so sad(佐渡 太宰治)


 新潟出帆。午後二時。
 何しに佐渡へなど行く。十一月十七日。雨が降っている。私は紺の着物、袴、安下駄をはいて甲板に立っていた。船は信濃川を下る。川岸に並ぶ倉庫は、つぎつぎ私を見送る。これから日本海に出る。港を見捨て、白い毛布にくるまって寝た。船酔いしないよう神に念じた。
 何しに佐渡へなど行くのだろう。昨日、新潟の高校で下手な講演をした。その翌日、この船に乗った。佐渡は淋しいところだと聞いている。前から、気になっていた。心に余裕が出来たら関西をまわりたい。いまは地獄が気にかかる。死に神の手招きに吸い寄せられる。私は、たいへんおセンチなのかも知れない。死んだ振りして寝ころんで後悔していた。何しに佐渡へ行くのだろう。こんな寒い季節に、袴をはき、ひとりで、淋しいところへ。何も無い。誰も褒めない。自分を、ばかだと思った。いくつになっても、どうしてこんな、私は、こんな、旅行など出来る身分では無いのだ。無駄使いも出来ないのに、心のはずみから、こんなつまらぬ旅行を企てる。いやだ。負けるような気がして、いやだ。ばかな事と知りながら実行して、あとで劇烈な悔恨の腹痛に眠れなくなる。なんにもならない。いくつになっても、同じ事を繰り返してばかりいる。ばかな旅行だ。意味が無い。
 私は不愉快だ。自分に腹が立つ。佐渡へ行ったって悪い事ばかり起こるに違いない。自分を叱っていたが起きた。死んだ振りをしていたが、ばかばかしくなった。佐渡はそこに見えている。来てしまった。早すぎる。まだ一時間しか経っていない。

「あれが、佐渡だね。」
「そうです。」生徒は答えた。
「灯が見えるかね。佐渡は寝たかよ灯が見えぬというのは、起きていたら灯が見えるという反語なのだから、灯が見える筈だね。」
 つまらぬ理窟を言った。
「見えません。」
「そうかね。それじゃ、あの唄は嘘だね。」
 生徒たちは笑った。
 
 その島だ。間違い無い。たしかに、この島だったのだが、いま船は、ここを通り過ぎようとしている。これは佐渡ヶ島でないのかも知れない。昨日、新潟の砂丘で、私がひどくもったい振り、
「あれが、佐渡だね」と、指さして、生徒たちは、それが間違いだと知っていながら、私が余りにも荘重な口調で盲断しているので、気の毒になり、そうです、と答えたのかも知れない。そして後で私を、馬鹿先生ではないかと疑い、灯が見えるかね、と、私の口真似をして笑い合っているのに違いないと思ったら、私は袴を脱ぎ捨て海に飛び込みたくなった。
 旅客は、私ひとりうろうろしている。誰かに聞いてみようと思うのだが、もしこれが佐渡ヶ島だった場合、佐渡行きの船に乗り込んでいながら、「あれは何という島ですか。」という質問くらい馬鹿げたものは無い。私は、狂人と思われるかも知れない。銀座を歩きながら、ここは大阪ですかという質問と同じくらい奇妙だろう。
 知りたい。この船の大勢の人たちの中で、私だけ知らない変な事実があるのだ。問題の沈黙の島は船と離れて行く。とにかくこれは佐渡だ。その他に、新潟にこんな島は絶対に無い。佐渡にちがい無い。迂回して到着するのだろう。
 前方を眺めて恐怖さえ覚えた。大陸が見える。私は見ない振りをした。満洲ではないか。まさか!私の混乱は、クライマックスに達した。朝鮮。まさか!船室は、ざわめきはじめた。
 うんざりした。あの大陸が佐渡なのだ。大きすぎる。生徒は、私に嘘を教えたのだ。すると、この眼前の黒いつまらぬ島は、一体なんだろう。つまらぬ島だ。人を惑わすものである。こういう島も、新潟と佐渡の間に、昔から在ったのかも知れない。私は何も知らない。自信を失い船室に引き上げた。けれど他の船客は仕度にとりかかる。
ボーイは「もう、十分でございます。」と答えた。
 私は、あわてた。何が何やら首巻きを取り出しぐるぐる巻いて甲板に出た。空も海も暗く、雨が少し降っている。闇に港の灯が二十も三十も見える。夷港に違いない。
「パパ、さっきの島は?」少女が紳士に尋ねている。
「佐渡ですよ。」と父は答えた。
 そうか、と私は少女と共にうなずいた。
 上陸した。雨が降っている。私は傘
もマントも持っていない。当惑した。もう佐渡への情熱も消えていた。このまま帰ってもいい。どうしようか。
「だんな。」宿の客引きである。
「よし、行こう。」
 私は番頭の持っている提燈を指さした。
 車を呼んで一緒に乗り込んだ。暗い町だ。房州あたりの漁師まちの感じ。
「雨も降って心細くなっているところへ、君が声をかけたんだ。君のところが一等いい宿屋だと皆、言っていたよ。」
番頭は頭へ手をやって、「あばらやですよ。」しゃれた事を言った。
 宿へ着いた。小さいが古い落ちつきがあった。宮様のお宿をした事もあるという。風呂へはいって髭を剃り、それから私は正座した。学校の生徒を相手して、行儀正しくなっていた。女中さんにも堅苦しい応対をしていた。自分ながらおかしかった。食事の時も膝を崩さなかった。ビールを一本飲んだ。少しも酔わなかった。
「この島の名産は、何かね。」
「海産物なら、なんでも。」
「そうかね。」
「君は、佐渡の生まれかね。」
「はい。」
「内地へ、行って見たいと思うかね。」
「いいえ。」
「そうだろう。」
何がそうだろうだか、自分にもわからなかった。また会話がとぎれる。私は、ごはんを四杯たべた。こんなに、たくさんたべた事は無い。
「白米は、おいしいね。」
 白米なのである。私は少したべすぎた。
「そうでしょうか。」
「お茶をいただきましょう。」
「お粗末さまでした。」
「いや。」
 私は、さむらいのようである。ごはんを食べて部屋に座っていると、さむらいは睡魔に襲われた。眠い。電話で時間を聞いた。さむらいには時計が無い。六時四十分。いまから寝ては宿の者に軽蔑される。さむらいは財布を取り出し廊下に出た。のっしのっしと階段を降り、玄関に立ちはだかり、さっきの番頭に下駄と傘を命じ、
「まちを見て来ます。」と断定的な口調で言って、旅館を出た。
 旅館を数歩出ると私は、急に人が変わったように、きょろきょろしはじめた。雨は、ほとんどやんでいる。道が悪い。おまけに暗い。波の音が聞こえる。やはり房州あたりの漁村を歩いているよう。
 やっと見つけた軒燈には、「よしつね」と書かれてある。義経でも弁慶でもかまわない。私は佐渡の人情を調べたいのである。
「お酒を、飲みに来たのです。」
 私は少し優しい声になっていた。さむらいでは無かった。

