2017年8月の記事一覧
佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第10回:詩と小説のかかわりについて私が知っている二、三の事柄
借り物感いっぱいの見出しで恐縮です。困っています。
テーマをいただいて文章を書く場合、依頼文に目を通した段階で、雲状にもわもわしていてもその核のありどころくらいは見えてくるものです。ところが今回はいつまでたってももわもわのままです。なぜか?
依頼文がかつてなく十全で、それ以上のなにかをなかなか述べられそうにないようなのです。
そんな依頼文を本誌読者に見せないのはもったいない。
そこで、依頼
大岡信を読む(3):「わたしは月にはいかないだろう」
わたしは月にはいかないだろう
わたしは月にはいかないだろう
わたしは領土をもたないだろう
わたしは唄をもつだろう
飛び魚になり
あのひとを追いかけるだろう
わたしは炎と洪水になり
わたしの四季を作るだろう
わたしはわたしを脱ぎ捨てるだろう
血と汗のめぐる地球の岸に――
わたしは月にはいかないだろう
素朴な詩だ。こういう作品を「批評」するなんて野暮というもの。自分勝手に節でもつけて、なんど
大岡信を読む(2):「静物」
冬の静物は傾き まぶたを深くとざしている
ぼくは壁の前で今日も海をひろげるが
突堤から匐いあがる十八歳のずぶ濡れの思想を
静物の眼でみつめる成熟は まだ来ない
詩集『わが詩と真実』1962年より
この静物は、セザンヌよりもモランディの感じかな。静かな冬の午後のひととき。陽ははや傾き、世界は深い思念のまぶたに閉ざさされているが、そこには透明な光が溢れている。
「