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日本映画における女性パイオニア(JFP取材vol.04)

日本の映画産業や映画文化に貢献した女性の活動や作品を発掘し紹介するプロジェクト「日本映画における女性パイオニア」の公式サイトが9月下旬に公開されました。このプロジェクトを率いる京都大学大学院人間・環境学研究科の木下千花教授に話をききました。

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木下千花(京都大学大学院人間・環境学研究科教授)
1994年東京大学教養学部(比較日本文化論)卒業。1996年東京大学大学院総合文化研究科修士課程(表象文化論)修了。1997年よりフルブライト奨学生としてアメリカのシカゴ大学大学院に留学し、2007年、PhD(東アジア言語文明学・映画メディア学)を取得。ユタ州立大学、アイオワ大学、ミシガン大学で日本映画を教える。2006年から2010年までカナダのウェスタン・オンタリオ大学映画学科助教授。静岡文化芸術大学准教授、首都大学東京准教授を経て、2016年4月より現職。『溝口健二論—映画の美学と政治学』(法政大学出版局、2016年)の成果により第67回芸術選奨新人賞(評論等部門)を受賞。


1.プロジェクトのきっかけ 排除されていた女性監督たち


―このプロジェクトを始めようと思ったきっかけを教えていただけますか。

理由は3つあります。1つ目は、学問的な関心からです。
私の専門は日本映画史です。あまり知られていない映画やソフト化されていない映画などを、国立映画アーカイブや海外の映画祭などでみる機会がありました。
サイレント映画、つまり欧米ではだいたい1920年代後半からに起こった音付きの「トーキー映画」への以降以前につくられた映画を、「女性の活躍」という観点からみてみると、実にたくさんの女性たちが監督していたことに気づいたのです。時代をさかのぼるほど女性が抑圧されるイメージがあったので、初期のハリウッドで女性が活躍していたことに驚きました。

―フランスでリュミエール兄弟やメリエスなどが活躍した映画草創期に、アリス・ギィ(1873 - 1968)という女性監督が活躍していましたが、ハリウッドでもそうだったのですね。

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アカデミー映画博物館(米ロサンゼルス)に展示されたアリス・ギィの写真


たとえば、アメリカの女性監督ロイス・ウェバー(1879 - 1939)の「毒流」(1916年日本公開)は、伊藤大輔監督がみたという記録が残っています。この「毒流」を制作したブルーバード映画は、女性監督の映画を多く作っています。「ハリウッド」といわれる場所ができた当初は、女性が活躍していたんです。

女性監督が減った要因はいくつかあります。
1920年代後半、 “トーキー映画”が普及していくと、製作過程がシステム化されていきます。同時代に映画業界内でユニオン(労働組合)ができました。集団となった男性たちの声がどんどん強くなっていき、契約などが曖昧な立場で制作に参加していた女性たちがどんどん排除されていったのです。

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ロイス・ウェバー監督(米ロサンゼルス、アカデミー映画図書館で撮影)

そういった歴史を調べていて、ふと「日本はどうなんだろう」と思いました。
 
私自身のことを振り返ると、学生だった1990年代は、日本映画史を研究する人たちはみんな男性で、映画の教育機関や映画批評の場も男性だらけで、女性がいないというのがあたり前でした。女性の不在が全く問題にされていなかった記憶があります。

 ―1990年代といえば、日本の国や各自治体で「男女共同参画」を掲げた取り組みが盛んになり、95年には世界各国の女性団体が集まった北京女性会議が開催されました。それより前ですが1985年には東京国際女性映画祭が始まり、1996年には愛知県では有志の女性たちがあいち国際女性映画祭をたちあげました。
当時どうご覧になっていましたか。

