『第27話』半島戦争、開幕:百済の将、黒歯常之

 筑紫の港から出発した倭の船団は、まずは朝鮮半島の南側にある済州島に着いた。
 この島には耽羅という国があり、長年、百済に貢物を送っていた。

 耽羅王族も百済の敗戦を聞き、これからどの国に従うべきかと混乱していたが、倭国の軍が百済を救援すると知った途端、彼らは倭軍を丁重に出迎えた。
 倭よりも小さな国の彼らも、唐帝国の勢いに震えあがっていたため、倭軍にはぜひとも勝ってほしいのだ。

 こうして済州島で一時補給を行ってから、倭軍は海を北上し、朝鮮半島にたどり着いた。

 しかし、倭軍の目的地は百済北部にある周留城である。半島にはいつでも上陸できるが、まだ上陸すべき場所ではない。

 現在は朝鮮半島の西海岸に沿ってさらに北上し、周留城へと続く、白江という大河口を目指していた。

 倭の兵士たちの間に、緊張感が高まっている。
 上陸はしていないものの、ここはすでに他国の地である。
 陸、もしくは海から唐や新羅の軍が近づいてきてもおかしくない。

 士気がどれだけ高まっていても、他国との戦争を経験していない兵士たちは、戦に対する恐れや不安を少なからず抱いていた。

 その中でも博麻とラジンは、いくぶんか落ち着きを保っていた。

「まだ河口は見えないな」

 博麻は船首から身を乗り出し、遠くを見つめている。

「白江はもう少し先だよ。日も傾いてきたし、今日も適当な岸に停めるのかも」

 後ろにいたラジンが答える。故郷である百済の地形は、おおかた頭に入っている。

 博麻はやれやれと首を振った。

「また船の上で雑魚寝か」

 暗くなれば、基本的に船は航行させない。
 貴重な物資を積んでいる船がほとんどで、船どうしの衝突や遭難を防ぐために、倭軍は注意を払いながら日々進んでいる。

 博麻は体をうんと伸ばし、腕を回す。

「百済に着く前に、体がなまってしまいそうだ」

 日頃から体を動かし、戦のために体を鍛え続けた博麻にとって、何もしない日々というものが苦痛だとは知らなかった。

 一方、ラジンは日ごとに口数が減ってきた。
 体調がすぐれないわけではない。
 故郷に近づくにつれて、痛々しい思い出や経験がよみがえってくるのだ。

 必要なこと以外は口を開かないラジンに、周りの兵士は息がつまりそうだったが、彼女に直接文句を言う人間はいない。
 三百人の筑紫隊は二十隻の船に分かれている。博麻たちと同じ船に乗る兵士たちは、居心地の悪さを感じていた。

