『第38話』任存城防衛戦:任存城の危機
「……以上が、我ら倭国の第一陣でございます。本日より我らは、五千の兵を率いて唐・新羅連合軍と戦い、百済復興のために死力を尽くす所存であります」
最後に秦が締めくくり、百済の諸将が一礼した。
一通りの紹介が済むと、鬼室福信が戦況の説明を行うことになった。
ただしそれは、この大広間では始まらず、鬼室福信は大広間のすみにあったはしごへ案内した。
「皆様、続きましては上の階に上がられたい!」
すくっと鬼室福信は立ち上がり、百済の諸将も続く。
倭の諸将も少し面食らったが、特に何も言うことなく、はしごを登って上の階に向かった。
上の階は壁がなく、代わりに胸の高さほどの柵で囲まれている。
柱と屋根はあるので、多少の雨風はしのげるが、山の頂上にあるせいか肌寒く感じる。
だが、見晴らしはとても良好で、ここなら東西南北が見渡せる。
ここより高い山の奥は見えないが、南の白江と、西の海は視界に入っている。
今度は誰も座らず、倭と百済の将が入り混じって立っている。
まだお互いに距離感を測りかねながらも、鬼室福信は構わず説明を始めた。
「戦況を説明いたします! まずはご存じの通り、南に白江がございます」
鬼室福信は南側に移動し、手で白江を示した。
「あの大河は、この周留城の北東から東、東から南へ流れ、城の南を横切って西の海へ流れ着きます」
それから彼は北に移動した。
「この通り、城の北は山地が広がり、やすやすと進軍できる場所ではございません」
そう言いながら、彼の指は北東を指した。
「ですが、泗沘城はここより北東に位置し、城の北、西、南は白江に守られております。
地続きで攻め込めるのは東側ですが、東は山が広がっているため、ここも一筋縄では攻められません。また、泗沘城を越えてさらに北東に進めば、熊津城という大きな城があります」
一同が北東を望む。泗沘城と熊津城を知らない倭の諸将は、特にじっくりと北東の山の先へ、目を凝らした。
「現在、この二城は唐軍によって占領されています。泗沘城には劉仁願という将が、熊津城には蘇定方という将がおり、この蘇定方という男が唐軍の大将でございます」
劉仁願と蘇定方。
この二人の名を、倭の諸将は胸に刻んだ。
あくまで極論だが、この二人の将さえ討ち取れば、すなわち倭と百済の勝利である。
簡単なことではないが、積極的に討ち取れる機会を狙うべきだろう。
次に鬼室福信は別の方角へ向かおうとしたが、そこで阿倍が口を開いた。
「鬼室福信どの」
阿倍が話しかけると、思わず他の将たちも居ずまいを正した。
「はい、阿倍 比羅夫どの」
「説明の途中で申し訳ない。貴殿の知っている範囲で、敵将の手腕を教えていただきたい」
阿倍に問いかけられ、鬼室福信はできるだけ詳細に答えることにした。
「わかりました……まず、劉仁願は三十歳を少し超えたばかりの男で、極めて慎重に兵を動かします。蘇定方ほど脅威ではありませんが、無策で倒せる将ではないでしょう」
「なるほど。では、大将の方は?」
「蘇定方は唐帝国で長年戦ってきた将で、老いていますが、劉仁願よりも厄介な男です。
大胆かつ繊細に兵を指揮し、やつ自身も最前線で戦う豪傑でございます」
「用心深い将と、戦上手の老将か。わかり申した」
うなずいた阿倍は、まだ見ぬ敵将たちの姿を思い浮かべていた。
彼は第一陣の大将だが、倭軍全体の総大将ではない。
そのため第二陣の豊璋王が到着すれば、自ら最前線で敵将の命を狙える。
老いているといえども、戦列の後方でのんびりするつもりはない。
倭の勝利のためにも、いざとなれば自分が命を賭けて、敵将の首を狙ってやる。
そう決意しているからこそ、阿倍は敵将の名を真っ先に頭に入れておきたかった。
唐の将についての説明を終えると、鬼室福信は再び周辺の地理について話し始めた。
「なお、北西にはさらに山々が広がり、その山中には数多くの小城がございます。
これらの山城は我ら百済の将兵が守っており、唐軍といえど、いまだ全てを落とすことはできておりません。一つや二つ落とされても、逃げ延びた兵士が別の城に移動し、何度も唐と新羅の軍を苦しめております」
この鬼室福信の説明を聞き、百済の諸将の中には、わずかに表情を緩ませる者もいた。
