座に水を差されて驚いた。思わず華子を見つめると、彼女は肩をすくめて苦笑いをした。

 “ダーツバーのようなもの”とこの店を私に紹介したのは華子である。彼女はそれを否定した店員に挑発的な表情を見せる。

「お酒を出す飲食店で、望めば客もダーツができる。これをダーツバーと呼ばすに何と呼ぶんですか。そもそもこの店は何屋に分類されるんですか」
「何屋? う~んそうだな、飲食店かな」
「飲食店にも色々あるだろって話ですよ。イタ飯屋ぶってた翌週に中華料理屋のようなメニューを出すなんて私には理解できません」
「あはは、なにそれ」と私は笑った。

 話を聞くと、この『マカロニ』という飲食店は店長がかなり好き勝手やっている店らしく、メニューを仕入れた食材や彼の趣向、マイブームのようなところでコロコロ大規模に変えているとのことである。

「いったいなんでそんなことを」

 私が純粋な驚きを口にすると、店長さんは困ったように小さく笑った。

「なんでって、僕が楽しいからだよね」
「おかげでバイトの私は覚えることがいっぱいあって、しかもその内容がコロコロ変わるもんだからたまったもんじゃないのよね」
「ハナちゃんここでバイトしてるんだ?」
「そうよ」
「なんでそんなお店で働こうと思ったの?」
「そんなの、面白い店だなと思ったからに決まってるじゃない」
「あはは、あんたも仕方ないねえ」
「僕が怒られる筋合いはないように思えるな」
「酔っぱらってるんでしょう。すみませんね」
「君が謝ることはないけどね」

 店長さんはそう言うと、私たちに着席を促した。そして何も注文していないのにも関わらず、私たちの並んで座ったカウンターに冷たい飲み物とアイスクリームが差し出される。

 爽やかな匂いの飲んだことのない種類のお茶と、アイスクリームに見えたのは柑橘系のシャーベットだった。柚子だろうか? どちらも酔っ払いの口に非常によく合う。私はすぐにこの店を気に入った。

 思えば外観もなかなか私好みのものだったように記憶している。そのうちひとりでお邪魔して、その様子を写真に収めようと私はひとりで決意する。

「西片さんの作る柚子のシャーベットは本当に美味しい。時給の安さも許せちゃう」
「どさくさに紛れてうちをディスるのはやめなさいよ」
「でもこれほんとに美味しいです。焼肉屋さんで食べるのなんかとは大違い」
「そうでしょ。僕の料理は旨いんだ」

 ひょっとしたら店長さんというよりマスターと呼んで欲しいのかもしれない、首元の蝶ネクタイを正して店長さんは胸を張る。

「さてと、ここにはダーツを見せに来たんだったわ」
「壁に穴をあけるなよ」
「うふふ、彼女ははじめてですからね。精々気を付けてもらいましょう」

 華子は楽しそうにそう言うと、スプーンに掬ったシャーベットを舐めるようにしてゆっくりと食べた。お茶を飲む。器もコップも空になったのを確認し、彼女は私を立たせて店の奥へと案内した。

 そこにはゲームエリアとでも呼ぶべき空間が広がっており、中央付近にはビリヤード台が鎮座していた。

「ビリヤードができるところはプールバーっていうんじゃなかったっけ?」
「いいのよ、それもいつまであるかわからないんだし」

 どこまで本気なのかわからない口調で華子はそう言い、壁際に設置されたキャビネットからごそごそと何かを取り出した。

 ダーツだ。手投げの矢が3本、華子から私に手渡される。その意外な重さを私の右手が受け止める。

「これはハードダーツって呼ばれるやつで、先端が金属でできてるの。普通に刺さっちゃうから気を付けてね」
「わあ、こわあい」
「これがダーツ盤。ルールや遊び方を教えてあげてもいいんだけど、どうせアナログで点数つけるのは面倒くさいから、今日は投げる心地よさを知ってもらうだけにしよう」
「投げる心地よさ?」
「そうよ。特にこのハードダーツってやつは、矢が刺さるときの感触がとっても気持ちいいのよねえ」
「矢が刺さった感触がわかるの? 投げるんでしょ?」
「まあまあ、やってみればわかるからさ」

 華子はそう言い、私に矢の投げ方を簡単に教えてくれた。

 ダーツの持ち方、スタンスの取り方、基本姿勢。腕の振り方、ダーツの投げ方。

 これまでに私は2度ほど一連の流れを眺めている。それは華子の惚れぼれとしてしまうようなカッコいいスローである。あのようなカッコイイ形を私は作れているだろうか?

