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もう一度『サラダ記念日』

信号が変わるまで待つそう決めて
もう何度目かの青を見過ごす


19歳の春、私の言葉が一度だけ雑誌に載った。

『詩とメルヘン』という月刊誌の
POEM31というコーナーだった。


ーーー


中学の時、詩のようなものを書いていた。昭和50年代後半、周りにはそんな少女がたくさんいて、私たちはそれをポエムと呼んでいた。大好きなあの子のこと、初めてのデートのこと、届かなかった思いのこと。誰かが綴った「もしも」の言葉を囲んでは、休み時間中、盛り上がった。

ある時、クラスメイトが言葉にメロディをつけて持ってきた。あまりに素敵でみんなが頼むものだから、その子の曲がたくさん出来上がった。今ならYouTube で流してみようなんて話も出たかもしれないけれど、動画を撮ることさえままならなかった時代。発表の場は修学旅行の部屋になった。光栄なことに、なんちゃってアイドルの一員に選んでもらった私は、胸元にcuteと書かれたピンクのセットアップを着て歌った。きいろの子もみずいろの子もオレンジの子もみんなcute。かわいいをギュッと集めて、みんなで抱きしめて笑い合う。仲間と思いを共有する喜びを噛みしめた夜だった。


アルバムの台紙が何枚も重なって、あの夜のメロディが消えかけた頃、もう一度、言葉を綴りたいと思う瞬間が訪れた。スイッチを押してくれたのは一人の教授。保育科の短大では珍しい「言語」という講義中、彼は『サラダ記念日』の代表的な作品と、俵万智が短歌を始めるきっかけになった恩師とのエピソードを話してくれた。資格取得に関係のない講義は代返を頼む学生が多い中、席についている者だって何人が耳を傾けていたかはわからない。実際、私だって偉そうなことは言えない。講義に出席していたのは、たまたまその日が代返担当だっただけなのだから。

「もし短歌を作ってみた、という人がいたら部屋までいらっしゃい」

講義の最後の言葉を私は真に受けた。そしてその晩10首の短歌を作った。


真新しいキャンパスノートを抱えて教授室をノックした私は、近くで見る教授が父よりだいぶ年上だったことに驚いた。教授も目を丸くしていた。まさか本当に持ってくる学生がいるとは思っていなかったのだろう。ゆっくり立ち上がり、差し出したノートを受け取ってくれた。

たった10首にたっぷりの時間をかけ、たまに頷きながら口元をほころばせる。ノートを閉じた教授は「書き続けることだね。また見せてください」と言った。

サラダ記念日ブームに乗り、短歌を始めた女性は当時かなりの数いただろう。でも、きっかけをくれた人とそのあと数年にわたって文通をしていた人はそういないのではないかと思う。教授はいつも丁寧なお返事をくれた。〇〇の歌がよかったね、と。最後には必ず「また見せてください」の文字が添えてあった。


見まねで短歌を作る中、偶然見つけた『詩とメルヘン』は、やなせたかし責任編集の月刊誌だった。といっても創刊から30年、通算385号すべての表紙を自分で描き、編集していたと知ったのは2003年に休刊したあとのこと。日本を代表するイラストレーターや詩人を数多く輩出したすごい雑誌だなんて当時の私は全く知らなかった。

後半ページのPOEM31という小さなコーナーは、五・七・五・七・七で自由に繋いだ言葉を一般から募集し、選ばれた数点にイラストをつけてくれるという人気の企画。何作目だったか、教授が褒めてくれた中の一首が採用された。それが冒頭の歌だ。字余りだし、短歌と呼んでいいのかどうか。よく選んでくれたなと思うけれど、おそらく文字数とかルールとか、そういうものは選考基準ではなかったのだろう。

イラストの私は信号機の下で佇んでいた。実際のシチュエーションは道の脇に停めた車の中だったけれど絵の情景の方がずっといい。線画の彼女は待っていた何かに出会えただろうか。あの日の私に待ち人は来なかったけれど。

『サラダ記念日』のなかにこんな歌がある。

誰を待つ何を吾は待つ〈待つ〉という言葉すくっと自動詞になる


わからなかった。19歳の私にはとても。
待つは目的語が必要な他動詞だ。荷物を待つ、彼を待つ、幸せな未来を待つ。でも俵万智は自動詞になると詠んだ。それも「すくっと」という潔さをプラスして。

あの時の私は、理解しようともせずにその言葉たちを置き去りにした。そして、心が動く恋の歌ばかりを拾って読んだ。

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ


言わずと知れた代表作はもちろん、

7•2•3(なにさ)から7•2•4(なによ)に変わるデジタルの時計見ながら快速を待つ

この歌も好きだった。

強気から、ふっと弱気に変わる瞬間の心に共感しただけではない。この歌で待っているのは快速電車であり、彼だ。〈待つ〉は他動詞、はっきりと目的語がわかる安心感。

19の私は、少し頑張れば届きそうな場所に置いた何かをいつも待っていた。


ーーー


2020年、世の中が大きく揺らぎ、選択は自分に委ねられた。正解のわからない中、目を凝らし耳を澄ます。やりたいこととやっていいことがカチっとはまらない。

うまくかみあわない気持ちの悪さは初めてではない。今までだって、やりたいこととやれることがイコールにならなくて下を向いてしまう日もあった。それでも「やってみる」という自由は選択肢に入っていたから、私は真っ先にそのカードを引いた。ゆっくりでもうつむいてでもいい、少しずつだっていいから動いていたい、そう思って。


初めて見た「動くな」のカードに私はわかりやすく戸惑った。仕事に行けない、学校に行かせてあげられない、会いたい人に会いに行けない。

「やってみる」のカードがない。


何度も目を凝らし耳を澄ました。
とどまる人、一歩踏み出す人、大きく進む人。
壊す人、守る人、守られる人。

少しずつ形を変えて動き出した日常に、みんな自分でカードを選んでいる。

私は…

好きな仕事を今までのペースで続けたいのなら、減った分を埋めるために動き回るべきだろう。でも今は、息子を、高齢の親を守りたい。

だったら。


初めて「待つ」を引いた。
誰を、何を、いつまで?
一つもわかっていないけれど「待つ」を引いた。


30年の時を経て、私の「待つ」がすくっと自動詞になった。



人生は不思議だ。動いている時には見えなかった透明な糸が、いつのまにか色付いて少し太くなっていたことに、ある日突然気づいたりする。「待つ」を手放すのは明日でもいいし、ずっと先でも構わない。すべて自分次第。そんな不確かだけれど自由な今を、どうせなら楽しんで過ごしてみたい。



信号が変わるまで待つそう決めて
もう何度目かの青を見過ごす


青は何度でも訪れる。

私は私のタイミングで行こう。





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