『第60話』同時攻撃作戦:背水の撤退戦

「しまっ……!」

 身動きを封じられた博麻の背中に、槍の穂先が迫る。

 しかし次の瞬間、槍の柄が切断された。
 唐兵がハッとした刹那、すぐそばに飛びこんできたラジンと目が合った。

 剣が閃き、唐兵の首を斬り裂いた。

「ラジン!」

「おじさん! 大丈夫だった⁉」

 ラジンが駆け寄る。
 動きを止めてきた側近はすでに息をしておらず、博麻はその死体を引き剝がした。

「大丈夫だ。お前こそ、怪我は無いか」

「全然ないよ……おじさんはもう無理しないで。ここからは僕が道を切り開くから」

 ラジンは剣を構えたが、博麻はラジンの肩に手を置いた。

「お前一人にやらせるほど弱っていない。背中は任せるぞ」

「うん!」

 はにかんだ彼女を見て、博麻は安堵した。
 やせ我慢している自分と違って、彼女はほとんど怪我を負っていないようだ。

 薩夜麻は救出され、ラジンも無事だと知れた今、この場にとどまる意味はない。
 二人は揃って戦場を駆け抜け、黒歯常之の背中を追う。

「みんな! 撤退だ! 白江へ逃げるぞ!」

 唐兵たちを蹴散らしながら、博麻は倭の言葉で叫ぶ。

「僕たちについてこい! さあ!」

 一方、ラジンは百済語で叫ぶ。

 黒歯常之が直接率いる騎兵たちは順調に北へ逃げているが、他の百済兵は唐兵に足止めされ、その場で必死に戦ってしまっている。

「唐兵に構うな! 撤退だ!」

 重ねてラジンが叫ぶと、少しずつ百済兵は逃げることに専念していった。

 それでも被害は増す一方である。

 北へと逃げる博麻たちに、劉仁軌の軍は執拗に攻撃を繰り返してくる。
 石弓を放ち、騎兵で追い詰め、足の遅い兵から次々に殺されていく。

 博麻とラジンは軍の中団にいた。
 後方から悲鳴が聞こえるが、いちいち全員を助ける余裕はないため、歯を噛みしめながらひたすら走った。

 やがて下り坂に差し掛かり、白江を見渡せるところまで来た。

「なっ……」

 博麻は白江を見て、絶句した。

 白江の水かさが大きく増していた。
 水の色は土色に濁り、流れも速くなっている。
 それどころか流木すら時たま流れてくる。

 下り坂には百済軍が密集していた。
 先頭のほうで黒歯常之が叫び、少しずつ部下たちを渡らせているが、明らかに来た時より手間取っている。

 背が低いか、もしくは泳ぎが達者ではない者が渡ろうとすれば、向こう岸に着くまでに溺れてしまう流れだ。

「おじさん……!」

 さすがのラジンも不安げな様子だった。

 これでは一度に大勢は渡河できない。
 また河を背にした軍は大変無防備である。
 このまま唐軍の突撃を受ければ、河へと強制的に押しこまれて全滅もあり得る。

 こうしている間にも唐軍は迫り、最後方の兵を殺戮している。
 もはや迷っている暇はない。

「ウンノ、すまない」

 博麻は天を仰いだ。
 顔に雨粒が当たる。
 容赦なく、降り注いでくる。

「お前を守り切れないかもしれない。彼との約束を、破ることになってしまった」

 ラジン改め、ウンノは首を振った。

「……ううん! そんなことないよ。おじさんは、私のことをずっと守ってくれたから」

 それから彼女は、剣についた血をそででぬぐった。

「それに、僕は最後まで諦めないよ。お父さんのように、死ぬ寸前まで諦めない」

 そう答えた彼女の顔は、闘志を取り戻していた。
 再びラジンに戻ったウンノを見て、博麻は息を吐いてから微笑んだ。

「そうだな。よし、最期まであがくか」

「うん!」

 博麻は斬馬刀を構え直し、ゆっくりと後方に歩きだす。
 ラジンも彼に続き、亡父の剣をくるくると軽やかに回す。

 我先にと逃げようと仲間たちに逆行して、二人は坂を上り、軍の最後方に出た。

 やはり唐の騎兵が押し寄せてくる。
 逃げきれない倭兵の背中を突き、転んだ百済兵をそのまま馬で踏みつぶしている。

 博麻は斬馬刀を振り抜く。
 血濡れた刃が馬たちの喉を裂き、騎兵たちが次々と落馬する。

 もう一度体をひねり、力をいったんたくわえてから、次は低く斬馬刀を振り回す。
 地面に転がった騎兵が頭を上げた瞬間、刃がその首を豪快に刈り取った。

 赤い血が勢いよく噴き出て、唐軍の先頭がたじろぐ。

 そこへラジンが狼のごとく躍りかかる。
 舞い散る血を浴びながら剣を次々に振って、辻斬りのように唐兵たちを斬りつける。

 ラジンに気づいた兵が武器を振り上げても、それをかいくぐり、こちらに気づいていない兵の急所を引き裂き、再び逃げる。

 唐兵の一人が、囲んで捕まえろと叫んだ。

 そこに博麻の斬馬刀が降ってくる。
 断頭台のように振り下ろされた刃は、唐兵の頭を半分に叩き割り、返す刀で近くの唐兵の腹を引き裂いた。

 二人の出現により、唐軍の空気が一変した。

 逃げる敵を殺すだけだと思った途端に、目の前で仲間たちが殺されていくのだ。
 意気揚々と戦っていた唐兵たちも、この光景を目にしたことで足が止まる。

 勝ちを意識した兵士は、死を極度に恐れる傾向がある。