 今もラジンは地蔵のように動かず、百済領を見つめている。
 そんな彼女を見かねて、博麻が隣に座った。

「船から下りたら、剣の稽古でもするか」

 陸地を見つめていたラジンはこちらを向き、うなずいた。
 博麻は微笑み、ラジンの頭を優しくなでた。

 その時、岸の方から鐘の音が響いた。
 ラジンはすかさず自分の弓を構え、博麻は他の兵士にも弓を取るよう指示する。

 罪人として徴兵された博麻だが、土師と戦って以来、同じ隊の兵士たちに一目置かれるようになっていた。
 彼の指示通りに、同船している兵は急いで弓を構えた。

 周りの船も鐘の音に気づいたらしく、慌ただしく武器を構える様子が見えた。

「敵襲かな」

「まだわからん。みな、いつでも矢を撃てるように待機しろ」

 博麻の言葉に兵たちはうなずき、緊張した面持ちで矢をつがえる。

 倭兵たちは岸のほうへ目を凝らす。
 少し暗くなってきたが、まだ日は暮れていないので、目の良い人間は岸に何があるのかわかる。

 そこで薩夜麻の乗る船が、ななめ後ろから近づいてきた。
 横づけされた船の上で、薩夜麻が手を振った。

「兄貴、聞こえますか」

「おう」

 博麻も手を振り返す。

「あれは砦ですよね」

 薩夜麻は大きな声で、岸を指差した。

 岸には漁村が広がり、さらに奥は小高い丘が立っている。
 薩夜麻が指差したのは、その丘の上に建つ砦のことだ。

「おじさん」

「うん?」

「あそこが今も百済軍のものなのか、それはわからないよ」

 博麻にだけ聞こえるように、ラジンがつぶやいた。

 ラジンの言う通り、漁村の岸辺には数十騎の騎兵が集まっている。
 先ほどの鐘の音もこの騎兵隊によるものだろうが、それが百済軍かどうかは区別できない。

 薩夜麻も、敵軍である可能性は捨てていない。
 待ち構える騎兵隊を安易に味方だと決めつけず、部下に弓を持たせ続けた。

「敵ならば、一斉射撃を命じるか……」

 彼はその時、乾いていた唇を湿らせた。

 もし敵ならば、自分が部下に指示を出し、討ち取らなければならない。
 将としての覚悟は決まっているが、いざその時が来るとなると、心がなかなか静まらない。

 岸辺に陣取る騎兵隊と、倭の水軍の睨み合いはしばらく続いたが、今度は倭軍の船から鐘が鳴らされた。

 ゆっくり二回鳴らし、少し間を空けてから、五回続けて鳴らした。

「あの鐘は?」

「阿倍どのの船からです。私たちに対する合図ではありません」

 薩夜麻は答えながら遠くの船に目を向けた。

 少し遠くに阿倍隊の船があり、鐘の音はそこから鳴らされた。
 倭の水軍が鐘を鳴らし終えると、またも岸にいる騎兵隊から鐘が鳴った。

 今度は、ゆっくり三回鳴った。

「者ども、上陸の支度をせよ!」

 阿倍の指示が全軍に広まった時、倭の兵士たちの間から、安堵と喜びの声が上がった。
 停泊ではなく、上陸と命じられたということは、騎兵隊は百済軍だと判別できたのだ。

 鐘の合図は、鬼室福信に送った書状で示し合わせたものである。
 ようやく陸地で腰を落ち着けることができると、大半の兵士たちは嬉しがっていた。

「よし。あれは百済の軍だったか」

 博麻も弓を下ろし、つがえた矢を矢筒に戻した。

「やっと陸に上がれるな」

「ですが、休む暇はありません。百済の大将がいる城は山の中にあるらしいので、あの砦は単なる中継地点です。今のうちに荷を降ろす準備を進めてください」

「了解だ」

 薩夜麻の指示を受けて、博麻は船の後部に向かった。
 船の後部には、麻の綱で束ねた矢や、木箱に詰められた種籾が積まれている。

 この物資だけでも相当高価なのだが、どの船もこういった物資をうんと載せている。
 そのため、どの船であっても脱落させてはならないと、船どうしが助け合ってここまで来た。

「荷を降ろす準備をするぞ。五人、手伝ってくれ」

 博麻が声をかけると、すぐに周りにいた兵士が集まる。

「矢を束ねている綱で、緩んでいるものがあれば縛りなおせ。箱のフタも確認して、種籾をこぼさないように注意しろ」

「はっ」

 威勢よく兵士たちが返事して、動き始めた。
 薩夜麻の隊は、他の隊と比べても、とても規律の取れた集団だ。

 隊長の薩夜麻が慕われているという理由もあるが、それよりも大きいのは、厳格な姿勢で自ら行動する博麻とラジンの存在だった。

 二人が力比べで活躍した後も、同じ平民がなぜいきなり大きい顔をするのかと、不満をもらす兵士もわずかにいた。
 薩夜麻と博麻のことを知っている兵士ならば、昔から仲が良いから特別扱いしているのではないかと、なおさら嫉妬と不平をあらわにした。

 だが、そんな博麻とラジンに対する目は、日に日に改まっていく。彼らの働きぶりは、それだけ他者とは一線を画すものだった。

 博麻とラジンが背負うものは、他の者とは比べ物にならないほど重い。家と墓を守るため、ユナを救うため、二人は命を張ると決めている。

 そのため仕事を怠けるようなことは一切ない。冬山での狩りの日々を思えば、武具や食糧の運搬などは朝飯前だった。

「準備、完了しました!」

「よし。あと少しで陸に上がれる。もう一息だ」

「はいっ」

 切れの良い返事をする兵士を、博麻は励ました。

 それから岸のほうへ目をやった。
 かなり岸は近くなり、岸辺で待つ騎兵たちがはっきりと見えてきた。
 彼らは頑丈そうな鎧を着こみ、立派な槍と馬を与えられている。一般兵ではなく、百済軍の中でも精鋭に違いない。

