『第53話』同時攻撃作戦:熊津城へ攻撃開始

 泗沘城で戦が始まってから二日後。
 熊津城を狙う倭・百済連合軍は二手に分かれて、熊津城の西と北に潜伏した。

 まだ朝日が昇っておらず、冷たい湿気が朝もやとなってただよっている。
 倭と百済の兵は息をひそめ、視界の利かない地平を静かに進む。

 熊津城は山の上にそびえ建ち、南側以外は白江に守られている。

 白江の外側にひそむ博麻たちから見れば、熊津城の姿は白江から立ち昇る朝もやに覆い隠されている。
 城の姿がおぼろげに見えるせいで、途方もなく堅牢な城砦に見える。

「でかいな」

 見上げてつぶやいた博麻に、黒歯常之が笑いかける。

「どうした、気後れしたか」

「まさか。はっきりとは見えないが、山自体は周留城より低い。あれなら簡単に登れる」

 そう言い放った博麻の横で、ラジンが「それも良いね」と答える。
 黒歯常之は面白そうにうなずいてから、周りにいる筑紫隊の面々を見渡した。

 冗談じゃないという顔で、筑紫隊の者たちは首を振った。

 武装しながら山登りできるのは、ここにいる中では博麻かラジンくらいのものだ。
 ましてや城から矢や石が飛んでくることが予想されるため、身一つで登るのは危険すぎる。

「やる気があるのは良い事だが、俺たちが進む順路は違う」

 黒歯常之は槍を前に向けた。

「まずは目の前の白江を渡る。水かさはあるが、慎重にいけば船が無くても向こう岸まで渡れるだろう」

 続いて槍の角度が高くなる。

「先に攻めるのは、土師と遅受信のお二人だ。彼らの軍が南西に敵を引きつけた後、俺たちも河を渡り、南東から熊津城を攻める」

 黒歯常之の槍はゆっくりと右へ移動し、最終的には山頂の城を示した。

「偵察の報告では、蘇定方の軍は南下しているとのことだ。戻る素振りはなく、今頃は泗沘城を守っているだろう」

 槍を下ろし、黒歯常之は静かに笑った。

「守りやすい城だが、今は手薄だ。この好機を逃さず、俺たちが北東から一気に攻め落とすぞ」

 そう言い残し、黒歯常之は愛馬の手綱を引き、自分の隊に戻っていった。
 博麻とラジンはそれを見届けてから、隊の最前列に戻った。

 最前列では、薩夜麻がすでに馬に乗っていた。
 薩夜麻の表情は固い。
 恐れているというより、意気込んでいるというほうが正しい。

「兄貴、ラジン、準備は良いですか」

「ああ」

「いつでも大丈夫」

 二人が答えると、薩夜麻はうなずき、大きく深呼吸した。

「若、ちょっと良いか」

「……なんでしょう」

 博麻は隊から少し離れ、薩夜麻を手まねきした。
 他の者と離れたところで、博麻は薩夜麻の腰を叩いた。

「気負いすぎだ。上手くいくものも、上手くいかなくなるぞ」

「そう、ですね」

 薩夜麻は笑ったが、それでも固さはほぐれていない。

「俺たちのために必死で学んでいることはわかっている。だが、死ぬときは死ぬんだ。それを恐れてはならない」

 そう言ってから、博麻は歯を見せた。

「あとは武運に任せ、俺とラジンを信じろ」

「……はい!」

 ようやく顔をほころばせ、薩夜麻はうなずいた。
 それから二人が隊列に戻り、しばらく待っていると、南西から騒ぎが聞こえてきた。

 土師と遅受信の隊が、熊津城を南西から攻撃したのだろう。
 すぐに黒歯常之の隊から伝令が来た。

「筑紫どの、間もなく渡河を開始します」

「了解した」

 薩夜麻の返事を受け取り、百済の伝令兵は去っていく。

 空を見上げると、青く暗かった空がだんだんと白くなっていた。
 朝日が山から顔を出し、もやの中でも前方の光景がかなり判別できるようになった。

 今ならば進軍しやすく、敵からも発見されづらい、絶妙な薄暗さだ。

「行くぞ!」

 声量は絞りつつ、素早く弾くような声で黒歯常之は命じた。

「進め!」

 同じく薩夜麻も命を出し、進軍を開始する。

 まずは目の前の白江を渡る。
 ここ数日で春がやって来たとはいえ、早朝の冷えこみは厳しい。
 河の水は凍えるほど冷たく、細かい刃物が足の皮膚に刺さったかのような痛みを感じる。

