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父が泣いた日は、セナが死んだ日。

父がいた。
正確には今もいる。
どこにいるかはわからない。

私が小一の時に、
母と父は別々の道を歩むことになったからだ。

思い出はほとんどぼんやりとして断片的だ。
だが、その中でもいくつかははっきりと思い出せる。

まず母は厳格な人で、
お菓子やソーセージなどの加工肉を、
私には食べさせなかった。

それらを可哀想に思ったのだろう。
父は母が何かの用事で外していると、
「内緒だぞ」と言ってジャーマンポテトを作った。
父のジャーマンポテトはちょっとだけカレーの風味がした。

はじめて食べたときは感動した。
こんな美味いものをはじめて食べたと思ったのだ。

父流のジャーマンポテトには流儀があった。
食すときにかならずベレー帽を被らねばならないのだ。

何度目かのジャーマンポテトを振る舞ってくれた時に、
思わず聞いてみたことがあった。

「ジャーマンはドイツだ」

父はそれしか言わなかった。
意味がわからなかったが私が頷くとなぜか父も頷いた。
時折、ずり落ちそうなベレー帽を直した。

後に丸大食品のCMで、
別所哲也が「ハムの人」と知った時、
父のことを思い出したりもした。

月に1回程度だったが、
母が丸1日いない日もあった。

そんな日は朝から、釣りか山登りに行く。
帰りはビデオ屋で「ガンバの大冒険」を借り、
夜は母とは絶対に行けないラーメン屋に入る。

はじめて父とラーメン屋に行った時、
父は麺を食べ終わった後に、
レンゲでスープをズズズとすすった。

驚愕した。
母にバレたら大変なことになる、と。
スープは身体に悪いと言い伝えられていたからだ。
具体的には身体にデキモノができると言われてきた。

「いいのかな?」

私がそういうと、
父は、好きなだけ飲んだらいい、と言った。
ただし、ママには内緒だぞ、と付け加えた。

そうして飲んだスープは大変うまかった。
デキモノもできなかった。

母の言うことが嘘だとは思わなかったが、
一度言いつけを破ると、どうして今まで
律儀に守ってきたのか不思議に思うようになった。

それからは、
父と二人で行くラーメン屋が、
楽しみで仕方がなかった。

毎回飲み干してやる!
と意気込むが半分が精一杯だった。

帰宅後は二人で風呂に入った後に、
ビデオを見ながら父の膝の上で眠る。
次の朝、目覚めると私は不思議と寝室にいて、
母が台所で朝食を作っている音が聞こえてくる。

その時には父はもう出勤していて家にはいない。
そんな日常だった気がする。

父が会社員であったのは間違いないと思うので、
私の記憶はたぶん土日だったはずだ。

父は基本的に無口だったし、
あまり笑わない人だった。

何を考えているのかわからなかったし、
とにかく表情が乏しい人だった気がする。
怒鳴ったりしたところを見たことながない。
無口だから常に怒っているようにも見えて、
実際のところ少し苦手でもあった。

そんな父が泣いたことがある。
その日も父と二人だった。

深夜だった。
身体に衝撃があって目覚めると、
父が膝立ちのまま目をかっ開いて、
口を震わせながらテレビを見つめていた。

状況から察するに、
私は父の膝の上で寝ていて、
父が立ち上がった拍子にカーペットに
放り出されたのだと思う。

父は私に気づかなかった。
テレビに釘付けだった。
私は父とテレビを交互に見渡した。

唖然とした父の表情。
テレビではF1サーキットが映し出されていたが、
何やら物々しい様子だった。

すると父がこう言った。

「セナが死んだ」

そうして、
父は口を抑えながら一筋の涙を流した。
あれ以上「茫然自失」という言葉が似合う表情に、
今までの人生でお目にかかったことがない。

父は震える手で私の方に手を伸ばした。
「セナが死んだ」ともう一度言うと、
ひったくるように私を抱きしめた。

父のそんな姿を見たことがなかったものだから、
私も動転して泣いてしまった。

しばらくして父は泣き止むと、
ホットミルクだかホットココアを作ってくれた。
そして飲みながらアイルトン・セナのことを話してくれた。

なんのこっちゃかまったく分からなかったが、
こんなに話す人だったんだなと思った。
それが無性にうれしかった。

翌朝目覚めると、
やはり母が朝食を作っていて父はいなかった。
その日、帰宅した父を出迎えると、
いつもの父に戻っていた。

昨日の出来事なんてなかったみたいに、
スーツ姿のまま椅子に座ると、
駆け寄る私の頭を無言でくるりと撫でた。

離婚する前に、
父と山登りに行くことになった。
相変わらず無口だったが、
帰り道に父はこう言った。

「ほんとはセナって名付けたかったんだ」

私はどんな顔をすればいいかわからず、
曖昧に笑うと父も笑った。

それが父との最後の記憶だ。

そんな私が今は父親をやっている。
ポテトチップスもウインナーも解禁済みだ。
ゆるゆるの子育てである。

私の父親像はやはり彼しかいない。
もう顔も思い出せないけれど、
彼と訪れた防波堤や山道の原風景は、
今でもまざまざと思い出せる気がする。

先日、
息子の七五三の撮影があり、
妻がベレー帽を買ってきた。

なんの因果か。
ずり落ちるベレー帽を直しながらそう思った。

もし、
息子と二人きりの休日が来たら、
ひそかにジャーマンポテトを作ろうと目論んでいる。
ちょうどベレー帽もあるし、
父の伝統を引き継ごうかかと。

今のところ、
私は息子の前で涙を見せたことがない。
無理をしているわけではなく、
そんな機会がないのだ。

でも、
もし泣いてしまうとしたら
どんな涙だろうかと想像する。

私は父の涙にびっくりしたが、
素直な父の姿を見れてうれしかった気がする。
そんな涙になったらいと思う。

ちなみに息子の名前はセナではない。
あたりまえだ。


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