王都を落とされたとはいえ、小さな山城どうしを行き交って敵を翻弄していることは、彼らにとって誇らしい手柄の一つだった。
「南の白江を越えた先は、水利の良い田畑が広がる平原となっており、その中心に避城(へじょう)という城がございます。
また、白江を越えて東に向かえば徳安城(とくあんじょう)という城があり、どちらも我が軍が守っております」
以上が、現在の周留城を取り巻く戦況であった。
他には新羅軍についての質問もあったが、現在の新羅軍は戦える状況ではなく、あくまで立ちはだかるのは唐軍だと、鬼室福信は答えた。
「もちろん新羅の大将、金庾信も名将です。しかし、今の新羅は高句麗に攻められ、数少ない食糧や物資を、唐軍に補給せよと要求されています。
そのため、まともに軍を動かせる状況ではありません。我らの城を奪い、周辺を脅かしているのは、ほとんど唐の軍で構成されています」
鬼室福信がそう説明すると、黒歯常之が鼻を鳴らした。
その場の一同の視線が、黒歯常之に集まった。
「だが、その新羅兵が砦や漁村に潜り込み、両軍に混乱をもたらそうとしたぞ。大軍が来ないとはいえ、まったく何もしてこないと考えるのは早計じゃないか」
この黒歯常之の発言に、倭の将たちの何人かはうなずいたが、逆に百済の諸将が、彼の発言を咎めた。
「口を慎みたまえ、黒歯常之どの! 泗沘城を奪い、今なお攻撃を仕掛けてくるのは、唐軍である! 新羅軍への無用の配慮は、兵たちの士気を削ぐではないか!」
「正武どのの言う通りだ! そもそも新羅兵が潜入したのは、貴殿の監視が行き届かなかったせいではないか?」
百済の将たちは目を吊り上げ、つばを飛ばして、黒歯常之を非難する。
まるで聞き分けのない子どもを叱りつける親のように、彼の発言を真っ向から否定し、頭から押さえつけようとしている。
このやり取りに倭の陣営もあっけにとられていた。
黒歯常之の意見は一理あったにも関わらず、それを頭ごなしに否定するということは、両者にはどのような確執があるのか。
その時の黒歯常之は、目線をそらし、つまらなさそうにため息を吐いていた。
場の雰囲気が悪くなり、誰が口を開くかとなったところで、城館の外から声が上がった。
「御大将、鬼室福信さま! 鬼室福信さまはおられますか!」
ある伝令の声が、城館の前から聞こえてきた。
どうやら二階に両軍の将が集まっているのを見て、外から大声で呼びかけたのだ。
城館に入ることなく叫んだということは、急を要する報告らしい。
「どうした!」
鬼室福信が諸将の間を通り、二階の南側の柵に近づき、兵に姿を見せた。
「何があった!」
さらに鬼室福信が問いかけると、兵は片膝を地面につき、声を張り上げた。
「申し上げます! 任存城に向かって、百隻を超える唐の水軍が海から迫ってきております! 報告に参上するまで丸一日経ったため、すでに包囲されたかと!」
この報告に、百済の諸将がざわめく。
任存城は百済領の北端を守る城で、泗沘城や熊津城よりもずっと北にある。
城は鳳首山という山の頂上に建ち、山の北側は湾岸を望む平野が広がっている。
唐の水軍は北の海からやってきたのだろう。
その城は、泗沘城を落とすための戦いに直接介入できない城だ。
しかし泗沘城と熊津城を山地から狙っている小城の多くは、任存城という後ろ盾がなければ戦えなくなる。
「城を守る、遅受信はどうした!」
遅受信(ち じゅしん)は任存城を任された将である。
頑固一徹で知られた歴戦の将で、鬼室福信も彼を重く信頼している。
「はっ、遅受信さまも抵抗を試みるとのことでしたが、海からやってきた唐軍の数はすさまじく、鬼室福信さまに救援を求むとのことです!」
「あやつが弱気になるということは、それほどの大軍か……」
苦虫を嚙み潰したような顔で、鬼室福信がつぶやく。
百済軍の最優先事項は、泗沘城と熊津城の奪還であった。
この二城には唐の将がはびこっており、倭軍の増援も得た今ならば、一気に奪還へ向けて攻めこむことも可能だと考えていた。
しかし、ここで任存城が唐軍に狙われた。
山地にいくつもある小城を取られるならまだしも、任存城は百済北部で最大の城である。
ここを取られてしまえば、北部の支配権は完全に失われ、北西の山地から泗沘城を牽制することができなくなる。
