窮鳥の論理
窮鳥懐に入れば猟師も殺さず。
『顔氏家訓』「省事」にみる「窮鳥入懐 仁人所憫」を原文とするこの成語は、私見ではたいへん普遍的な人の心を言い当てている。
猟師は鳥を殺して暮らしを立てている。平素ならば、彼が鳥を殺すことになんの躊躇もないだろう。だがそのような猟師でさえ、いきなり(他の獣などに?)追い詰められた鳥が懐に逃れてきたならば、これを殺すことは出来ない。そればかりか、彼はこの鳥を救おうとさえするかも知れない。
先日、下記noteで「人の優しさや残酷さの発露のされ方には偏りがある」と書いた。その人が愛情や共感を抱く範囲に入っているかどうかで、著しく態度が違ってくるということだ。
そういう観点から、たとえば海の向こうで何百人何千人が死んだというニュースは身近な人が一人死ぬことにくらべれば心を動かさないし、極端に言えば幾千幾万の死よりも俺なんか大谷選手が野球賭博に関与していたかどうかのほうが気になっちゃうね、という人がいたとしても、それをもって直ちに酷薄だとか平和ボケとは言えないのである。
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このような、無関心だった存在が突如としてかけがえのない存在になる――少なくともそのような関係性が始まってゆく――そうした契機を「窮鳥現象」あるいは「窮鳥の論理」というように名付け、考えてみたいのである。
窮鳥現象として最も典型的なのは「恋」であり、また「出逢い」である。
ただ異性(きょうび「自らのセクシャリティにとっての恋愛対象」と書いたほうがいいだろうか)というだけで無数にいた他者のなかの一人が、いつの間にか抗しがたく心を捕らえ、運命的なものを感じるような執着の対象、「代替不可能な一者」となっている。
また特定のアイドルやキャラクターのファンになる時にも「窮鳥現象」が起きている、と考える。
こういう経験はないだろうか。興味のないアイドルグループや、さしあたってはノーチェックのアニメ・ゲームの人物がずらりと並んでいるスチール写真を見ても別になんとも思わない、どころか「けっ、テカテカしやがって」とうっすらとした嫌悪感を抱きさえするにもかかわらず、のちほどそのアイドルグループや作品を好きになると、同じ写真がとても魅力的な感情移入の対象に見えてくる、といった経験は。
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そして世の中のフィクション自体も、「主人公がたまたま目についた助力を必要としている存在を助ける」というドラマツルギーに満ち満ちている。いちいち例を挙げなくとも皆さん、いくらでも思いつくのではないでしょうか。
思うに、人は世界に対してフラットに関心を持っているわけではなく、たまたま自分の人生と交わったもの、自分の視界に入ってくるもの、自分が関与したりされたりするものにより強い関心を抱くように出来ている。
そして、そのようなものだけが人生に意味をもたらすとも言える。つまりいきなり鳥が懐に飛び込んでくるような遭遇がなければ――ただの情報として漫然と眺めているうちは――世界は意味を持たないのである。
断っておくが、これは決して「遠い海の向こうのことなど感心を持たなくてもいい」という話ではない。
むしろ逆に、「彼らの運命が自分にとって感心を呼び起こさないとしたら、その鳥たちは懐に飛び込んできてはいないからだ」と考えてみる。
もし無数の鳥たちの一羽が懐に飛び込んで来たならば――それはあなたの親や恋人や親友であったかも知れない――その鳥の運命はあなたにとっても決定的な意味を持つ。だが現実にはその鳥たちは未だ遠い空を飛んでいるので、そのように感じられないだけである。そう、同じ鳥であるにもかかわらず。
このように想像することによって、それらが皆、潜在的には自分にとってかけがえのない存在であり得たことが実感されるのではないだろうか(実際、彼らは皆、誰かにとってのそのようなかけがえのない存在である)。
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さて実のところ、モンゴルの民間伝承だとか、昭和犯罪史などから「窮鳥現象」のケーススタディを幾つか用意していたのだが、なんだか持ち出すタイミングがないままここまで来てしまった。
ようするに前者はA.モスタールト『オルドス口碑集』に収録されている説話で、アーナンダの何度目かの生まれ変わりである帝(ハーン)が宮殿に迷い込んできた雉鳩をかばい、追ってきた猟師に自分の心臓を差し出して死んだところ、アーナンダ=帝はその功徳によって仏に生まれ変わったというどこをとってもあり得ない話(なぜ猟師は帝を恐れない? なぜ帝は心臓を差し出す? なぜ猟師はそれで納得する? 云々)で、こういうのは民衆の素朴な生活感情ではなく、おそらく仏教の教条的思考から生み出された作為の強い代物であると思われた。
けれど、有り得ないことばかりのこの説話のなかで帝が衝動的に雉鳩をかばいたくなったという部分だけは真実を捉えていると思える。
昭和犯罪史のほうは、賭博癖で借金が膨らんだ男が母と無理心中しようとし(クズ!)、夜中に寝ている母の頭にバットを振り下ろし、死んだなと思って隣の自室に移ったところ、母が生きており頭から血を流しながら騒ぎだしたのでびっくりして殺人を完遂できず、全治一週間の頭部挫傷で終わったというもの。
これについて、別役実は次のように述べている。
ようするに、このケース(無理心中)では通常の殺しとは理屈が逆になっているということである。
鳥(母)が懐の内にいる、一心同体だからこそ無理心中=自殺の一環としての殺しが可能だったのが、不意に鳥が懐の外に出てしまったので、自分と母は他人の状態に戻り、したがって無理心中が成立しなくなった=母を殺すことが単なる殺しになった、というわけだ(なお判決ではいわゆる「中止犯」=傷害事件であるとは認められず、尊属殺人未遂罪の下限で懲役3年6ヵ月となった)。
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「抽象的な他者」が「かけがえのない一者」に変わる瞬間、不意の遭遇、巻き込まれ。そのマジカルといってもいい瞬間に、現実といいフィクションといい、実に多くのものが規定されているように思う。
また現実といいフィクションといい、なにかしらの物語が始まるとき、常に「窮鳥の論理」が介在している――といっても今は過言ではないと思えるのである。
【追記】
アップロード後、フォロワーさんから次のようなコメントをいただいた。
『孟子』梁惠王章句上に斉の宣王と孟子との対話があり、そこで宣王は、新しい鐘の厄払いのため牛を殺してその血を塗ろうとしている者を呼び止め、かわいそうなので羊に替えさせた。
民は王の哀れみを理解せず、たんに牛が高いのでケチって安い羊に替えさせたのだと思ったが、孟子は王に対して「私にはあなたの真意がわかりますよ」といい、「あなたは牛に情けをかけたのでしょう。しかし羊はまだ見ていないのでかわいそうだと思わなかったのです」と指摘した。
王は「うーんそうか、じゃあどうすればよかったんだろうなあ」と思案する。
そこで孟子は、牛に情けをかけたのは仁のはじまりであってけっして悪いことではない。その調子で民のことも慮っていい感じの君主になってくれ、と叱咤激励する。とてもいい話ですね。
いわゆる以羊易牛、羊をもって牛に易(か)うという故事成語です。牛だけに。
どうもこれが惻隠の情の第一歩、王が成長してゆく過程という文脈は抜け落ちて皮肉なニュアンスだけが残っているようですが、まあ故事成語あるあるでしょう。
じつに今回のnoteのテーマに符合する挿話でした。やっぱ四書五経くらいは通して読んどくべきなんでしょうか。『論語』と『老子』はいちおう学生時代に読んだんですが。ともあれ、感謝。
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