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平原先生とJPRのDNA

平原直(ひらはら すなお 1902~2001)は、日本の荷役の近代化に取り組んだ人物で「荷役近代化の父」と呼ばれています。JPR創業時の会長でもあり私たちJPRの社員は敬意をこめて「平原先生」とお呼びしています。平原先生の感じたこと・着想したことは、私たちJPRのDNAとして引き継がれています。今回は平原先生の物語をご紹介します。

重労働から物流現場に働く人々を解放したい

1929年、九州帝国大学(当時)を卒業した平原先生は、物流業界の最前線で働きはじめました。そこで目にしたのは、厳しい労働環境でした。平原先生は、過重な荷役作業で人々が肩にコブをつくったり、ヘルニアで腰痛に苦しんだり、いろいろな疾患に苦しむ姿に愕然としたといいます。この時のことについて、こう書き残しています。

「私は汐留駅のホームにつっ立って、労働実態調査を記録にとっていました。そこには肩の重荷に歯を食いしばって、運び去り運び来る労働の姿がありました。」
「私は考え込んでしまいました。そして私はこれを路傍のことと、漫然と見逃すわけにはいかない、一身の栄達の道を捨てても、この人たちを救わねばならないと、心に決めました。」

坂井健二著 「一貫パレチゼーションの勧め」1996年

それから、平原先生の物流近代化への挑戦が続きます。そして、1949年に神戸港で偶然フォークリフトによるパレット作業を目にしたのです。その感動は、強烈なものでした。

「テキパキと荷をさばいていく風景は胸のすくような水際立った作業に見えた。」「天にものぼる想いと云ってよいほどの、大きな感動であった。」

Physical Distribution とパレット

平原先生は、当時日本には定着していなかったPhysical Distributionの概念を取り入れ、包装・保管・荷役・輸送を一体的に捉える必要性を訴えました。その核となるアイデアが一貫パレチゼーションの導入だったのです。ちなみに「物流」という言葉は、平原先生がPhysical Distributionのコンセプトを政府や産業界に伝えるため「物的流通」という訳をあてたことをきっかけに広まったと言われています。

日本パレットレンタル創業(1971年)

平原先生は、パレットを有効活用するために標準規格化されたパレットを産業界で共有するしくみが必要と考え、海外の事例も参考にしながら、国への働きかけを続けました。そして1970年には、日本の標準規格パレットとしてT11型がJIS規格に規定されたのです。

紆余曲折で生まれたレンタル会社

パレットの規格標準化とともに、平原先生が構想していたのは欧州の例を参考にしたパレット・プール制を日本に導入することでした。この制度では各企業が標準規格のパレットを所有し、品物をパレットで届けた際には納品先から、同じ数の空パレットを返してもらうことによってパレットの循環を成り立たせます。ところが、日本には多種多様なサイズのパレットがすでにある程度普及していたため、この構想が実現することはありませんでした。
平原先生は、欧州型の制度の導入を断念し、レンタル方式へと舵をきりました。はじめは小規模でもレンタル方式が拡大していけば標準パレットが普及していくと考えたのです。こうして創業したのが私たちJPRです。

現代にも通じる想い

平原先生は後年、JPR創立10年に寄せた文章のなかにパレットの普及に共に取り組んだ人々への感謝の言葉をつづっています。そのうちパレットの試作に取り組んだ4人の友人のことをこう記しています。

良いパレットを開発して、これで金もうけをしようなどと考えている人は一人もいなかった。世のため人のためよいパレットを設計しようという無心の人たちばかりであった。

「JPR10年史」

いま、物流業界は「2024年問題」をはじめとしたさまざまな問題に直面しています。物流を標準化・全体最適の観点でとらえようという平原先生の訴えたコンセプトは現代にも通じるものだと思います。JPRは、日本にパレットを導入しようと考えた先輩の取り組みを引継ぎ、現代の物流課題の解決に貢献していきたいと考えています。

今回も最後までお読みくださりありがとうございました。