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森山至貴 x 四元康祐 往復書簡 『詩と音楽と社会的現実と』:第13回 愛の決疑論、『さよなら、ロレンス』群読版リメイク、AIポエトリー、30年目のトロン
from M to Y
こちらもお手紙をいただいてから1ヶ月以上経ってしまいました。私はその間に日本を離れていたわけではないのですが、雑事にかまけていると1ヶ月はあっという間ですね。
「往復書簡をやっている間は直接会わないほうが面白くなりそう」というのは私も同感です。会って話してしまうと書く話題がなくなってしまうから、という消極的な理由もありますが、なんというか、一方で書簡をやり取りしてい
森山至貴 x 四元康祐 往復書簡 『詩と音楽と社会的現実と』:第12回 映画「デイヴァイン・ディーバ」、早稲田大学セクハラ事件、前立腺と男性性、エロスと権力をめぐって
from M to Y
「野生」と「野性」の表記の違いに気づかず、お恥ずかしいかぎりです。レヴィ=ストロースの『野生の思考』を想起する私にとっては、「やせい」はどれもこれも「野生」と表記するのだと思っていました。調べてみたところ、森村誠一の小説は『野性の証明』だそうです。とはいえ、正直に言って両者のニュアンスの違いを私はよくわかっていないかもしれません。
学生には「あやふやに使っている単語
トルコ・ハルフェティ連詩を終えて:三宅勇介 x 四元康祐往復書簡 第七回
四元さん、こんにちは。
また投げたボールが返ってきちゃいました、「頭で書くタイプの詩人」問題、飲みながら朝まで語れそうですね(笑)。
「頭で書く」詩は読んでいても不気味さに欠けて驚かされない、という四元さんの言葉で思い出したのが、ある作家の言葉だったと思いますが、(すみません、うろ覚えですが)「新しい文学があるのではない、新しい生理があるのである」
頭で考えていても、全く違う「生理体」には勝
「みらいらん」第2号発刊:特集「文字のない世界」
洪水企画の池田康さんから「みらいらん」の第二号が届いた。パラパラとめくってみる。冒頭に佐々木幹郎の詩が置かれている。「おふ おふ おふ 嗚咽のよう」という書き出しが妙に印象的な「ここだけの話」。続いて古内美也子、新延拳、河原修吾、小笠原鳥類、藤原安紀子。どれも力強い。気合が入っているなあと思いながらさらにページをめくってゆくと、栩木伸明の名前があるではないか。佐々木幹郎と西村朗のコンサート評を書い
もっとみるトルコ・ハルフェティ連詩を終えて: 三宅勇介 x 四元康祐 往復書簡第六回
三宅さん、
「頭で書くタイプの詩人」問題、炸裂しましたね。
なんだか三宅さんに僕の詩の弁論陳述をやってもらったみたいな。
でも正直いうと、「頭で書く」のはやっぱりいけない、というか頭で書いた詩は書いていても面白くないし、読んでも不気味さに欠けて驚かされない、という思いはあるんです。三宅さんの言葉を借りると、システムの外に出ていけない。
「機智」や「奇想」がそのまま「頭で書く」ことに繋がって
安藤元雄 「『悪の華』を読む」を読む
ボードレールの名前を初めて知ったのはいつだっただろう?中学二年生か三年生の頃、中原中也や萩原朔太郎を通しての「発見」だったか。
三好達治訳の『パリの憂鬱』は愛読したし、詩の雑誌「びーぐる」仲間の山田兼士さんのボードレール研究を読ませていただいたこともあったが、実際のところ、『悪の華』の詩そのものはほとんど素通りしていたーーということに本書を読んで初めて気がついた。
『悪の華』のボードレールって
トルコ・ハルフェティ連詩を終えて:三宅勇介 x 四元康祐 往復書簡第五回
四元さん、
お返事ありがとうございます。
今回も色々考えさせられます。まずは、「頭で書くタイプ」の詩人について(笑)。四元さんの仰ったように、定型詩においてはそれは褒め言葉ではないですよね。俳句よりも短歌の方が嫌われるかもしれません。よく歌会などの批評で、歌のダメだしする時に、「これは観念的だ」とか、「頭で作っている」という決め台詞があります。そういう言葉が出るたびに、「また出たよ」と思ってし
森山至貴 x 四元康祐 往復書簡 「詩と音楽と社会的現実と」 第11回:日大アメフト、 野性のエロス、ジプシーの少女たち
from M to Y