 勝つ寸前で殺されたくないという生存欲求が、戦う覚悟を急激に鈍らせてしまうのだ。

「死にたいやつは、前に出ろ! 俺と一緒に、最期まで付き合え!」

「道連れになりたいやつだけ……来いよ!」

 知ってか知らずか、博麻もラジンも唐兵の恐怖を揺さぶる。

 血のしたたる武器を見せつけるように構え、一歩ずつ前に出る。

 二人がゆっくり近づけば、唐兵たちもゆっくりと後ずさる。
 唐兵たちは隣の仲間と押し合いになりながら後ろへ下がろうとする。

 その様子を後方から見ていた劉仁軌は、眉間にしわを寄せた。

「恐怖をあおったか……ここまで来て、面倒なことをしてくれる」

 たった二人を軍で殺すのは簡単だ。

 だが勝利は目前だというのに、この二人を討ち取るための犠牲者にはなりたくない。
 博麻たちの周りにいる唐兵のほとんどが、同じことを思って後退している。

 そこで劉仁軌は早めに手を打つことにした。

 何かのきっかけで恐怖が解けることもあるが、それを待っている時間も惜しい。
 こうしている間にも、百済と倭の主力が少しずつ河を渡って逃げている。

 劉仁軌が手振りを行うと、側近たちが素早く散らばる。
 唐軍の左右に騎兵たちが移動して、側近を先頭とした隊列を組み始める。

「何をする気だ」

 博麻たちは唐軍の中央の最前線と、武器を構え合って膠着状態を維持している。
 左右に散開していく騎兵たちの動きを不審に思ったが、二人とも自由には動けない。

 騎兵たちが動きだす。

 なんと接近している博麻とラジンを無視して、左右から倭と百済の撤退軍を狙い始めた。

 これには二人も驚いた。
 自分たちを殺すために騎兵を集めたのならまだ理解できるが、まさか自分たち二人を捨て置いて、追撃を再開するとは予想外だった。

「これで終わりだ。お前たちの悪あがきに付き合う義理はない」

 劉仁軌は馬上でせせら笑った。

 暴れていた二人が、命を捨てるつもりであることは容易にわかる。
 それを正面から突き崩すことは可能だが、そうすれば計算外の犠牲を払うかもしれない。

 その証拠に、先ほども博麻に側近が討ち取られている。
 武芸に秀でた部下が博麻に出くわして、返り討ちになってしまったという報告を受け、劉仁軌はひそかに苦い思いを抱いていた。

「いつでも殺せるやつと道連れになる気はない。そこで仲間たちが追い殺される様を見ていろ」

 そうつぶやく劉仁軌の目には、かすかな憐れみがあった。

 博麻は厄介な敵だったが、見ている分には面白い倭兵だった。
 もう一人の若い倭兵もかなりの腕前で、ここで殺すには惜しいと思うほどだった。

 しかし劉仁軌は私情を挟まない。
 あらゆる心を凍らせて、ただひたすらに戦勝を得るのが、将の本質だ。

「……くそっ!」

 博麻は悪態をついた。

 自分たちを無視して追撃する騎兵たちに気を取られたが、これではどうすることもできない。

 目の前には唐兵がずらりと並び、隙を見せれば一斉に襲いかかってくる。
 たとえ恐怖に飲まれていても、決して油断はできない。

 逃げる倭兵と百済兵に、唐騎兵が一気に襲いかかる。
 とにかく早く河を渡りたいと思い、戦意を完全に失っていた兵士たちに、どうしようもない暴力の波が押し寄せる。

 抵抗しようとする者もいたが、焼け石に水に過ぎない。

 槍に体を貫かれ、馬に吹き飛ばされ、軍全体が少しずつ白江へ押し出されていく。
 人の密度が濃くなり、押し合いへし合いとなった先に待ち受けるのは、河へ押し込まれた末に生まれる大量の溺死者だ。

 最前列で撤退の指揮をしていた黒歯常之も、坂の上を振り返って、嫌な汗をかいた。

 坂の上半分は唐騎兵が埋め尽している。
 後方から攻撃されて河へ押されているため、近いうちに多くの兵が河へ沈められるだろう。

「とうてい間に合わん……くそっ……」

 黒歯常之ですら、この光景に活路は見いだせない。

 今さら反転して戦う余裕はない。
 いくらか唐兵を道連れにできても、こちらが全滅するという結末は同じだ。

その時、彼の耳に大勢の人間の声が聞こえた。

 まさか西側で戦っていた土師、遅受信がここまで来てくれたのかと思ったが、そうではないとすぐに気づいた。
 あの二人の隊が来るなら、唐軍の後方から聞こえるはずなのだ。

「いたぞ! あそこにいたぞ!」

 その声は河の下流から来ていた。

 下流から現れたのは倭の船団だった。
 小ぶりな船ばかりだが、数が圧倒的に多く、そこに乗っている兵士の数は、黒歯常之と薩夜麻の隊を合わせても及ばないほどだ。

 船に乗っている倭兵は野太い掛け声とともに、息を合わせて櫂を漕ぎ、増水した白江をするすると上ってこちらに向かってくる。
 鎧は汚れておらず、疲れた様子もない。

「味方だ! 俺たちの味方だ!」

「みんな早く立て! 第二陣だ! 第二陣が来たぞっ!」

 百済兵は新たな敵襲かと思ってがく然としたが、すぐに倭兵が味方だと気づき、それを口々に叫んだ。

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