『第44話』任存城防衛戦:戦うことの意味

「博麻、少しばかり俺の話に付き合ってもらって良いか」

 丁寧に断わりをもらおうとする黒歯常之に驚きつつも、博麻は「ああ」とうなずいた。

「実はな、俺は一度、蘇定方に投降している」

「……はっ?」

 目の前にいる黒歯常之は、敵に降参するような人物には見えなかった。

「唐と新羅が攻め込んできた時、俺は蘇定方と争っていた。だが、王都が陥落し、義慈王が捕縛されたところで、ほとんどの部下が、俺に投降を進言してきた」

「それで、降参したのか」

「ああ。部下が続かねば、俺も戦えない……そして皆が言ったのだ。王都が陥落しても戦が続けば、兵も、民も苦しむだけだと。ここは耐えて、唐との交渉をするべきだとな。
 王が捕縛され、国としての形が失われれば、部下たちは百済の家臣として生きることができないと悟り、諦めたのだ」

「どういうことだ。諦めたところで、どうにもならないだろう」

 黒歯常之のかつての部下たちが放った意見に、博麻は反論した。
 この場にいる人間ではなかったが、早々に国を明け渡す選択をした者たちに呆れ果てていた。

「お前の言う通りだ」

 うなずいた黒歯常之の顔は、暗かった。
 自分も結局、投降した将だという後ろめたさもあるのだろう。

「しかし俺も最終的に戦うという選択肢を切った。百済という国が唐に塗りつぶされてしまうのは悔しいが、あの時の俺は、大勢の命が生き永らえることが最善だと判断した。戦わずに民の命が安堵されるなら、将としての屈辱は甘んじて受け入れるつもりだった」

 黒歯常之はそこで呼吸を置き、夜空を見上げた。
 彼は真顔だった。先ほどまでの軽妙な様子はどこにもない。

「だが、それは大きな間違いだった」

「間違い?」

「そうだ。はじめは蘇定方が百済を攻める主力だったが、唐と高句麗との戦が激しくなると、蘇定方など有力な将たちは、対高句麗に向けて動いた。自然と百済領には別の将たちが派遣され、次第に唐兵の軍紀は乱れ始めた」

 軍紀が乱れたと聞けば、博麻でもその後のことは察せた。

「歯止めの利かなくなった兵は、やりたい放題だった。男は小刀で肉を少しずつ削がれて殺され、女も犯された後にほとんど殺された。
 子どもに至ってはさらに残酷だ。母親の前で殺された後、その死体は玩具のように弄ばれ、井戸や道端に投げ捨てられた。例外なく、唐兵に見つかった村はそうなった」

 語る黒歯常之の目は、暗い悲しみと怒りに燃えていた。伝聞で知ったことではなく、その光景を自分の目で見て、怒り狂ったことがうかがえる。

 博麻は言葉を失っていた。

 唐兵が残虐なのは百済人からある程度聞いていたが、これほどまでの鬼畜ぶりとは思っていなかった。

 倭国の港に逃げて来た百済人が、どこか壊れたような目をしていた理由がわかった。
 親兄弟が身を削られて殺され、妻や我が子が散々に弄ばれて殺されたら、心そのものが壊れるのは当然だ。

「俺が起こしたあやまちだ。俺の見立てが甘かったせいで、無辜の民が犠牲になったのだ。抵抗せず降参しても、唐兵は慈悲の欠片も与えず、むしろ抵抗しないなら好都合だと、拍車をかけて残酷な行為を行っていた」

 黒歯常之は息を吐いてから、話を続けた。

「後の祭りだったが、俺が再び挙兵したのはその後だ。任存城に立て籠もり、兵を集め、唐軍を駆逐した。前線に蘇定方も戻ってきたが、もはや俺には諦めるという選択肢はなかった。勝たねば、再び百済人が虐殺されることは目に見えていたからだ」

 そこで黒歯常之は、夜空から視線を移して、博麻に向き直った。

「戦場で大勢を殺す感触に、慣れろとは言わない。だが、お前が迷えばどうなるか考えろ」

「俺が迷えば、どうなるか……」

 自分が迷えば、自分が戦わなくなれば、どうなるのか。

 今日の戦で、薩夜麻は唐軍に狙われた。
 彼の周りに博麻以外の兵士はいたが、一斉に唐軍が押し寄せればどうなっていただろう。

 また、今日の戦に限らず、自分が戦わずに百済領が侵攻され続けたらどうなるだろう。

「後に平和な世が訪れたら、我らは愚かで頑固な者たちだと言われるだろう。王を失い、国の存続すらも危ういのに、なぜ武器を捨てないのかと誹謗されるに違いない」

 自分のやってきたことと、今やっていることの是非は、黒歯常之自身もわかっていない。

 それでも彼は迷いを断ち切ったのだ。
 未来や理想よりも、今ここで踏みにじられている者たちを助けるために、現在を刻み続けている。

 そして博麻に、自分と同じ轍を踏んでほしくないのだ。

「だが、何もせずに平和がやってくるなど、それこそ甘い幻想だと学んだよ。戦わずに平和を得ようとして、『平和』という花を闇雲に得ようとしていた。その結果、目の前で苦しむ民に気づかず踏みつけていたのだ。なんともむごく、卑しいことだろう」