「唐軍め、周留城の我らが死にかけだと思ったか! みすみす任存城を取られるような百済ではないわ!」
ここで気を吐いたのは、鬼室福信と同格の官位を持つ、正武だった。
「鬼室福信どの! 我に四千の兵を賜われたい! ただちに唐軍を追い払ってみせよう!」
「ふむ……」
正武は四千人の兵で援軍に向かいたいと、鬼室福信に申し出た。
この申し出に鬼室福信は即答せず、わずかに眉を寄せた。
任存城は重要な城であり、そこに立て籠もる遅受信も優秀な将だ。
見捨てるという選択肢はあり得ない。すぐに援軍を送ることに関しては全員一致するだろう。
しかし大将である鬼室福信は、こちら側に残された兵力と、今後の泗沘城奪還に必要な兵力を考えなければならない。
任存城防衛に兵力を投入し過ぎれば、泗沘城奪還はおろか、他の城の防御すら危うくなる。
現在、百済軍の総兵力は八千人。
そして兵士は各地の城を守っているため、限界まで結集させても六千人が限界だろう。
つまり正武が必要と判断した四千人の援軍も、決して大軍ではないが、今の百済軍にとっては相当な兵力だ。
「わかった。ならば正武どの、貴殿に任せ……」
鬼室福信が言いかけたところで、今度は別の兵が城館の前にやってきた。
先に来た兵とは違い、次に来た兵は農民と同じ格好をしており、汗と泥にまみれていた。
どうやら、かなりの距離を移動して戻ってきたらしい。
「おっ、御大将に申し上げます! 熊津城の唐軍に動き有り! 熊津城は守備兵のみを残し、蘇定方が任存城へ向けて出陣しました!」
農民に化け、熊津城を探っていた伝令兵の報告は、一同の表情を凍りつかせた。
「なっ……馬鹿な、それはまことか⁉」
ある百済の将が怒鳴ると、兵はさらに声を張り上げた。
「ははっ! まことでございます! 偽りの出陣ではなく、山越えのための食糧、物資を積んでおり、本格的に任存城に向かう腹積もりと思われます!」
報告の信憑性が増していくにつれ、百済の諸将に動揺が広がる。
また倭の諸将も、先ほど知った唐の大将が出陣したという事態を、重くとらえていた。
北の湾岸から新手の唐の水軍百隻が、さらに南東の熊津城から蘇定方の軍が、同時に任存城に迫っている。
援軍を申し出た正武も黙ったままだ。
蘇定方が来ても問題ない!と、一蹴することはできなかった。
もはや四千の兵だけではあまりに心もとない。
それどころか六千の兵で救援に向かっても、勝てるかどうか怪しい状況になってきた。
「なんだ、大したことでもない」
重苦しい沈黙を破ったのは、黒歯常之の一言だった。
「こっ、黒歯常之どの! 軍議の最中にみだりに軽口を挟むのは、控えていただきたい!」
先ほど紹介された、達率の執得という将が咎める。
しかし黒歯常之は睨みを利かせて黙らせた後、鬼室福信に相対した。
「私なら蘇定方を打ち破れます。あなただけは、わかってくれているはずだ」
黒歯常之の言葉に、鬼室福信は一度うなずいてから、正武に向き直った。
「正武どの、これから泗沘城を奪還するために貴殿の力が必要になるだろう。今回の援軍は、黒歯常之どのに任せてもよろしいか?」
正武は顔をしかめ、腕を組んでいたが、しぶしぶとうなずいた。
「鬼室福信どのの采配に、お任せします」
正武への断わりが済んでから、鬼室福信は再び黒歯常之の方に相対した。
「黒歯常之どの、そなたに援軍を率いてもらうことになった。任存城の防衛、必ずや果たしていただきたい」
「承知いたしました」
「うむ。率いる兵は四千人でよろしいか」
「いいえ、千人で充分です」
目の前で話していた鬼室福信を含め、全員が耳を疑った。
黒歯常之が何か言うたびに非難していた将たちですら、言葉が出てこなかった。
「……まことに、千人だけで良いのか?」
聞き間違いかどうかの確認も含めて、もう一度、鬼室福信は問う。
にやり、と黒歯常之は笑った。
「兵力も大事ですが、まずは城が落ちる前に間に合わなければいけません。その点、千人ならばただちに結集可能です。もちろん任存城を守りきるには、事足ります」
断言した黒歯常之に対する、百済の諸将の反応は様々だ。
大言壮語だと呆れる者、唐軍を侮り過ぎだと憤る者が大半だが、彼らの頭の片隅には、この男ならもしや、という期待の感情もある。