 しかし彼ら騎兵隊の顔には、隠しきれない疲労と、親を見つけた子どものような安堵が浮かんでいる。
 中には物資と味方を得たことによる解放感からなのか、肩を震わせて涙ぐむ者もいた。

 あれほど立派な騎馬武者たちでも疲労困憊に達している。
 本来なら他国の援助を受けずに、自力で国を取り戻したいはずだ。
 しかし王は亡くなり、戦況は劣勢と聞く。現れた味方にすがって涙ぐむ騎兵隊を見て、彼らの過ごしてきた日々の過酷さがうかがえる。

「あれが、騎兵隊の長か」

 騎兵一人一人の顔が判別できるほど岸に近づいた時、他の兵とは違って、漆黒の鎧を着た男の姿が印象的に映った。

 その男は若く、肌は浅黒い。あごの輪郭は細めで、端正な顔立ちをしている。
 だが彫りが深く、目も鷹のように鋭いため、弱弱しさとは無縁の風貌だ。

 倭の到来に喜ぶ騎兵たちとは別に、その男だけはまるで値踏みするかのごとく、倭の水軍をじっと見ている。

「……む」

 博麻がその男に目を向けていると、男の視線もこちらを向いた。
 わずかな時間だけ二人の目が合った。だが先に男が興味を失い、視線が外れた。

 それから次々と倭の軍船が接岸し、博麻たちも無事に上陸した。

 上陸してきた倭の軍に、漁村の至る所に隠れていた民はもちろん、百済の歩兵も不用意に近づいてこない。
 敵意はないが、どこか不安げな表情で、遠巻きにながめてくる。

 たとえ味方とわかっていても、戦時中である緊張感が抜けることはないのだろう。
 果たして倭軍は信頼できる集団なのかと、慎重に見極めようとしている態度だ。

 百済の騎兵隊は、旗を掲げた阿倍の船に近づいてきた。倭の代表者が乗っている船だと目星をつけたのだろう。
 阿倍が秦をともなって船を降り、騎兵隊の長と会見した。

「我は倭国軍、第一陣の大将、阿倍 比羅夫と申す」

「同じく第一陣、秦 田来津ともうします」

 阿倍と秦が名乗ると、騎兵隊の長が下馬した。

「海を越えての救援、かたじけない。私は百済の達率(百済の官位。上から二番目)、黒歯常之と申す」

 男は黒歯常之(こくし じょうし)と名乗り、阿倍と秦に頭を下げた。

 黒歯常之は薄く笑みを浮かべ、うやうやしく頭を下げたが、目はまったく笑っていない。
 倭の援軍が来ても舞い上がらず、目の前にいる二人がどんな男なのかと、静かに観察する。

 その気配を感じ取った阿倍は、悪意はないが、油断も隙もない男だと感じた。

「倭の皇太子殿下には、なんと感謝を述べれば良いのかわかりません。あなた方の援軍もさることながら、これほどの物資をお恵みいただくとは」

 重ねて黒歯常之が礼を言うと、交渉役の秦が、一歩前に進んで返答した。

「倭と百済は助け合う関係です。天皇陛下、皇太子殿下ともども、百済が侵攻されたことを日々憂い、百済を救うためなら力を惜しまぬと仰せになりました」

「なんとありがたい。倭の皇室の恩義に報いるためにも、この黒歯常之、最後まで唐と新羅に抗う所存でございます」

「あなたのような立派な将軍がお味方であることは、我々にとっても非常に心強く、素晴らしい幸運です。お互いに力を合わせて、必ずや、百済の民を救いましょう」

 堂々と、それでいて丁寧な百済語で話す秦に、黒歯常之も好印象を抱いた。
 お互いに挨拶を交わし、親交を温めたところで、黒歯常之が後方の砦を手で示した。

「今日はこちらの砦でお休みくだされ。大将の鬼室福信が守る周留城は、白江の北岸を越え、その先の山中にございます。船旅の疲れを癒した後、我々が周留城へご案内いたします」

「わかりました。阿倍どのも、それでいかがでしょうか」

 最後に秦は、倭の大将である阿倍に確認を取った。

 阿倍は両者を見比べてから、「お言葉に甘えて、休ませていただく」と短く答えた。

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