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12/15(土)自分が死んだ後も誰かに使ってもらえるような物を買え

土曜日の朝。今日は6時半に目が覚めた。
昨晩は0時過ぎまで配信をして、録画の確認等をしているうちに3時になってしまった。とにかく寒かったので、クローゼットにしまいこんでいた羽毛布団を引っ張り出した。Twitterでも書いたとおり、いかにも「おばあちゃんの家からもらってきました」という感じの花柄ピンクの羽毛布団なのだが、実は本当におばあちゃんの家からもらってきたものだ。

僕がまだ子供の頃、両親は父母1人ずつしかいないのに、なぜ祖父母は2人ずついるのか?ということが不思議で仕方なかった。
どちらも「おじいちゃん・おばあちゃん」と呼ぶと混乱するので、うちでは母方の祖父母を「じいちゃん・あーちゃん」と呼んでいた。僕の羽毛布団はその「じいちゃんとあーちゃんの家」からもらってきたものなのだ。

僕が京都に住んでいた6年の間で、じいちゃんとあーちゃんは亡くなってしまった。
住む人がいなくなった祖父母の家は僕の両親が管理していたのだが、税金のこともあり昨年ついに手放すことに決めたのだった。それに伴い遺品を処分しなければならなくなり、そこにちょうど僕が帰省してきたというわけだった。

昨年の9月末、久しぶりに訪れた祖父母の家は葬儀の時とあまり変わっていなかった。遺品はそのまま残されており、数日後には業者に処分してもらうことになるので何でも持って行っていいということだった。
洗濯機・食器・調理器具・デスクチェア等の家財道具を積み込んだあと2階の寝室に上がると、そこには7,8人が泊まれる量の寝具が残されていた。祖父母は2人暮らしだったが、うちの家族は全部で6人いるので泊まりに来た時のためにわざわざ用意していたのだろう。

他の人たちもきっとそうだと思うのだが、大人になるにつれて祖父母の家に泊まりに行くことはほとんどなくなってしまった。別に何かがあったわけではないのだけれど、何となくそうなってしまった。
実家から祖父母の家までは車で1時間弱の距離があり、車はもちろん免許も持っていなかった僕は特にその機会を作ることが難しかった。そんな間に僕は京都へ引っ越してしまい、そのまま祖父母は亡くなってしまった。
少しの後悔と罪悪感を感じながらも、僕はその寝具の山から羽毛布団をひとつ選んだ。京都では必要を感じなかったが、地元では必需品だ。

遺品をひとつひとつ手に取ると、そのたびに祖父母の人柄を思い出す。じいちゃんは優しい田舎の人で、多くのおじいちゃんがそうであるように、ちいさな孫たちが遊びに来ることをとても楽しみにしている人だった。いつもニコニコしていて、怒ったところはついに一度も見たことがなかった。
イタズラが好きで、いつも僕たち兄弟と一緒になって遊んでくれた。
あーちゃんも優しい人だった。僕たち孫の話をいつも微笑みながら聞いてくれて、話をしながらいつもお菓子をすすめてくれた。

必要なものを軽トラに積み込んだあと、見納めになると思い、庭から改めてじいちゃんとあーちゃんの家を眺めた。10年ほど前にじいちゃんとあーちゃんの家は一度火事で全焼してしまい、見ているのは後に新しく建てた家だ。僕が手に入れた家財道具たちもこの火事の後に買われたものなので、まだ新しいものばかりだった。

10年前の火事の原因はあーちゃんだった。時期は真夏だったが、深夜にストーブを点けようとしてマッチを擦ったことが火事に繋がったらしい。
幸い二人とも無事だったが、それからあーちゃんは亡くなるまで老人ホームで暮らすことになった。
じいちゃんは痴呆症にならずに済んだ。
あーちゃんに先立たれてから数年の間、新しく建てた家で一人暮らしをしていたが、夜にお風呂場で転んで頭から大量に出血してしまった。
意識が朦朧としていたのか、迷惑をかけたくないと思ってしまったのかは知る由も無いが、じいちゃんは血を流しながら電話の前を素通りし、自分の寝室へ向かい、助けを呼ぶこともなく床につき、そのまま亡くなってしまった。
こうして空き家になってしまった祖父母の家は、僕が訪れた数日後に中古住宅として売りに出された。そして1か月ほどであっけなく買い手が現れ、あっという間に売れてしまった。

今や祖父母ゆかりの物は、僕の実家にある仏壇と引き取った家財道具たちだけになった。そう考えるとこの羽毛布団も貴重なものだと思える。
ついでに紹介すると、僕がいつも愛用している黄色の電気ケトルもじいちゃんの物だし、いま体の半分を突っ込んでいるコタツの機械部分もじいちゃんの家のコタツから外してもらってきた物だ。いつも大根ステーキを焼くのに使っている大きくて浅いフライパンも、洗濯機もそうだし、部屋の壁にはじいちゃんが使っていたナタが掛かっている。
僕の部屋はじいちゃんの物だらけだ。じいちゃんは死んでしまったが、故人の物は使うたびにその人のことを思い出させてくれる。

僕もいつか必ず死ぬわけだけど、こうして自分の残したものを誰かに使ってもらえるのは喜ばしい事だと思う。それが「いい物」であるかはあまり関係がなくて、ちょっとした身近な物でいい。
僕は物欲もお金もないので買い物自体にあまり積極的ではないのだけれど、今度から何かを買う時はそういう視点で物を選んでみたら楽しいかも知れないな、と思った。
「莫大な遺産」や「素晴らしい功績」は多分無理だけど、自分が死んだときに家族や友人の誰かが思わず「おっこれいいじゃん、使わせてもらおっと」となってしまうような物を遺せたらいいなと思う。

そんなわけで、今夜もじいちゃんとあーちゃん家の羽毛布団にくるまって眠る。「2人の思い出のおかげで暖かい」なんてクサいことを言わなくても十分にちゃんとしていて暖かい羽毛布団だ。
本当に感謝している。今年もなんとか年を越せそうだ。

こんな生活なのでサポートして頂けると少額でもとても大きな助けになります。もしこのノートを気に入っていただけたら、ぜひよろしくお願いします。羊肉