「戦わずに平和を求めるのは卑しい、か」

「そうだ。それに比べれば、今の倭国の指導者は現実がよく見えている。百済が滅んだ後は倭国がどうなるのかわかっている」

「……たしかに、そういう打算的な考えもある。百済の人々には悪いが、唐帝国は倭国にとっても脅威だからな」

「ははっ。だが、それについて不満はない。どんな思惑だろうと、物資は物資、援軍は援軍だ。そのおかげで俺たちは助かった。もっともらしいことを言って、誰も助けない人間が一番おぞましいからな」

 抵抗を放棄した部下と、それに押し切られた過去の自分を重ねているのだろう。 
 黒歯常之の笑い声は、どこか自虐的で寂しげだった。

 理想を求めるのも悪いことではない。
 戦という異常な空間を作らず、手を取り合って生きることができれば、これほど素晴らしいことはない。

 しかし一方で、血なまぐさい光景から目を背けてしまえば、助けられる者も助けられない。
 圧倒的なまでに残酷な現実に、背中を向けても、道はないのだ。

「黒歯常之どの」

 自然と博麻は片膝をつき、頭を垂れた。

「俺に貴重な経験をご教授いただき、ありがとうございました。あなたに、戦という現実を改めて教えてもらいました」

 態度を変え、深々と頭を下げた博麻を見て、黒歯常之は驚いていた。
 それから、彼は小さく首を振った。

「なにも大したことはしていない。俺の犯したあやまちが、どこかで繰り返されなければ、それで充分だ」

 そして博麻の目の前に、斬馬刀の柄が差し出された。
 博麻は一瞬どういう意味かわからず、顔を上げた。

「これは?」

「やるよ。今日のお前の戦利品だ」

 そう言われて博麻は受け取ろうか迷ったが、黒歯常之が真剣な目をしていたため、黙って斬馬刀を受け取った。

 斬馬刀を手に取ってみると、想像以上の重さが腕全体にのしかかった。

 槍のように長い柄を持っているというのに、先端には巨大な刃がある。
 刃の長さは博麻の腕とほとんど変わらず、斧のように分厚いため、馬ごと力ずくで叩き割れるだろう。

 また柄も樫の木でできているため、これだけでも人間を殴り倒せるほど頑丈だ。
 実際に博麻もこの柄でみぞおちを突かれたため、その威力はわかり切っている。

「これは、凄いな」

 後世の中国では偃月刀、西洋ではグレイブと呼ばれる武器だが、この時代を生きる博麻や黒歯常之にしてみれば、まさに名前の通り、馬ごと敵を斬り裂く刀と呼ぶにふさわしい。

 気を抜けば取り落としてしまいそうな重さに驚きながらも、博麻は斬馬刀を構えた。

「試しに振ってみるが良い」

 黒歯常之がうながし、博麻も「わかった」と答えた。

 構えた時から、中途半端な力では振り回されると察していた。
 博麻は深呼吸して、下っ腹に力を入れた。
 そして手の中で斬馬刀をしっかり握りしめてから、大きく踏み込み、振り下ろした。

 どうっという、重く、低い音が鳴った。
 空気を荒々しく引き裂く音だった。

「ふむ、悪くない。あとは体全体を使って自在に振り回せば、もっと戦えるだろう」

 そう評した黒歯常之は、背を向けた。

「さて、真面目くさった話は疲れた。俺はもう寝る」

 博麻は振り向き、去っていく黒歯常之の背に一礼した。

「感謝する。黒歯常之どの」

 この言葉に彼は振り向かず、一度だけ手を振った。

 黒歯常之を見送った後、博麻は月へ目を向けた。
 今日も地上では大勢が殺し、殺されたというのに、月も星も、何も変わらず輝いている。
 空や海に広がる大自然にとって、人どうしの争いは、たまらなく滑稽で無価値に見えているかもしれない。

 それでも博麻のやることは決まっている。他のものには目もくれる余裕はない。

 己の行動に善悪も、価値も関係ないのだ。
 守るべきものを守り、為すべきを為して、大地に転がって死んでいくのが人間なのだから。

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