H.アーレントの「活動」という概念は、ほんと、若者向きです。 #18

労働・仕事・活動の3つのうちの活動が大事といっ女性

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コミュ障って、初めて聞いて、え?・・障害?・・なに、ひどいの?って感じて聞いていたのですが、よく話を聞くと違うらしいということがわかった。最近の若者用語は時々わからんときがある。


いえいえ、実に若者用語であって、コミュニケーションが苦手とか下手という自称なんですね。ほかにも、メンヘラ・・?です。メンタルヘルスが弱い、ということらしい。これも自称またはグループ内で通じる方言、スラングですね。(いや、もう一般化しているか?)

一つは、長い用語を縮小したんですね。天六(天神橋筋六丁目)とか。ジャニオタとか、ディする、とか。

縮小はいいとして、でも、それって、わざわざ自分から、コミュ障です、って言うことか?と。それを言うことで、免罪されるという同意を求めてる気がしませんか?

例えば、「今日はバイトがあって会議出られないんですけど、先生、どうしたらいいですか?」といわれれば、先生は「会議でて」というしかない。いや、そもそもそれを相談する言こと自体が大間違い、という認識が本人にない。拘束力の問題からいえば、バイトか会議か、の天秤ですね。その判断をするのは自分であって、いろんな条件を勘案して、悩んで決めるでしょう。

もし、先生は「じゃあ、バイトいっていいよ」といえば、それは先生の判断だから自分には責任がない、ということになる。つまり、自分は責任を回避することになる、と気づいているのかどうか。多分、ないでしょうね、ないからこそ、先生に聞きに行くんでしょう?。

その悩むということがないのが問題だと思うんですね。なんで悩まないのかというと、自分が会議に出ないことによって他の人はどのように思うのか、とか、どんなことで迷惑になるのか、とかの、想像力・・あるいは同感・共感レベルが低下して、社会というものがメルトダウンしていく、ということに頭が回らない。これは頭というより、心の問題ですね。

社会は公共性です。かつてある日本人が中国の清国の実情を見たとき、この国には世間はあるが社会はない、と気づいたらしい。烏合の衆はいるけど、考えてない。毛沢東は中国の人民の奴隷状態に危機感をもっていた。

自己決定して責任とって義務果たす。これ、近代社会の暗黙の運営規則だけど、すでに崩壊してるのか?・・・政治しかり、日本のあちこちの企業組織のガバナンスしかり。ユダヤのホロコーストを実行した当事者は「上の指示にしたがっただけだ」と弁明してますね。

公的で社会的な問題というのは、結局、個人の考え方次第でなんとでもなるんですよね。社会は個人のガバナンス能力に依存し、個人は公共性によって保護されるという関係にある。この関係をつくるのがコミュニケーションの「能力」でしょ。

コミュする力はここでやる・・・って、ここって?ここです。この学生局です。いろんな考えもちよって、躓きつつも前を向いているあなたがここでやるんです。なぜかというと。学生局は未熟だからです。未熟者の集まりだからです。

いま望まれるのは、個人レベルの私事化した能力ではなく、他者との関係を基礎にした公共性。それは、活動による対話からはじまる・・といったのが、哲学者 ハンナ=アーレント(写真の女性)。未熟であるから成熟すればいい。

学生局は活動によって成立します。未熟な学生があつまると面白い活動ができるんじゃないかな? 

 文責 高松

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