マイポスト__3_

研究の心得1 研究に失敗はない

"科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。"
寺田寅彦 「科学者とあたま」より

あなたは自由研究や課題探究をするとき、失敗を恐れていませんか。もしかして「正解」や「効率の良い」方法を求めてはいないでしょうか。探究活動では、勉強とはまったく異なった考え方が必要になります。

「なぜそうなるのか」という疑問

 研究とは「なぜそうなるのか」という疑問をもち、その疑問を解消するために行う活動であり、「正解」は設定されていません。学校教育のなかにいると、どうしても物事には「正解」があると思ってしまいがちです。しかし、研究では「正解」を決めるのは自分であって、誰かが決めた「正解」はないのです。 

画像1

テストのような正解はありません

予想は正解ではありません

 「これがうまく行かなかったら、やったことが無駄じゃないですか」
 小中高校生の研究の相談に乗っていると、時折、上記のような言葉を聞きます。予想した通りの結果がでないことは失敗(=無駄)なので避けたいという話のようです。しかし、予想と違った結果になった=失敗という考え方は間違っています

画像2

「予想と違った」ことは「失敗」ではありません

 そもそも「成功」や「失敗」は、どのような基準で判断するのでしょう。科学とは「測ってくらべる」、つまり、データを測り、基準と比べる学問です。なぜ失敗だと考えるのかといえば、「予想」という基準に適合しなかったからでしょう。しかし、なにか新しいことをはじめようとする、つまり未知なる挑戦をするときの予想という基準は「どの程度」正確なのでしょうか。

 たとえば、「サイコロを振って1の目が出る確率は1/6である」という予想をして、サイコロを6回振ったら、1の目は1回もでなかったとしましょう。十分あり得る話ですが、これは失敗なのでしょうか。そうではないはずです。試行回数が不十分なだけで、サイコロを振る回数を増やせば確率は予想に近づいていくでしょう。では、何回行えば良いのでしょうか。1/6になれば良いのでしょうか。

画像5

サイコロの1の目が出る確率はどうやって調べる?

 サイコロを振って1の目が出る確率について考えるときに重要なことは、予想があっていた(出目が予想と適合した)かどうかではなく、なぜサイコロの出目は一定の確率になるのか(なぜそうなるのか)なのです。もし、サイコロを12回振って1の目が1回もでなくても失敗ではありません。重要なのは得られたデータと、データをどんな基準でどう考えるかです。

研究に失敗はない

 予想通りではなかったとしても、データが得られた理由が解明できれば、それは「成功」です。得られたデータが予想と「違う」ことは、不正解でも失敗でもありせん。大事なことは、「なぜ」予想と違うのかです。
 たとえ、実験や観察の方法にミスがあったのだとしても、「あるミス」によって結果が「このように変化する」ということが「わかった」のです。その結果を得た「理由」こそがもっとも重要で、それを考えることが「研究」なのです。
 たとえば、予想と違った結果が得られたときには、以下のように考えることができるでしょう。

 「この方法で得られた結果は✗✗であり、『予想とは☆☆が、◎◎の点で異なっていた』」「どうして、この結果が得られたかというと……。つまり、この結果は、……の手法では●●となることがわかった。次は『□□の方法を使うことで〇〇がわかると思う』。その理由は……」

 予想通りではないことを恐れる必要はまったくありません。往々にして、科学の大きな発見は、このような予想外のデータから始まっています。

 たとえば、私の場合で言えば、学生さんが「アントシアニンを抽出するためにお湯を使っているのですが、電気ポットのお湯を使うと赤紫色のはずのアントシアニンの色が青くなってしまいます。なぜなんでしょう」と報告してきたのが、水の硬度をアントシアニンの色で調べてみようという研究の始まりでした。

画像6

赤紫色(左)になるはずが、青色(右)になったのはなぜ?

 もし、学生さんや私自身が、結果を正解か失敗で判断していたら「うまく行かないから、電気ポットは使わない」という選択をしたかもしれません。
 このように、研究の成否は自分自身が決めるのです。予想通りではなかったとしても、研究が成功することは十分にありえます。もちろん、予想通りに行ったとしても「予想通りだった。正解だ」で終わるものは「研究」ではありません。予想通りかどうかに関わらず、おなじように考え続けなければなりません。

画像3

考え続けることが重要です

 もしそういったものが思いつかないなら、先人と同じことをしてみるのは悪いアイディアではありません。つまり、それこそが「学校の勉強」なのです。練習ですから、結果がうまく行っているかどうかも含めて試せる必要があります。だからこそ、学校の勉強には正解が必要なのです。

画像5

学校の勉強に正解があるのは、できるかどうかを学ぶため

科学者は頭がよく、頭が悪くなくてはいけない

 最後に、寺田寅彦先生のお言葉を引用しておきます。
 科学者には先を見通し、論理を整理する「頭の良さ」と、誰もが当然と思うことに疑問を見つけ、失敗を恐れない行為の人になる「頭の悪さ」の双方が必要です。

”科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者(うぐしゃ)の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である。
 頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴なうからである。けがを恐れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸(しがい)の山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。一身の利害に対して頭がよい人は戦士にはなりにくい。”
「科学者とあたま」より抜粋

 寺田先生の科学者とあたまは青空文庫で無料で読めます。寺田先生は、科学の随筆をたくさん遺されておりますので、ぜひご一読を。


いつもより,少しだけ科学について考えて『白衣=科学』のステレオタイプを変えましょう。科学はあなたの身近にありますよ。 本サイトは,愛媛大学教育学部理科教育専攻の大橋淳史が運営者として,科学教育などについての話題を提供します。博士(理学)/准教授/科学教育