『第56話』同時攻撃作戦:黒歯常之の次善の策

 奇襲に成功した唐軍は筑紫隊を崩壊させ、黒歯常之の隊にも攻撃を仕掛けている。

 薩夜麻の指揮の下、はじめは山林で唐軍を押しとどめていた。
 しかしその防衛線も完全に突破され、城を攻めていた黒歯常之の隊も挟み撃ちを受けていた。

「筑紫隊はどうした!」

 珍しく黒歯常之が怒鳴る。

 城を攻め始めた時は順調だった。
 城にこもっていた唐兵と新羅兵は必死に抵抗してきたが、やはり守る兵の数が少なかった。
 壁を登ろうとする百済兵を阻んでいるが、門の破壊を止めるところまで手が回っていなかった。

 ゆえに門の破壊は時間の問題だと思いきや、後方から唐兵が現れて襲いかかってきた。

「筑紫隊はおよそ半数が討ち取られ、山林は唐軍にほとんど突破されています! 現在は筑紫隊よりも、我が隊に狙いを定めている模様!」

 伝令の報告を聞き、黒歯常之は舌打ちした。

「どんな将か知らんが、なかなか嫌な手だ。まさか城を囮にして奇襲するとはな」

「い、いかがいたしましょう」

「後ろを迎撃しつつ、このまま城を取るぞ。熊津城の敵兵はわずかだ。ただちに城さえ奪えば敵の逃げ場はなくなる」

 黒歯常之は城に視線を戻した。
 熊津城の城門は半壊状態で、間もなく完全に破壊される。

「黒歯常之どの」

 声が聞こえたほうに目を向けると、左後方から血だらけのラジンが出てきた。

「ラジンか……その格好は」

「返り血だよ。別に怪我はしてない」

 そう言いながら、ラジンは荒い息を吐いている。

「自分の場所に帰れなかったようだな」

「とにかく唐兵を斬ったけど、多すぎる……おじさんと薩夜麻さまが危ないのに!」

 血まみれでいきり立つラジンに、黒歯常之の周りにいた百済兵は寒気を覚えた。

 黒歯常之の隊の様子を見に行ったラジンは、その途中で唐軍の奇襲を受けた。
 いきなり現れた唐兵に驚いたものの、彼女は多くの唐兵を死体に変えた。
 起伏のある山林でも俊敏に動く彼女に、傷をつけられる唐兵は一人もいなかった。

 しかし結局、大勢の唐兵に押しこまれてここまで来てしまった。
 筑紫隊に帰りたくても、無数の唐兵がいる中を縫っていくのは危険すぎる。

「どうすれば良い? どうすれば唐軍を蹴散らして、この戦に勝てる?」

 興奮した様子で尋ねるラジンに、百済兵は思わず身構えた。
 敵ではないとわかっていても、今の彼女は不気味な存在に見えた。

「決まっている。俺たちが熊津城を落とすことだ」

「それが、最善?」

「そうだ」

 黒歯常之とラジンの視線がぶつかる。

 ラジンが剣を握り直した。
 それに気づいた一部の百済兵が、彼女に槍を向けそうになる。

 ラジンは剣を納めた。
 そして背中の弓を下ろし、城に向けて矢を引き絞った。

 ぱぁんっと弦が鳴り、矢が真っ直ぐ飛ぶ。
 矢は城壁の上にいた唐兵に命中し、その唐兵の死体は城外に落ちた。

「手伝うよ。その代わり、城を落としたら筑紫隊をなるべく助けて」

 ラジンの願いに、黒歯常之は「承知した」と返した。

「本当に?」

「当たり前だ。俺としても、味方は少しでも生き残ってくれたほうがありがたいからな。薩夜麻や博麻にここで死なれては後々困る」

「それなら良かった」

「うむ……間もなく城門を突破する。お前も一緒に突き進め」

「わかったよ」

 ラジンは弓を背中に戻し、再び剣を抜いた。

 二人の前方では、城門前の攻防が行われている。

 百済兵は破城槌で城門を叩きながら、隙を突いてはしごを立てて城壁を登ろうとする。
 唐と新羅の兵は石や矢を飛ばして妨害しようとしているが、城門はほとんど壊れかけている。

 ひと際大きな声を張り、百済兵が破城槌を打ちつけた。
 その一撃が決め手となり、門が崩落した。

 うおおおっと百済兵が叫ぶ。

 ついに城に攻めこめる。
 苦しい戦いになったが、城を落とせば勝てる。
 名のある敵兵を倒せば、大きな褒美も思いのままに受け取れる。

 最高潮の士気に達した百済兵がなだれこんだ直後、彼らの雄たけびが悲鳴に変わった。

「罠だ! 落とし穴だ!」

 誰かが必死に叫んだ。
 しかしその声は多くの百済兵に届かず、押し合いへし合いとなって、混乱が広がっていく。

 次の瞬間、さらに恐ろしいことが起こった。

 壊れた城門の下から、激しい火柱が立ち昇る。
 城門の裏側に掘られた落とし穴は、油を溜めた池になっていた。

 落ちた百済兵はもちろん、後続の百済兵も炎を浴びてもだえ死ぬ。

 罠はこれだけではなく、城門の奥から次々と矢が飛んでくる。
 炎の奥には、石弓を構えた唐兵がずらりと並んでおり、団子状に固まっていた百済兵は矢を浴び続ける。

 さすがの黒歯常之も息を呑み、それから歯噛みした。

「くそっ……城門を破られることが前提だったとは……!」

 戦上手で鳴らした彼にとって、ここまで上手くいかない展開は初めてだ。

 これが野戦であれば、黒歯常之は縦横無尽に活躍して、戦況を覆せただろう。
 しかし攻城戦は時として思わぬ罠が潜んでおり、彼の機動力も活かしきれない。

 黒歯常之が発案した二正面作戦も良策であったが、この熊津城を任された劉仁軌は、さらに一段上の策略家だった。

「もはや最善の結果は取れない、か」

 黒歯常之はため息をついた。

 だが、彼の目は死んでいない。
 それどころか、ほの暗い決意の炎を燃やして、熊津城をながめている。

「ラジン、耳だけ傾けろ」

「……なに?」

 二人は城の状況を見ながら話し合う。

「これでは城が奪えない。仮に奪えたとしても、ここからさらに多大な犠牲を払った上で、外に残っている唐軍から城を守らなければならん」

「それで、どうするの?」

「撤退する。城を囮にして俺たちを滅ぼすつもりなら、最低でもその狙いは防がなければならない。ただちに反転して敵中突破し、撤退が成功すれば次善の結果だ」

 悔しさの残る結果となるが、黒歯常之は冷静さを失ってなかった。
 武人としての誇りより、次への勝利を選ぶと決めた。

「だが、このまま後ろの敵を打ち倒して撤退するのは厳しい。そこで頼みがある」

 黒歯常之はあごをしゃくり、城門から少し離れた城壁を示した。

「城に潜入し、城内に火を放ってほしい。俺の部下も数人、同行させる」

「え?」

「熊津城が燃えれば、さすがに唐軍の何割かは消火にあたるだろう……ただ撤退するよりも、大勢が生き残る結果となる」

「それが、次善の策」

「そうだ」

 黒歯常之はうなずいた。
 やはりただでは転ばない男だと、ラジンは思った。

「わかった。僕もやるだけやってみる」

「うむ、お前が城壁を登りきったら、腕に立つ部下も続けて潜入させる。油と火種も渡しておくから、盛大にやってくれ」

「承知したよ」

 ラジンは黒歯常之の側近から油壷と火打石を受け取り、それを腰に結んだ。

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