 
東京国際女性映画祭は、岩波ホール支配人の故・高野悦子さんがやっていらした。ですが、当時、映画好きシネフィルの間では“女性映画祭”はある種特殊なものとしてみられていました。シネフィル文化にどっぷりとつかっていた私も、東京国際女性映画祭のような動きは関心外でした。今考えると、面白そうな映画をいろいろ上映していたのに。その当時を振り返ってみて、「なぜ私のようなシネフィルの間で、女性映画への関心が低かったのだろう」と思ったのが、このプロジェクトをたちあげた2つ目の理由につながります。
 
私は日本で修士号をとった後に、アメリカに渡りました。「この映画はこういう見方をしなくてはいけない」という日本の映画批評の風潮に、どこか居心地の悪さを感じていたからだと思います。シカゴ大学で博士号をとったあとは、カナダとアメリカの大学で教えました。その後、日本に戻り、育児を同時にしながら働くという経験を経て、「働く中でのジェンダー問題は重要だ」としみじみ納得するようになったんです。それが3つ目の理由です。
 
 
「女性の映画を取り上げます」というと、コアなシネフィル層は「それがいい映画なのか」という問いを内心どこかで抱いています。シネフィル文化にどっぷりと使っていた私も、かつてそういう風に思っていました。ですが、いい映画かどうかを考えるとき、ジェンダーや属性は関係ない。男性が作ったからといって、いい映画になるわけではないですし。「女性が作った映画だからいいのか/悪いのか」を論じること自体が、差別の構造なんです。
 
「女性が作った映画だからいいのか/悪いのか」とは違う視点から、映画というクリエイティブ労働の場で働いていた女性の歴史を発掘したかったのです。
日本映画の歴史を調べてみると、なぜこんなに忘れられていたのだろうっていうぐらい多くの女性が活躍していました。なぜ女性たちが忘れられてきたのか。映画史家としてフェミニストとして興味があります。

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2.日本映画における女性のパイオニアたち 

―アメリカでは1970年代ごろから、インディペンデント映画で女性の作り手が出てきて、その研究・批評も盛んになっていきます。ですが、日本映画の研究や批評の場にまで、フェミニズムの視点はあまり広がらなかったように思えます。
 
アメリカと日本では映画制作/製作の環境が違いました。
アメリカでは、70年代に女性の作り手を称揚しようという運動がおきて、さらには「自分たちで映画を作ろう」という女性たちがドキュメンタリーやフィクションなど様々な分野に進出していきます。サイレント時代の映画監督だけではなく、女性監督の業績を発掘したり称揚したりという活動は、個人の研究者のキャリアパスのなかでも研究分野を俯瞰しても、ある程度連続してると思います。
 
ですが、日本ではそのような動きはあまりおきていませんでした。このプロジェクトメンバーの中で、フェミニズム映画史を研究してきた明治学院大学教授の斉藤綾子さんはウーマン・リブ時代からの人的なつながりもあり、連続性をもって研究していらっしゃいますが。
 
広がらなかったもうひとつの理由に、メディアの報道の影響があると思います。
メディアのウーマン・リブの取り上げ方がひどくて、しかもそれが成功したので、あまりにもフェミズムに対するネガティブなイメージが定着してしまったのです。

あと、日本では1970年代に映画の自主制作が本当に始まったばかりで、インディペンデントの作り手の数が少なかった。70年代、日本映画界ではまだ撮影所システムがかろうじて機能していました。現在のように、映画学校やフィルムフェスティバルなど撮影所システム以外のルートを通って、女性が自分達で映画を作り出すことは困難でした。実験映画の分野では、アメリカに留学して実験映画を撮っていたパイオニア的存在の出光真子さんという監督がいらっしゃいます。出光興産の創業家の娘で、経済的に恵まれていました。他にも何人か女性がいますが、出光さんのように特殊なバックグラウンドがないと、当時はまだ映画を撮ることが難しかったのではないでしょうか。
 
