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蛍狩り

 楽しみにしていた「夏休み文楽公演」が始まった。今年は去年より、ずっと楽しみにしていた。というのも、第二部の名作劇場が「生写朝顔話」だったからだ。この演目を観たことはなかったけれど、谷崎潤一郎『細雪』下巻に「蛍狩り」のシーンがあり、そこで姉妹が「生写朝顔話」の話をしている。この蛍狩りの場面が、私は『細雪』上中下巻を通して最も好きで、今年の夏はぜひとも蛍を見たいと思っていたのだが、この都会では叶わぬこと…と半分諦めていた。その矢先、今夏、その「生写朝顔話」が上演されると知り、それからというもの、文楽での「蛍狩り」を待ちに待っていたのだ。
 なるべく暑さがましな日に…と思い、ほんの気持ち程度、日差しが弱い平日のお昼、白いコーマ地の紺染め浴衣に、少しでも涼しくいられるよう、お太鼓はやめにして格子柄の半幅帯を締め、日本橋の国立文楽劇場まで出掛けた。
 前もってチケットをとっていなかったので、席があるか少し心配だったが、まさか平日のお昼に文楽のお客さんがいっぱいということも無いだろう、もしいっぱいだったら、まだ大阪の文化も人も、捨てたものではないとむしろ喜ばねばならない。そんなことを思いつつ劇場に入った。と、私の思っていた以上にたくさんの来場者がいて、開演二十分前のチケット売り場には小さな列までできていた。さすが、名作劇場…。列に並び、見やすい席があるか、お財布を片手にドキドキしていたが、二等席はまだ空席がたくさんあり、私は「二等席の一等地」のチケットを買った。
 パンフレットを買って席に着くと、ひと席開けて左隣に、小さなお婆さんが一人、パンフレットを読み込んでいた。私も、さっき買ったパンフレットを開いて、これから始まるおよそ四時間にわたる物語の、各段のあらすじに目を通した。しばらくすると、首からルーペを下げたおじさんが、入口でもらえる団扇をパタパタさせながらやってきて、私の右隣の席に腰掛けた。

 上演のブザーで幕が開く。

 夕暮れすぎ、夜の宇治川。草むらに小さく明滅する蛍の光。屋形船。待ちに待ったこの景色。阿曽次郎が詠んだ歌の短冊が風にさらわれ、くるくると何度も翻りながら、深雪と乳母浅香のいる船の中へ入ってしまう。

 もちろん、これは黒子が、短冊のついた竿を動かしているのだけれど、それは気にならない。というより、同時にこの「見えすぎている」ことこそ文楽の面白さなのだ。

 この宇治川蛍狩りの段から、悲恋の物語が始まり、明石の浦船別れの段、浜松小屋の段、嶋田宿笑い薬の段、宿屋の段、そして大井川の段まで、言ってみればストーリーは「紋切り」である。「型通り」なのだ。けれど、どうしてどうして、こんなにも興があるのだろう。私はすっかり、この恋物語に惹き込まれてしまった。どんな時代、誰の人生も、演劇的な「型」に沿ってあるのだろうか。型破りなそれではなく、型通りのものが「名作」には多い。

 浜松小屋の段は、深雪と浅香の絆が観客の心を奪った。不運な悲恋に、目を泣き潰し、盲目となってしまった朝顔こと深雪を暴漢から守るべく、乳母浅香が刀を振るって戦う場面。深雪を守りはできたものの、浅香はあえなく力尽き、命果ててしまう。
 魅入る私。右隣から、パタパタしていた団扇をとめてほうっと息をつくのが聞こえ、左隣からは頻りに鼻を啜る音が聞こえた。
 ラストシーンの大井川の段なども、深雪の悔しさが、あの浄瑠璃特有の嗄れた声から余計に辛く伝わってき、名作の持つ「凄さ」に圧倒される。
 帰り道、「よかった、もっかい観に行こう」と、数々の場面を振り返るうち、ふと、人形の姿、動きは想像しているのに、私は人形遣いがさてどんな動きをしていたか、その存在さえも、まったく思い出していないことに気がついた。人間と人形の関係性。生は捉え難く、死はよく見えてくる。文楽には、幾重にも重なったカラクリの面白さがある。が、観ているときには、それらが一つになって、ただ虜になるばかりだ。今週末、今度は母とレイトショーへ。郷土の芸能ということもあって、文楽には観る毎に、並々ならぬ愛着が湧いてくる。

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