美学芸術学研究室

「美学芸術学」は何を研究する分野なのか。【後編】

前回の続きである。ちょうど今日、卒業確定の通知があったので、4月より無事大学院生として社会学へ「抜け出す」ことができそうである。

前編では、私が2年間だけ所属した「美学芸術学」なる名称の研究室について、
 ・「美学」「芸術学」の大雑把な説明
 ・これらを繋げた「美学芸術学」が研究対象とするもの
を、得てきた僅かな知識と研究室での生活からお伝えしたつもりである。

前編はこちら

読まれた方には「結局、無法地帯なんじゃないですか」という疑念と、「教授は実際何もしていないんじゃないですか」という不信を抱かせているかもしれない。後編にあたる本記事では、教授陣がきわめて「充実」していることを示すことで、上のような疑念を晴らせたらと思っている。また、今の世の中で「美学芸術学」が持ちうる価値というか、譲れない立場のようなものを、私が感じ取った範囲内で言語化していく。

「変態」揃いな教授陣

疑念を晴らすといっていきなり何を言い出すのか、とお思いかもしれない。しかし、「美学芸術学」研究室に所属していた私としては、このように形容せざるを得ない強烈すぎる先生方だった。もちろん、ここで「変態」という形容は最上級の尊敬と親密さを兼ねて用いている。2020年3月現在、研究室に在籍しておられる教授陣を、きわめてデフォルメかつ戯画化したかたちではあるが紹介する。これをもって、「美学芸術学」研究室が決して「無法地帯」ではなく、絶妙なバランスのとれた充実した環境であることが伝われば幸いである。

1.「語学魔人」
 文字通り、欧米諸国の主要言語はもちろん、古代ギリシャ語、ラテン語文献も自在に扱うことができる。ドイツ語辞典の編纂にも関わった経歴をお持ちである。2019年度はサバティカルのため授業は担当されていなかったが、2020年度は再び戻られる予定。専門は美学史。
 2018年10月~2019年1月に開講されていた「美学講義――カントからの美学入門」では、カントの『判断力批判』第20節~45節を取り上げ、「共通感官」「趣味判断の普遍妥当性」「美しい技術としての芸術」「美的理念」といった重要概念を原典に即して取り扱った。カントの議論の下敷きとなる古代ギリシャ以来の議論(例えばアリストテレス)も都度参照するだけでなく、彼の思想が20世紀から現代(例えばアーレント、ドゥルーズ、ベーメ)に至るまでどのように受容され、また「読み違え」られてきたかをも含めて展開される、射程の広い濃密な講義だった。

2.「ラノベ研究者」
 2018年に発行された単著のインパクトゆえにこう表現してしまっているが、分析美学や論理学、情報美学など幅広い領域を横断しながら現代の文化的現象への理解を試みている、という認識のほうが良いかもしれない。巷では「サプリメントオタク」とか「ス〇〇ロジスト」とか「アンチ・フェミニスト」とかいろいろ炎上に事欠かないコンテンツをお持ちである(*1)。
 2019年4月~7月に開講された「芸術学概論」では、芸術学の領域での重要問題――芸術の定義、芸術作品の存在論――について、英米の分析哲学を扱いながら、その基礎にあたる内容がレクチャーされた。芸術の本質主義的定義の細分化と、非本質主義的なクラスター説(Gaut)や自然主義的定義(Dutton)の議論まで紹介され、氏が提唱している「人間原理的芸術学」の解説も加えられた。

3.「ゲーム研究者」
 2019年4月より着任された方で、もともとはドイツ音楽史などの研究をされていたが、現在は専らゲーム研究に精力的である。オフィスアワーの時間に自身の研究室の机を解体しだしたり、研究室内で大画面でゲームができるように簡易スクリーンを設置したりなど、奔放で楽しく研究をしているという印象を受ける。学生との飲み会にも気軽に参加してくれる、「美学芸術学研究室の良いパパ」的位置づけになっているとかなっていないとか。
 2019年4月~7月に開講された「デジタルゲームの感性学」では、「没入(immersion)」や画面スクロールなど、これまでのゲーム研究における重要問題を概観する講義を行った。また、「美学」という名称を用いずに「感性学」として、心理学や認知工学などの知見を用いた学際的なアプローチでゲーム研究を行っていくスタンスを示しており、「インターフェース」や「アフォーダンス」など、必ずしも伝統的な「美学」や「芸術学」の領域では扱われてこなかった情報を使いながらの講義展開は、文学部に限らず幅広く受講生を惹きつけた印象である。

いかがだっただろうか。それぞれが強烈な個性を放ちながら、しかし「美学」や「芸術学」が問題とする重要な領域は的確かつ不足なくカバーされているように思われないだろうか(*2)。もはや「芸術」にも関係しないかもしれない現在の「美学芸術学」の対象領域は、広がりがあってそれでいて制御不能に陥っているわけではないということが、理解されるのではないだろうか。確かに「変わり者」な研究テーマが多く、「節操のない分野」かもしれないが、「それも美芸〔注:「びげい」。美学芸術学の略称。学生が使うことが多い〕で研究できますよ」というのが、今の「美学芸術学」の強みにもなっていると言えそうである。

