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「一日中ゲームしている」は「楽しい」なのか?(「社内SEになりたい」 3)

こんにちは、ひとり情シス歴15年・情報処理安全確保支援士、JUGONYです。

本題として、「WindowsでVPN構築」のテーマを扱っている最中ですが、ちょっとまとまった時間が取れないため、寄り道・雑談的なテーマを扱っています。

手始めとして、「社内SE」への転職の話で今回は第3回目です。

「社内SEになりたい」1
「社内SEになりたい」2

前回の記事は、自分が「本当に楽しい」と思えることが見つかっているか?
見つかっていない人も多いのでは?というような話でした。

その中で、

「自分が本当にやりたいこと」
「お金に困らなかったらやりたいこと」

のダメな例えとして、

「ゲームをしながら暮らしたい」
「夜の街で毎晩飲み明かしたい」
「心ゆくまで高級ブランド品を買い漁りたい」

というような例を挙げました。

今回は、これらが本当に「ダメ」なのか?という話からです。

ーーー
<「一日中ゲームに明け暮れる」は、本当に楽しいこととは言えない?>

結論から言うと、必ずしもダメではないと思っています。
つまり、本当に楽しいことの一つとして考えてよい、ということです。

ですが、普通に考えると
「あー、一日を無駄に過ごしたー」
となりますよね。

その線引きを考えたいと思います。

まず、そもそもなぜ一日中ゲームをすることが無駄と思ってしまうのでしょう。たとえば、

「生産性がない」
「お金が稼げない」
「人の役に立たない」

といったことがあげられそうです。


ゲームではなく、例えば「夜の街で毎晩飲み明かしたい」といった例であれば、あからさまにお金が減るのでさらに顕著です。

ですがこれらの中にも、本当に好きで続けているうちに生産性がうまれ、お金になり、人の役に立つということも完全にないわけでは無さそうです。

ゲームに没頭しているうちに、「ゲームが作れるようになった」・「CGに興味を持ち始め仕事にした」・「ストーリー作りに興味を持ち始め放送作家になった」・「ネトゲで知り合った人たちと起業した」などなど。

また、夜の街で飲み明かしてるうちにベンチャーの社長と意気投合して、新しい事業を始めたとか。

というところから、一見、生産性・役に立つということと
好き・楽しいの基準は本質的に違うベクトルなのかと思っています。

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<お金が楽しいのバロメーターになる?>

少し脇にそれますが、、
この話は、私の好きな心理カウンセラーの「心屋仁之助」さんの受け売りですが、上記の話は順序が逆です。お金は基準ではなくて結果だという考え、つまり、「お金が無くならないなら、楽しいことだ」ということ。

意味が分からないですね。

シンプルに表現すると、ありきたりになってしまいますが、

「どこかで我慢していたり、我慢の代償(はけ口)として、お金を使うとお金は減っていき、純粋に楽しいことをしていると何故かお金は減らない(むしろ増えることが多い)と」

僕も完全に理解できていない気もしますが、現実を見てみると意外とその通りになっている気がします。

話自体は受け売りなので、本家、心屋仁之助さん「一生お金に困らない生き方」あたりの書籍を読んでいただければと思います。

ーーー
<今まで、無意識に目をそらしてきたことに向き合う>

話を僕自身に戻して、振り返りをします。

「自分自身の楽しい」を取り戻すのに、「重症」から回復したということは前回お伝えしました。

次にした(している)のは、今まで心の底ではわかっていてもどうしてもできなかったことです。つまり、

「嫌なことをやめる・断る」

これは実は結構勇気がいります。我慢していたほうが楽だということです。

一見、断る人より我慢してやっている人のほうが圧倒的に辛そうに見えますが、我慢に逃げている、あるいは現状に逃げている(変えたくない)という側面がある、ということです。

「断る」といっても、いきなり極端にすべてのこと断る必要はないでしょう。とりあえず少しずつですね。
やり始めればコツがわかる・癖になるという感じになると思います。

これなんですが、別の意味でも僕にとっては結構大変でした。
前回に述べた通り「好きと思い込む」のが”得意”になってしまっていたため、嫌だという感覚すらなかったことも多かったからです。
ここで、上記の「お金はバロメータ」の話が役に立ちました。

具体的にお金の使い道を「好き」のバロメータとしてみてみたい、という以前の僕のような人がいればですが、やり方としては、

1)お金の使い方2-3か月をメモしてみます。
*通常の「家計簿をつける」という話ではなく、何も考えずに、単純に記録する

2)「使いすぎている」という項目があったらやめます。
*コツは、発散(はけ口)に使っているものは、中毒性があり最初は難しいので、我慢しているものがあればそちらを先にやめること。それにつれ、自然と発散が減ってゆきます


という感じで「嫌なことをやめる・断る運動」をするという話なんですが、

そういうと、

「だから嫌な仕事を辞めるんだ」「転職するんだ」 
振り出しに元に戻っている

という声が聞こえてきそうです。実際、僕もその堂々巡りでした。

でもそうやって同じ場所をぐるぐる回っているうちに、ふと、
「仕事を変える」は「やめる」になっていないのでは?
ということに気づいたのです。

ーーー
<嫌いなことは、どこに行ってもついてくる>

何なのかというと、つまり、やめたいのは仕事でなく「嫌なこと」なはずだ、ということです。
言い換えると「仕事=嫌」という話は、もう少し分解する必要があるということ。

「嫌」をもう少し具体的にしないと、場所や人を変えて同じ「嫌」が現れます。これは、よく言われていることですが、僕の経験からも明らかです。(わかっていても転職したいと思うこともありますが)

具体的にとは、例えば、

・上司がすぐ怒鳴るのが嫌、細かいのが嫌、いい加減・無茶ぶりなのが嫌
・単純作業が嫌
・人前で話すのが嫌
・お客さんに振り回されるのが嫌
・調整が嫌


などなど。

このように仕事を分解していって、「転職」とかいって先延ばしにせず、今ここから「嫌」をやめるのです。

さすがに、仕事の中ですべての時間が「嫌」で埋め尽くされているのであれば転職一択だとは思いますが、大半の人はそうではないのではないかと思います。

まあ、自己啓発の中では使い古されていることかもしれませんが

嫌なことというのは自分の中にある、環境の中にあるのではない

ということですね。

これを続けてきて、やっと好き・楽しいが「少し」わかるようになってきたなぁと思っています。

ーーー

ということで、完全に自己啓発っぽくなりましたが、転職にあたっては自分自身を掘り下げることが重要なんではないか?
ということを書かせていただきました。


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