見出し画像

『オナ禁論』の道②

できるだけ「書く」という作業を意識的に組みこむためにも、更新の頻度をやや短め(10日~2週間に1回ペース)で進めていこうと思う。

物理的な進捗(2021年4月11日現在)

・文献リストは88⇒107本。今後も随時更新予定
・現在13⇒20本目まで読了。
・分析対象としている資料数は174⇒180。すべてkindle本。
・現在通読したのは19⇒30。
・アウトラインをもとに、目次の作成を行った。
・アウトラインは継続的に逐一加筆・修正している。

議論の前提をつくるための柔らかい問答

3.なぜ、オナ禁をするのか?

オナ禁をする目的は資料の中で様々に語られているが、多くは前回簡単に整理していた「効果」を求めて始めている。すなわち、美容や体質の改善や、女性にモテるため、ひいては人生を変えるためなどである。

しかし、オナ禁の「効果」は「依存症からの回復」だ、という主張を行っているものもある。この場合、オナ禁を行う目的は「回復」ということになる。

このように、オナ禁を行うにあたっても、行為者はまず、自らの状態をどのように位置づけるか、という問題に突き当たっている。

議論を進めるための土台の知識

先に触れた「オナ禁を行う者による、自らの状態の位置づけ」という問題に関連して、海外ではフーコー的言説分析を用いた研究がある。これまで読んできた文献のなかで、参考にできると考えている2つを簡単に紹介したい。

① Gareth Terry, 2012, “'I’m putting a lid on that desire': Celibacy, choice and control.” Sexualities. 15(7): 871-889.

9人の男性へのインタビューを通して、「禁欲」という行為について、それぞれがアイデンティティをどのように位置づけながら語っているかを分析している。

彼らの語りに共通していたのは、「選択」という主題であった。これによって、この男性たちは自分たちの人生にセックスが欠けていることを正当化でき、同時に、男性の(制御することが難しい)性的衝動という多数派の考え方を社会的に構成された性質だと再帰的に認識できる。「選択」がレトリカルな装置として役立っていたというのだ。

もう一つ、特徴的な主題として挙げられたのが「制御」である。彼らの語りの多くで、セックスは単純なプラトニックな関係性よりも物事をより複雑にするものとして構築されていた。禁欲はその意味で、こうした複雑さを制御し、また、自らの性的衝動を制御することができる行為として理解されるのである。

これら2つの主題が、男性の性衝動言説の権力に対する抵抗として、彼らのアイデンティティを位置づけるのに役立っている。

② James Briggs, Brendan Gough, and Roshan das Nair, 2017, “Losing Control in sex addiction: "Addict" and "Non-addict" accounts.” Sexual and Relationship Therapy. 32(2): 195-209.

性行動が頻繁だと自認している9人の男性に半構造化インタビューを行い、彼らの自己定義の語りから主体の位置づけの違いを見出している。9人のうち5人が、自らを性嗜癖だと定義している。

性嗜癖者の語りの主題は大きく3つであった。そのうち本論では、「制御できないということ(loss of control)」に焦点を当てている。嗜癖者も非嗜癖者も、自分の性的欲望を理解する必要性は認識しているが、両者の認識は異なっている。非嗜癖者にとっては、この理解は性的欲望を支配するよう促してくれるものと同等であるが、嗜癖者にとってはむしろ、自分で管理する力のないものとして認識し認めることになる。

嗜癖者が自らを嗜癖の状態に位置づけることで、彼らは生理医学・健康に関する制度と言説用いることができ、病人の役割をとることができる。病人の役割をとることは、制御できない状態を説明するためであり、集合的な「嗜癖」のアイデンティティ〔他の嗜癖と共有する性質と考えればよいか〕や嗜癖に関する言説の「潮流」にアクセスするためであった。

①は禁欲という行為(オナ禁と必ずしもイコールではないが)に対して、②は性行動の多さに対しての認識から、そのように認識する主体がどのような考えに位置づけられているかを考察していた。主体の位置を定めるためには、行為の主体(=インタビュイー)は一般的な通念との比較だけでなく、他の様々な領域の専門知を取り入れて概念を構成していることがわかる。

次の目標は?

オナ禁の「効果」や目的についての語りを読んでいくなかでも、それぞれに語り方は違うし、参照する知もさまざまである。知の流通経路を明らかにするのと同時に、「その知を参照するその主体は、自らをどこに・どのように位置づけているのか」「その主体が前提としている世界観は何か」という点まで掘り下げていこうと思う。

・4月末までに論文は25本までは、資料は60本までは読み進める。

・先週、『性への自由/性からの自由』(赤川学, 1996)に、前回記事で触れたミース委員会周辺の議論があったことに気づいた。ただ、ザっと眺めた感じだと、解釈に違いがありそうだった。Taylor(2019)がこの委員会を「ポルノグラフィー依存〔嗜癖〕=病理」へと認識が移行していくきっかけとして解釈していたのに対し、赤川(1996)では70年代の性的解放に対する保守化の傾向、道徳的規範を基礎にしてこそ成り立つ科学的分析の潮流であったとみている。

・病理化言説が赤川(1996)と赤川(1999)にあったかどうかを、来週読み直して確認したい。

・また、ジョエル・ベストの『社会問題とは何か』にある「クレイム申し立て者としての専門家」の箇所が、今回のメモ書きで扱った、専門知による言説のサポートに直接的に関係する理論枠組みになると思うので、こちらも来週力を入れて読みたい。

・次回の進捗は4月末。今度はマジに本文を書き進めていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?