非日常・感謝・濃密さ

 知らない世界を見せてくれる人が魅力的。これまで普通(だと思って)過ごしていた日常世界の外側を知っている人はそれだけで輝く存在になる。非日常に触れる時、それは単純な日常との反転という意を超える。日常が非日常を意識する時、非日常は日常を想定しない。ほんとうは全て混沌の中にある。意識が快適に過ごせるように日常は設定される。ほんとうは、非日常は日常の外という、非常性を超えたものなのだろう。日常が一つの意識的に固定化された非日常であることにいつか気がつく。日常で現実の色彩を脱色しないこと。

   〈根をもつことと翼をもつこと〉

 根をもつことは日常をその日常性において言い換えれば安定した生活の地盤をもつ根源的な欲求を意味する。しかし同時にぼくたちは、翼を獲得して生活の基盤の重力圏からの欲求をもつ。この背反する二つの欲求を相互に満たすその方法を知ること。

         *  *  *

 人に感謝するとかあらゆる事柄に感謝する心が大切。「そんなの当たり前だ」と胸を張って言える人がどれだけいるだろうか。いつも「ありがとう」と言えているだろうか、口に出来なくても心の内側でそう発せられているだろうか?
 人間と人間の関係について、こう短絡的な方法で済ませるというわけではないけれど、お互いの尊重がないところに濃密な時間は生まれ得ないというテーゼはあると思う。
 文字にしてしまえば当たり前だけれど、それがなかなか出来ないものですよね。
 ありがとうは有難い、つまり有ることが難しい、有ることが稀である、滅多にないことに対しての感謝のこころである。全てが順当に用意されたものでそれを当然として受け取るのか、小さなことでも奇蹟だと感じるのか、という感覚は濃密さに直結すると僕はおもう。

「自己」のアイデンティティのあり方と、「世界」のリアリティのあり方の相対的な存立、ということのうしろには、人間と人間との関係の実質が存在している。たとえば「自己」の解体感ら無根拠感と、「世界」の解体感、無根拠感との相対的な存立、ということのうしろには、人間と人間との関係の不確かさ、希薄化、空洞化、無根拠感という実体が存在している。

「社会学入門」 見田宗介 p111

 自分と世界に対する確からしさは、他者との関係の確からしさに存するということ。
 どんなに人間の動物的欲求(=食欲・睡眠力・性欲)が満たされたとしても、そこに濃密な他者との関係がない限り、頭がオカシクなるだろう。
永遠に生きること、不死を“ただ”求めることはこの点において否定される。永続的に動物的に生きることと、人間としてリアリティを知覚して生きることには大きな隔たりがあるからだ。
 ただ生きればよいというのは鈍感な感性から発せられる言い訳に過ぎない。

ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。

酒鬼薔薇聖斗の犯行声明文 抜粋

 酒鬼薔薇事件については触れないけれど、自己の希薄さ、無根拠感、解体感は根源的に他者との関係の希薄さ、無根拠感、解体感に起因する。のっぺりな関係性しか生きられないとき、自己像や対象への認知ものっぺりとしたものにしかならない。こののっぺり感は何ともいえない。例えていうならば、現に心臓は鼓動し脈拍もある、けれど生の実感が湧かない、これこそがのっぺり感の様相である。のっぺり感の克服の処方箋の模索は宮台真司が取り組んできたがまた別のnoteにそこら辺は書き留める。
 

現実が濃密じゃないから、そのぶんイメージの世界で濃密に生きる。あるいはイメージの世界の濃密さに比べたら、何て現実は希薄でつまらないだろう、と思ってしまう。問題はどこで濃密さを獲得するかということです。人間って、やっぱり、強度というか、濃密さを探すじゃないですか。

透明な存在の不透明な悪意 宮台真司 p71

 クラスに身を置くことそのものが退屈で仕方なかった、授業に出るなんてもっとつまらなかっただから机の下で小説をずっと読んでいて濃密な時間を生きていた。高校を休みまくって図書館やらモールに出かけるのもあまりに高校がつまらなかったからだ。誰かが考えた難解な問題の正答率を競うことに飽き飽きしたし、つまらなかった。親の言うこともつまらないし、教師の言うこともつまらない。だからたいして勉強しなくても受かる大学、しかし面白そうな大学に行く他ない。旧帝大に行ったあのつまらなそうな兄の背中を見ていると、どうしようもなく哀しくなる。
 濃密さをどこで獲得するかそれが問われている。
                                                  2024.7.23

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