第40話『急転』

「っ⁉……黒常様!」

 その時、親衛隊の男が、黒常を突き飛ばした。
 突然の出来事に驚いた黒常だったが、すぐにその意味に気づいた。

 後ろから、老猿が迫っていたのだ。
 老猿が飛びつくところで男が割って入り、黒常をかばってくれた。

「こ、のっ……ぐああっ⁉」

 体格の良い男が悲鳴を上げ、首から鮮血を噴き出す。

 老猿の手には、拷問用の小さな刃物が握られていた。
 血と油で切れ味は落ちているが、頸動脈を貫くだけなら、充分すぎるほど危険だ。

「貴様……!」

 黒常は距離を取り、腰の剣を抜く。

 珍しく背後の警戒を怠り、完全に油断していた。

 連日の拷問で痛めつけた女が、まさか自力で縄をほどき、こうして背後から襲いかかるなど、黒常ですら想定していなかった。

「ずいぶんと元気なことだ。やはり盗賊にしておくには惜しい」

 だが、黒常は余裕を保っていた。

 一時は危なかったが、手塩にかけた部下のおかげで命を拾った。
 このような想定外の危機を脱するために、忠実で、狂信的で、精強な部下たちを何年も作り上げたのだ。

 親衛隊の一員だった男も。素手のまま黒常をかばって命を落とした。

 実に有能な部下だ、と黒常は改めて感心した。

 そして自分の勝利を確信した。

 こうしてまともに対峙すれば、負ける要素はない。
 この女の敏捷性は侮れないが、拷問を受け続けたことで、確実に消耗している。

 現に、今にも崩れ落ちそうなほど、足元がおぼついていない。

「だが、お前は調子に乗り過ぎた。ここで死ね、メス猿」

 黒常は剣を構え、じりじりと間合いを詰める。

 その黒常に対し、老猿は笑みを浮かべた。

「あなたに、メス猿と言われる筋合いはないわ。博麻ならまだしも、ね」

「……なに?」

 老猿から博麻の名が出たことで、黒常は一瞬息を止めた。

 すかさず老猿は接近する。

 今の自分の体力では、逃げきることは不可能だ。

 それを自覚していたからこそ、彼女は黒常と刺し違えるつもりだった。

 博麻から、黒常という男の危険性は聞いていた。

 かつては百済屈指の猛将でありながら、唐帝国の権力闘争で生き残り、六年間で長安の治安を牛耳る立場にまでのし上がった男。

 逆に言えば、黒常さえ殺すことができれば、長安の指揮系統は乱れる。
 倭人たちが長安から脱出する隙が生まれる。

 少なくとも、他の者が指揮権を執るまでの間は。

「うぁああああっ!」

 老猿は叫びながら、小さな刃物で果敢に襲いかかる。

 捨て身となった人間の動きだ。

 彼女の瞳には、たとえ殺されても急所に刃を突き立てようとする殺意を宿している。

「ちっ」

 黒常は老猿の攻勢をかわしながら、考えを改めた。

 この女を仕留めることは簡単だ。
 激しい攻撃ではあるが、反撃の一太刀を浴びせればそれで決着だ。

 だが、もしもその一撃で即死しなかったら。

 そうなれば万が一の事態があり得る。

 致命傷を受けた人間がそのままつかみかかり、小さな武器で大きな傷を与えてくる場面は、戦場で何度も見てきた。

その上、老猿は刃物に何かを塗っている。

 部下が刺し殺された時は気づかなかったが、黒常は攻撃をかわしていく中で、その悪臭に気づいた。

 おそらく刃の部分に、自分の吐しゃ物か汚物を塗りたくっているのだ。

 すなわちである。
 たとえここで死なずとも、刺されてしまえば病にかかる危険がある。
 原始的な毒だが、極めて有効な手だ。

 非常に厄介な女だと思いつつも、黒常は努めて冷静であった。

 攻防の間に、自身の着物の片そでをはだけさせて、左肩と左胸を露出させた。

「そらっ!」

 黒常は体を半回転させ、垂れた左そでを鞭のように振るう。

 振るったそでが、老猿の持つ刃物をからめとった。

 即席の毒を塗った危険な武器とはいえ、とっさに布すら引き裂けないほどに、切れ味の悪い刃物である。

「ふん!」

 さらに黒常の刃が一閃し、老猿の利き手を切り裂いた。
 切断まではしなかったが、前腕から鮮血が噴き出した。

「うああぁっ⁉ ……う、ううぅ……」

 老猿は苦痛の叫びを上げ、膝をついた。

 黒常は右手から刃物をもぎ取って投げ捨てると、駄目押しとばかりに老猿の顔面に前蹴りを浴びせた。

「がはっ!」

 老猿の首がのけ反る。

 彼女は意識が飛びかけたが、すぐさま黒常の左手が喉元をつかんだ。

「手こずらせてくれたな。だが、ここまでだ」

 黒常はいつになく真剣な表情で、老猿の首を絞めつけていく。

 これにて無力化は成功したが、すぐに殺すわけにはいかない。