 女性たちが映画を批評するコミュニティや媒体がなかったとはいいませんが、幅広い読者層を獲得するまでには至っていませんでした。
 
とはいえ、プロの映画批評家の女性はゼロではありませんでした。たとえば村川英さん(元城西国際大学教授で映画評論家)は、1974年にロンドン映画祭の詳細な報告を「映画評論」誌(1925年から75年に発行された映画誌)に出していらっしゃった。
 
 女性新聞記者の草分け的存在で、その後映画批評家になった矢島翠さん(1932 - 2011)。矢島さんは、「加藤周一の最後の妻」として知られていますが、「映画評論」の第一線で書いていらした。彼女が書いた増村保造監督についての批評は素晴らしいです。いま世にある増村保造論は、彼女の影響を大いに受けていていると思います。増村を論じるとき、矢島さんの批評を研究するのが前提ぐらいの共通認識があってもいいはずなのですが、映画批評史の中で抜け落ちていますね。
 
斉藤綾子さんが「若尾文子」論の中で矢島さんの功績に触れなければ、恥ずかしながら私も矢島さんについて知る機会はなかったと思います。矢島さんが増村作品を含む戦後の日本映画を論じた「勤勉な巫女たち」で言及された増村保造論や日本映画戦後史論は、今読んでも素晴らしいフェミニスト批評だと思います。

3.研究対象は幅広く 監督、スタッフ、批評など映画に関わる女性たち

―このプロジェクトの研究対象は、監督だけではなくて、スタッフ、批評など幅広いです。なぜですか。
 
このプロジェクトは、監督、いわゆる天才男性監督が作った作品を細かく見る、テクストを分析するというタイプの研究ではありません。
私は、監督がクリエイティブの中心にいることは疑っていません。ですが、このプロジェクトを“クリエイティブ労働”の問題だと考えると、研究対象を監督にかぎる必要は全くないと思います。色々な女性がどう参入したのか、視野を広げて調べていきたいと思っています。
 
広告に映画の惹句(キャッチフレーズ)を書いた人など、実は映画産業の中で大きな役割をと果たしていた。批評の分野も有名な方だけではなく、近代映画社の「スクリーン」誌のようにファン雑誌を出していた人にもインタビューをするなど、近年の日本映画産業史は視野を広げていますが、このプロジェクトはそうした関心を共有しています。
 
スタッフでいうと、たとえば松竹には杉原よ志さんという編集技師がいた。編集の重要性って、もう口幅ったいぐらい当然のことですよね。杉原さんは「長屋紳士録 」「君の名は」など、かなりの数の映画を手がけていらっしゃったけど、その功績はまだ研究されていません。
女性の撮影監督では、(黒沢清監督の映画の撮影などで知られる)芦澤明子さんが有名です。
(成瀬巳喜男監督らとの名匠とのコンビで知られ、「浮雲」「ひめゆりの塔」「キクとイサム」など名作を生んだ)水木洋子さん(1910 - 2003)は、とても有名な脚本家ですけど、彼女がコンスタントにフェミニストの発言をしたことはあまり知られていない。女性として史上唯一の日本シナリオ作家協会の会長だった、ということもあまり着目されてきませんでした。
ですから、いろんな意味で監督だけに絞る必要はないと思っています。

4.#MeToo運動と日本の映画界  アカデミアでも変化が

 ―木下さんは2020年の日本映像学会の機関誌で「#MeToo的映画史のために」という文章(下記)を発表されました。同年には、このプロジェクトにも参加する明治学院大学教授の斉藤綾子さんが、日本映像学会初の女性会長に就任しました。斉藤さんは木下さんより一回り上の世代。日本で映画研究をする女性たちの世代を超えた連帯を感じます。