 兵士たちは寒さと痛みに耐えながら前進するが、なかなか進まない馬も見受けられる。
 人間なら我慢するという感情はあるが、動物は悪い刺激に対して素直だ。

 ただし、黒歯常之の馬は何事もなかったかのように、河に入っていく。

「どうしても進まないなら、自分から入れ!」

 馬上の黒歯常之が小さく怒鳴ると、彼の後ろにいた騎兵が身を固める。

 馬の性格によるが、乗り手の不安はどんな馬も感じ取る。
 河に入って大丈夫だろうかと乗り手が考えるだけで、さらに不安を抱く馬もいる。

 だからこそ、自分から率先して入れと命じた。

 馬も自分の主人が河に入っていけば、多少なりとも不安は減っていく。
 ほとんど騎兵が下馬して、馬をなだめながら続々と河へ入っていく。
 それでもためらう馬も多かったが、結局は河に入り、歩兵と一緒に進んでいった。

 身を切るような冷たさと戦いながら、倭と百済の兵はついに河を渡りきった。

 博麻は自分の足をもみながら、「なかなかだったな」と言った。
 どれだけ体が強くても、筋肉が芯から冷えたのも事実だ。
 手で足の筋肉をほぐしておかなければ、思わぬ負傷を負いやすくなる。

「服を絞れる者は、手早く絞れ! 足もほぐすのを忘れるな」

 馬上の薩夜麻が指示すると、倭兵たちは言われた通りに動く。
 彼らも春の河の冷たさにこたえていたため、必死に足をほぐし、少しでも服の水気を取っていく。

 そんな中、ラジンは隊から離れたところで、両足を揃えて飛んでいた。

 彼女なりの準備運動だろう。
 一定の間隔で飛び跳ね続けて、足を温めながら水気を飛ばしている。

「ラジン」

「うん?」

 飛び跳ねているラジンに、博麻が声をかけた。

「そろそろ終わりだ」

「わかった」

 ラジンは飛ぶのをやめて、剣を抜いた。

「隊の先陣は僕たちだよね」

「そうだ。黒歯常之どのの隊を追い、熊津城に攻めこむ」

 博麻も双斧を抜いた。

「あれ、斬馬刀じゃないんだ」

「城の中では思いきり振り回せないからな。必要な時に、必要な物を振るう」

「ふふ、あの黒歯常之って人みたいなこと言うね」

 ラジンが笑うと、博麻も照れくさそうに笑った。
 言われてみて初めて気づいたが、斬馬刀を受け取ったあの夜から、黒歯常之を手本にしている節はあった。

「あの男は優秀な将だからな。それに、やつの考え方は共感しやすい」

 博麻はそう答えてから、前を見た。

 河を渡った先はなだらかな上り坂が続いている。
 ここを登り切れば、熊津城の北東に出る。

「隊列を揃えろ。進軍するぞ!」

 黒歯常之の指示が飛ぶ。
 河を渡り終えた百済兵が列を整えていき、騎兵を最前列にした陣形が完成する。

 彼が最も好む陣形だ。
 百済騎兵の速度を活かした、最速の戦ができる。

「ここからは足を止めるな! 一息で熊津城を落とすぞ!」

 黒歯常之の声に、兵たちが応! と叫ぶ。

 将が自ら先陣を切り、百済軍が発進する。
 土煙を残しながら離れていく百済軍を見てから、薩夜麻が声を張った。

「こちらも行くぞ! 進軍!」

 その声とともに、筑紫隊が前進する。

 馬に乗っているのは薩夜麻だけだが、筑紫隊の足も負けていない。
 百済軍と比べて装備が身軽という点もあるが、倭の男は健脚ぞろいだ。

 薩夜麻は隊の中ほどを進み、博麻とラジンが先頭だ。
 二人は全力で走らず、仲間たちから離れすぎない速度で百済軍を追いかける。

「右に曲がったね」

 百済軍の最後尾の動きを、ラジンは口にした。

「どこからでも登れそうだが、傾斜が緩いほうが大勢で攻めやすいからな。間もなく道が見えてくるだろう」

 そう言っているうちに、百済軍が傾斜を登り始めた。

 道なき山林が広がっているが、傾斜はとても緩い。
 木々さえかき分けて登れば、熊津城の東を攻めることができる。

 その間も、西から激しい戦闘の音が聞こえる。

 土師と遅受信の隊を、唐軍が迎え撃っている最中なのだろう。
 離れていても、その衝突の激しさがうかがえる。

 熊津城に残っていた唐軍のうち、一体どれほどの兵が南西の迎撃に出たのだろうか。

 黒歯常之や博麻たちの懸念はそれに尽きる。
 なるべくなら大多数が西に出撃して、城にわずかな兵しか残っていないという状況が最も望ましい。
 西に唐軍を引きつけてくれる土師と遅受信の負担は大きくなってしまうが、そのほうが簡単に熊津城を落とすことができる。

