非モテの恋愛を学習理論から考える
この記事は「ベイトソンの学習理論って非モテにおける恋愛の成長(脱非モテ)過程にうまいこと当て嵌まるのではないか?」というアイデアに基づく覚え書きである。
もし自分の恋愛アプローチはなんかおかしいと感じている人、頑張ってるけど結果がついて来ないという人がいたら、読めばなにかしらのヒントが得られるかも知れない。とはいえ「深夜のファミレスでの思いつきを本当に書いちゃった」程度の記事なので、これを読んだだけで飛躍的に恋愛がうまく行くようになったらこっちがビビる。まあ過度の期待はせずに気楽に読んでください。
さてベイトソンの学習理論は、「ゼロ学習」から「学習Ⅰ」「学習Ⅱ」「学習Ⅲ」と次第に内容が高度になりメタ化してゆく。
一応「学習Ⅳ」というのもあるが、これは「人類進化の新しい段階」みたいな話で、ベイトソンによれば地救上のあらゆる生物はまだこの段階に達していないそうなので、人類が一応こなしている恋愛には関係ないので本稿では触れない(もしかしたら「学習Ⅳ」をマスターすればあらゆる相手と自在に結合できるようになるのかも知れない。知らんけど)。
ではさっそく見てゆこう。
【ゼロ学習】
これは文字通り、何も学ばない状態。
そりゃうまく行くわけないと誰もが思うかも知れないが、実際にそういう非モテはいるのである。
コープランド/ルイスの『モテる技術』のなかにちょうどそういう例が出てくる。
また別の男はこんな具合だ。
まるで成長していない…(画像略)
ところで、ボブは完全に「ゼロ学習」のケースなのだが、シドニーは「ゼロ学習」と「学習Ⅰ」の要素が混ざっている。次に「学習Ⅰ」を見てみよう。
【学習Ⅰ】
これは最も単純な学習で、「刺激」と「反応」のあいだに単一の関係が結ばれるというもの。
例えば熱い鍋に触ったらヤケドしたので次から触らないとか、ある行為をしたら叱られたのでしなくなる(逆に褒められたので頻繁にするようになる)等々。
シドニーが「どこがまずかったんだろう?」と考えるのは「学習Ⅰ」に進んでいるのだが、いかんせん彼は「刺激」(相手にされなかった)に対して「反応」(女性に対する態度)を変えるということをしないので、結果として「ゼロ学習」の領域に留まっている。
このように、「学習Ⅰ」の段階はもちろん何も学ばないよりははるかにいい。だがまだまだ人並みの恋愛に達してはいない。
何故なら、「どこがまずかったんだろう?」という発想は美少女ゲーム的だからである。
つまりモニターの向こう側に女の子がいて、彼女が何か言うとそれに対する受け答えが四択などで出てくる。そのなかのどれを選ぶかによって好感度が上がったり下がったりして、より親密になったりフラれたりする、というモデルである(なおひとくちに美少女ゲームといっても色々あって云々、という話は百も承知で単純化しているので了解されたい)。
ところが現実の恋愛は、「あそこでこういう言動をしたから嫌われた」というような単一の原因=選択ミスには還元されない次元があるのである。
森哲平は「居場所のパラドクス」においてこう書いている。
森の話は主にコミュ力についてだが、これは恋愛についてもほぼそのまま当て嵌まる。言い換えてみよう。
うーむ、やっといてなんだが、ほとんど書き換える箇所がなかった。
早い話がレベル不足でダンジョンに挑もうとしているようなもの。充分なレベルに達していれば誤った選択はあるていど許容される。
別の言い方をすれば「脈がないところでどんなに頑張っても無駄」ということであり、重要なのはどうやって脈を作るかということ。これはもう、その場その場の選択を越えた話なのである。
【学習Ⅱ】
この段階では、単純な「刺激」→「反応」の学習ではなく、それがどのようなコンテクスト下において行なわれているのかについての認識が発生する。
さきほどダンジョンとレベルの喩えを出したが、恋愛においても個別の選択だけでなく「レベル上げ」を意識するようになる。外見やしぐさ、喋り方の改善も活発になり、趣味や知識の選択にも異性ウケの良し悪しというようなインセンティヴが働くようになる。