また、このやり取りを見ていた倭の諸将は、黒歯常之の自信に素直に驚いていた。
とてつもない自信家だなと博麻がつぶやき、隣にいた薩夜麻もうなずいた。
「ただし、一つお願いがあります」
お願いと聞き、一同はすぐに口を閉じて、黒歯常之に注目した。
「今回の援軍、倭軍の方々も一部同行していただきたい」
突然、話題の中心に入ることになった倭の諸将は、驚いて顔を見合わせた。
「倭軍の協力も得て、任存城を守ると?」
「はい」
黒歯常之がうなずくと、百済の諸将は拍子抜けしたような空気になった。
彼らにとって黒歯常之は、鼻持ちならないが大変有能な男であり、他人の助けを借りずに成果を上げることがほとんどであったのだ。
その黒歯常之が他人の、ましてや異国の軍の協力を得ようとしている。
この珍しい言動を不可解に思うとともに、なぜ同じ百済人の我々に助けてほしいと言わないのかと、嫉妬めいた感情を抱く者もいた。
「ちなみに聞くが、倭軍にはどれほど援軍に加わってほしいのだ?」
鬼室福信の問いを受け、黒歯常之は倭軍の方を見渡してから、答えた。
「最低で五百、多くても千人加わっていただければ、充分かと」
この答えに、両軍が唖然とした。
百済側の負担を減らすために、倭に兵を多めに出してくれと要求するのかと思いきや、黒歯常之が要請した兵はあまりに少ない。
「黒歯常之どの」
正武が口を開いた。
「本当にたかが二千人程度で、あの蘇定方を撃退するつもりか」
この正武の問いに、黒歯常之は「その通りです」と答えてから、さらに続けた。
「蘇定方は強い。しかし、決して勝てない敵ではありません」
そして黒歯常之は不敵な笑みを浮かべ、阿倍のほうに向き直る。
「翌朝、出陣します。倭の方々も、ご助力よろしいでしょうか」
「うむ。百済をお救いするために我らは馳せ参じた。なんの遠慮もなく、将兵を使ってもらって構わない」
阿倍の承諾をいただき、黒歯常之は一礼してから、顔を上げた。
「時に阿倍どの」
「なにか?」
「こたびの倭軍の陣容はどのようなものにするつもりですか?」
出陣を要請した上で、さらにその編成内容まで質問する。
この黒歯常之の遠慮のなさに百済の諸将はうろたえた。
しかし阿倍は怒ることなく、倭の諸将を見渡してから、黒歯常之に返事した。
「そうだな。陣容なら、今この場で答えても良いぞ」
「なんとすばやきご決断。良ければ、お聞かせ願えますか」
黒歯常之にうながされ、阿倍は即座に答える。
「土師 富杼から三百人、筑紫 薩夜麻から三百人、そして我が隊から四百人を駆り出し、合わせて千人の隊で助力させていただこう。この千人の指揮は、我が行う」
いきなり抜擢され、土師、薩夜麻、そして博麻が姿勢を正した。
事前の取り決めなどは何もないが、これは大将からの命令であり、一度言ったからには決定事項となる。
任存城を救援する倭軍は、土師隊、薩夜麻隊、阿倍隊を混成させた千人の軍だ。
「なんと! 大将である阿倍どのが、自らご出陣してくださるとは」
同じ大将格である鬼室福信が驚くが、阿倍はふっと笑って首を振る。
「あくまでも我は第一陣を任されているに過ぎない。第二陣とともに豊璋王がご到着すれば、我も一介の将となる。
戦しか知らぬこの老いぼれが、城内でのんきに粥をすすっているわけにはいかぬ。前線にて駆け回り、この手で唐兵を討ち取る方が性に合う」
阿倍は第一陣の大将という肩書を持っているが、自分は大将の器ではないと断じている。
そのため必要となれば前線で命を懸け、仮に自分が死んでも、秦や物部などに大将を任せても問題ないと考えていた。
「物部どの、我がいない間、残る四千人はそなたに指揮してもらう。秦どのと密に協議し、鬼室福信どのを助けるように」
「ははっ!」
物部が頭を下げる。
「黒歯常之どの、我々はこの陣容で出陣するが、よろしいか」
「はい。あなた方がついてくださるなら、蘇定方も恐れる敵ではございません」
こうして倭・百済の援軍二千人が、北の任存城を救援することとなった。
倭軍が挑む初陣の敵は、唐の総大将、蘇定方。
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