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人は冷酷な生き物なのか

 いまではもはや珍しい話ではないが、我々の社会にはたまにインターネットを使って公開自殺をくわだてる者がいる。
 たとえば2013年――当時はかなり衝撃を巻き起こした――スティーブンと名乗るカナダの学生が、画像掲示板サイト4chanで自殺を宣言し、それを見ていた別のユーザーが提供したビデオチャットルーム(最大200人視聴可能)で、「死の生配信」を行なった。


 〝僕は最後に最善の方法でコミュニティに仕返しする。僕は進んでみんなのためにカメラの前でヒーロー(自殺)する〟
 そう告げるとスティーブンは、視聴者の前で薬とウォッカを飲み、寮の自室に火を放った。
 彼は毛布に潜り込む。炎はどんどん燃え拡がってゆき、とうとう布団も炎に包まれようとした。その時彼は #imdead(僕は死ぬ)、#omgimonfire(なんてこった、火がついた)とタイプした。

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 伝え聞くところでは、そのさいのコメントのひとつに「もっと詩的な逝き方をしろよ」というものがあったそうだ。
 なんという残酷さ! とは思ったが、だからといってコメ主が血も涙もない、感情の欠如した冷血人間であることを示しているとは思わなかった。想像するに書き込みをした人物は――人並みより少々想像力に欠けていたか、悪趣味だったかも知れないが――おおむねごく普通の人物だったのだろう。そして普通の人は、しばしば他人の死や悲劇に対して平気で心ないことを言うものだ。
 思い出してほしい。悲惨な死や事故のニュースについて、ネットのちょっと「そういう場所」の書き込みを覗けば、この程度の心ないコメントは毎日のように大量に投稿され、溢れかえっている。

 これについて考えたのは、人の優しさや残酷さの発露のされ方には偏りがあるということだ。たとえば同じ人が、ある特定の集団について「全員死ねばいい」と言いつつ、小動物の命運をめぐるニュースに釘付けになったりする。また特定の属性にたいする救済的活動にお金や労力を惜しみなく投じつつ、別の属性については自己責任だといって平気で見捨てたりする。友人知人にたいへん親切な人が、妻を殴ったり職場でパワハラをしていたりする。
 どういうふうに偏るかは人それぞれだが、つまるところその人が愛情や共感を抱いたり配慮する範囲に入っているか、それとも無関心か、はたまた敵視・嫌悪する枠に入っているかで、現れる反応がものすごく違ってくるわけだ。

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 したがって、人間は優しい生き物だとか残酷な生き物だということは一概には言えない、ただその偏りがどういう時にどういう方向に向きがちか、ということは社会や他人に対する観察として常日頃から気を配っておくと、いざという時に多少なりとも我が身を助けることになるかも知れない。
 原則として、知らない者、遠い者、話したことのない者、共通点の少ない者、態度の悪い者、理解不能な者等々に対しては、そうでない対象より共感しにくく、冷淡になりがちといったことはあるだろうけれど、まあそのへん、いろんなケースを見てゆくとけっこう深いものがあるのではないか。

 つまり、なんて心ない奴らだと憤ったり、人間は残酷な生き物だというような観念を育てるよりも、人はどういう時に冷酷になるのか、またどういう状況下で優しくなるのか、というようなニュートラルな洞察を磨きたい、と思ったのでした。

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 そういえば、れいのスティーブン君はあのあと消防士が駆けつけ、病院に搬送されて重傷を負ったものの(また社会的信用や経済的な損失もかなりのものだっただろうけれど)、いちおう一命を取り留めたのでした。
 スティーブン君、生きてれば色々あるよ。人間について悲観しないで「人間の力学」を考えようぜ、と思ったのでした。

 では今日はこんなところで(・ω・)ノ


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