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「運命」とは何か?それは決められていて変えられないものなのか?

こんにちは、プリンセスです🙌

よく「この出会いは必然だ」とか「人生は決められている」とか言うけれど、それが「運命」というものなのか?

昔、「子どもは親を選んで生まれてくる」といった本を読んだけれど、頷けるような頷けないような。
何かしらのハンディを親子どちらが抱えていたり、親子関係をポジティブに捉えなおしたい場合だったら、この本も有用なのかもと思ったが、日本の今を見ると疑いたくなる。わざわざ虐待される家庭を選ぶのか?と。

ゴスペルを習い始め、クリスチャンの方と話してみたり、聖書を自分で読んでみたり、聖書について教えてもらったりするうちに、
「神さまは全てを計画されている」
というような趣旨のことをよく聞くようになった。私としては、これは一種の救済的な言葉であると思っている。
辛いこと、苦しいことがあっても、それさえも神さまから与えられたものである。
しかし越えられない試練はお与えにはならない。それを超えられる力をも与えてくださるのだ。
と。

私としては、「人生は決まっている(=運命)論」に半分賛成、半分反対である。一番ズルい意見というのは承知。

苦しんでいるときはこれもまた自分にとっての試練だと思えるが、少し挑戦的なときは、それ(=運命)に左右されている自分がもどかしくも感じるものである。定められているものなんてない、自分の努力で突破して見せるんだと思いたくなる。そしてそれが成就されたときには、無神論者であれば、当然自分の頑張りに10000%満足することだろうし、少し神の存在を信じている者であれば心の中で「神さまありがとう!」とつぶやくはずだろうし(たぶん私はこのタイプ)、敬虔なクリスチャンなら天を仰いで神に感謝するであろう。

ただ、
本当に「運命」がありもしそれが決められているなら、なぜこの世には祈っても救われない人々がいるのだろうか?
その人たちは救われない運命なのか?
私の一番の疑問である「(自分では選択できない)生まれた国・地域、人種・民族などによって生じる違い・差」を自ら享受したい人はいるのだろうか?
それが彼らの運命なのだろうか?
越えられない試練は与えられないと言うが、それらは本当に越えられないものなのか?

いつか、ベナンの女の子が言っていた、
「私はお金は持っていないけど、神さまが私にそうさせたの。だから私はそれに従って生きていくのよ」と。
この言葉の意味をどう捉える?美しい?

少しでも健康が守られるようにと思い、何か役に立てないかと思って行ったベナンだったが、結局は大事なときに日本に帰国せざるを得なくなり、自分はいったい何者なのか、何ができるのか、何のために存在しているのか、わからない。


「君は帰るのか、医療体制が整っている日本に。僕たちはこのままこの状況の中、ここ(ベナン=医療体制が脆弱な国)で生きなきゃいけないのに」

同僚から言われた言葉、厳しいけれど、まさにその通り。私も同感。
こうやって必然的にすみ分けが起こっていく。
生まれた国籍・民族等によって。

今のこの世界、この状況。
これからどうなっていくのか。
何ができるのか。

Bon après-midi☆

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