ある若いアメフトの選手の話をします。彼のことはもしかしたら四元さんもごぞんじかもしれません。そうです、定期戦で相手方の関西学院大学の選手に怪我をさせた、日本大学の学生のことです。
アメフトに詳しいわけでもなく、また新聞やインターネットのニュースを通じて伝聞情報を多少追いかけた程度ですので、大きく端折った説明にはなってしまいますが、事情はこういうことです。つまり、権力を持
トルコ・ハルフェティ連詩を終えて:三宅勇介 x 四元康祐 往復書簡第四回
三宅さん、
イスタンブールのDAMで行われたハルフェティ連詩の発表会、当日別の詩祭とぶつかったとかで参加者は少なかったけれど、密度は高く、深く掘り下げた意見が交わされたましたね。連詩から受ける日本とトルコの詩人の資質の違いについて感想を述べてくれたのは、サリ・バラート(Salih Balat)という詩人です。人柄は優しそうなのだけれど、静かなる威厳というか、詩人としての風格を感じさせる人ですよね
トルコ・ハルフェティ連詩を終えて:三宅勇介 x 四元康祐 往復書簡第三回
四元さん、お返事ありがとうございます。
様々な四元さんの投げかけ、大変興味深い問題が潜んでいるように思えます。
そうだ、まず、「ところで、肝心の連詩のテクストはどうなっているんだい?」と思われる方もいらっしゃると思うんですが、諸事情により、ここでは今のところ、全文を載っけられず、さわりだけしかご紹介できないのが残念なのですが、その場の背景をサイド・ストーリー的に書き出していくうちにぼんやり連詩
トルコ・ハルフェティ連詩を終えて:三宅勇介 x 四元康祐 往復書簡第二回
三宅さん、
お手紙ありがとうございました。あれからちょうど一ヶ月ですね。まるでついさっきだったような。それでていてもう何年も前の出来事のような。
本当に夢のようでした。初日の発句ならぬ発詩で、ゴクチェが「手に手をとって小舟から湖に飛び込む」という一行を書いたら、その翌々日(でしたっけ?)ほとんど水没した建物の屋根の上から、本当にみんなで手を繋いで飛び込んだり。物静かでお淑やかなペリンや若いエル
トルコ・ハルフェティ連詩を終えて:三宅勇介 x 四元康祐 往復書簡第一回
四元さん、こんにちは。
今回、四元さんに誘われて、トルコの詩人の方々とトルコにて連詩を作るという企画に参加させていただき、途方もなく貴重な体験をさせていただきました。まず最初に御礼を申し上げます。また、私にとって、単に、詩歌の話だけではなく、自分の人生における体験としても大きな衝撃を持ちました。新しいものの見方を知ったという意味でも、またトルコの詩人のみなさんやそのご家族、友人、そして大変可愛ら
森山至貴 x 四元康祐 往復書簡 「詩と音楽と社会的現実と」 第十回分を公開しました。
今回の話題は、前回の「内なる天皇制」から発展して、「忖度型国民主権」「隠蔽された二人称 vs 無人称的普遍性」「伊丹十三の日本人論」「摂政関白制度」そして「エロスの野性」について。こちらの jpr dialogue マガジンからご覧ください。
森山至貴 x 四元康祐 往復書簡 「詩と音楽と社会的現実と」第九回分を更新しました。
昨年6月から始まったメールのやり取りも、はや九回目の往復となりました。今回のテーマは「数学の教科書」「拘束性と外在性を特徴とする『社会的事実』」、そして日本人に特有な心的機構としての「内なる天皇制」など。こちらのjpr dialogueマガジンからごらんください。
Poet to Poet: Contemporary Women Poets from Japan
『東北おんば訳 石川啄木のうた』という快挙を果たした「あらたかさん」こと新井高子氏から、素敵なオーストラリア土産が届いた。日本の女性現代詩人たちの英訳アンソロジーである。
新井高子、伊藤比呂美、平田俊子、川口晴美、河野聡子、三角みづ紀、山崎佳代子、と懐かしい名前が並ぶ。漢字でみても懐かしいのに、それが英語になってオーストラリア経由でやってくるとなお懐かしい。
石川逸子、岬多可子、中村祥子、初め
森山至貴 x 四元康祐 往復書簡 「詩と音楽と社会的現実と」:第8回 公開
作曲家にして社会学者の森山至貴さんとの往復書簡、年末年始をはさんでしばらく間があきましたが、ようやく8回目のやり取り、森山さんからの第14便と四元からの第15便を公開します。話題は卒論の審査における「修正」のダイナミズムから、和泉式部とヴァン・ゴッホまで。こちらの jpr Diaglogue マガジンからお読みください。