心理面においては、脈があるかないか、彼女が自分のことをどう思っているのかが薄々わかるようになる。
そして「自分はこういう傾向があるんでここを改めよう」とか「あの子はこういう性格だからこういうふうに接しよう」というような、自分や相手、周囲の状況を考慮に入れて態度を調整することが出来るようになる。
ただし、あくまでそういうことを「考慮に入れる」ことが出来るようになっただけで、そのなかで正しい判断が下せるかどうかは別の話である。
そして、このレベルにおける勘違い=間違った学習の弊害は深刻である。何故ならそれは負のサイクルとして固着してしまう可能性があるからだ。
それはどういうことか。先日このようなポストをした。
恋愛においては、ぱっと思いつくのは難解な言葉で自分を飾ったり、不都合なことを指摘されると理屈をつけてごまかす、不機嫌になる、などがこれに当て嵌まる。
もちろん他にも様々なパターンがあり、下記記事の前半部分でも二村を援用しながら幾つかの防衛機制について言及している(「わざとバカっぽくふるまう」とか「根拠もないのに自分は特別だと思い込む」等々)ので、興味のある方は一読されたい。
こういうことをやっていると、その場では相手が納得するそぶりを見せたり、それ以上の指摘をやめたり、「さすが」「凄い」などとうわべだけは言われるのでうまく行ったように見えるがじつは面倒くさいので距離を置かれることになる。
だが本人はそのことに気付がないので、どんどん「こうすればいい」という信念を固めてゆく。
補足すると、こうした防衛機制じたいは正常な心の反応だが、精神分析では過剰な防衛機制の結果としてさまざまな神経症の症状が出現すると言われている。
ベイトソンの「学習Ⅱ」と神経症の関係については斎藤環が次のように述べている。
げに恐ろしきはこのレベルでの誤った学習なのである。こういった段階も我々は踏み越えてゆかねばならない。
【学習Ⅲ】
なにやら口調が堅くなってきたので軌道修正する。
まあそんなわけで我々はようやく「学習Ⅲ」に辿り着いたのだが、 一般的には「学習Ⅰ」を「正しい選択肢を選ぶこと」、「学習Ⅱ」を「選択肢そのものを変化させること」とするのに対し、「学習Ⅲ」は「選択肢群そのものを修正すること」と説明される。
つまり「学習Ⅱ」が「学習Ⅰ」に対するメタ化であるように、「学習Ⅲ」も「学習Ⅱ」に対するメタ化であるといっていい。
ここでは「学習Ⅱ」で見てきたようなこだわり、試行錯誤(まさに思考「錯誤」!)、知らず知らずのうちに頭の中で膨らんでしまった恋愛観、抽象的思念、選択肢群を解きほぐし、自分や隣人やあるいは第三者が持っているさまざまな思念を比較し、それらを道具のように使い分けたり、あるいはそうした観念からまったく自由に振る舞えるようになる。
思うにこれは非モテに限らず健常者、もとい普通の人でもなかなか出来ることではなくて、だいたい「学習Ⅱ」と「学習Ⅲ」のあいだをうろうろしているのが大半の人ではないかと思われる。
恋愛に対する特定の、あるいは幾つかの思念が頭に巣喰っている(ただしそれらをまったく持たないことは「学習Ⅰ」への後退である)のだが、窓からさわやかな風が吹き込み、邪気を祓うような特別な瞬間だけ、そこから解き放たれ、フラットに現実そのものを見通すことが出来る、といった具合に。
なんということだろう。普通の人が「学習Ⅱ」と「学習Ⅲ」のあいだを彷徨っているとするならば、ここまで読んできた非モテたる(?)あなたは、「学習Ⅲ」に限りなく自らを近づけることによって、いまや彼らを追い抜くことさえ可能なのだ。
だがそれは筆者をも追い抜くことになるので――あるいは僕は、もっと低次のどこかですでに追い抜かれているかも知れない――具体的にどうすればいいのかは、僕にもはっきり言うことは出来ない。
さて、だいたい書きたいことは書いたので今回はこれで終わりにします。それではまた(・ω・)ノ
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