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シンガポールの朝

◆ジャグリングがつなげるもの Weekly◆ 第53回より 加筆修正して掲載) 

 別に何はなくとも、シンガポール人のスィン姉さんからはたびたびメッセージが届く。ちょっとしたことを頼まれることもあるし、最近元気か、みたいなメッセージの時もあるし、いろいろである。
 スィンとはもう7年くらいの付き合いで、初めて会ったのは2013年にシンガポールで開かれたサーカスフェスティバルに行った時だ。僕はまだ二十歳そこそこだった。だからなんというか、スィンとしては僕はずっと弟分みたいな感じがするのだろう。家に泊めてくれたり、コミュニティに入れてくれたり、お姉さんのように何かとお世話をしてくれる。実際、スィンはいつまでも僕にとってお姉さんみたいな存在である。
 サーカスイベントがあるよ、シンガポール来れば、とスィンに唐突に言われたのは昨年の11月末のことだ。僕の方もとりたてて用事がなかったので、お誘いに乗って人生で5回目か6回目の来訪となる、熱帯の国へ旅立つことにした。

 今回の滞在中僕はずっと、最近引っ越したスィンの家にいた。
 家はかなり大きくて、コンクリートがところどころ剥き出しで、余計なものはあまり置いておらず、雑誌で言ったら「Casa」とか「&Premium」あたりの「シンプルな暮らし」特集で紹介されそうな家。
 スィンは動物好きだから、猫4匹と犬1匹も一緒だった。
 猫は好き勝手に家をぶらぶらしていて、ときどき食器を落としたり豆乳を勝手に飲んだりしていた。シェルターからの保護犬であるアンアンは、僕に向かってすぐ吠えてきた。人見知りの怖がりで、ドアを開けようとするだけで敵意を剥き出しにしてくる。
 犬が僕に唸りを上げるたびに、スィンは「No,no, it's ok」と優しく諭していた。イタズラをする猫には、容赦なく霧吹きで水をかけていた。

 シンガポールでは毎日これといってやることがなかったので、昼間にちょっとだけ仕事をすると、遅くまで友達と夕飯を食べて、夜は大きな部屋にある小さくて簡素なベッドに潜って、遅くまで寝ていた。

 さて、毎日、朝日の一番まぶしい時間を過ぎて朝10時ぐらいになると、すでに起きているスィンは、隣の部屋からこういうメッセージを送ってきた。

「コーヒー飲む?トーストボックス行く?」

 まぁ、これくらいのことなら部屋をノックして聞けば済む話なんだけど、なんとなく、スィンはそういうことをしない人だった。だから一週間の滞在の間、毎朝、メッセージで「コーヒー飲む?」と聞かれていた。
 それを読むと僕はドアを開けて、リビングに出て行って、スィンに話しかけて、一緒にコーヒーを飲んだ。フレンチプレスで淹れて家で飲むこともあったし、近所にある「トーストボックス」という茶店までバスで行くこともあった。

 コーヒーを飲みながら、とにかく僕たちは話をした。
 今回のイベントはどうだったか、日本のサーカスシーンは変わったか、台湾の友達は元気か、イギリスのフェスティバルはどうだったか。一年に一回会うか会わないか、という程度なので、話すネタはたくさんあった。

 そしてあっという間に一週間が過ぎ、帰国する朝、僕はアンアンを起こさないようにリビングに入り、玄関からそっと家を出た。

 僕は乗り換え時間が長い航空券を持っていたから、日本に着いたのは次の日の朝だった。朝早く空港に着き、乗ってきた飛行機の写真を撮り、それをスィンに送り、ありがとうのメッセージを送った。 
 するとしばらくしてスィンからこんな返事が返ってきた。

「そっか、もう日本に帰ったんだったね。『コーヒー飲む?』ってメッセージ送るとこだった!」

 ふふふ。

 毎朝メッセージを送るまで起きてこない僕は、まだシンガポールにいたのだった。

 スィンと通ったトーストボックスを思い浮かべる時、僕はシンガポールの、熱帯特有のあの生ぬるい空気を嗅いでいる。

 僕はあの人のおかげで、ずっとシンガポールと繋がれているような気もする。

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