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杉本昌隆八段の指導法

木村嘉富
論説委員
一般財団法人橋梁調査会

令和5年10月、将棋の王座戦で藤井聡太王将が永瀬王座を破り、史上初の将棋八冠独占を達成した。駒の置き方や動かし方、というより、動かして良い場所くらいしか知らない私にとって、メディアで取り上げられていた中で印象に残っているのが、師匠杉本昌隆八段の指導法である。

指導法の一つに、指し方に口を出さないというのがあった。細かな指し方について口を出すと、その指し方は理解できるが、それ以外の指し方について自分で考える機会を奪ってしまう。結果として、弟子は師匠を超えられなくなってしまう、という。また、弟子と仲良くなって話しやすい雰囲気を作り、弟子の考えをしっかり聞くというのもあった。さらに、強い相手と指す機会を与えてあげたという。将棋の対戦では、定跡はあるものの、その場面に応じて自分で考えなければならないため、そのような機会を積極的に与えていこうという姿勢であろう。なお、将棋以外の日常的な所作については、しっかりと教えたそうである。

これらの報道に接した際、「心理的安全性の確保」を思い出した。令和3年10月に内閣府官房人事局が作成した「国家公務員のためのマネジメントテキスト」でも紹介されている。

出典:国家公務員のためのマネジメントテキスト(2022.6 ver.)内閣官房内閣人事局

心理的安全性が高い職場では、ミスや悪い情報がすぐに入りチーム内で共有され、支援し合うことができるため、的確な判断や環境変化に迅速に対応できる。メンバーのチームへの自発的な貢献意欲が向上し、新しいことへのチャレンジや業務改善ができるとしている。

この心理的安全性の高低と仕事に対する基準の高低とを組み合わせて、職場を4種類に分類した資料も目にした。心理的安全性が低いにもかかわらず仕事に対する基準が高い、つまり、心を開ける人が職場におらず高いノルマが課せられる職場や、上司のマネジメントが厳しい職場は、キツい職場となる。いわゆるブラックである。では、心理的安全性が高い職場がすべてホワイトかというとそうでもないらしい。心理的安全性が高いにもかかわらず、仕事の基準が低いとヌルい職場となる。メンバーが互いに意見したり協力したりして楽しそうに仕事をしているように見えるが、仕事の基準が低いため進捗が遅く、目標が達成されなくても危機感がない。心地はいいのだが、職場の将来性や仕事を通じた成長感は得られないので、意欲のある若い方は転職してしまうそうである。最近では「ゆるブラック」といわれている。

杉本八段の指導法も合わせると、人材育成の方法として、基本となる事項はしっかりと教え、後は成長する機会を与えて本人の自主性を尊重して任せる。新しいことや難しいことに挑戦させて成功体験を実感させるほか、失敗からも学び取って幅広い知見を蓄積させる。困ったときには早めに相談してもらい組織として対応できるよう心理的安全性を確保しておく、ことが重要といえよう。

さて、土木技術者の育成について、国土技術政策総合研究所の宮原史主任研究官(現、同研究所企画課長)らが、道路橋の維持管理を対象として一連の研究を行っている。そこでは、研究所が実施した118回の技術支援事例を分析し知識の類型化を行っている。また、研究所に出向した地方整備局職員へのインタビュー結果を分析し、業務経験を通じて学習できた内容をまとめていて、それらの成果は土木学会論文集に掲載されている。

宮原らの論文において、技術者育成手段に関して、教育研究者である波多野誼余夫ぎよおの「適応的熟達化の理論をめざして」に基づいた考察を行っている。

波多野は、既習の技能を柔軟に応用したり、以前の経験を新しい事態に生かしたりすることができる者を「適応的熟達者」と呼んでいる。一方、決まった課題において手続を正確に素早く実行できる者を「定型的熟達者」と呼び、適応的熟達者と区別している。構造物毎に状況が異なる道路橋を維持管理していくためには、適応的熟達者が求められる。杉本八段が細かな指し方に口を出さなかったのは、弟子が定型的熟達者に留まるのを避けるためといえる。

波多野は、適応的熟達化のために不可欠な条件として次の4点を提案している。絶えず新奇な問題に遭遇すること、対話的相互作用に従事すること、緊急(切迫した)外的な必要性から解放されていること、理解を重視するグループに所属していること、である。皆さんの職場はいかがでしょうか?

さて、藤井八冠が入門して最初の指導対局で、杉本師匠が負けたそうである。これも小さな成功体験により本人の意欲を向上させようとしたものと感じた。その直後の2番目の対局ではしっかりと勝利しており、将棋の厳しさを教えたのではなかろうか。将棋に詳しい方から、この最初の二番についての解説を聞きたいものである。

第198回論説・オピニオン(2023年11月)



国内有数の工学系団体である土木学会は、「土木工学の進歩および土木事業の発達ならびに土木技術者の資質向上を図り、もって学術文化の進展と社会の発展に寄与する」ことを目指し、さまざまな活動を展開しています。 http://www.jsce.or.jp/