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日本語で論文を書くというジレンマ

 今回は私のお話をしたいと思います。私は現在、研究を日本語で発表するか、英語で発表するかのジレンマに悩まされています。理系研究者だったときには悩まなかった問題に、教育研究者になってから直面しました。日本の学校教育に関する研究を、日本語で発表したほうが日本人に伝わりやすいのに、英語で発表したほうが研究が受け継がれていきやすいという矛盾があるのです。

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研究とは情報の共有

 私の研究とは、私だけのものではなく、同時代、そして未来の多くの人々に知的な貢献をするために行われています。これは私だけでなく、すべての研究者が共有する感覚で、だからこそ研究は学術論文という形で公開されているのです。

研究とは、自分の一生をかけても終わらない仕事です。

 研究者は、研究を過去から引き継ぎ、独自の貢献をして、未来へと受け継いでいくのです。学術論文は、そのバトンの役割を果たしています。問題は、このバトン(学術論文)を誰が拾う(読む)かなのです。

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世界共通語としての英語

 情報を共有することで研究は受け継がれていきますので、できるだけ多くの人に読んでもらうためには英語で書くのが一番です。
 理系の研究者だったときには、英語以外の言語で学術論文を書こうと思ったことはありません。世界中で類似した研究が行われており、私も諸外国の研究者と競って研究をしていたからです。情報の共有範囲は広いほど、私の研究は役に立ち、また他の研究が私の役に立ちます。そのため、情報の共有は、世界共通語の英語で行うものだったのです。

 どのように情報共有が行われているのかは、たとえばgoogle scholarで見ることができます。私の名前を検索すると以下のような情報が得られます。

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出典:Google Scholar 検索ワード「Atsushi Ohashi」2019年12月5日検索

 青字で示されているのが論文の題目で、下の緑時で示されているのが著者や学術論文誌・掲載年などの情報、その下の黒字が要旨になります。要旨の下の青字に、"Cited by 〇〇"と書かれていますが、これが情報が共有された数、私の学術論文の成果を基に、自分の研究を進めた人が「参考になった」と引用した数になります。つまり、この数が多いほど、学術論文は読まれていると言えますし、役に立っていると言うこともできそうです。たとえば、上記の画像で、一番上に表示されている学術論文(私は2番目の著者です)では、207報の学術論文に引用されていることがわかります。
 英語で書くことで、世界中に私のバトン(研究)を受け取ってくれている人がいることがわかります。アメリカ化学会の論文は、PV数と引用数がチェックできますので、よりわかりやすいですね。

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Organic Letters誌に掲載された学術論文(出典はこちら)

日本語での情報共有

  日本語で記述されると世界との情報共有はできなくなります。そして、私のバトンを受け取ってくれる人はいないように見えます。先ほどと同じように検索すると、私の日本語で記述された学術論文の"Cited by"は0件です。

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出典:Google Scholar 検索ワード「大橋淳史」2019年12月5日検索

 どちらも発表してから4年ほど経ちますが、この研究を基した「新しい研究」は生まれていないということになります。しかし、バトンを受け取ってくれる人はいなかったと判断するのは早計かもしれません。以前の化学とは研究者数が違います。そこで、同時期の英語で書いた他の学術論文と比較してみましょう。

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出典:Google Scholar 検索ワード「Atsushi Ohashi」2019年12月5日検索

 上側の「Using Latex Balls .......」の学術論文は、(数は少なくとも)他の研究者にバトンを受け渡すことができたと実感できます。

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 化学とくらべて研究者の数や研究を発表する頻度が違うので、数値の違いはあまり気になりません。大事なことは、私の研究を受け継いでくれる人がいるかどうかです。同じように日本の学校教育に役立つ科学教育教材の研究を発表しても、日本語で発表するとバトンを受け継ぐことが難しいように感じます。

発表言語は日本語?英語?

 研究としてバトンを受け継ぐことに価値を問うならば、発表言語は英語にするべきです。しかし、日本の学校教育に関する研究について、日本人があまり読まない言語で発表することの価値については違和感があります。
 さきほどの「Using Latex Balls........」の学術論文は、日本の学校教育でも重要な金属の結晶構造の教材でした。実際に学術論文に使った画像を以下に示します。

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 どうして英語で発表したかといえば、いくつかの高等学校に「教材を使ってみませんか」と打診した折に、けんもほろろに断られたからです。日本では需要がないのかと英語で発表したのですが、アメリカでは画像左端の六方最密充填構造を教えていないので、「このモデルで、ほんとうに面心立方格子(左から二番目)と同じ充填率なのか?たしかに教科書にはそう書いてあるが」と、アメリカの高校の先生にはかなりびっくりされ、好評だった記憶があります。好意的な査読のコメントは、純粋に嬉しかったですね。
 センター試験や大学入試に頻出で、かつ日本の生徒は数式問題だと誤解している金属の結晶構造のわかりやすい教材を、日本ではなく、アメリカに広めていることに違和感はあります。しかし、日本語で発表した学術論文のひとつは、中学校の教科書にも掲載されたにも関わらず、いままでに問い合わせが1件あっただけです。バトンは渡っていないように感じます。

 日本の学校教育に役立つ研究を、日本人が読みやすい日本語で発表することは必要なことだと思いますし、誰かの役に立っていると思います。しかし、日本語で発表すると、私の研究のバトンを受け取ってくれる人はいない(ように思える)のです。誰もバトンを受け取ってくれなければ、研究はそこで途絶えてしまいます。

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研究発表のジレンマ

 日本人が日本語で読める形で情報を共有しなければ、日本の学校教育に届けることはできません。しかし、日本語で情報を共有していると、研究は受け継がれないのです。これが私の研究発表のジレンマです。

学校教育に届けることと、
研究が受け継がれること、
どちらを重視すべきなのでしょうか。

 世界と競っていた理系研究者時代には、まったく考えたこともない問題です。日本語と英語、どちらで発表すべきかは難しい問題です。多くの方に考えていただきたい問題だったので、執筆した次第です。

いつもより,少しだけ科学について考えて『白衣=科学』のステレオタイプを変えましょう。科学はあなたの身近にありますよ。 本サイトは,愛媛大学教育学部理科教育専攻の大橋淳史が運営者として,科学教育などについての話題を提供します。博士(理学)/准教授/科学教育