第23話『詰問』

 弓削から話を聞いて以来、なるべく氷老と関わることを避けた。
 氷老もまた、博麻と距離を取り、必要以上に関わらないようにしている様子だった。

 しかし今回ばかりは、避けて通ることはできない。

 氷老は黒常とともに、芙蓉園に足を踏み入れ、何かしらの戦の準備を進めている。
 それがわかった今、どんな方法にせよ、氷老の真意を問いたださねばならない。

 おそらく芙蓉園で練られている戦の計画は、大詰めの段階となっている。
 あれほどの物資が集まっているのなら、どのみち標的が倭国であろうと、新羅であろうと、大規模な侵略戦争が可能だ。

 ならば、止めねばならない。

 そしてその計画に、氷老が深く関係しているのなら。
 氷老が倭国侵略に、知っていて手を貸しているのなら。

 博麻は別館の前で、拳を握った。

「迷うな。もしもの時は、俺が殺るしかない」

 そのつぶやきとともに、博麻は倭人用の別館に入った。

 別館の居間には薩夜麻がいた。

「兄貴、こんな時間まで調査ですか」

「まあな……氷老殿は、いるか?」

「え、氷老殿ですか」

「ああ」

 あの博麻が氷老に要件があると言ったので、薩夜麻は戸惑った。

「多分、もう部屋で休んでいると思いますが」

「そうか。ありがとう」

 博麻は居間を出て、氷老のいる部屋に向かった。

 その博麻の背を見送った薩夜麻は、何かただならぬことが起こると思い、自室で休んでいる弓削と富杼に報せに行った。

 博麻は氷老の部屋の前に立った。

 氷老と弓削の部屋は、博麻、薩夜麻、富杼と違い、監視も警備も緩い。

 特に氷老は、唐で長年働いていた外交官という立場であるため、唐人からもある程度の信頼を寄せられているのだ。

 ゆえに座敷牢のような部屋ではなく、まるで一人の詩人の書斎のごとく洗練された居室であった。

「入るぞ、氷老殿」

 博麻は氷老の返事を待たず、扉を開けて入った。

 氷老は椅子に座り、机に向かって紙に筆を走らせているところだった。
 残っていた事務仕事を片付けている最中だったか、あるいは手紙などをしたためていたところだろう。

 いきなり入ってきた博麻を見て、氷老は呆然としていた。
 博麻が断りなしに部屋に入ってきたのは、この六年間で初めてのことだ。

「何の用だ、博麻」

 氷老は明らかに歓迎していない様子だ。

 それどころか警戒しているともとれる態度で、書いている途中の書物もすぐさま椅子の裏に片付けるほどだった。

「いや、少しあんたに用があってな。なに、すぐに済む」

 博麻はそう言いながら、氷老のもとへ歩み寄る。

 氷老は身構えたが、逃げることはしなかった。
 薄々ながら、博麻の要件に勘づいているのかもしれない。

「座っても?」

 博麻は部屋の片隅にあった椅子を指し示す。

「……良いだろう」

 渋々といった様子で、氷老は了承した。

 博麻は椅子を引き寄せて、机を挟んで氷老と向かい合う位置に座った。

 両者が相対する。

 これまでの六年間、ほとんど口を利かなかった二人だ。

 一方は兵士として戦場におもむき、唐軍と激しく争った男だ。
 何人もの唐兵をその手にかけ、ついには捕縛されて捕虜となった。
 そして今も唐人から憎悪され、忌み嫌われながら、倭国を救うために暗躍している。

 もう一方は、早くから遣唐使として唐帝国に留学し、唐人ともそれなりに良好な関係を築いてきた男だ。
 倭と唐の戦争が起こるまでは、長安で順風満帆の生活を送っていたが、戦争が始まったことで捕虜あつかいに落とされた。
 そして今も同郷の倭人の兵士を憎み、唐人と築き上げた信頼を崩されたことを恨んでいる。