「感性の時代」なんて言うけれど

さて、ここまで「美学芸術学」なる分野について散々悪口(?)を言ってきたが、この分野が非常に広がりを持った研究対象を持っているということは理解していただけたのではないだろうか。そして、私が所属していた「美学芸術学」研究室が、それを地で行っているということも、理解していただけたのではないかと思う。

「結局何を研究しているのか、うまく説明できないじゃない」というツッコミは真っ当すぎると思っている(私も困っている)のだが(*3)、この分野がどうしても譲れない立場というのも、やはりあるのではないか、と感じてはいる。

それは、「その価値をうまく言語化できない(が存在している)文化的現象、個別的事例を、他者に対して”妥当だ”と受け取ってもらえるだけの論理の組み立てや取材を通して、翻訳可能なものとして提示すること」ではないかと思う。

最近は「感性の時代」だと言って、「ビジネスにアートを」などと言われたりもするが(*4)、そういう「感性」って個々人が有している(「独特の」)それに委ねられるよね、みんな違ってみんないい…と、一言でまとめれば「とても曖昧なもの」「曰く言い難いもの」、つまり、うまく言語化できないものとされがちである。そして重要なのは、「曖昧なもの」は反応・評価の際にとかく「好き嫌い」に回収されがちだということである。

アメリカの美術批評家のハル・フォスターが「批評以後」と述べた現在の状況を挙げるまでもなく、批評の成り立たなさへの危機感は、文化に関わる者に共有されている。また、文化的現象に限らずに言えば、すぐには分かり得ない他者、その「他者との対話可能性」といった問題は、ハーバーマスが危惧していたよりも現在はるかに切迫している。肯定しか容認されない言論空間や、感情だけで価値判断を下す思想・風潮は、当人も気づかないうちに人や文化の可能性を切り縮めてはいかないか。

すぐには価値が理解できない、したがって容認できない(が、現に存在している)現象に対して、「ああ、なるほど。このように捉えることができたのか」と「適切な距離(*5)」を取ることを可能にするのが、――大きな話ではあるが――「美学芸術学」のポテンシャルではないかと考えている。

以上が、2年間所属して得た中で辛うじて言語化できた範囲での、「美学芸術学」の研究対象、そしてこの名称の学問がもつ価値や可能性である。もちろん今後も変わり得るかもしれないし、より上記のような思いを強めるかもしれない。本記事を通して、「美学芸術学」に興味を持たれた方がいらしたなら、「抜け出す」身とはいえ大変嬉しく思う。

「美学芸術学」に関心を持たれた方のために

本記事を読んで、万が一「美学芸術学」なるものに関心を持たれた方がいらしたなら、以下に紹介する書籍を手に取ってみるとこの領域のことがより専門的に理解できるかもしれない。私の独断と偏見からセレクトした文献・論文リストなので、割り引いてご覧いただければと思う。暇なときに、セレクト文献への簡単なコメント等付記できればと考えている。

・小田部胤久『西洋美学史』

・西村清和『現代アートの哲学』

・三浦俊彦『可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える』

・日本記号学会編『ゲーム化する世界: コンピュータゲームの記号論 (叢書セミオトポス)』


(*1) 2019年にもいくつかの媒体で”炎上”が見られたが、私は当該領域について基礎的な知識もおぼつかないため、議論の是非をここで述べるつもりはないし、その能力もないと考えている。ただ、1点申し添えておくならば、この領域で共有されている情報は、「精確なもの」が最も多く流通しているかどうかが怪しいかもしれない――それゆえ、断ずる前に検証すべき事柄が多々ある――、というのが、同氏と会話した中で受けた印象であった。

(*2) もちろん、3名の教授陣でも完全にカバーしきれていない領域も存在するが、「ゲーム研究者」の立場としては、「むしろそういうテーマで僕らを納得させる研究を見せてくれたら本当に楽しい」のだという。TA(ティーチング・アシスタント)もきわめて豊富な情報を提供してくださるので、無法地帯に見えて、そこには充実した研究を行える環境があると言ってよいだろう。

(*3) ただ、このツッコミ自体、テーマの広がりを持つことを強みとしているような研究分野に対しては、暖簾に腕押しな感がある。

(*4) 山口周『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』など。近年では都内各地でアートイベントなども多数目にすることもあるだろう。「ビジネスにアートの視点を」といった謳い文句が広く流通するようになっていることは、これを読まれている方にも共感される事実であるように思われる。

(*5) ヴァルター・ベンヤミンの『一方通行路』における、「批評とは適切な距離取りにおいて可能である」という記述を受けている。彼のこの一節は、先のフォスターだけでなく、ペーター・スローターダイクなど「批評(批判)」を問題とするときに頻繁に引用されるアフォリズムのようになっている。ここでこの文言を持ちこむのは権威主義的な感もあるが、少なくとも「肯定しか容認しない(=距離ゼロ)」あるいは「感情的に判断する(=距離ゼロor断絶)」状況を脱しようとするとき、この「適切な距離」が自然に求められると考え、用いることにした。

(※ 見出し写真出典:https://www.facebook.com/UTokyo.bigaku/photos/p.2177967042424989/2177967042424989/?type=1&theater)

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