 あくまで目標は熊津城の奪還である。

 それさえ達成できれば、城外に残った唐軍は逃げ場を失い、楽々と討ち果たせる。

 筑紫隊が山を登っている途中で、黒歯常之の隊の先頭が騒がしくなった。
 鉄と鉄がぶつかった音と、人間の怒号と悲鳴が混じり合って聞こえる。

「敵の守備兵に見つかったようだ」

「城にはどれくらい残っているのかな?」

「わからん。だが聴こえる限りでは、黒歯常之の方が優勢そうだ」

 博麻たちが前方に目を向けても、百済軍の最後尾しか見えないため、戦闘の状況はわかりづらい。

 後ろに振り返れば木々のすき間から山のふもとが見える。
 平原と森がまばらに広がっているが、もやが晴れきっていないせいでよく見えない。
 朝日を反射させた白い朝もやがただよい、木々がもやからうっすらと顔を出している。

「ずいぶん激しく抵抗されているみたい」

 ラジンのつぶやき通りに、山頂のほうから凄まじい戦闘音が響いている。

 百済軍が押しているのは間違いない。
 しかし城にこもる唐軍も必死に抵抗しているらしく、先ほどからうまく攻めきれていない。

 当然、百済軍の後方と筑紫隊が、山林で立ち往生する羽目になっている。

「ラジン、百済軍をかき分けて、前方の状況を見てきてくれないか」

「僕は良いけど、隊を離れても大丈夫?」

「ただ待ち続けるよりマシだ。前の戦いの状況を偵察して、それから俺たちがどう動くか決めたほうが良い」

「なるほどね」

 ラジンが納得したところで、少し離れたところにいる薩夜麻に声をかけた。

「若! ラジンに、前の様子を見に行かせて良いか! このままでは待ちぼうけだ!」

 薩夜麻は少し思案してから、「ぜひ、そうしてください!」と返した。

「よし、若のお墨付きも得た。行ってきてくれ」

「わかった、見てくるだけで良いんだね」

「ああ」

 博麻がうなずくと、にこっとラジンは笑ってから走りだした。

 百済兵がひしめき合う山林を、ラジンは素早く駆け抜けていく。
 ものの数秒でラジンの姿は見えなくなったが、獣のように駆け抜ける彼女に、次々と百済兵が驚く様子は見えた。

 隊の中で最も健脚なのはラジンだ。
 持久力では博麻に劣るが、身軽さと脚の速さは倭軍の誰にも負けない。

 仮に戦いに巻きこまれてもラジンなら切り抜けられるだろう。
 剣の腕はもちろん、危険に対する判断も優れている。

 博麻は二本の斧を手の中でもてあそびながら、前方の斜面の先を見ていた。

 相変わらず百済兵の背中しか見えない。
 隊の先頭では激しい戦いが起こっているらしいが、博麻たちにはその様子がまったくわからない。

 いつしか百済兵や筑紫兵の中にも、気を緩める者が出てきた。
 鎧兜を脱ぐ人間はさすがにいなかったが、構えていた槍を下ろして体をうんと伸ばしたり、立つことに疲れて木々に背もたれ始めた。

 その様子を見た博麻は、周りの兵に喝を入れようとした。

「いや……おい、後ろから何か聞こえるぞ!」

しかし博麻が発した言葉は、仲間への喝ではなかった。

 山の上から聞こえる戦闘音にまぎれて、山のふもとから倭兵の悲鳴が聞こえてきたのだ。

 いち早く気づいた博麻が叫んだことで、周りにいた兵たちも一斉に後ろを向く。

 ふもとの朝もやの奥に、大勢の唐兵が見える。
 いつの間に現れたのかと驚いている暇はない。

 もうすでに筑紫隊の最後方は、唐兵から奇襲を受けている。

「若! 敵襲だ! ふもとから攻められている!」

 叫びながら、博麻は斜面を駆け下りる。

「はい! 者ども、後方から唐軍! ただちに押し返せ!」

 薩夜麻も馬首を返し、周りの倭兵に反撃を命じる。

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