「あいにくだが俺は忙しい。要件があるなら、手短に済ませろ」

 氷老はそう言った。
 本来なら博麻と口を利きたくないのだ。

「そうか、ならばさっそく本題に入ろう」

 博麻は背もたれから背中を離し、わずかに前かがみになり、声を落とした。

「昨夜、どうしてあんたは黒常と芙蓉園にいた?」

 その問いかけに、氷老の表情が凍りつく。

 一瞬、静寂が包まれ、氷老が身動ぎした。

 その瞬間、博麻は懐から取り出した短剣を投げつけた。
 短剣は机の上にあった筆の先端を裂き、机に突き刺さった。

 目にも止まらぬ、投擲(とうてき)の技術だった。

「動くな。落ち着いて、俺の話を聞け」

 低い声で、博麻は制止する。

 氷老は博麻のことを睨んでいたが。それ以上は身動きすることなく、改めて椅子に座りなおした。

「さすが人殺しだ。戦場帰りの野蛮さが知れたものよ」

 短剣を投げつけてきた博麻を、野蛮だとなじった。

 しかし博麻は気にも留めなかった。

「そんなことはどうでも良い。俺が聞きたいのは、どうしてあんたと黒常が、あの芙蓉園の武器庫にいたのかだ」

「……なるほど、いきさつはともかく、お前はあの場にひそんでいたというわけか」

 氷老はため息をつき、それから答えた。

「なに、大した話ではない。黒常殿の命令に従って、武器を集める仕事を手伝っただけだ」

「武器集め、だけか?」

「そうだ。本来ならこの長安で武器を保管する場所は限られているが、俺は役人たちと親しいから、武器の数を記した帳簿の数を誤魔化して、浮いた分を芙蓉園に集めろと命じられた」

「何のためにだ?」

 氷老は首を振った。

「そんなことまでは知らん。手伝えば良いと言われたから、深い理由までは聞いていない」

「東の戦のためと言っていたじゃないか!」

 博麻は怒鳴った。

 氷老は怒りに燃ゆる博麻の目を見て、わずかに気圧されたらしい。

「氷老殿、あんたの本意を聞かせてくれ。あの武器集めの目的が、戦の準備のためだと知っていたな?」

「ああ」

「その標的となる国がどこなのか、聞いたことは?」

「言われていない。東で近々大きな戦が起こると黒常殿は言っていた。だが、肝心のところは俺に何も教えてくれない。武器を集める命令も、何日までにこの量の武器を集めてこいと口頭で指示するだけだ」

 博麻は氷老の目を見て、おそらく嘘ではないと判断した。

 つまり黒常は、倭国侵略計画だと明言しないままに、氷老に手伝わせているらしい。

 それを知って博麻は、少しだけ安堵した。

 氷老は完全に倭国を裏切る想いで動いていたわけではなかった。
 多少の怪しい点を感じつつも、仕方なく武器集めを行っていたということになる。

「氷老殿、あんたは東の戦と言われて、どの国が攻められると想像した?」

「最近、高句麗の旧領を奪い合っている新羅じゃないのか。それか、まだ生き残っている高句麗の王子の軍を滅ぼすとかだろう」

「……違う。唐帝国の次の標的は、俺たちの故郷だ」

 博麻の言葉に、氷老は目を白黒させた。

 それから、思わず吹き出した。

「馬鹿を言うな。唐軍は高句麗の王都をやっと落としたばかりなのだぞ。まだまだ戦後処理も終わっていないというのに、どうしてわざわざ海を渡って倭国を狙うのだ」

「そう思うのも無理はない。だが、旧百済領に唐の軍船が集まっていると聞けば、どうする?」

「なんだと?」

 氷老が眉をひそめる。

 博麻は服の内側から、老猿から預かった文書を出した。

 その文書には、旧百済領で軍船を集めよという命令内容が書かれていた。

「馬鹿な、なんだこれは……というか、こんなものどこで手に入れた⁉」

「ある筋から手に入れた文書だ。話すと長くなるが、この文書を俺に見せてくれた人間は、倭国の安全を深く案じてくれている。俺はその人間と手を組んで、黒常や、唐帝国の野望を止めたいんだ」

「唐帝国の野望を、止めるだと?」

「そうだ。できないことじゃない。いいや、やらなければ、俺たちの故郷が唐軍に踏みつぶされてしまうんだ!」

 博麻の言葉に、氷老は困惑した様子だ。

「俺とそいつは、倭国侵略計画についてかなり深いところまでつかんでいる。あと一つ、計画に関する命令がはっきりと書かれた文書を手に入れれば、あとはそいつの手引きでこの長安から脱出できる。倭国の朝廷に侵略計画の証拠を出せば、唐軍の魔の手から国を救えるんだ」