 あれは思わず“撮ってみたい”と思うようなカッコよさだった。

 私はこれまで好んで人間を被写体としたことがない。どれほど容姿が優れている人や、面白いポーズや変顔ができる人と知り合ったとしてもそれを自分のデジタルデータに収めようと思ったことはなかった。

 好みとしか言いようがない。そして乞われて写真を撮るのが苦痛なので、私はこの趣味を他人に知らせることをしないのだ。

 華子のカッコイイ形をイメージしながらダーツを投げるフォームを作る。正直言ってかなり怖い。結構な距離を離れたダーツ盤に矢をあてられる気がしないのだ。

「的を外したら怒られるかな?」
「壁に穴をあけるなって? 大丈夫、とっくにそこらは穴だらけだよ。それをわかってコルク地の壁紙みたいなのを作って保護してるから、真由は気にせず思い切り腕を振ればいい」
「うひ~、怖いな」
「ビビッてちゃんと腕を振らないと外れるよ。まっすぐ振って腕を伸ばしたら、伸ばしたところにダーツは飛んでいくものだからさ」

 いつの間にか手にした小瓶のビールを口に運び、華子は私にそう言った。

 ビビってしまうとだめらしい。しかし怖いものは怖いのだ。はじめて自転車を自分でこぐ子どものように、私の背筋は恐怖に凍る。

 大きくひとつ息を吐く。 

 イメージしろ。あのカッコイイ形の華子をだ。

 はたして私は天から神様に引っ張られているようにピンと立てているだろうか。肘を前に出し、手の平を上に向けたような体勢だ。そこから肘を支点に腕を引き、引き絞ったエネルギーを利用するようにして自然と腕を振る。振れた。

 いったいどのように矢を指から離せばよいのか皆目見当がついていなかったのだが、驚くことに、何も考えずともダーツは私の手を離れてひとりで飛んでいった。

 私はそのまま肘を伸ばし、まっすぐになった腕をダーツ盤へと向けてやる。ダーツが宙を飛んでいく。

 何分の1秒かの時間を飛行したダーツは、やがてダーツ盤へと吸い込まれるように刺さっていった。

 その矢がボードへと刺さった瞬間、トン、と小気味よい音が立つと共に、何ともいえない感覚が私の右手に伝わった。私の指から離れた筈の、ダーツがダーツ盤へと刺さる感触だ。

「あら上手。教え方がよかったのかしら」
「――」
「どう、気持ちがいいでしょう?」
「これは、何というか、気持ちがいいね」
「そうなのよ。ダーツはゲームも楽しいんだけど、投げること自体が快感なのよね」

 華子は満足そうにそう言った。そして促されるままに私は残り2本の矢を放つ。1本は的に刺さったが、もう1本はボードの端にはじかれ力なく床へと転がり落ちた。

 ダーツ盤から刺さった2本の矢を引っこ抜き、床の1本とまとめて私は華子に手渡した。彼女はダーツと引き換えに小瓶のビールを私に持たせる。

 自分の呼吸が荒くなっているのがわかる。それははじめてダーツを投げた興奮によるものなのかもしれないし、明らかにそれまでとは雰囲気の異なるこの長身の女性によるものなのかもしれない。

 ダーツを受け取った華子はスローラインへと歩を進めると、私が先ほどイメージをしたカッコイイ形となった。

 そして、それは私の頭の中にあったものよりも断然カッコイイ形をしていたのだ。

 ーー撮りたい。

 私はそう思う。

 この、イメージで頭に残したものよりカッコイイ実体をした彼女を写真に残してみたいものだ。

 真実を写すといわれる彼女の写真は、このカッコイイ形をそのまま抜き取ることができるのだろうか?

 できるような気もするし、できないような気も私にはする。
 
 それを試してみたいものだと私は思う。いつか自分の趣味を彼女に打ち明け、被写体とすることに了承を得ようとすることもあるかもしれない。しかし、それは私にとって、それなりに勇気を必要とすることである。

 私はカッコイイ形でダーツを構える彼女の姿を凝視する。小瓶のビールを口に運び、その苦味を舌に遊んで嚥下する。

 集中力に満ち溢れ、しかし余計な力をすべて抜かれた彼女の右手が、水が流れるように自然と動く。

 私は心の中でシャッターボタンを注意深く押し、そのカッコイイ形をデジタルデータに保存した。
 

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