「お前は博麻とどういう関係だ? あれで俺の動揺を誘ったつもりかもしれんが、最後の最後でボロを出したな。逆に情報の糸口となったぞ……博麻と、面識があるのか」

 厳しく問い詰める黒常に対し、老猿は歯を見せた。

「さあ、ね」

 首を絞められながらも、老猿はせせら笑う。

 その態度に業を煮やし始めた黒常は、彼女の腹に膝蹴りを浴びせた。

「ぐふっ……げぇ、えっ……」

「もはやお前の遊びに付き合っている暇はない。さっさと吐け、でなければ殺す」

「殺すなら、それで結構よ」

 老猿がそう言った直後に、再び黒常は膝蹴りを入れた。

 今度は横腹を蹴り、あばらを折った。

「吐け、売女」

 次第に黒常の声が低くなる。

「殺しなさいよ、売国奴」

 老猿もそう吐き捨てる。

 彼女の一言で、黒常も直感で確信した。

 この女は博麻とつながっている。
 自分の経歴、自分の生き方をここまで端的に否定してくる物言いは、まるで博麻がそのまま乗り移ったかのようだ。

 いよいよ黒常の手のひらに、本気の力が加わってくる。

「もう充分だ。望み通りに、お前も博麻のもとに送ってやる」

「ん、ぐ……ふ、ふふっ……心にも、ないくせに」

 老猿の言葉に、黒常は眉をひそめる。

「どういう意味だ」

「あなただって、博麻のことを……よく、知っている……あの人が、簡単に死ぬような男では、ないって……本当は、そう思っている、はず……!」

 黒常は目を見開いた。

 博麻という男のしぶとさは、こちらの想像をはるかに超える。

 その想いは、老猿と同じだった。

 部下からの報告を受けた後も、心のどこかでは「そんなはずはない」と思っていたのだ。

 そこで、私邸の扉が激しく叩かれた。

「黒常様! 私です!」

 声の主は、親衛隊の長である楽鳳だった。

 あの楽鳳が取り乱している声を聞いて、黒常も嫌な汗が背中に流れるのを感じた。

「入れ!」

 黒常が応じると、青ざめた顔の楽鳳が入ってきて、すぐさま片膝をついた。

「も、申し上げます! 屋敷が襲撃を受け、今しがた火も放たれました!」

「なんだと?」

 信じがたい報告を受け、黒常は老猿をひきずったまま楽鳳を押し退け、外に出た。

 その光景を見て、黒常は絶句した。

自分の主城と言うべき本屋敷が、燃えている。

 それどころか軍馬のいる厩舎も、刀槍を管理している倉庫も、私兵たちを住まわせている別館も火が放たれている。
 衛兵、親衛隊が入り混じって、消火活動に追われている。

 あり得ない光景だった。
 この都の治安をつかさどる自分の屋敷は、たとえ軍勢に攻められても跳ね返せる防備を有していたはずだ。

 にも関わらず、これほどまでの大火事に見舞われている。

 悪夢のような光景に、黒常は確信した。

「倭人どもは……」

「え?」

「倭人どもはどうしたぁっ!」

 黒常は楽鳳を怒鳴りつけた。

 楽鳳は背筋を伸ばし、震えた声で答えた。

「それが、突然の出火により、把握しておらず……」

 その曖昧な答えに黒常の目が吊り上がったところで、また別の衛兵が報告に現れた。

 だが、その衛兵は、腹部から大量の血を流していた。

「こ、こく、黒常……様……!」

 衛兵はよろめきながら黒常のそばまで来て、崩れ落ちるかのように膝をつく。

「その傷、誰にやられた!」

「黒常、様……博麻、です。あいつに、やられ、ました」

 博麻の名が出てきた途端、黒常のみならず、楽鳳と老猿の表情も変わる。

「やつが武器を持って現れ、次々と衛兵を殺し始めたのです……この火災に乗じて、すでに多くの者が、討ち取られ……!」

「やはりあいつの仕業か。良いだろう、たかが倭人たちごとき、一瞬で制圧してやる」

 標的が明確になったことで、黒常の動揺は消えた。

 いつかこうなる日が来るかもしれないと思っていた。

 どれほど虐げても、踏みつけても、あの倭人たちはいつの日か反旗をひるがえす。

 それを予感していたからこそ、黒常は準備を怠らなかった。
 こうして不意を突かれたが、まだまだ傷は浅く済む。

 それどころか大義名分を得て、捕虜を虐殺することができるのだ。

「黒常様、それが、その」

 しかし死にかけの衛兵が、まだ口を開いた。

「なんだ、まだ何かあるのか」

「五人では、ありません」

 そして次の言葉を聞いて、黒常も、楽鳳も目を剥いた。

「博麻が、たった一人で、暴れ回っています」


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