【感想】映画「月」(※ネタバレあり)

映画「月」を観たのは、文章教室に提出された感想文がキッカケだった。

実際に起きた重度障がい者施設職員による障がい者殺害事件を元に描かれた、辺見庸の小説を元に作られた映画。

感想文としては正直、失敗していたかも知れない。

内容紹介まではフラットに書かれていたのに、途中から役の人物である〝さとくん〟(犯人役)を「お前」呼ばわりして怒りを露わに、冷静さを欠いてしまっていたから。

でもだからこそ、心動かされた。

感想文からいきなり立ち上がって来た、〝怒りの壁〟と言っても良い程の凄まじい感情の爆発に唖然として、その後に書かれている文章が上手く頭の中に入って来なかった。

それくらい激しいエネルギーを文章から感じた。

同時にその怒りには、もっと根深い何かが潜んでいる様な気がした。例えば、怖れとか怯えのような。

感想文を書いた人はとても理知的な小説を書く事を知っていたから、その彼をこんなにも追い込んだ作品とはどのような映画だったのか?と興味を持った。

余程上手く出来た映画だったのではないか?と。
そして怒りの奥に潜むものの正体を知りたいと思った。

2023年10月に封切られた作品だったから上映している映画館がなくて、だから小説から読んだ。  

イメージの多用により、小説は描きたい事がぼやけてしまっている様に感じられた。詩的で若干ナルシスティックに映ったし、読み終えるには忍耐が要った。(感想文を書いた人も小説は挫折したと言っていた)もちろん、好みの問題かも知れないけど。

感想文を書いた人からの情報を元に上映館を探していたら、墨田区菊川にある『stranger』という小さな映画館で3月に上映される事を知った。

でも観るのに決心が要った。

何だか怖い気がした。

でも何故か、観なければ!と思った。

ちょうど犯人役を演じた磯村勇人さんが助演男優賞を受賞して話題になったタイミングでもあり、朝早くの上映回でも席が埋まっていた。

昼頃の回で予約したら平日にも関わらず人が多くて、その大半は女性でアラフォー世代以上と思しき人の比率が高かった気がする。

結果として観て良かったし、感想文に書かれていたものとは違う感想を持った。

小説とは全く別物だったが、私は映画の方がストレートに伝わってくるものがあり、伝えたいものを表現するの事に成功している気がした。

小説では〝きーちゃん〟と呼ばれる重度障がい者の精神世界の中での語りを主としてストーリーが展開して行くが、映画は〝さとくん〟の同僚であり作家の洋子を主人公として、小説には登場しないオリジナルの人物を軸に描かれていた。

また3.11のことが盛り込まれていたり、障がい者殺害事件にとどまらず、周縁化された人々について描いてもいた。

障がい者健常者に関係なく、不条理を生きている人々が沢山登場する映画だった。

だからこそ、誰もが自分事として捉えることの出来る作品であり、興味本位や必要以上に事件の異常性や恐怖を煽る様なものではなかった。

磯村勇斗さん扮する〝さとくん〟が犯行に及ぶ為に元働いていた重度障がい者施設を訪れ、施設に入るドアに手を掛けるその瞬間の目が、とても優しく穏やかだったのが印象的だった。

小説にも描かれていた、それを実際目の当たりにしたらと思うと胸ふたがれるシーンが映画でも使われていて、その当事者に自分を重ねて見ている〝さとくん〟のカットが差し挟まれていたり、監督が手掛けたという脚本もカットもとても良かった。

自分だったら死んでしまいたい!と思うくらいの
恥辱に満ちた何とも言い難い出来事で、それが契機になったのではないか?というくらいの重要なシーン。

隠されて、そっとしておきたいものが剥き出しになっている現場で、生身の心と身体を抱えて対処し続けなければいけない日常の過酷。

怒りの感想文を書いた人は援助職に就いている人だった。「もっと自分に向き合え!逃げるな、甘えるな。」といった感想は、その人自身がとても頑張っていて自分自身をそうやって鼓舞し続けているからこその言葉だったんじゃないか?と思った。

宮沢りえさん扮する主人公の洋子と生年月日が全く同じである〝きーちゃん〟、やはり施設職員で二階堂ふみさん演じる陽子(役の設定は小説家志望の女性)、前出のシーンで〝さとくん〟が入所者に自分を映してみたり、洋子が〝さとくん〟と対話しながらも、もう一人の自分と対話するシーンなど、主体と客体が入れ替わり、その境界がぼやける仕掛けがふんだんに施されていて、観客もいつしかその中に取り込まれて行く。

だからこそ、それに呑まれてしまわぬ様に感想文の作者は怒りを発動させていたのではないか?と納得した。自分の中にも同じ何かを見ているからこそ。

私は怒りより、それに追い込まれて行ってしまう何か大きな力の様なものの前に、人は無力なんじゃないか?ってことを感じた。

入所者に対する虐待は常日頃からあって、その中で〝さとくん〟は浮いた存在だった。

犯行に及ぶ頃の〝さとくん〟言うところの、〝心失者〟と認識している様な人達に、手づくりの紙芝居を読んで聞かせようとするだろうか?

「きーちゃんに月くらい見せてやりたいんだ。」そう言って、心ない同僚によってグチャグチャにされゴミ箱に捨てられてしまった紙芝居から三日月を作り、窓が塞がれてしまったきーちゃんの病室に飾る〝さとくん〟。

映画の中の作られた〝さとくん〟ではあるけれど、彼の精神が壊れて移ろい行く様子を象徴するものとして三日月が上手く使われていた。

入所者にだけでなく同僚間にも心理的虐待めいたものが存在していた。

それは過酷な職場にありがちな事だ。

〝さとくん〟は自分が締め出された世界の中で、なんとかその中で居場所を作ろうとしてもがいていたんじゃないか?

その世界の中で有用とされる(と思い込んでいる)何かをする事で何者かになれば、その世界の仲間に入れて貰えるんじゃないかと無意識に考えたのでは?と思った。

〝生産性〟が重要視される、アップデートと自己責任で息切れ気味の社会の中で。

両親にも見放され、同僚にも馴染めない孤独を抱えて、日常的に暴力と過酷が渦巻いている場に身を置き、そこに存在する〝何か〟を掬い上げてしまう感受性を持った人。

もし孤立と貧困がなかったら、〝さとくん〟は施設職員を選んでいただろうか?

〝心失者〟という、〝さとくん〟の放った言葉は
誰に届かせる為の言葉だったか?誰に受け取られるだろうと思ってそれを言ったのか?

殺人はあってはならない。

けれど、私はこれを特殊な人が起こした事件とは思えなかった。

人は無力になってはいけないと思う。

繋がりから外れては。

そんな事を感じた。

※期間限定上映館↓
『月』『福田村事件』 // 特別モーニング&レイトショー『絞死刑』 | 早稲田松竹 official web site | 高田馬場の名画座


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