 ……この料亭の悪口は言うまい。入った奴が、ばかなのである。料理だけがあった。私は、この料理の山には、うんざりした。
「ごはんを食べて来たばかりなんだ。お勘定の心配をして、そう言うわけではないのです。いやその心配もありますけれど。お酒を飲めばいいのです。」
「でも、せっかく作ってしまったのですから、どうぞ。芸者でも呼びましょうか。」
「そうね。」と軟化した。
 ……私は、女の悪口も言うまい。呼んだ奴が、ばかなのだ。
「料理を食べませんか。」
 私は食べ物を無駄にするのが、何よりきらい。ひとつの皿の料理は全部たべるか、全然箸をつけないか、どちらか。金銭は無駄に使っても受け取った人のほうで有益に活用する。料理の食べ残しは捨てるばかり。私は無駄な料理を眺めて、つらかった。この家を無神経だと思った。
「食べて下さい。もったいないよ。」
「いただきます。」
 女は笑ってお辞儀した。けれども箸はとらなかった。
 なんの情緒も無かった。
 宿へ帰ったのは八時すぎ。私は再び、さむらいにかえって、すぐ寝た。夜半、眼がさめた。佐渡だと思った。波の音が聞える。
 自分の醜さを捨てずに育てて行くより他は、無いと思った。

 翌朝ごはんを食べながら、私は女中さんに告白した。
「ゆうべ、よしつねという料理屋に行ったが、つまらなかった。建物は大きいが悪いところだね。」
「このごろ出来た家ですよ。古くからの寺田屋などは、格式もあって、いいそうです。」
「そうです。格式のある家でなければ、だめです。寺田屋へ行けばよかった。」
 女中さんは笑った。私も意味がわからなかったけれど、はは、と笑った。

 バスに乗った。
 きょうは秋晴れで、村々は素知らぬ振りして生活を営んでいる。
 相川に着いた。ここも漁村の感じ。素知らぬ振りして、少しも旅行者を迎えてくれない。うろうろしているのが恥ずかしい。なぜ佐渡へなど来たのだ。何も無い。いま日本は遊ぶ時では無い。けれども気がかりなのだ。見物の心理とは、そんなものだ。人生でさえも、そんなものだ。見てしまった空虚、見なかった不安、それだけの連続で暮らして死ぬ。もう佐渡をあきらめた。明日の朝、帰ろうと思った。相川のまちは、何しに来た、という顔をしている。がらんとしている。私に見むきもせず、自分だけの生活をしている。歩いている自分を恥ずかしく思った。
 すぐ東京に帰りたかった。もうどこにも行きたくない。近くで一泊することに決めた。私は浜野屋の三階に通された。障子をあけると日本海が見える。
「お風呂へはいりたいのですが。」
「さあ、お風呂は、四時半からですけど。」
「名所はない?」
「さあ。」
「金山が……」
「誰にも中を見せない事になりました。お昼のお食事は。」
「たべません。夕食を早めにして下さい。」
 私は宿を出て歩いた。海岸へ行った。感慨も無い。山へ登ると金山の一部が見えた。さらに歩き、時々振り向いて海を見た。寒くなって、下山した。街を歩いた。やたらに土産を買った。少しも気持ちが、はずまない。
 これでよい。私は佐渡を見てしまった。私は翌朝五時に起きて朝飯を食べた。六時のバスに乗らなければ。お膳には料理が四、五品ついていた。私は味噌汁と、おしんこだけで、ごはんを食べた。他の料理には箸をつけなかった。
「茶わんむし食べて行きなさい。」 
 女中さんは、母のような口調で言った。
「そうか。」
 私は茶わんむしの蓋をとった。
 外は薄暗かった。私はバスを待った。ぞろぞろと黒い毛布を着た老若男女の列が通る。無言で、せっせと私の眼前を歩いて行く。
「鉱山の人たちだね。」私はそばにいる女中さんに小声で言った。
 女中さんは黙ってうなずいた。