“日本映画は草創期から現在に至るまでセクシズム(性差別)とミソジニー (女性嫌悪)に満ちている。私たちに必要なのは、もちろん、それらの映画を禁止したり、あるいは隠蔽したりすることではない。さらに言えば、「救う」 ことでもない。#MeToo 的映画史とは、具体的な映画テクストにおける差別や性暴力を名指し、語り、分節化し、概念を作り、その歴史的分脈を明らかにし、そうすることでそのテクストを「21 世紀の女の子」たちにアクセス可能にする——つまり再領有することである”=「#MeToo的映画史のために」からの引用

あの文章はこれから何をするかという決意表明のようなものでした。この数年で状況が好転していると感じます。このプロジェクトは昨年スタートしましたが、「まさに今!」という感じがしますね。
気づいたら、女性の映画研究者の数が増えていたのも大きいです。数は本当に重要です。
このプロジェクトのメンバーには、菅野優香さん(同志社大学准教授)、鷲谷花さん(大阪国際児童文学振興財団特別専門員)、斉藤綾子さん(明治学院大学文学部芸術学科教授)、谷慶子さん(立命館大学映像学部准教授)、冨田美香さん(国立映画アーカイブ主任研究員)、ミツヨ・ワダ・マルシアーノさん(京都大学大学文学研究科教授)がいます。メンバーでありませんが、例えば石田 美紀さんや志村 三代子さん、紙屋牧子さんは過去20年ぐらいの映画研究への貢献は大きく、いずれ何らかの形でご協力をお願いできればと思っています。程度の差はあれど皆フェミニストです。ジェンダー問題に関心があるので、世代を超えて連帯するようになったんです。
 
―世の中には女性の連帯やエンパワメントを阻む力が強いですよね。ジェンダー格差の問題を語るとき、「女を使って得をしただろう」という横やりや女性同士の連帯を阻むような言葉をききます。
木下先生は「#Metoo的映画史のために」で、「枕営業神話」についても言及されていました。

“セックスと仕事の交換が言わば映画・メディア産業の「自然な」風土とみなされ、 体を張ってのし上がる女優、という「枕営業神話」とでも呼べる幻想があるのは種のグラマラスな光輝を帯びて流通したため、この 交換 トランスアクション がそもそも立脚し ているのは、徹底して非対称な権力関係が隠蔽されてきたからだろう”=「#MeToo的映画史のために」から引用

監督と性的な関係をもった代償として役をとるという枕営業行為は、本当に女性のための構造なんでしょうか。女性にとってどんな利点があるんでしょう。そんな行為で職を得られたとしても、実力が伴わないならばうまくいかないし、蔑視されるだけです。
 
枕営業神話は、男性のある種の変な被害者意識から生まれたと思います。“セックスを武器にした女に騙される”“女に食い物にされる”という強い被害者意識があり、それがミソジニー(女性蔑視)とも密接に結びついています。
痴漢をめぐる反応も、ミソジニーのあらわれです。日本では、性暴力の被害者よりも、加害者側である男性の「冤罪」がやたら強調されています。ジャーナリストの伊藤詩織さんのレイプ被害事件では、被害を告発した伊藤さんに対して「枕営業をするつもりだったんだろう」と大量の誹謗中傷があったとききます。

“レイプはまず何よりも被害者に対する暴力であるという根本的な認識が あっさり抜け落ちている。私たちはまず加害者ではなく被害者に焦点化し、レ イプは女性に対する性暴力であるという同語反復的認識から始めなければな らない。現代の #MeToo 運動が「誰が語りうるのか」という発話と言説をめぐ るジェンダー化された権力関係そのものに対して疑問譜を突きつけたように、 #MeToo 的映画史もまた、言説の布置をあぶり出すことを責務としている”=「#MeToo的映画史のために」から引用

―木下先生のこの文章(上記)を読んで、私は膝を打ちました。
“名画”といわれる映画をみていても、女性がミソジニー的な扱いをされている場合があると感じますし。女性は、聖女か悪女、そして母親というワンパターンな描かれ方だとも。作り手も批評する側も男性が大半を占めてきた映画というメディアを、フェミニズムの視点から検証することはとても重要ですね。

