『第135話』白村江の決戦:秦の玉砕、そして敗戦

「皆は逃げよ。私は、責任を取る」

 秦はそれだけを言い残し、手近にあった味方の船に飛び乗った。
 その船に乗っていた倭兵も、半裸の秦がいきなり飛び乗ってきたことに驚いた。

 だが、秦は気にせず走り去り、また隣の船へと飛び乗っていく。
 やがて秦は、唐船に接触している味方の船にたどり着くと、そこから海に飛び込み、唐船の間を泳いで抜けていく。

 敵も味方も、誰も止める者はいなかった。
 目の前の敵に必死で、一人で泳ぐ秦のことを、しっかりと認識していなかった。

 そして秦は、ひと際大きな軍船によじ登った。
 軍船には『袁』と書かれた軍旗がはためいていた。

「な、なんだ貴様!」

 たった一人で乗りこんできた秦に、袁孟丁が怒鳴った。
 甲板には十数人の唐兵と、将である袁孟丁が立っていた。

「どけぇえっ!」

 秦は目を剥きだし、かっと口を開けて吼える。

 その剣幕に唐兵が驚き、腰を抜かす。
 兵に守られた袁孟丁も、思わずつばを飲みこんだ。

 腰砕けになった唐兵の首に、剣を振り下ろした。
 唐兵の首から血があふれ、秦の顔と体が血まみれになる。

 真っ赤な血にまみれた裸の戦士が、唐兵たちを睨みつける。

「かくなる上は、道連れだ。唐の人間は、一人でも多く殺す……百済王など、もはやいない……百済も、唐も、もうどうにでもなれ!」

 投げやりな怒りが振り切った時、人は変貌する。
 秦の場合は、まさにそれだった。

「いぁああああああっ!」

 血の涙を流して暴れる秦を目にして、唐兵たちは背筋を凍らせた。

 船上に現れた倭の将は、人間と呼べるものではなかった。
 すくなくとも正気の人間ではなく、まさに鬼であった。

「矢だ、矢で殺せ!」

 袁孟丁が叫び、それに従って一斉に弓を構える。

 それでもなお、秦は一直線に突っこんでくる。
 怯むことなく、弓を持っている唐兵たちに襲いかかってくる。

「射てぇえ!」

 その掛け声とともに、十本以上の矢が発射される。
 秦の体にも、四、五本の矢が突き刺さった。

「が、がああぁ……っ!」

 矢が刺さり、秦の足が止まる。

「い、今だ! やれえっ!」

 将の命に応じ、唐兵たちが槍を構え、突撃してくる。
 しかし秦は、そのまま前進して、まともに槍を受けた。

 深々と槍が腹部に突き刺さるが、その分、唐兵との距離が近づいた。

「うぶっ……ぐっ、がああああ!」

 秦は自分を突き刺した唐兵の脳天に、剣を振り下ろした。
 剣は砕けたが、その衝撃で唐兵の頭もつぶれた。

 そして秦は背中の双剣を抜き、無茶苦茶に振り回した。
 槍が刺さったまま、唐兵を斬り裂いていく。

「この、けだものがっ!」

 ついに袁孟丁が槍を構え、秦の胸を貫いた。

 秦が血を吐く。
 体から力が抜け、がくりと膝をつく。

 仕留めた、と袁孟丁は確信した。
 秦の胸から槍を引き抜き、穂先をわずかに下ろしてしまった。

 しかし次の瞬間、秦が跳びかかってきた。

「あっ」

 袁孟丁は声を上げた。
 槍を上げようとしたが、もう手遅れだった。

 秦は袁孟丁につかみかかり、そのままへりを越えて、二人揃って船から落ちた。

「うぁあああーーーっ……」

 叫びながら袁孟丁は落下し、秦とともに海に沈んだ。

 一瞬の出来事に、唐兵たちは呆然とした。
 誰もが気を緩ませた一瞬、秦は力を振り絞って、袁孟丁を道連れにした。

 どちらも二度と浮かび上がることはなかった。
 秦は致命傷を負い、袁孟丁は重い鎧を身に着けていた。

 倭の外交官であり将軍の一人、秦田来津、戦死。

 なお袁孟丁が行方知れずとなったことで、指揮系統に混乱が見られた。
 豊璋の船を守っていた秦、狭井、三輪、大宅の隊は、その隙に包囲を脱出した。

 大勢の倭兵が死んだが、全滅には至らず、残る三人の将も生き残った。

 こうして白村江で行われた海戦は、倭国の敗北に終わった。

 多くの倭の将兵が討ち死にし、ほとんどの船が燃えて沈んだ。
 落ち延びた者もいたが、それはごくわずかだった。

 対する唐水軍の被害は、少なかった。

 多少の兵は討ち取られ、沈んだ軍船もあった。
 しかし、いずれも手痛い被害ではない。
 行方不明となった将は袁孟丁のみで、残る将は健在だった。

 それでも唐軍の一部の人間は、この勝利を誇る気になれなかった。

 たしかに倭の水軍は、おそまつな軍隊だ。
 だが、中には恐るべき戦士もいる。

 前線で暴れた部隊、一矢報いるために乗りこんできた秦、そして、総大将である劉仁軌を討ち取ろうとした博麻と薩夜麻など、死を恐れず立ち向かう者たちが何人もいた。

 倭国も、倭人も、侮れない。
 唐の軍人の中でも、慎重で思慮深い者ほど、それを胸に刻んでいた。

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