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『同性の友達を気軽に誘えない』

日記を書くのは苦手だ。日常にオチなんてないし、風呂敷の畳み方が分からない。

それでも思ったことをまとめないまま、散らかしたまま、書いてみようと思う。思考整理ではなく、思考の痕跡として。

『同性の友達を気軽に誘えない』


幼少期から社会への漠然とした不安と、私を受け入れない周囲を外から眺めるような感覚で過ごしてきた。

“私を受け入れない周囲”
それは私の自意識世界で長年大事にされてきた確固たる認識だったが、事実としては周りから私への特別激しい忌避など存在しなかった。

結局のところ、こちらが心を開けなかったことが主たる要因であることは、自身が1番よく分かっていた。

人に100理解されたかった。私が相談したことを覚えていたり、私がどんな人なのかを覚えていて欲しかった。
偏見を伴う古いイメージのまま私を見てほしくなかった。変化した私を見てほしかった。

明るさよりも、暗くてネガティブな私をただ認めてほしかった。表面的な明るさの肯定を、根底のネガティブさへの否定に感じることすらあった。

『100%理解されたい』というムチャクチャすぎる願望と、『どうせ分かってくれない』というひねくれた諦念を長年抱え続けてきた。

そうして特別親しい相手にだけ浅い諦念では抑えきれなかった過度な期待を滲ませ、失望し、周囲を巻き込みながら派手にのたうち回っていた。

だから家族・恋人など特別親しい相手から見ると私は破壊的で凶暴なモンスターだし、友人から見ると一切相談しないまま姿を消す謎の人であった。

人に100理解してもらうなんて不可能だよ、と一般論は囁く。

私には双子の妹がいる。お腹の中から一緒で、21年目の付き合いとなる。
私にとって100とは双子の妹であった。

100を満たす実例が存在してしまったのは人生最大の幸福であり、ある種の不幸でもあった。

そう、家族・恋人への過度な期待も大問題なのだが、友人への遠すぎる距離感について思うことがあったので書いたのだ。

本題に入ろう。『同性の友達を気軽に誘えない』これは私の長年の悩みの1つである。

同性の友達に頼る、自分をさらけ出す、ということができない。

まず、込み入った相談ができない。

一度口にすると、とめどなく溢れて他人の時間を奪うのではないか、という不安。相手の返答に期待しすぎて傷つくことへの防衛。

相談って近すぎる人か遠すぎる人にしかできない。私は最近まで、その近すぎる領域に双子の妹しかいれることができなかった。

次に、自分から遊びに誘うことができない。

私一人が時間を奪う申し訳なさ。楽しませられるかという焦り。
(こんなことを考えたところで、相手は私をアミューズメントパークにしようなど一切考えてはいないのだが)

近すぎない近くの人ほど飛び越えたくない線がある。善人でありたいのだ。飄々としたひょうきんな人でありたいのだ。なんであれ、「自分が見せたい自分」でいたいのだ。

そんなこんなで、丁寧に指折り数えてみれば、私は気軽に誘える同性の友達が2人しかいないらしい。

我が身可愛さが招いた結果である。

過度な期待を他人に背負わせることを恐れすぎた結果、『この人なら少々汚い自分を見せても嫌わないだろう』という信頼から来る行為さえ忌避し続けてきた。

この前、私が悩むこの問題を、他の友達も同じように悩んでいるのかもしれないと感じた。つまり、相手から好意を向けられているのに壁を感じた出来事があった。

それで、なんだか、今までの私の自意識からくる態度は多少の誤解を伴いながら相手に伝わっているのかなあ、とぼんやり思ったりした。今更の話だけど。

最近ようやく、同性の友達に対する臆病さを改善したいなと思えてきた。しかもかなり前向き。20歳になって継続する意思を示さなければ継続できない仲が増えてきたからだろう。

こういった自意識をインクにして眺めているとお前は傲慢で性根が腐っている人間だと仮想敵が糾弾してくる。

まあ日記は非倫理的な膿を吐き出すものだから。私は大多数が感じる普遍的な感情だと疑わず書いたものが、よく思想が強いと言われて、バカウケ!と思ったりしている。刺す。そうも思った。

日記は理解されたいよりも、もっと内側に意識が向いている。自分との対話だから当然だけど。

弱い部分を掘り返して、見つめているとき、他人はどうでもよくて、ただ自分が納得したいだけだと思う。自分自身を理解したいのだ。

いま書いたことも、数ヶ月後に読むと極論だなあと苦笑したりする。そうやって何年も同じことを考えて、形を崩して、整えて反芻していくんだけど。

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