 日本映画界の歴史を振り返ると、なにもかもが男性に担われてきたことは事実です。たとえば、撮影所を持った映画会社の入社条件が“助監督になる資格は大卒男子に限る”というのは、すごく影響が大きかったと思います。ピンク映画で有名な浜野佐知監督も、その条件のせいで撮影所に入れなかったということを書いています。映画業界は入り口からものすごく強固な男性社会だったんだとしみじみ思います。

5.抑圧されたきた女性監督の業績に光をあてる

―プロジェクトの一環として、8月に国立映画アーカイブで特別上映会「望月優子と左幸子—女優監督のまなざし」が開かれて盛況だったと伺います。フェミズムの視点で日本映画の歴史をみると、日本映画自体の見え方が違ってきますよね。 

「映画監督をやりたい」って言っていた女優さんは一人ではありませんでした。
戦前から活躍していた岡田嘉子(1902 - 1992)もそう言っていましたし。
「女性たちが忘れられてきた」と言うとどこか受け身な気がしますけど、積極的に「抑圧」されてきた気もします。
 
望月優子(1917 - 1977)は1962年に「ここに生きる」というすごいドキュメンタリー映画を撮っています。彼女のように性格俳優として名のしれた人が、もし男性であったら……。きっといろんな批評誌で取り上げられて称賛されていたでしょう。ですが彼女の業績は積極的に忘れられてきたといえます。

ウーマン・リブ運動の中で映画がどうみられていたのかも、これから研究しなくてはいけないと思っています。当時の女性がつくった同人誌を調べてみると、“アニエス・ヴァルダの「歌う女・歌わない女」(1977年)について「新聞の批評ではイマイチとされていたけど、見て見たらすごい面白かった」と感想が載っていたりします。
 
私が育った80年代ぐらいのシネフィル文化の中ですと、作り手が女性や外国人などマイノリティであっても関係なく映画をみようという建前はありました。アイデンティティにこだわらないというのは80年代のポストモダン的な考え方でそれ自体は間違ってないと思うのですが、それが逆に「抑圧の機構」として作用したと思います。
「マイノリティが映画を撮ったからと、作り手のアイデンティティによって下駄を履かせてもらってるんじゃないか」「マイノリティにスポットライトがあたるのはおかしい」という話になること自体が抑圧の機構なのです。

6.「セルロイドの天井」 公平性や透明性がない日本社会

-下駄を履かせてもらっているのはむしろ男性の方だと思いますが、あまりにも男性たちがそれに無自覚すぎます。我々JFPの活動目標には、ジェンダー格差と労働環境の改善があります。映画業界の労働環境が最悪で多様性がありません。現状を伝えるため、様々なデータを集めてどこを改善していくべきかを示していく正攻法でやらないと、危機感が共有されないし、何も変わらないと感じています。優秀な人材が映像業界から遠ざかっている状況を変えたいのです。
 

JFPの統計を拝見しました。

我々のホームページの冒頭にある文章「女性パイオニアとはなにか、セルロイドの天井」で、そのデータを引用しました。

セルロイドの天井とは、映画業界において女性の大作への参画を阻んできた見えない障壁をさすのですが、JFPの調査によって、日本では米国よりもさらに分厚い障壁があることが明らかになりました。 

セルロイドの天井の要因として洋の東西を問わず指摘されてきたのが、ビジネスとして動く金額が大きくなればなるほど、監督の決定にあたって、女性には「任せられない」「なんとなく不安」というようなバイアスに囚われるということだ。男女平等が建前としては確立された社会において、セクシズムはしばしばこうした意識化されない不信や疑念の形を取る。ハイレベルの人事に発言権を持つ女性が少ないことがひびいているのは言うまでもないだろう。さらに、長時間労働、低賃金、ハラスメント、やりがいの搾取など、ジェンダーを問わず問題化している映画産業の労働環境が、家事や育児の主たる担い手になることが未だ当然視されがちな女性にとりわけ重くのしかかり、ライフコース上の理不尽な選択を迫られて、そもそも天井に向き合うに至らないケースも多いと想像される=「女性パイオニアとはなにか、セルロイドの天井」から引用