 博麻は氷老に思いの丈をぶつける。

「芙蓉園のどこかに、その計画文書があるはずだ。だが、それを手に入れるにはあんたの協力が必要だ。どうか俺とともに唐軍が裏でやっていることを暴いて、みんなでこの長安から逃げよう」

「唐軍が、倭国に攻めこむ……?」

 ここまで聞いて、氷老は呆然としていた。

 彼からすれば、怒涛のような話の連続であった。

 博麻が芙蓉園をかぎ回っていたことから始まり、いつの間にやら唐軍の文書を手に入れ、倭国に唐の水軍が攻めこんでくると訴えてきたのだ。

 一連の話を整理するだけでも混乱しそうになったが、氷老は呼吸を整え、冷たい目つきで博麻の方を見てきた。

「ふう……博麻よ、ずいぶんと手の込んだことをしたな。こんなでたらめな文書を手に入れて、あたかも唐軍が倭国を攻めこむかのように思わせるとは」

 氷老は博麻の訴えを信じなかった。

 机の上に広げた文書も、丸めて博麻に突き返してきた。

「出世争いをしている黒常殿を蹴落とすためか? それとも俺の仕事の稼ぎを邪魔するためか? んん?」

「違う! どれもこれも本当で、本気で言っていることだ!」

「信じられぬな。唐がいきなり倭国に攻め入ることも荒唐無稽だというのに、まさか長安から逃げ出そうとするとは……そうか、故郷恋しさに、その脱出に俺を巻きこみたいのか」

 頭からつま先まで、博麻の言うことを信じていない。

 倭国侵略計画という言葉に若干驚いたものの、それでもやはり、現実感のない話にしか聞こえなかったようだ。

 博麻の話を信じたくないという想いも、どこかにあるのだろう。

 もしも博麻が言っていることが真実なら、自分は知らず知らずのうちに、国を滅ぼす軍の片棒を担いでいたことになってしまう。

 歴史ある豪族の一員として生まれ、若くして才を認められて唐に留学を果たした。

 そんな氷老にとって、自分が敵軍に利用された手先、売国奴になり下がったという話は、たとえ博麻の嘘八百だったとしても認められない。

「これまでだ。戯言を並べ立てるのはそこまでにしておけ」

「氷老殿、これは真実だ! もう時間がない、もし計画が実行されたら、誰にも止められなくなる。あんたの故郷だって、危機に瀕することになるんだぞ!」

 故郷、と言われて、氷老の顔に緊張が走った。

「俺に帰るべきところはない」

「なんだと?」

 博麻は目を丸くした。

 しかし氷老はその問いに答えず、手を振って博麻を追い出そうとする。

「さっさと出て行け。俺はお前と違って、でたらめに付き合っている暇はない……どうしても倭国に帰りたいなら、一日でも早く老猿と猿どもを捕まえてこい! それなら、黒常殿も約束を果たしてくれるはずだ」

 取り付く島もない様子の氷老を見て、博麻は困り果てた。

 氷老の協力がなければ、倭国侵略計画の中枢まで探ることができない。

 芙蓉園の奥まで潜入するには、氷老の協力がどうしても必要なのだが、これでは平行線だ。

「お茶をお持ちしました。氷老様」

 そこで屋敷の女使用人が、部屋に入ってきた。

「……俺は何も頼んでいないが?」

 だが当の氷老は、茶を持って入室してきた女中を見て、首をかしげた。

 その直後、博麻は女中の顔を見て、驚いた。

 女中は、変装した老猿だったのだ。

 いつの間にどうやって入り込んだのか不明だが、博麻に情報を渡した張本人が、ついに氷老の前にも現れた。

 氷老は老猿の存在に気づかず、多少いぶかしみながらも、黙って茶を受け取った。
 そして彼が、受け取った茶に口をつけようとしたところで、老猿は口を開いた。

「お初にお目にかかります、氷老様。わたくしが長安一のおたずね者、猿の頭領、老猿でございます」


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