日本では、映画に限らず多くの産業で労働や経済活動に関する様々なデータが数値化、公開されてないことが問題だと思います。映画の興行収入といっても結局、民間の会社が集めているだけですし。
映画会社の従業員の勤続年数や女性の数などのデータがあればいいですよね。映画人にインタビューした時、給料や契約書についてきくと「覚えてない」と返ってきたことが多いです。
私は、溝口健二の監督料を昔の新聞記事で見つけました。1950年に黒澤明よりも多くて監督の中では一位でした。
日本の映画会社は「個人情報だ」といって何も公開しませんが、アメリカの映画会社では公開しています。そもそも給料は個人情報ではなく、どういう予算を組んで映画を作っていたのかは十分開示しうるものです。が、日本では半世紀前のものですら難しい。
アメリカではデータ面での研究も進んでいます。映画会社は訴訟の恐れがあるから、そういった資料を全部残しているのです。良くも悪くも日本は訴訟社会じゃないですし、今まで声を上げるが人も少なかった。
昔の撮影所で女性はどういう風に賃金を支払われていたか。たとえば同じ編集技師の仕事で男女が同じ給料だったのか……。女性の仕事とされていたスクリプターは、かなり高給取りだったらしいんですよね。将来的に誰かその分野を研究してほしいと思っています。
 
米国には監督や俳優、制作スタッフの組合があり、労働条件などを決めて映画会社に順守させるよう強く働きかけています。日本にも監督協会などの職能組合がありますが、労働環境改善のために機能していないという問題点もあります。
 
歴史的にみると、日本の映画監督協会や撮影監督協会、シナリオ作家協会といった職能団体はトップクラスのクリエーターの親睦会として始まっていますから、表現については権利を主張しても、労働条件について映画会社に何かを要求するという動きがみられなかったのでしょう。
映画業界に限らず日本社会のあちこちでそうですが、こういう職能団体がボーイズクラブになりがちで女性がいない。それが公平性や透明性が欠いてハラスメントを生みやすい土壌になります。
 
学会もかつては男性社会でした。日本映像学会では、斉藤さんが初の女性会長になりはじめて機関誌編集委員長、研究企画委員長、総務委員長がすべて女性になったんです。
 
―このプロジェクトの今後の展望を教えてください。国外にむけた発信もされるなど多方面へ届くことを意識した内容になっていますね。
 
このプロジェクトは5年計画で、いま2年目です。
9月にたちあげた公式サイトは、ニュース的なものではなく、むしろ長文で書かれたものを日本語で読ませるようなサイトとして運営したいです。さっそく斉藤綾子さんが監督としての田中絹代について書いた4千字の文章を掲載しました。

フェミニズムはイデオロギーであり、フェミニストの活動はプロパガンダです。フェミニズムを前面に出すことには何の躊躇もありません。
今後は外部の優秀な書き手にも原稿を依頼したいです。映画に興味のある学生たちに「こんなに素晴らしい映画を作っていた女性の監督がいたなんて知りませんでした」と読んでもらいたい一方で、日本映画史のコアなファンであるシニア層にもリーチしたいので、日本語での発信にこだわりました。
 
研究成果は英語で海外でも発信したいと考えています。メンバーの研究者の中には米国で博士号をとった人が多いので、英語で書いた論文を国際学会で発表したり、海外の研究者を日本に招聘したいと考えています。
(構成・伊藤恵里奈)

※本調査は、トヨタ財団 2021年度研究助成プログラム「日本映画業界におけるジェンダーギャップ・労働環境の実態調査」(代表:歌川達人)の助成を受けて実施されました。


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